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2014年07月20日

ビッグデータ社会はみんなを幸せにするか?


アンドリュー・ポールが、ディカウント・チェーン店を展開するターゲット社の
データ処理専門家として働き始めた頃、マーケティング部門の同僚からこんな質問をされました。


「君のコンピュータで、客が妊娠しているかどうかわかるかい?
たとえ客がそのことを、僕らに知られたくないと思っても」


ニューヨークタイムズ記者のチャールズ・デュヒュッグが書いた
『習慣の力』(講談社)という本に、そんな興味深いエピソードが紹介されています。


ポールは顧客の個人情報と購入履歴を細かく分析することで、
やがて妊娠した女性の買い物パターンを発見、およそ25の商品を特定しました。
これらを同時に分析することで、
女性客が妊娠したかどうかはもちろんのこと、妊娠しそうかどうかまでわかるようになりました。


たとえば、アトランタに住む23歳のある女性は、
ローション、紙おむつが入りそうなバッグ、鉄剤、マグネシウム、明るい色のラグを購入しました。
彼女が妊娠している確率は87%で予定日は8月末あたり。

あるいはサンフランシスコに住む39歳の女性は、
250ドルでベビーカーを購入したけれど他には何も買っていない。
2年前に離婚していることから、ベビーカーは友人への贈り物だと思われる、というふうに。


1984年にUCLAのアラン・アンドリーセンが発表した論文によれば、
人が買い物の習慣を変えるのは、「人生における大きなイベントを経験するとき」なのだそうです。


たしかに新たに親となる人々は多くのものを買います。
おむつ、おしり拭き、ベビーベッド、哺乳瓶、ベビーウェアなどなど。
2010年にアメリカで行われた調査では、子どもが1歳になるまでに、
親が赤ちゃんに使う金額は平均で6800ドルと推定されているとのこと。
まさに企業にとって、「妊娠した女性は宝の山」なのです。

しかしポールが妊娠予想モデルを完成させ、
いざ顧客に宣伝攻勢をかけようとしたところで、ある女性社員が、ふとこんなことを尋ねました。


「ターゲット社がこれほど多くのことを知っているとわかったら、客はどう感じるかしら?」


ポールは著者のインタビューに対してこんなことを言っています。


「妊娠していることを誰にも言っていないのに、カタログが送られてきて、
”ご懐妊おめでとうございます!”なんて言われば、それは気持ち悪いと感じるかもしれません」

「プライバシーに関する法律の遵守については、みんなとても保守的です。しかし法を守っていても、
人を不快にさせてしまうことはあります」


事実、ミネソタではこんなことが起きていました。
ひとりの男性が店舗にやってきて、店長にクレームを入れたというのです。

「うちの娘のもとに、こんな広告が送られてきたんだ。娘はまだ高校生なのに、
どうして赤ん坊の服やベビーカーの広告が入っているんだ?妊娠を勧めているのか?」

店長は必死に頭を下げ、後日、謝罪の電話をかけました。
ところが、その父親はきまり悪そうにこう言ったというのです。

「娘と話しをした。私はまったく気づいていなかったが、この家では重要なことが起っていた。
あんたたちに謝らないといかん」

これらのエピソードには、個人情報の問題を考える上で重要なヒントが詰まっています。


ベネッセ・ホールディングスから個人情報が大量流出したことが発覚した際の記者会見で、
原田泳幸会長兼社長が、
「クレジットカード番号のようなセンシティブな(重要な)情報は流出していない」
と発言したのを目にした時、瞬間的に「これはまずいことになるぞ」と感じました。

子を持つ親(特に母親)にとっては、
我が子に関する情報はすべて例外なく「センシティブ情報」だからです。

案の定、批判が殺到して、その後ベネッセはあらためて謝罪をすることになるわけですが、
この記者会見からもうひとつ問題点を抽出するとすれば、
それは、ある人間の個人情報を「それは重要」だとか「これは重要じゃない」だとか、
いったい誰がどのような権限や立場でもって判断を下せるのか、という点になるでしょう。

言葉を換えればそれは、「個人情報は誰のものか」という問題です。


いつも時代の最先端の問題をテーマにすえる小説家ジェフリー・ディーヴァーは、
『ソウル・コレクター』(文春文庫)で個人情報の問題を真正面から取り上げています。

四肢麻痺で寝たきりでありながら、全米有数の科学捜査のスペシャリストである主人公、
リンカーン・ライムの従兄弟が、殺人の疑いで逮捕されるところから物語は始まります。

証拠が不自然に揃い過ぎていることに疑いの目を向けたライムは、
同じような冤罪と思しき事件が他にも発生していたことを突き止めます。

そこから浮かび上がって来たのは、膨大な個人情報を操り、
ターゲットを犯人に仕立て上げてしまう恐るべき知能犯でした——。


この小説のなかで、犯人はターゲットの人々のことを「シックスティーン」と呼びます。
シックスティーンというのは、個人を識別する為に与えられる16桁の識別番号のこと。
その個人がどのようなデータでもって構成されているか、
その内容が本書のなかで列挙されていますが、これが凄い。

氏名や住所といった誰でも思いつくような項目から始まり、
指紋や網膜スキャンデータや歩き方のクセといったバイオメトリックデータ、
病歴や体組織のデータ、支持政党やどこに寄付をしているかなどのデータ、
性的嗜好などセックスにまつわるもの、給与履歴などの財務データ、
保有資産、雇用状況、メール履歴、閲覧サイトなど各種通信データ、
購入商品などのライフスタイルデータ、位置情報データなどなど、
なんと22ページ(!)にもわたって、個人情報を構成する膨大な項目が列挙されています。

デジタル化された膨大な個人情報が日々蓄積され利用されていく——。
そのような社会のありようをつぶさに取材した貴重な一冊が、
気鋭のノンフィクション作家・森健さんの『ビッグデータ社会の希望と憂鬱』(河出文庫)です。
(ぼくの知る限り、この手のテーマでは唯一の本ではないでしょうか。名著です)

森さんによれば、いま世界のビッグデータ業界ではしばしばこんな言葉が語られているといいます。


「Data is the new oil」(データは新しい原油だ)


それだけ全世界的にデータが重要視されているにもかかわらず、
日本では驚くほど個人情報とプライバシーをめぐる議論が少ない、と森さんは指摘します。

本書によれば、欧米では顧客の情報を収集しようとした大企業に抗議する
不買運動などが当たり前のように起きているのだとか。


そういえば、小説『ソウル・コレクター』では、
個人に紐づくあらゆるデータを収集している
データマイニング会社(マインは「採掘する」という意)が物語の鍵となります。

この会社の創業者が書いたプログラムの名前が「ウォッチタワー」で、
会社のロゴは灯台の窓から明かりがもれている図柄。
このあたりはおそらく「パノプティコン」からの連想でしょう。

パノプティコンは18世紀のイギリスの法学者ジェレミー・ベンサムが考案した監獄で、
高い塔の周囲をぐるりと取り囲むかたちで独房を配し、塔の中から一望に監視できるようにしたもの。
(ベンサムは現代の尺度では測れない規格外の人物だったようです。
ベンサムについては、哲学者の土屋恵一郎さんが『怪物ベンサム』という面白い伝記を書いています)

ポイントは囚人たちの側からは、塔の中が見えないことで、
誰かに監視されているのか、それとも誰もいないのかが、囚人たちには判断できないこと。

人間というのは面白いもので、
誰に監視されているのかがわからないと、不安に駆られ、かえって規律を守るようになります。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、古典的名著『監獄の誕生』(新潮社)の中で、
パノプティコンを管理される近代社会の比喩として取り上げました。

生涯にわたって、権力の問題を考え続けたフーコーは、
「生権力」という新しいコンセプトを提示したことでも知られています。

権力というと、身柄を拘束したり、命を奪ったりといった強権的なイメージでとらえられがちですが、
そうではなく、相手を生かしながら管理するという権力のかたちがあるのだ、という考え方です。

