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2014年06月18日

野球小僧への挽歌


人の死の報せはいつも突然にやってきます。

親友が亡くなったのは
忘れもしない2005年の3月16日のことでした。

朝、生放送を終えて一息ついていると携帯が振動し、
ディスプレイをみると親友の奥さんの名前が表示されていました。

ある場所で親友が亡くなっているのが発見された、と彼女は云いました。

警察から連絡をもらい、すぐにぼくに電話をしたこと、
親友が亡くなっていた場所に心当たりがないことなどを淡々と伝える事務的な口調から、
かえって彼女が現実感を失っていることがうかがわれました。

それはぼくも同様で、頭の中は自分でも驚くくらい冷静なのに、
突然足元の床が消えてなくなり、宙ぶらりんになってしまったような非現実感にとらわれていました。


親友・・・・・・といっても、彼と過ごした時間はわずか5年間に過ぎません。

彼はぼくのような一般人の日常とは決して交わることのない世界の住人でしたが、
ある酒場で偶然出会い意気投合しました。

本や音楽や映画や夜の遊び場の趣味が双子のように一致していることがわかり、
三日に上げず会う仲になりました。

会えば朝方まで酒を浴びるように飲み、
いつも泥酔してしまった彼を家まで送り届けるハメになりました。
別れ際に彼はきまってぼくの肩をつかんで「互いに生き抜こう」と絞り出すような声で云い、
ふらつく足でマンションのエントランスをくぐっていく後姿をよくおぼえています。

彼は自分の中に、押さえつけようのない過剰なものを抱えていて、
アルコールを口にすると、それが表へと姿を現すようでした。

まるでなにかに復讐するかのように酒を飲むその姿からは、
世界とうまく折り合えていないことがうかがわれました。


彼自身の繊細な内面と、
彼を取り巻く世界とにはあまりにもギャップがあり、
そのことにいつも傷ついていたように思います。


ぼく自身は人づきあいにさほど関心がなく、
好きな本が読めて美味いものが食べられればそれで満足という人間ですが、
結果的に親友の人生と濃密に関わることになってしまいました。

正直いって、彼にはいろんな迷惑をかけられました。

でも不思議なことに悪い印象はまったくありません。

亡くなって10年近くがたついまでも、彼のことを懐かしく思い出します。

田崎健太さんの『球童 伊良部秀輝伝』(講談社)を読んだときにまず感じたのは、
亡き友にひさしぶりに再会したような懐かしさでした。


伊良部秀輝さんのことをおぼえているでしょうか。

1968年、沖縄に生まれ、香川県の尽誠学園で投手として甲子園に2回出場、
1988年ドラフト1位指名でロッテに入団し、最多勝1回、最優秀防御率2回、最多奪三振を2回受賞。

1997年には渡米しニューヨークヤンキースに入団。
翌98年にはワールドシリーズ制覇に貢献し、その後は複数球団を経た後、
2003年には日本球界に復帰し阪神タイガーズに入団したものの、翌04年に戦力外通告。
その後は日米の独立リーグなどを経て引退しました。

引退後の彼の様子をぼくたちが知ることになったのは、2011年7月のことでした。

彼はロサンゼルスの自宅で自ら命を絶ったのです。

享年42歳。


多くの野球ファンが記憶にとどめるかつての剛腕投手の、
それはあまりにも突然の死の報せでした――。


伊良部秀輝さんの人生を丹念に辿った『球童』は、
読む者の魂を震わせるスポーツノンフィクションの傑作です。


伊良部さんは、ベトナム戦争当時、軍に所属していたアメリカ人男性と
日本人女性とのあいだに生まれましたが、実父とはいろんな事情が重なった結果、
離れ離れに暮らすことになります。その後一家は兵庫県の尼崎に転居、
伊良部さんはここで「尼のごんた(乱暴者)」としてやんちゃな少年時代をおくります。

ある種の不良少年に典型的にみられるように、
伊良部さんも、角を突き合わせることでしか心を開けない種類の人間でした。

まず相手を睨みつけて因縁をつける。
相手がつかみかかってくれば応戦する。

伊良部さんもそうやってぶつかりあうことで、
自分と似たような「ごんた」たちと友情を結んでいきます。

著者は当時の同級生や指導者たちを丹念に取材して、
さまざまなエピソードを聞きだしていますが、
そこからみえてくる伊良部さんの人物像は、
後年メディアによってつくりあげられたトラブルメーカーという印象とはかけ離れたものです。


