お便り募集!
皆様からおたよりお待ちしています。 毎日番組ではメールとファックスのテーマを設けています。 採用されると「ごぜんさま~」オリジナルグッズをもれなくプレゼント!! このほか豪華プレゼントの企画も随時やっておりますので、おはがきをご用意して 番組をお楽しみください。

くにまるワイドごぜんさま~
自然体、その大きな包容力と優しさで多くのファンを持つ邦丸が様々な出来事に分け入り、リスナーの「知りたい」に応えます。もちろんグッチ裕三、野村係長のコーナーも引き続きお送りしています。

« 新潟記念 GⅢ | メイン | 8月31日(月)~9月4日(金) クラウン1万円クイズ »
2009年08月30日

8月31日~9月4日の邦流は、川淵三郎さん

今週の「邦流」のゲストは、川淵三郎さん

8月31日≪月≫:演劇に打ち込んだ少年時代
大阪近郊の漁村で子供時代を過ごした川淵三郎さん。田舎町だったことが幸いしてか、
戦時中にも関わらず、空襲に直撃されることもなく、「ガキ大将」として育ちました。
戦後は、好奇心に駆られて、当時恐れられていた進駐軍の様子をよく見に行ったそうです。
そんな川淵さんでしたが、学校に当時NHKで活躍していた脚本家の方が、先生として
赴任して来たことをきっかけに、「放送劇」の役者として活躍することになります。

9月1日≪火≫:選手時代の話
高校に入ると、サッカー部の勧誘を受けましたが、興味がなく拒否し続けていた
川淵さん。ところが、入部すれば、以前から行ってみたかった四国に試合で行けると
知り、つい入部を決めます。ルールも知らない状態で出場したデビュー戦、
川淵さんが演じた「信じられないプレー」とは?
その後早稲田大学、古川電工でサッカーを続けた川淵さんは、当時まだ弱小だった
日本チームがドイツから来たクラマーコーチの指導のもと、急成長していく時代を
経験します。

9月2日≪水≫:Jリーグ開幕
現役選手を引退した川淵三郎さんは、サッカーから離れ、会社員としての成功を
目指していました。しかし、51歳で関連会社に出向を告げられたことをきっかけに、
川淵三郎さんは、再びサッカーの世界に戻ることを決断、プロサッカーの立ち上げに
奔走します。
しかし、当時、プロサッカーの成功の見通しは、決して明るいものではありませんでした。
当時のエピソードを、マスコミ界のあの重鎮との関係なども交えながら伺います。

9月3日≪木≫:ドーハの悲劇からドイツW杯まで
1993年のJリーグ立ち上げ以来、日本サッカー界は極めて順調に発展して行きます。
しかし、翌1994年に「ドーハの悲劇」とよばれる大きな挫折を経験します。
今日はその「ドーハの悲劇」前後のエピソード、
そして、その後「ゼロからの再スタート」を切った日本サッカー界が、
岡田、トルシエ、ジーコ監督と歩んだ道のりについて、川淵三郎さんのお話を伺います。

9月4日≪金≫:南アフリカW杯に向けて
最終日の今日は、W杯南アフリカ大会に向けて、そして将来の日本サッカー界について
のお話です。現役を引退した中田英寿さんを高く評価する川淵三郎さん。
果たして将来、「中田ジャパン」はあるのか?そして、来る南アフリカ大会に向けた
岡田ジャパンの課題は?川淵三郎さんの近著『「51歳からの左遷」からすべては
始まった 大逆転のリーダーシップ論」 』のお話を交えて伺います。

kawabuchi_kunimaru.jpg

<川淵三郎>
1936年大阪府高石市出身。三国丘高から二浪で早稲田大に進学。
2年生の時、サッカー日本代表に選出される。
61年古河電工入社。64年東京五輪アルゼンチン戦では同点ゴールを決める。
国際Aマッチ24試合6得点をあげるなど「槍の川淵」と呼ばれた。
70年に現役引退後、古河電工の監督、日本代表監督を務めながら名古屋支店
金属営業部長に。88年から日本サッカーリーグ総務主事としてプロ化に奔走。
91年Jリーグ初代チェアマン就任を機に30年の会社勤めに終止符を打つ。
2002年日本サッカー協会キャプテン(会長)となり、現在は名誉会長。
09年早大特命教授に就任。


投稿者 joqr : 2009年08月30日 16:00

文化放送ページの先頭へ