相手に管理されていると気づかれないままに管理するという新しい権力のかたち。

冒頭でご紹介した『習慣の力』に登場するアンドリュー・ポールは、
妻が子どもを身ごもったという著者に向ってこんなことを言ったそうです。

「赤ちゃんが生まれるまで待っていてください」
「あなたが欲しいと気づいてさえいないような商品のクーポンをお送りしますよ」

プライバシーの定義は、アメリカ連邦最高裁判所判事のルイス・ブランディスによれば、
「何者からも放っておかれる権利」なのだそうです。

でもいまや、いくらプライバシーを望んだとしても、
決して放っておかれることなく、いつの間にか、
あなたの行動は誰かに把握されるようになってしまいました。


そのような社会がはたして幸せといえるのかどうか。

でも、好むと好まざるとにかかわらず、
もうそのような社会は、現実のものとして、既にぼくらの眼の前にあるのです。


投稿者 yomehon : 16:14

2014年07月18日

柴崎さんと黒川さん


第151回芥川賞と直木賞が決まりました。

芥川賞は柴崎友香さんの『春の庭』(文学界6月号)が。

直木賞は黒川博行さんの『破門』(KADOKAWA)が選ばれました。

おめでとうございます。

直木賞はダブル受賞を予想していましたので、予想を外したということで、
全候補作を『グッモニ』の中でプレゼントさせていただきました。

たくさんのご応募ありがとうございました。


あのーでもたくさん応募していただいたのは嬉しいんですけど・・・・・・
みなさん出来るだけ本は本屋さんで買ってくださいね。

みなさんからいただいたメールやFAXを拝見していると、
「本はめったに買いません」とか「図書館利用がもっぱらです」といった内容が多くて、
ちょっと出版の未来が心配になってしまいました。

本はみなさんの人生を支えてくれる心強いパートナーになり得ます。
毎日とは申しません。週にいちどは本屋さんに足を運んで新しい本と出合いましょう!

さて、それぞれの受賞者についてですが、
芥川賞の柴崎友香さんは「ようやく」の感があります。

柴崎さんがどんな作家か、乱暴に一言で申し上げると、
「街」を描くのが抜群に上手い作家、ということになるでしょうか。

ぼくが柴崎さんを初めて読んだのは、『その街の今は』(新潮文庫)でした。

2006年11月16日のエントリーで、
ぼくは「この人はもうすぐ芥川賞をとるに違いない!」と題して、
この本のことを紹介しました。

あの時「もうすぐ芥川賞」と太鼓判を押して、
あれから8年もたったのかと思うと、
「柴崎さんはその間、ずうっと書き続けてきたんだ。よかったなぁ・・・・・・」
と、自分のことではないのに、胸に万感迫るものがあります。


当時の文章の中で、ぼくは柴崎さんの街の描き方について、
「あたかも遠くにすえたカメラをゆっくりとパンさせるかのようにして、
変わり続ける街と、その街を舞台に繰り返される人間の営みをうつしとっている」
と紹介しました。


そうなのです。
基本的にその印象はいまも変わっていません。

ただ、当時の舌足らずな評言にちょっと付け加えるとすれば、
柴崎さんは目の前にある街を描くだけではなくて、
同時に目の前にない街、歴史の彼方にある街も、あわせて描いてみせるのです。

自分が立っている「いま・ここ」だけではなくて、
自分が生まれる前のその場所の景色ですらも描いてみせるというか。

ただ眼前の景色を映し出すだけならば、人間の目は精巧な光学カメラには敵わないでしょう。
でも柴崎さんのカメラ・アイは、目の前の景色だけでなく、
その向こうにある過去の光景ですらも透かし見てしまうほどの驚くべき性能を持っているのです。

その特長がいかんなく発揮されたのが、
たとえば近年のベストである『わたしがいなかった街で』(新潮社)でしょう。

ここでは「昔の街」と「今の街」という対比すらも超えて、
場所も時間も違う光景が幾重にも重ね合わせられています。

おそらく手法的には、作者のキャリアの中でひとつの達成といえる作品ではないでしょうか。

柴崎さんの作品はどれも魅力的ですが、
作者の素顔を垣間見ることができるエッセイ
『見とれていたい わたしのアイドルたち』(マガジンハウス)もおススメ。
大好きな女優や歌手についての著者のガールズ・トークはとてもかわいいです。

これらの本を読みながら、受賞作が発売されるのを楽しみに待ちましょう!


一方、黒川博行さんは、記者会見でもやはり貫禄がありますね。

なんといってもキャリア30年。
これまでの膨大な旧作もこれを機に売れるとなれば、
出版社のみならず本屋さんもウハウハです。
直木賞を受賞したことによる出版界への貢献度は想像以上に大きいといえましょう。

受賞作とあわせてぜひ読んでいただきたいのは、
なんといっても『国境』(講談社文庫)です。

ヤクザを騙した詐欺師を追って、
ヤクザの桑原とカタギの二宮の「疫病神コンビ」が
北朝鮮に潜入するというあり得ないストーリー。

ふたりのやりとりに爆笑させられながら、
国と国との境界線とは何かということについても考えさせられる傑作です。

「いっそ金大中に金つかませたれ」なんてセリフも飛び出す
ピカレスク・ロマン(悪漢小説)でもあり冒険小説でもあり、という娯楽大作。
読み始めたら止まらなくなること請け合いです。


この他、記念すべき「疫病神シリーズ」の第一作
『疫病神』(新潮文庫)も傑作なので、ぜひお読みください。


あるいは渋いところでは『二度のお別れ』(創元推理文庫)もおススメ。

この本は、あの「グリコ・森永事件」と前後して出版され、
脅迫文の調子や身代金の受け渡しの方法などに事件と似た部分が多く、
黒川さんが兵庫県警と大阪府警茨木署に事情聴取されたというのは有名な話。

「この本を書くにあたって、誰かにアイデアや筋書きを話した憶えはないか」などと
しつこく聴かれたあげく、しまいには「おたくが犯人やったら簡単やのに」とまで言われたそう。

黒川さんは「なかなかに得難い経験ではあったが、わたしはいつか茨木署に
石を投げてやろうと心に決めた」と、この本のあとがきに書いています。

だから、というわけではないでしょうが、
黒川さんの小説には悪い警察官がたくさん出てきます。

とはいえ、そういう悪い奴らをただいたずらに断罪するわけではありません。

悪いことに手を染めてしまうのは心が弱いからでもあります。
そういう誰の心の中にでもある「弱さ」にもしっかり目を向けているからこそ、
これだけの長い間、作品が支持されているのではないでしょうか。

強面だけど気は優しい。
そんな黒川さんの「大阪のおっちゃん」ぶりを知るには、
『大阪ばかぼんと ハードボイルド作家のぐうたら日記』(幻冬舎文庫)もおススメですよ!


投稿者 yomehon : 10:43

2014年07月17日

第151回直木賞直前予想


今朝『グッモニ』でもお話いたしましたが、
今回の直木賞予想は・・・・・・

【本命】

2作同時受賞で、

黒川博行さん  『破門』 (KADOKAWA)


柚木麻子さん 『本屋さんのダイアナ』 (新潮社)


と予想いたしました。
ちなみに「対抗」は・・・・・・


【対抗】

伊吹有喜さん  『ミッドナイト・バス』 (文藝春秋)


です。

選考会は本日17時より、築地の料亭・新喜楽で開かれます。

今回の予想が外れた場合、
候補となった全6作品をまとめて1名の方にプレゼントいたします。
(本命2作品のうち片方しか的中しなかった場合も”外れ”といたします)

ぼくが読み終えた私物で申し訳ないのですが、
自腹プレゼントなのでご容赦ください。(買えば総額10530円!)

ご希望の方は、good@joqr.net までどうぞ。

当選者は、

7/18(金)の『福井謙二グッモニ』のエンディングにて発表いたします・・・・・・って、

なんで外れる前提で告知しているんだ???