敵愾心も露わに記者を睨みつける。
あるいはふてくされた表情でマウンドを降りる。


「伊良部秀輝」といえば、
そんなヒール(悪役)としてのイメージがいつの間にか世間に定着しましたが、
この本で描かれる伊良部さんの素顔は、もっと多面的で、陰影に富んでいます。

複雑な生い立ちもあって、
彼はいろんな屈託を抱えて成長しました。

でもその一方で、子どものような無垢な部分も持ち合わせていて、
そんな一癖も二癖もあるキャラクターに、多くの人が振り回されながらも魅了されたようです。


野球関係者でいえば、本書には、
佐伯貴弘さんや前田幸長さん、牛島和彦さん、小宮山悟さん、
吉井理人さんや下柳剛さんといった人々が登場します。

彼らは皆一様に、伊良部さんのやんちゃぶりと、
野球に対する真摯な姿勢を証言していますが、
そんなふうに証言しているご本人たち自身が、
いずれも一癖も二癖もある魅力的な野球人であることが面白い。

一癖も二癖もあるからこそ、伊良部さんの周囲にはトラブルが絶えませんでした。

酒を飲めば、体の内に押さえつけていた獰猛さが姿を現し、警察沙汰になることもありましたし、
彼をめぐるトラブルでもっとも有名なものは、メジャーへの移籍をめぐってのそれではないでしょうか。


本書には伊良部さんと球団との移籍トラブルの内情が詳しく紹介されていますが、
このトラブルは後にポスティング制度ができるきっかけとなりました。

田中将大選手やダルビッシュ選手などがメジャー移籍できたのも、
伊良部さんが先駆者として火の粉をかぶったおかげなのだということがわかります。

これは本書全体を通して感じたことでもあるのですが、
伊良部さんはとても誤解されることの多い人物でした。

「誤解」がすなわち伊良部さんの人生を括るキーワードといってもいいくらいです。

著者は伊良部さんの長所のひとつに鋭い観察眼をあげています。

たとえば、メジャーリーグの打者は右打者ならば右腕、左打者なら左腕の力が強いことに気づく。
(だからバットが遅れて出ても、押し出す力で球を遠くまで運んでしまう)
あるいは日本の打者が球をバットの「点」で捉えるのに対し、メジャーは「線」で捉えることに気づく。
(だから打ち取ったと思った球もバットに当たれば安打になる)
そのために、コースを突いたり、緩急の差をつけてバットの軌道を完全に外すように工夫する。


でもその観察眼がプレーではなく周囲の人間に向けられると、たちまちそれは、
「あいつは俺の悪口を言って笑っているのではないか」といったような猜疑心へと変わるのでした。


過剰なまでに繊細な観察眼と、過剰なまでに粘着した猜疑心。

この極端なまでの二面性が、周囲に誤解を生んでしまう大きな要因だったのかもしれません。

おそらく親しい間柄にあったとしても、
伊良部さんはつきあうのがとても難しい人物だったのではないかと思います。

しかしそのような厄介さを超えてなお、
「伊良部秀輝」という人物が魅力的に感じられるのは、
野球小僧がそのまま大人になったような純粋さを失っていないからではないでしょうか。


ヤンキース時代のことです。
試合後にサウナに入っていると、アンディ・ペティット(96年には21勝をあげ最多勝を獲得)が
自分のフォームがしっくりこないと言い始めたことがあったそうです。

するとみなが意見を言いだし、中にはタオルを下半身に巻いたままシャドウピッチングを
やってみせる者もいたりして、そんなふうに大男たちが夢中になって野球の話をしている輪の中で、
伊良部さんはしみじみとここへ来てよかったと感じたといいます。


