2006年06月05日

ヒロシマ。8月6日へ向けて。

広島に行くと、どうしても“ヒロシマ”を感じます。
この街のシンボルが遠くに見えてきました。

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《あの日》までは、モダンな4階建ての建物。
かつての広島県産業奨励館です。
今や、原爆ドームと呼ばれています。

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爆心点のほぼ真下にあったため倒壊を免れました。
そこにあるだけで、訪れた人々に大切なメッセージを伝えてくれます。
まさに世界遺産です。

平和記念公園は、修学旅行生で大賑わい。
被爆した当時のヒロシマを語るボランティアの方の話に
真剣な表情で聞き入る姿があちこちで見られました。

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すぐそばにある“原爆の子の像”です。

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原爆が投下されてから10年後の秋
中1の佐々木禎子(さだこ)さんが白血病で天国へ逝きました。
入院中、病気の完治を祈りながら
ひたすら彼女が折っていたのが、千羽鶴です。

この姿を見てきた禎子さんの友達は胸を痛めました。
そして、大きな志を遂げることなく旅立った仲間の霊を慰め
世界中に永遠の平和を呼びかけるために
『“原爆の子の像”を作ろう!』と立ちあがったのです。
善意の輪は瞬く間に広島市、全国、さらには海の向こうへと広がり
1956年のこどもの日に完成・除幕されたので
今年でちょうど50年が経ったことになります。

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この銅像の周りには毎年たくさんの折り鶴が捧げられ
皆、専用のブースにこうして吊り下げていくのです。
ここに大学生が放火して14万羽が焼かれてしまい
ニュースになったこともありました。

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こちらは、2002年度だけで全国から寄せられた折り鶴。
ほぼ1000万羽はあるはずです。

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この建物の1階は、こんな造りをしています。

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実は、日本銀行だったりして。

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正しくは、旧日本銀行・広島支店。
爆心地から400mも離れていない所にある
地上3階・地下1階(金庫フロア)の、耐震設計が施された
鉄筋コンクリートの頑丈な建物です。
1945年8月6日の朝は
鎧戸を閉じていた1・2階に大きな被害はありませんでした。
ただし3階は開いていた分、ひどい目に遭ったそうです。
それでも2日後には業務を再開したことから
市民にとって原爆ドーム同様、復興の象徴となり
現在は市の重要文化財に指定されています。

今なお、ほぼ当時の姿を残す旧日銀の
しかも甚大な被害があった3階に
これだけの折り鶴が保管され、完全開放されるようになってから
間もなく1年が経とうとしています。


平和記念公園に戻ってきました。
ここなら原爆ドームと広島市民球場を一度に臨むことができます。

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原爆慰霊碑の前に立ちました。
設計者は巨匠・丹下建三。
家の形をしているのは
犠牲者の霊を雨露から守る意志の表れです。

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花輪がかけられた石の棺には
『安らかに眠って下さい
 過ちは繰返しませぬから』
と刻まれていました。
“この文の主語は誰?誰が過ちを繰り返さないという意味?
『繰返しませぬから』ではなく
『繰り返させませぬ』ではないのか?”

という論争も、以前に起きたそうですね。

ちょうどこの日は、慰霊碑の前に広がる
芝生広場の雑草取りをしていました。
年3回のうちの1回なので、出くわすのは珍しいかもしれません。

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8月に入ってからもう1回だけ雑草を抜き
この上に数え切れないほどのパイプイスを並べると
今年も、平和記念式典への準備が整います。

訪れた人々に
様々な感慨を与える“ヒロシマ”。
これからも、何度でも足を運んでみたい街です。

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投稿者 斉藤一美 : 2006年06月05日 05:45

 

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