投稿者 yomehon : 11:47

2014年07月15日

直木賞候補作を読む(6) 『満願』


さて残る一作は米澤穂信さんの『満願』(新潮社)です。

それぞれに趣向を凝らした6編が楽しめるミステリー短編集。


米澤さんは若手作家の中でも屈指の超絶テクニックの持ち主です。

嘘だと思うなら、この本の冒頭に置かれた「夜警」だけでも読んでみてください。


夫が暴れているとの通報を受け、現場に駆け付けた新人の巡査が刃物を振り回す男に発砲。
男を射殺する一方で、みずからも男に切り付けられ、命を落とした――。


このように、要約すればたった2行にまとめられる事件が、
作者の手にかかると、まるで違った相貌を帯びてきます。

勇敢な新人警察官が不運にも殉職したというニュースは、
周到に張られたいくつもの伏線によって、読者の予想は次々に裏切られ、
最後に待ち構えるどんでん返しは、ほとんどすべての読者を驚愕させることでしょう。

ラストでそれまでの事件の構図がガラリと入れ替わる瞬間には、
まるで見慣れていた風景がまばたきをしただけで別の風景へと切り替わってしまったような
感覚をおぼえるはず。

米澤さんの「超絶テクニック」がいかなるものか、
よく実感していただけるのがこの「夜警」だと思います。


米澤穂信さんは、
昨年お亡くなりになった連城三紀彦さんの衣鉢を継ぐ作家だともいわれています。

連城さんが生み出した数々の傑作については、
いずれ機会をあらためてご紹介いたしますが、
ひとことでいえば、連城作品の新しさは、
あっと驚くトリッキーな「どんでん返し」と、情趣溢れる美文体を融合させたことにありました。

艶めいた恋愛小説でありながら、同時に本格推理小説であるような、
そんな稀有な作品を次々に世に送り出した偉大な小説家でした。


そんな作家と名を比されることからしても、
米澤さんへの期待度の大きさがおわかりいただけると思います。


『満願』には「夜警」を皮切りに、
自殺の名所といわれる山深い温泉宿で自殺志願者が誰かを推理する「死人宿」、
離婚を決意したある女性の話が、少女の妖しい欲望の話へとかたちをかえていく「柘榴」、
商社マンが一線を踏み越えてある国で犯した犯罪を描いた「万灯」、
寝苦しい夜にかく汗のような、肌に粘りつくようなじっとりした恐怖を感じさせる「関守」、
夫殺しで服役した女性の犯行に秘められた謎を解き明かす「満願」の6編がおさめられています。


どの作品も長編でもいけそうな題材。
作家として少ない手間で大きなリターンを得ようと思えば、そうすることだって可能でしょうに、
米澤さんは惜しげもなく短い一編の中にアイデアを注ぎ込んでいます。
とても贅沢で、しかも完成度の高い作品集であるといえるでしょう。

満場一致で第27回の山本周五郎賞を受賞したというのも頷けます。

ただひとつだけ、気になったことがあります。

米澤さんはたしかに連城三紀彦さんの系譜に連なる作家かもしれない。
ただ、連城作品の特長である情感においては連城さんに及ばないと思いました。

「死人宿」や「柘榴」のように耽美的、官能的な作品もあるにはありますが、
連城作品との比較を念頭に読んでみると、
米澤さんの作品からはまだまだ人工的な雰囲気が感じられるのです。

完璧といえるのは「夜警」のみで、
あとの作品からは若干、芝居の書き割りチックなにおいを感じるというか。
その点は今後に期待したいところです。

ただこれはあくまで、作品全体が高い完成度にあることを前提としたうえでのお話。

テクニックが超一流なところに、
連城作品のような深みが加わった時、
この米澤穂信という作家は向かうところ敵なしになるのではないでしょうか。

以上、6作品をざっとご紹介しました。

連日のように文章を書き飛ばし、
読みづらい点も多々あったかと存じますが、その点はどうぞお許しを。


さて、「で、直木賞受賞作はどれなの?」という方。

受賞予想は、7月17日(木)の『福井謙二グッモニ』の中で発表させていただきます!

ぜひお聴きください♪

投稿者 yomehon : 15:06

2014年07月14日

直木賞候補作を読む(5) 『本屋さんのダイアナ』


お次は柚木麻子さんの『本屋さんのダイアナ』 (新潮社)です。


まず、この小説の最大の関門は冒頭にあると言っておきましょう。
この入口の部分で抵抗感を覚えた人は、うまく物語に入っていけないかもしれない。

この作品における最大の関門。

それは主人公の名前です。

矢島ダイアナは字が読めるようになるずっと前から、自分の名前が大嫌いだった。
外国の血など一滴も入っていないのにダイアナ、それもよりによって漢字で「大穴」と書く。
ダイアナの父は競馬が好きだったらしい。(略)
――パパと相談して、あんたが世界一ラッキーな女の子になれるようにと思ってつけたんだ。
世界一の名前じゃん。(略)
ティアラは得意そうに微笑むけれど、この名前のせいで、ダイアナは八歳にして未来に絶望している。

ここで、
「矢島大穴?んな名前の人間、いくらなんでもいるわけないじゃん!!」
とリアリティを感じられず、のっけからつまづいてしまう人もいるかもしれません。

でもどうか我慢して読み進めてください。

かなり無理があるのはここだけで、あとはすんなり物語に引き込まれるはずですから。

矢島ダイアナは、キャバクラに勤める母ティアラと二人暮らし。
父親の顔を知らずに育ったダイアナは、歌舞伎町のキャバクラ『ヘラクレス』の№1だという
ティアラに似た美人。髪の毛も幼いころから脱色させられ続けたせいで金髪です。
そんなギャル系な外見とは裏腹に、ダイアナは内気で本好きな女の子。
図書館でたくさんの本を読むことを無上の喜びとしています。


この小説には、もうひとり主人公がいます。

優等生でクラスの誰もが一目置く神崎彩子。
美しい黒髪に地味だけれどよくみるとセンスの良い服装をしています。
父親は児童書の編集者で、自宅で料理教室を開く母親も元編集者。
両親の愛情をいっぱいに浴びて育った彩子も無類の本好きでした。

ダイアナと彩子。

ふたりが無二の親友となるのに時間はかかりませんでした。

この作品は、
矢島ダイアナと神崎彩子というふたりの主人公をすえたダブル・ヒロイン小説なのです。


いやー素晴らしい作品ですね。

小学生で出会ったふたりが、、
ささいな行き違いから絶交して、
成人になってからふたたび友情を復活させるまでが描かれていますが、
作者は、ダイアナと彩子という対照的jなヒロインの人生に仮託して、
女性であれば誰もが成長するまでに経験するであろう困難を巧みに描いています。

それは、自分が置かれている環境へのコンプレックスであったり
(ダイアナと彩子はそれぞれ、互いの家庭環境に憧れを抱いています)、
男という性への嫌悪やおそれであったり、
あるいは女性としてどう生きていくかという難題であったり。

特に女性読者には、「そうそう、わかる!」と共感できる箇所が随所にあることでしょう。


いや、ヒロインだけじゃないですね。

ヒロインの母親たち、
ダイアナを16歳で生んだティアラ(ちなみにティアラは源氏名)や、
知的でセンスがよい彩子の母・貴子、それぞれの人生からも、読者は何かを感じ取るはず。

つまりこの本では、少女から母親まで、
女性の人生のさまざまなステージが描かれているわけです。

柚木麻子さんはいま注目されている作家ですが、
ちょっとした風俗描写の上手さに、
ベストセラー作家になる素質がじゅうぶんにあるなぁと感じさせられます。


作中、ティアラが、お店が終わった後に、
ダイアナを食事に連れて行く場面があります。

うまいなぁと思ったのは、
ダイアナを連れて行くのが歌舞伎町の「つるとんたん」なんですよね。

引っ張られるようにして店を後にし、区役所通りを歩いて<つるとんたん>を目指した。
何やら怪しげな地下の店では、仕事終わりとおぼしきホストやホステス風の男女が
大きな丼に頭を突っ込むようにして、うどんをすすっている。ダイアナはメニューを見て、
極力シンプルなものを指した。
「わたし、普通のきつねうどんでいい」
「はあ?<つるとんたん>に来てクリーム系いかないとか、マジありえないし。
なんか、あんたのほうがババアみたいじゃーん。ウケる」
やがて洗面器のような丼が、二人分運ばれてきた。向かいでうどんをすするティアラは
丼のせいで小さく見えて、いつになく儚げに感じられた。ティアラにも子供の頃があったんだと
やっと気付く。自分と同じ年のティアラはどんな思いで毎日を過ごしていたのだろうか。


同じ店でも六本木店とはまた違った、
キャバ嬢でごった返しているあの深夜の雰囲気を知っている人には特に、
「あの雰囲気の中、うどんをすする母娘・・・あぁわかるなぁ」と光景が思い浮かぶでしょう。

「つるとんたん」という固有名詞をを知らない人でも、
洗面器のように大きな丼(実際、それくらいあります)との対比で、
シングルマザーとして懸命に生きてきたティアラの半生を感じ取ることができるはずです。
(この描写の前に、ダイアナが控室のロッカーで母のある秘密を知る場面があるのでなおさら)

小説の中での固有名詞の使い方については千早茜さんのところでも触れましたが、
柚木さんのこういう使い方はとても上手いと思います。

そしてなによりも、この小説の最大の仕掛けである
「主人公と本とのかかわり」!