なんと幸福な光景だろうと思います。
いい大人になっても、子どもの頃と同じように大好きな野球について夢中で語り合えるなんて、
こんな幸せなことがあるでしょうか。


もちろん、野球に対する純粋な思いだけなら、一般の野球ファンだって持っています。

当たり前のことですが、
伊良部さんはそこに野球選手としてのずば抜けた実力が伴っているからこそスゴイのです。

本書の中で、ヤンキース時代の捕手ホルヘ・ポサダの証言が紹介されています。

「今まで球を受けた投手の中で誰のカーブが一番すごいか」と問われたポサダは、
迷わず「伊良部だ」と答え、こう言ったそうです。

「彼のカーブは最高だった。直球は95マイル、カーブは65マイル。
これだけ差があると打者は対応できない。カーブでストライクを取れるときは、絶対に打たれない」

「投手には必ず調子の波がある。クレメンス、ウェルズ、コーン、ペティット、
先発陣全員の中で、調子がいいときを比べれば、最も打てないのは伊良部だよ」


ぼくたち野球ファンの記憶にも、あの剛腕ぶりは焼き付いています。


ずば抜けた投手としての実力と、
過剰なまでに振れ幅の大きいキャラクター、
そして純粋無垢な野球小僧の素顔。

これらが同居しているからこそ、ぼくたちは伊良部秀輝という人物に魅了されるのでしょう。


本書は、伊良部さんの死後行われた実の父へのインタビューで締めくくられています。

この実父へのインタビューによって、
ぼくらはもうひとつの伊良部さんの実像を知ることになります。

この最終章を読み終えたとき、
ぼくは心からこの本に出会えてよかったと思いました。

投稿者 yomehon : 15:54

2014年06月17日

裸足のラグジュアリー

いま大手町界隈を歩いていると、
ひときわ目立つ真新しいビルの威容に目を奪われます。

「大手町タワー」と称されたそのビルの足元には、
都心のオフィス街にしては珍しい豊かな緑が配され、
黒っぽい外観と相まって、なかなかの存在感を放っています。

このビルが大手町の新たなランドマークとして注目を集めているのは、
その外観もさることながら、日本で初めて開業するあるホテルの存在があるからです。


そのホテルの名は「アマン東京」。

世界のリゾートに革命を起こしたアマンリゾーツのホテルです。

アマンがなぜそれほど注目を集めるのか。

それはアマンリゾーツが、
世界のリゾートのハイ・スタンダードを作り上げてきたからに他なりません。

1988年、タイのプーケットに一軒のリゾートホテルが開業しました。
サンスクリット語で「平和の場所」を意味する「アマンプリ」という名のそのホテルは、
それまでのリゾートホテルの常識を覆すコンセプトでつくられたホテルでした。

少数の客室はすべて戸建てのヴィラ。
しかも一般的な広告宣伝を一切行わず、
旅行会社との提携もないという手法をとっていました。

にもかかわらず、情報のアンテナ感度の高い、
ごくごく一部のセレブのあいだで、その存在は口コミで広まったといいます。


その翌年、こんどはインドネシアのバリ島に
「平和な精霊」を意味する「アマンダリ」という名のホテルが開業しました。

このふたつのホテルが、世界のリゾートに革命を起こしていくのです。

アマン革命の一例をあげましょう。

女性誌のリゾート特集などで
こんな写真を目にしたことはないでしょうか。

青い海をバックにしたプールの写真。
プールは、縁まで溢れんばかりの水で満たされていて、
その水は背景の海のほうへ流れ落ちているかのよう。

水面がそのまま、水とその上にひろがる空とを切り分ける
カッティング・エッジになったかのような美しいプールの写真を、
みなさんもどこかで目にしたことがあるのではないかと思います。
(みたことがないという方はこちらをご覧ください)


このプールは「インフィニティプール」といいます。

アマンダリが初めてインフィニティプールを打ち出したとき、
人々はそのあまりの美しさに息をのみました。
(山の中のウブドゥにあるアマンダリのインフィニティプールは、
海辺のそれとはまた違った雰囲気なのです)

以来、このプールは、世界のリゾートのスタンダードになります。
(最近では都会のど真ん中のホテルの屋上でもインフィニティプールがあるほど)


普段、なかなか旅行に行く機会がないので、
女性誌で旅行特集などをやっていると必ず手に取って
妄想旅行を楽しむのが常なのですが、
たとえば沖縄などのリゾートホテルの写真をみるたびに思うのは、
「アマンの影響は大きいなぁ」ということです。