これが素晴らしく効いています。


ダイアナと彩子を結びつけるのは本。
ふたりが別れて、それぞれの青春時代を送る際に支えとなるのも本。
そして、ふたりをふたたび結びつけるのも本です。

この本には次のような箇所が随所に出てきます。

「桃のコンポートよ。桃を洋酒の入ったシロップで煮て、良く冷やしてあるの。お口に合うかしら」
「知ってる!森茉莉さんの本で読んだ!」
我慢できずにそう叫ぶと、彩子ちゃんのお母さんは悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「そうそう。鴎外はドイツ帰りの医師だったから茉莉さんに生のくだものをたべさせてくれなかった
のよね」
かつてないほど心が浮き立ち、ダイアナは恍惚となる。こんな会話に心の底から飢えていた。
この時間が永遠に続けばいいと、涙が滲むほど強く願う。
「今、好きな作家は幸田文に森茉莉か・・・・・・。ダイアナちゃんは、どうやらお父さんとの絆が
強い作家が好きみたいね」
どきりとして、まじまじと彩子ちゃんのお母さんの顔を覗き込む。確かにそうだった。
幸田露伴に森鴎外――。幸田文も森茉莉もそれぞれの父親の影響が強すぎるせいか、
結婚がままならなかったり、生きづらそうに見える部分も多々ある。それでも、心の中に
常に絶対的な存在があることが羨ましい。何があっても守り、導いてくれる。
人生の先輩であり、恋人でもある。その濃密な関係に憧れていた。


いつも本が大切なことに気づかせてくれる。

「大穴」という名前や金色に染められた髪、父親が行方知れずの家庭環境など、
自分の人生を否定していたダイアナの孤独を支えてくれるのが「本」でした。

この小説には、実在の作家や作品も出てきますが、
物語の中で大きな鍵を握るのが、
『秘密の森のダイアナ』という架空の児童文学作品です。

意地悪な魔法使いのせいで、両親と生き別れた少女ダイアナが、
森の動物や妖精たちに助けられ、自分の力で生き抜いていく物語ということですが、
この『秘密の森のダイアナ』に出てくる、
「自分の呪いを解くことができるのは、自分だけ」というメッセージが、
『本屋さんのダイアナ』の重要なモチーフになっている。

ダイアナと彩子は、どんなふうに自分で自分の呪いを解いていくのか。
このへんの物語のもっていきかたがとても上手い。


またこれはまったくの偶然でしょうが、
この作品はいま放映中のNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』ともリンクしています。

ダイアナと彩子の関係は、ドラマの村岡花子と柳原白蓮との関係にも重なり、
また『赤毛のアン』のアン・シャーリーとダイアナ・バリーの関係にも重なります。

そしてなによりも、物語のクライマックスで作者は、
村岡花子のある文章を引用し、
ダイアナと彩子の人生それぞれを肯定してみせるのです。

このくだりはお見事!と唸るしかなく、読んでいて深い感動を覚えました。


文学作品たいする深いリスペクト。

本屋さんにたいする深い愛情。
(書店に就職したダイアナは手書きPOPが評判になります)

そして女の子の人生にたいする優しいまなざし。

直木賞予想の場なのに予言してしまいますが、
この『本屋さんのダイアナ』は来年の本屋大賞を受賞するのではないかと思ってしまいました。

ともあれ、柚木麻子さんの品のなかでは最高傑作と断言して間違いありません!!

投稿者 yomehon : 15:26

2014年07月13日

直木賞候補作を読む(4) 『私に似たひと』


続いては、貫井徳郎さんの『私に似た人』朝日新聞出版)です。


「小口テロ」と呼ばれる小規模なテロが頻発する社会を描いた作品。
「小口テロ」というのは、思想的あるいは組織的な背景があるわけではなく、
指導者がいるわけでもなく、ただひたすらに社会への不満を募らせた個人が暴発して起こすテロのこと。

車を暴走させて人ごみに突っ込んだり、交差点でいきなり刃物を振り回したりするような
「小口テロ」を起こす人々は、組織的に連帯しているわけではありませんが、
ただひとつだけ、自らを「レジスタント」と称しているという共通点があります。

なんだか近未来SFみたいじゃないかと思われた方もいるかもしれませんが、そうではありません。
「小口テロ」だけは作者がつくりだした設定ですが、舞台は現代の日本です。

作者はテロをめぐる多様な人間像を描くことで、
現代の日本が抱えるさまざまな不平等や閉塞感を浮き彫りにしようと試みています。


帯には「全く新しい小説のかたち」という言葉がありますが、
このように人物の視点を次々に変えるスタイルは、
著者がすでに日本推理作家協会賞を受賞した『乱反射』という作品で試みていますので、
特に目新しい仕掛けというわけではありません。


『乱反射』は、強風にあおられて倒れた街路樹の下敷きになって幼い子が亡くなるという
いたましい事件の真相を、新聞記者の父親が調べていくというストーリーでした。

そこから浮かび上がってくるのは、市役所の担当者であるとか、清掃員であるとか、
そういったいろいろな人がちょっとずつ小さなミスや身勝手な振る舞いなどを重ねていった結果、
不幸な死亡事故が起きてしまったという、いわゆるバタフライ・エフェクトのような真相。

ひとりひとりを法律では裁けないけれど、関わった全員がそれぞれ小さな罪を犯しているという
やりきれない現実を巧みに描いた作品でした。

個人的には、これまでの貫井徳郎さんの最高傑作はこの『乱反射』

さて、では今回の『私に似た人』朝日新聞出版)はどうでしょうか――。


まず今回、著者はかなり高いハードルを設定して執筆しているのではないかと感じました。


「二十年くらい前までは何もかもうまくいっていたはずなのに、日本はどこで道を間違えたのだろう」

作中に出てくる登場人物のつぶやきです。


たとえば本書には、心身ともに負担の大きい労働を強いられながら、
やむを得ず将来的に報われる見込みのない仕事に就いている人や、
ネットで匿名の誹謗中傷を行う者、
目の前で悲惨な事故が起きているにもかかわらず、
被害者を助けようとせずスマホで現場を撮影する輩などが出てきます。

ワーキング・プアや格差の問題、目に見えないところから行われる他者への攻撃、
あるいは自分以外の人間への共感力の欠如・・・・・・などなど、
どれも現実にこの社会で起きているひどい話です。


「いつの間に日本はこんな国になってしまったのか」
「こんな社会にしたのは誰か」
「私ちたちはどこで間違えてしまったのか」・・・・・・。


いまの日本社会に対して、誰もがそんな思いを抱いていることでしょう。
誰もが胸の内で燻らせているそのような思いに、
作者はこの小説でひとつのかたちを与えようと挑んでいる。
ハードルを高く設定しているというのはそういう意味です。

保育士の男性とテロで亡くなった元恋人。
捨て猫を愛する気弱な工場勤務の青年。
自動車暴走事故の現場に居合わせた平凡なOL。
息子の進学を心配する母親。
娘の不登校を気にかける警察官。
意識高い系の青年。
夫の行動に不審を抱く妻とその夫。
家族も仕事も失った男たち。
そしてテロ被害者の遺族。

ここに登場するすべての人物が、テロと何らかの関わりがあります。

そしてこの本を読み進めるうちに読者は、
これらの登場人物のいずれかに自分と似た人物――すなわち自分自身を見出すはずです。


結局、いまの日本をつくってきたのは、ぼくらひとりひとりなのだ。
ぼくたちひとりひとりに責任があるのだ――。

本書を読み終えてその事実に気がついた時、きっと暗澹たる気分に襲われることでしょう。

このように、決して読後感は良くありませんが、きわめて現代的な問題を扱った作品です。

ただ気になる点もあります。

たとえば、ある人物に復讐したいという、
ドス黒い感情に心が染まりかけていた登場人物が、
幼い子どものちょっとした一言を聞いて踏みとどまる場面があります。

ちょっとひっかかってしまったのは、子どもの一言。

「ムカついたからってたたいたりしたら、テロとおんなじなんだからね」

たしかに子どもの純粋無垢な心から出た美しい言葉かもしれません。

でもそれで、「赤い霧に包まれていた視界が、不意に開けたように感じ」る大人ってどうなのか。

それまでつのらせていた相手への恨みの感情は、
そんな一言で雲散霧消してしまうほど軽いものだったの?
なーんだ、と正直拍子抜けしてしまいました。

要するに、子どもの無邪気な一言で我に返るという流れが
図式的、説明的なところが残念なのですね。

ごく普通の人間が殺人のような犯罪に至るまでには、
複雑極まりない心情の変化があるはずで、
(たとえば最初はささいな嫉妬だったのが、いくつかの段階を経るうちに、
歪み、ねじ曲がって、殺意へと変貌していくような・・・・・・)
そのような時間をかけて醸成された殺意が、
子どもの一言であっけなく漂白されてしまうというのは・・・・・・うーんどうなんだろう。

しかも子どもの一言がフツー。
いや、もちろん幼児だからそんなに難しいことは言うわけがないのですが、
それにしても、主人公の目をハッと覚まさせるのであれば、
もうちょっと頭をぶん殴られるような会心の一言が欲しかったところです。

似たような箇所は他にもあります。

本書はある種の群像劇ですが、
「小口テロ」をネット上で扇動しているのは誰かという謎が本書を貫く軸としてあって、
ある登場人物が、テロの首謀者は自分だと告白する場面があります。

ここでその登場人物は、なぜ自分がテロを煽るようになったのかを語るのですが、
そのきっかけや理由、背景などが、きれいに説明され過ぎていて、
かえってリアリティから遠ざかってしまうという残念なことになっている。


いまの日本社会を覆う閉そく感が、
いったい何によってもたらされているのかと問われて、
明確に答えられる人はいないでしょう。

でもぼくはその「理由」や「背景」がわからないことこそが、
閉塞感をもたらしている原因なのではないかと思います。

かつて『新世紀エヴァンゲリオン』を初めて観た時に、
すぐれて現代的だなと感心したのは、
「使徒」と呼ばれる敵の正体がよくわからないところでした。

ネットで当たり前のように流通している匿名での誹謗中傷にも、
正体がみえない、暗闇から石を投げられているような嫌な感じがあります。 

テロリストの恐ろしさも同様です。
敵の正体がよくわからないからこそぼくらは不安をおぼえるのではないか。


この小説では本来、
そのような現代の「得体の知れない不安」そのものを描こうとしていたはずです。

にもかかわらず、上に挙げたようないくつかの箇所で、
わかりやすい因果関係を提示してしまったせいで、
せっかくの野心的試みが後退してしまっている感がある。

時代のリアリティに肉薄しようとしていたにもかかわらず、フッと引いてしまったような。

もしかしたら、あまりに大きなテーマと格闘したせいで、
作者が息切れしてしまったのでしょうか?


貫井徳郎さんはもういつ直木賞を受賞してもおかしくない作家です。

選考委員のみなさんは上に述べた点をどのように評価するでしょうか。


投稿者 yomehon : 02:37

2014年07月09日

直木賞候補作を読む(3) 『男ともだち』

続いては千早茜さんの『男ともだち』(文藝春秋)です。


物語の主人公は、
京都に住むイラストレーターの神名葵。

29歳の彼女には同棲している男性がいますが、
関係はとうに冷めていて、遊びなれた医師と時々密会してはセックスを愉しんでいます。

そんな彼女にある日、大学時代の先輩「ハセオ」から連絡があります。

学生時代、誘われればすぐに寝る女だった神名と同じように、
ハセオにもたくさんの女性がいました。

けれども数えきれない時間をともに過ごしたにもかかわらず、
ふたりのあいだにはいまに至るまで肉体関係はありません。

神名とハセオは、
誰よりも互いを理解しないながら、決して愛し合わない関係なのです。

そんなハセオとの再会が、
神名の人生にゆっくりとした変化をもたらします。


この本はもうすでにかなり売れているようですねー。
いくつかの大手書店の店頭で猛プッシュしているのを目にしました。
店員さんの手書きPOP広告が有名な有楽町の三省堂書店では、
「恋人も愛人もいらない。『ハセオ』が欲しい」と書かれたPOPを見かけました。
黒いレースがあしらわれたオシャレなPOPは明らかに女性の手になるもの。
女性店員たちからの熱烈な支持を受けているようですね。


文章はエレガントだし、
女性の内面が繊細に描けているし。
その支持も頷けます。

女性読者が「いいなー」と感じる神名とハセオとの関係はいかなるものか。
大学卒業以来、ひさしぶりに再会するくだりの中に、
ふたりのノリがよくわかる箇所があるので、ちょっと引用してみると…


「三時に店をでた。私がトイレに行っている間にハセオは私のラビットファーを首に巻き、
会計を済ませて、店の廊下に立っていた。上背があって長いコートを着ているから、
毛皮なんか巻きつけていると時代遅れのロック歌手みたいだ。
私はハセオの腕から黒いマフラーを引き抜くと、自分の首に巻いた。
カシミアらしいなめらかな肌触り。甘い煙草の匂いがふわりとたった。
『お前の匂いがするな』とハセオがファーに鼻を埋めながら言った。
『こっちもハセオの匂いがするよ』
匂いの記憶は褪せない。
ハセオが何かを確かめるように私の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
『やめてよ』と叩きながらファーを取りかえし、背伸びをしてマフラーを首にかけてやる。
ちょっかいをだし合いながら、すっかり人気のなくなった先斗町を歩く。
昔も犬のようにじゃれ合ったり、小突いたり、物を奪ったりしていた。飽きるタイミングも一緒だった。
よく岩佐さんに『お前ら小学生か』と呆れられていた」


うーむ......。

女ともだちに昔アドバイスされたことで、いまでも鮮明に覚えていることがあります。

「男って女の頭をくしゃくしゃってやると、女が喜ぶもんだと勘違いしているヤツ多いけど、
あれ大間違いだからね。髪バサバサになるし、ちょっと勘弁してよーって内心思ってんだから。
犬じゃないんだからそんなんでキュンっとなったりしないって。絶対やっちゃダメだよ」

はいっ!わかりました!

そう胸に刻み込んだその日からこんにちに至るまで、
決して女子の頭をくしゃくしゃっとやったことはありません。

ちなみにその女ともだちは、男性経験のバリエーションの豊富さにかけては群を抜く猛者で、
そちら方面のことに限っては、ぼくも師匠と仰いでいる人間だったりします。


まぁ実際にはぼく自身の経験値は貧弱なものですけれど、
そんな女ともだちの話をはじめ、
これまでいろいろな男女のあれこれを必要以上に見聞きしてきた者からすると、
この作品には「ん???」と首をかしげるところがあるのです。

この小説を読みながらまず思い浮かんだのは、「初心(うぶ)」という言葉でした。

なんて言ったらいいんでしょう、この主人公は、
どうしてこんなふうにセックスをたいそうなもののように考えているのでしょうか?

作中、
「失いたくなかったら絶対にセックスしちゃだめよ。しない限り、神名は特別でいられるんだから」
という台詞が出てきますが、
セックスというのは、そんなに人間関係を一気に変えてしまうような力のあるものでしょうか??

作中、神名が愛人の医師の病院を訪ねて、彼の部屋で交わる場面が出てきます。
おそらく作者は、「ハセオ以外の男とはこんな大胆なこともやってしまうんですよ」
と示したかったのかもしれません。

でもぼくにはかえって、この場面はとってつけたように感じられました。
決して大胆ではなく、むしろ保守的に感じられたというか。
現実の世間の男女の方が、もっと大胆で奔放で変態なことをしていますよ。


小説というのは、作者が想像力を駆使して書くものですから、
本来は作者の実人生が反映されているかどうかなんてことは関係ありません。
(人を殺した経験がなくとも、殺人の場面を描けるのが作家ですし)

でもこの作品に関しては、
ぼくは作者自身の男性の好みやセックス観が色濃く反映しているように思えてならないのです。

作者の経験値がどうだとか、そんな失礼なことを言いたいのではありません。

そうではなくて、この作者は、
「セックスのことをものすごく理屈っぽく考えている」
ということが言いたいのです。

ここがこの小説の最大のポイントであり、
読む者の判断が分かれるところなのではないかと思います。

セックスをなにか特別なことのように考える一方で。
神名とハセオの関係の描写をみると、
アラサーの男女とは思えないほど幼い感じだったりする。

同棲相手がいるのに愛人の医師と時々逢い引きしているとか、
学生時代は誘われれば誰とでも寝たとか、そんなところをいったん脇において眺めると、
この小説の底には、まるで少女小説のような初心な男女観が横たわっているように思えます。


たとえば、神名とハセオが抱き合って眠る場面が出てきます。
ここもちょっと甘ったるい感じというか、神名が心安らぐ感じに描かれていますけれども、
現実にはこれだけ体を密着させると、男は意志に関係なく下半身が反応してしまったりするもの。
でも、作者はそういう生々しい要素というのは排除しているように思えるのです。

生々しいことは排除して、セックスを思弁的にとらえているというか.......。

いや、そうではないという反論も当然、あり得るでしょう。

セックスを特別視しているわけではなく、
セックスが介在する関係が面倒臭いから、それがない関係を描いてみたのだと。

だとするなら、いつも本気で心配してくれていて、
会えば青春時代に戻ったようなノリで接してくれて、
それに太い腕でがっしりと包み込んで安心させてくれる、
ハセオのような男性が欲しいという女性たちの声も理解できます。

現実にはそんな男はいないでしょうが、
でもいないからこそ、女性読者はファンタジーとして、
この作品を支持しているのだという見方もできるでしょうね。

繰り返しになりますけれど、
セックスの扱われ方をどうとらえるかで、
この作品の評価は分かれるような気がします。


あとひとつ、この作品では、「固有名詞」の使われ方も気になりました。

たとえば作中、神名がたびたび訪れる店があります。
ここは神名が心を開いている数少ない人間で、元SM女王の露月が営むバーなのですが、
「なんか濃いのちょうだい」という神名のオーダーに対し、作者は露月に「ポール・ジロー」を選ばせる。

あるいは、ハセオが関係のある女たちに、いちいち選ぶのが面倒だからと
まとめてあげているプレゼントの品として「クロエの香水」が出てくる。

ここで「ポール・ジロー」を選択することが指し示す「趣味の良さ」であるとか、
「クロエの香水」に象徴される「イマどきの可愛い女の子がよくつけてる感じ」と
その裏返しともいえるある種の「大衆性」を、
いったいどれだけの読者が即座にイメージできるだろうかと思いました。

ある固有名詞を書くことで、
それが意味するところを理解できている読者に、
ある種のイメージをショートカットで共有させるという手法も確かにあります。

でもともすればそれは、
「わかるヤツにはわかる」といったふうに
作品の間口を狭くすることにもなりかねません。

そういえば、我が国の文学史上、
もっとも固有名詞が頻出する小説と思われる
田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』が傑作なのは、
ブランド名やショップ名など、あれだけの数の固有名詞を作中であげる一方で。
巻末の膨大な註でそれらに適切なツッコミを入れていたからでした。
(発表当時、文芸評論家の江藤淳さんはその批評性をものすごく評価しました)

固有名詞に関しては、舞台となっている京都についても気になるところがあって、
登場人物がみんな京都弁ではないんですよね。

それはそれで、京都と書いてあるのにどこの街だかわからないような、
不思議な効果もあったりはするのですが......。この点は最後まで謎でした。

投稿者 yomehon : 16:40

2014年07月08日

直木賞候補作を読む(2) 『破門』


第151回直木賞候補作、今回は黒川博行さんの『破門』 (KADOKAWA)です。


黒川博行さんは、ヤクザや悪徳警官といった「悪い奴」を描かせたら天下一品の作家。

この『破門』に出てくるのもそういう悪い連中ばかり。

本作は「疫病神シリーズ」と呼ばれるシリーズものの5作目にあたります。

疫病神シリーズとは、
金儲けの話にはとことん喰らいつくイケイケのヤクザ・桑原と、
ヤクザだった父親とは違うカタギの人生を歩もうとする二宮が主人公の「バディ(相棒)」もので、
桑原が引き起こすトラブルの数々に二宮がズルズルと巻き込まれ、
命を落としかねないような散々な目にあうというのが基本パターン。


これまでの作品には、
産業廃棄物処理に群がる魑魅魍魎を描いた『疫病神』にはじまり、
ヤクザを騙した詐欺師を追って北朝鮮に潜入する『国境』、
警察の腐敗を扱った『暗礁』、
金満宗教家を描いた『螻蛄(けら)』の4作があります。

今回の『破門』は、
架空の映画製作話で投資を募り、その後姿を消した映画プロデューサーの行方を追って、
お馴染み桑原と二宮のコンビが、大阪、マカオ、四国と縦横無尽に・・・というか尻に火がついた状態で
駆けずり回ります。


疫病神シリーズの面白さは、
まずひとつには破天荒な桑原とヘタレの二宮という
主人公のキャラが見事に確立されていることがあげられます。

ふたりの大阪弁でのやりとりはほとんど漫才のようで
深刻なトラブルに巻き込まれているにもかかわらず、読んでいて笑わされてしまうこともしばしば。

もうひとつの魅力は、
登場人物がヤクザだったり金の亡者だったりほぼ全員が悪人であること。

世間から毛嫌いされる人間たちがこれほど大量に登場する小説は他に思い当りません。

けれど本作に関しては、ちょっと引っかかるところがあるのですね。

というのも、この作品に関しては、
次のような問いをたてることができるからです。


すなわち、「シリーズ全体を直木賞の受賞対象とするのはありなのか?」という問いです。


これまでシリーズものに属する一冊が直木賞を受賞した例がないわけではありません。

記憶に新しいところでは、
第110回直木賞を受賞した大沢在昌さんの『無間人形』がそうです。

「新宿鮫シリーズ」の4作目にあたるこの作品は、
物語のスケールの大きさといい、手に汗握るハラハラドキドキ具合といい、
シリーズ屈指の傑作といってよく、シリーズものの中の一冊ということを離れて、
じゅうぶんにこの作品単独での受賞に値するという納得感がありました。


翻って『破門』がどうかとなると、
ぼくは「うーん」と考え込まざるを得ません。

もっと率直にいえば、「この作品じゃないだろう!」という不満があるというか。

このシリーズの愛読者に「シリーズ最高傑作はどれ?」とアンケートをとれば、
ほぼ間違いなく『国境』、の名前があがると思いますよ。

次点はこれもほぼ間違いなく『疫病神』でしょうね。


黒川さんがもっとも直木賞に近づいたのも『国境』が候補にあがったときでした。

たしか最後の最後まで揉めて受賞を逃したはずです。
ちなみにこの時(第126回)に受賞したのは、
山本一力さんの『あかね空』と唯川恵さんの『肩ごしの恋人』でした。

ぼくはいまでも唯川さんじゃなくて黒川さんが受賞してもよかったのでは?と思っていますが、
あの時の印象が強すぎるだけに、今回の候補作にはどうしてもインパクトを感じられないのです。

とはいえ、黒川博行さんは大御所です。

素晴らしいハードボイルドをこれまで数多く生み出してこられた功労者です。

だからもういい加減、直木賞を差し上げて下さい!という思いもあります。

功労者に対して、そのシリーズ全体に敬意を表して、
賞を与えるという判断が果たしてあり得るのかどうか。

そのへんも今回の予想を難しくしている要因ではあります。

投稿者 yomehon : 13:23

2014年07月07日

直木賞候補作を読む(1)  『ミッドナイト・バス』


さて、今回から第151回直木賞の候補作を順にみていきましょう。


トップバッターは伊吹有喜さんの『ミッドナイト・バス』 (文藝春秋)です。


ずばり!今回の候補作のなかで、いちばん泣けた作品がこれ。

バブル期に東京で就職した会社を辞めて、
郷里の新潟で長距離バスの運転手になった利一が主人公。

ある夜、彼の運転するバスに、16年前に別れた妻・美雪が乗り込んできます。

彼らにはふたりの子供がいるのですが、
妻は子供たちを捨てて家を出て行ったのでした。

再会を機に、ふたりの人生がゆっくりと交わっていくのですが、
お互いにいろいろな思いを抱えてこの16年間を過ごしてきたわけで、
そう簡単に焼けぼっくいに火がつくというような展開にはなりません。

利一には東京で小料理屋を営む志穂という恋人がいますし、
美雪にも再婚した夫とのあいだに小さな子供がいます。

ここにふたりの子供たちのエピソードもからんできます。

ある日突然、利一と同じように、東京で就職していた会社を辞め、
実家に戻ってきた長男・怜司。

新潟でルームシェアをしている友人たちとビジネスを起ち上げ、
ネットの世界で名前を知られていく長女の彩菜。

果たして、ばらばらになった家族は、ふたたび結びつくことができるのか――。

その再生までのプロセスが、ゆっくりと穏やかな筆致で描かれています。

ごくごく普通の人々の人生に対する
作者の柔らかな視線が印象的な、実にすばらしい小説だと思います。

まず登場人物がみんな不器用なんですね。

本当は大好きなのに、ひどい言葉を浴びせてみたり、
相手を思いやるからこそ身を引いてみたり。

でもそういう、不器用だからこそまわりを傷つけてしまう人々に対して、
作者は「そのままでいいんだよ」と言っているように思います。


この人生を肯定する感じというのは、
ちょっと木皿泉さんの世界にも近いかもしれません。
個人的に木皿さんが脚本を書いた『すいか』はゼロ年代最高のドラマだと思いますが、
あのドラマに込められていたメッセージも「そのままでよし!」という人生肯定でしたし。

細かいところで言うと、
この小説は小道具の使い方がうまいですね。

たとえば、長男・怜司の別れた母との思い出の中で出てくる「季節外れの手袋」。
なんで季節外れの手袋だったのかにはちゃんと理由があって、それがまた泣かせるんです。

あるいは「びわ茶」。
病床にある美雪の父が飲みたがっていて、
それを作ってくれるのが利一の恋人の志穂で・・・という。
このびわ茶をめぐって垣間見える、それぞれの人生の断片も実にいい。

この小説が選考会で評価を得られない可能性があるとすれば、
あまりにも小説的な盛り上がりに欠けるという点にあるかもしれません。

小説とは「ホラ話」であると乱暴に定義すると、その「ホラ話」感に乏しいとでもいいましょうか。


ただぼくは、そういう見方には異論を唱えたい。

この小説に描かれているような人生こそが、ぼくらのような読者の人生そのものですよ。

劇的な人生ばかりが小説のテーマではないはずです。


いや、違うな。

この小説で描かれている人生だって、じゅうぶんに劇的だ。


だってバラバラになった家族が、16年の時を経て再生するんですよ?

もちろん家族が再出発するなんて話は珍しくもなんともないのかもしれませんが、、
ぼくはこの不器用な登場人物たちが、ゆっくりと時間をかけて再び心を通わせていく様は、
じゅうぶんにドラマチックだし、奇跡的なことだと思います。

たとえそれが小さな奇跡に過ぎなかったとしても。

人が人を思いやるということ。誰かの幸せを願うということ。

そういう人間が持つ美質というものを、
こんなふうに正面切って描いてみせた作者の潔さ。

そこはやはり評価されてしかるべきなのではないかと思います。


タイトルも内容とマッチしてます。
読む前は、「なんか平凡なタイトルだなー」と思いましたが。

バスをこよなく愛する詩人・平田俊子さんが『スバらしきバス』(幻戯書房)という
スバらしきエッセイで存分にお書きになっていらっしゃいますけれど、 
バスというのは不思議な乗り物で、
たまたま乗り合わせた人々が、目的地まであるひとときを共有する
運命共同体のようなところがあります。

この小説の登場人物たちも言ってみればみなバスの乗客です。

それぞれに生きる上での困難を抱えた乗客たちが、長い長い夜を超えて、朝へと向かっていく。

希望の光がさす夜明けへと向かってバスが走っていく――。


個人的にこの小説に不満を感じるところも挙げておくならば、
物語にちょい役で登場するバスの乗客たちのエピソードがやや未消化な点でしょうか。
(東京に息子を送り出した母親とか、年老いた夫婦とか、カフェの店主とか)


それと利一の恋人の志穂の描き方がやや薄いです。

無口で不器用な運転手の恋人が、小料理屋の女将という設定はどうなんだろう?
しかもこの女将は、よく気が利くけれど、終始控えめで、恋人に多くを求めない。
「側にいてくれるだけで幸せ・・・」みたいな。

まるで古い日本映画にでも出てきそうな女性。

「おらんわ!いまどきそんな女性」と正直、思ってしまう自分もいるんですよね。


この志穂という女性、物語の中で、とても重要な存在なんですが、
可哀そうにいちばんご都合主義的な使われ方をしている気がします。

家族が揉める道具として使われたり、
主人公が自分の至らなさに気がつく道具として使われたり。

いまあえて「道具」という言葉を使いましたが、
他の登場人物は丁寧に描かれているのに、
この志穂だけは、彼女自身を丁寧に描くというよりも、
物語に何らかの波乱や展開をもたらす際の、
便利アイテムとして使われているような感じがしてしまうのですね。

なんだかいつも貧乏くじをひかされているように見える志穂のことも、
もっとしっかりと書き込んで欲しかったと思いました。


投稿者 yomehon : 11:40

2014年07月04日

第151回直木賞候補作

もうご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、
第151回直木賞の候補作が発表されています。

150回の節目を迎えた前回から、
候補作が早めに発表されるようになったのは嬉しいかぎり。
それだけゆっくり読む時間ができますからね。


さて、今回のラインアップは次の通りです。


伊吹有喜さん  『ミッドナイト・バス』 (文藝春秋)


黒川博行さん  『破門』 (KADOKAWA)


千早茜さん  『男ともだち』 (文藝春秋)


貫井徳郎さん  『私に似た人』 (朝日新聞出版)


柚木麻子さん 『本屋さんのダイアナ』 (新潮社)


米澤穂信さん 『満願』 (新潮社)


それぞれの候補回数をみてみましょう。

初エントリーは、伊吹さん、米澤さん。

2回目が、千早さんと柚木さん。

4回目が貫井さん。

6回目が黒川さんです。


候補回数をみると、黒川さんは今回がラストチャンスでしょう。

貫井さんも、「そろそろか?」という雰囲気を醸し出しています。

千早さんと柚木さんは、前回に続いて候補になっていますから、
いかにいま期待されている作家かということかがわかりますし、
伊吹さんと米澤さんも、初めてエントリーされるからには、
かなり作品の出来がいいのだろうなと推測できます。


はっきりいって今回の予想は、かなり難しい・・・・・・。


長く選考委員を務められた実力者・渡辺淳一さんがお亡くなりになって
最初の選考会だというのも、予想を難しくさせている要因のひとつです。


選考委員会は、7月17日(木)午後5時から。

幸いまだ日にちがあります。

これから何回かにわたって、
各候補作を読み解きつつ、受賞作を予想してまいります。

お楽しみに!!

 

 

投稿者 yomehon : 13:54

2014年07月01日

「最後の12人」の物語

映画でも小説でもいいのですが、
誰にでも目にするたびに泣いてしまう作品があると思います。

たとえばぼくは細田守さんのアニメ作品が大好きなのですが、
彼の『サマーウォーズ』(2009年)なんかはまさに泣ける作品のド定番でしょう。


ご存じない方のために、ごくごく簡単にストーリーを紹介すると、
世界中の人々が日常的に利用するインターネット上のOZ(オズ)と呼ばれる
仮想空間があるのですが、これがハッキング機能を持つ人工知能に乗っ取られてしまいます。

行政手続きやら金融決済やら、あらゆることがOZ上で行われていますから、
現実社会は大混乱に陥ってしまう。

この人工知能に主人公たちが一致団結して戦いを挑みます。

ところが敵は仮想空間の中であまりに巨大化してしまっていて、
そんな強大な敵を前に、主人公たちはついに矢折れ刀尽きてしまう。

ところがその瞬間、それまで両者の戦いを傍観していた世界中のユーザーたちが、
ひとり、またひとりと、協力を申し出る感動的な場面があるんですね。


毎度このシーンにさしかかると、
我ながらいい歳をしてと恥ずかしくなるくらい涙が溢れてきます。


このように、誰にだって
「そこはダメ!」という涙のツボがあるかと思いますが、
ぼくの場合のそれは、どうやら
「窮地に追い込まれた人々が力をあわせて事態を打開する」という展開のよう。

なぜその手の展開に弱いのか考えてみると、
おそらくそんなふうに皆で力をあわせて困難と戦うなんてことが
現実世界ではほぼあり得ないからではないでしょうか。

つまりそんなことはファンタジーであり、奇跡であると知っているからこそ、
逆にそのような場面をみせられると、心が震えてしまうのだと思います。

清武英利さんの『しんがり』(講談社)を読んで胸が熱くなったのも、
ここに書かれている登場人物たちが現実にはいそうにない人々だったからではないでしょうか。

でもこのノンフィクションに登場する12人の人物は、
たしかに実在し、そして信じられないような困難な戦いを戦い抜いたのでした。

1997年11月24日、
日本を代表する証券会社のトップが、
カメラの放列の前で、マイクを握りしめ泣き叫びました。


「社員は悪くありませんから!悪いのはわれわれなんですから!!」


2600億円にものぼる債務隠しが発覚し、
大蔵省(当時)に引導を渡された山一證券が自主廃業を発表した瞬間でした。

日本の大企業のトップが嗚咽しながら謝罪するシーンは
世界に衝撃をもって受け止められ、ワシントンポスト紙は、

「Goodbye,Japan Inc.(さよなら日本株式会社)」

と題する社説を掲載したほど。

思えば、現在へと続く日本経済の凋落を世界に印象づける象徴的な記者会見でした。

創業から100年を超える企業が一夜明けたら潰れていた――。

山一證券の社員とその家族には、青天の霹靂だったことでしょう。


ある男性社員にとって、その日は娘の9度目の誕生日でした。
「お父さんの会社がね、無くなったんだよ」
母親の言葉は、内気な娘の心に突き刺さりました。


ある女性社員は、父親の会社もまた倒産の憂き目にあったことを思い出しました。
山一破たんのニュースをみながら父は、「もう普通の世の中ではなくなるんだ」とつぶやきました。


厳しい営業ノルマを課せられていた支店の女性社員たちは、
同僚のマンションに集まって「悪いことは何にもしていないのに」と火が付いたように泣きました。


けれどもどんなに瞼を腫らそうとも、次の日からは行動を起こさなければなりませんでした。

食べていくために、家族を守るために、再就職の口を確保しなければならなかったのです。


ところが、そんな中、沈みゆく船に残った者たちがいました。

1年半を要した会社の清算業務を担った社員たちです。

しかも彼らは、会社の中枢からは離れたところで仕事をしてきた非エリートばかりだったのです。

「しんがり」というのは、
戦に敗れた軍が敗走する際に、
軍の最後尾に踏みとどまって戦う兵士たちのこと。

山一證券における「しんがり」の役割は、
まずは24兆円にのぼる預かり資産を顧客に返還していく仕事がひとつ。
(当時、顧客相談室長の男性社員が何者かに刺殺されたり、
顧問弁護士の奥さんが顧客に殺害されたりするという悲惨な事件が起きました)

そしてもうひとつの重要な仕事が、
山一の息の根を絶つことになった2600億円の「簿外債務」の真相究明でした。


「しんがり」を率いたのは、嘉本隆正さんという常務。
常務といっても本流ではなく、当時社内で「場末」と呼ばれていたビルにあった
業務管理本部のトップとして赴任してきたところ、火中の栗を拾うことになってしまったのです。

ところが、この人物がたいへんな硬骨漢なのですね。

社内調査委員会を組織し、
かつて山一證券にドンとして君臨した人物からも厳しくヒアリングをし、
破たん原因を究明していきます。

「組長」と呼ばれた嘉本さんのもとにはひと癖もふた癖もある12人の部下たちが集結します。

そのプロセスは、英雄豪傑あいまみえる歴史小説のように面白い。

本書を読んでいる時、ぼくはしばしばこれがノンフィクションであることを忘れて、
手に汗握る物語を読んでいるような気になったものですが、
それは著者が登場人物の個人史を丁寧に取材していたからでしょう。

彼らの言葉ひとつひとつから体温が感じられ、
まるで物語の主人公に同化するかのように、
いつしか嘉本組の人々に深く共感している自分に気づかされるのです。


著者は本書のなかで、「会社を支える力とは何だろうか」と問いかけます。

山一證券という大企業が息絶えようとしているとき、
現場には、権力者であるとか、エリートと呼ばれる人間はほとんど残っていなかったそうです。

かつての戦争のときもエリートほど逃げ足が早かったそうですが、
山一でもそういう連中ほどさっさと再就職先をみつけて転職していったそうです。


著者はそんな中、踏みとどまって戦うことを選んだ12人に深い共感を寄せています。

「魂の報告書」と題された本書の第九章を読んで初めて知ったのですが、
嘉本組が調べ上げた山一證券が破たんに至るまでの詳細な経緯は、
「社内調査なんてどうぜ形だけのものになるだろう」というマスコミの思い込みを
粉々に打ち砕くものでした。

彼らの報告書の冒頭には次のような言葉が記されていました。

【今回の社内調査報告書が、従来、我が国で多く見られた結果の公表を伴わない調査、
あるいは、自ら行った事実認定を示さずに単に抽象的な「反省」の言葉を並べただけの
報告書であってはならないという決意の下で、目的を達成すべく調査してきた】

報告書では、債務隠ぺいに関与した首脳陣が実名で特定されていた他、
債務隠しの原因の解明、それまで知られていなかった海外の簿外債務、
監督官庁である大蔵省の関与や検査の甘さまで指摘されていました。

素人の社員たちが、
優秀なプロの記者の調査報道でもこうはいかないというくらい、
詳細かつ公正な報告書をまとめあげたのです。

企業が不祥事を起こすたびに、
第三者委員会などによる真相究明が試みられますが、
この山一證券の報告書ほどのクオリティのものはいまだかつてないという声も聞きます。


著者が取材をしながら何度も繰り返したのは、
「なぜ、あなたは貧乏くじと思われる仕事を引き受けたのですか」
という問いかけでした。

その答えは、ぜひ本書を読んで確かめてみてください。

最後に、著者が共感をもって記したこんな文章を引用して、結びに代えさせていただきます。

「ここに登場する『嘉本一家』の十二人はいずれも平凡なサラリーマンやOLである。
それまでは驚くようなことをしたわけではなく、何事もなければ他人に知られることはなかった
人々であろう。たまたま企業敗戦とう時に、しんがりを務めたために隠れた能力と
心の中の固い芯が表れた。
彼らの生き方はサラリーマンの人生の糸をよりあわせたものであって、
私たちと無縁なものではない。言葉を換えれば、
彼らの姿は苦しい時代を生きるあなたにもきっと重なっている」


投稿者 yomehon : 16:56