「アマン以前/アマン以降」では、確実にリゾートのあり方は変わりました。
いまや世界中のリゾートが、アマンの影響下にあるといっていいでしょう。

「アマンなんて興味ないよ」という方もいるかもしれませんが、その考えは早計です。

なぜアマンが重要かといえば、
ひとつは、ぼくたちが「おしゃれなリゾート」と聞いた時に思い浮かべるイメージは、
アマンリゾーツにそのルーツがあるから。

そして、もうひとつは、アマンについて考えることが、
「おもてなし」という言葉に象徴される日本的なサービスの本質を見つめ直すことにつながるからです。

ホテルに関する著作を多く手掛ける山口由美さんの『アマン伝説』(文藝春秋)は、
この革命的なホテルの成り立ちをつぶさに調べ上げた労作。

メディア嫌いといわれる創業者のエイドリアン・ゼッカ氏へのインタビューなど、
貴重な情報が詰まった一冊です。


特に多くのページが割かれた「アマン前史」の部分は重要です。

たとえば、ジェフリー・バワという名前をご存知でしょうか。

アジアン・リゾートの歴史を語るうえで、バワは最重要人物です。


ジェフリー・バワ(1919-2003)は、
スリランカを代表する建築家で、生涯に手掛けた作品のほとんどがホテル建築でした。
しかもそれらは「モンスーンアジア」と呼ばれる熱帯に位置していたのです。

モンスーンアジアというのは、
スリランカ、南インド、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、
カンボジア、ベトナムといった南の国々のこと。


建築好きを自称する人でも、
フランク・ロイド・ライトやル・コルビジェ、磯崎新や安藤忠雄は知っていても、
ジェフリー・バワの名前を知る人は少ないかもしれません。

バワは、「インフィニティプール」のオリジナルを考案した人でもあります。
このことに象徴されるように、彼の作品は、その後の世界のリゾート建築に多大な影響を与えました。

バワに影響を受けた建築家たちを総称する言葉として、
「Beyond Bawa ビヨンド・バワ」という言葉もあるほどです。

本書にも何点かバワの手掛けたホテルの写真が載っていますが、
ぼくたちには見覚えのあるデザインがいくつもあります。
それだけバワのデザインは後進に模倣されているということでしょう。

アマンが世界のリゾートに与えた影響というのは、つまるところ何だったのでしょうか。

それは、リゾートにおける新しい「ライフスタイル」の提供であったといえます。

本書の中に、そのアマン的なライフスタイルをうまく表現した次のような関係者の言葉が出てきます。


「一言で言うならば、裸足のラグジュアリーです。裸足のままサロンを巻いて、
リラックスして、人生をエンジョイする」


素晴らしいデザインのホテルで、
自然の懐に抱かれながら、ただただ、ボーっと、何もしない贅沢な時間を過ごす。

誰もが憧れるこんな贅沢なリゾートライフの生みの親こそ、アマンリゾーツだったのです。

アマンが「アマンジャンキー」と呼ばれるほどの
熱狂的なリピーターを世界中に生み出すに至ったのは、
そのサービスにも理由があるでしょう。

いかなるゲストに対してもNoといわないOne to Oneのサービスは、
多くのユーザーのハートをつかみました。


本書でも紹介されている日本の『カシータ』というレストランは、
アマンジャンキーを自認するオーナーが、
アマンと同じような感動を与えたいとオープンさせたレストラン。

なかなかアマンには行く機会がなくても、
ここに行けば少なくともアマンっぽいサービスは体験することができます。

ではカシータのサービスとはいかなるものでしょうか。

たとえば夫婦の記念日に、あなたが奥さんとカシータを訪れるとしましょう。

テーブルに案内されて着席します。
すると、奥さんは、まずテーブルに置かれているナプキンに、
自分の名前が丁寧に刺繍されていることに気がつき、思わず微笑むことでしょう。

渡されたメニュー表も、
その日のふたりのためだけにあつらえられたもの。
メニュー選びからして会話が弾みます。

飲み物が運ばれてきて、
最初の一杯に頼んだシャンパンがグラスに注がれます。

スタッフが置いて行ったシャンパンのラベルをよくみてください。
ふたりのためにお店が特別につくったデザインのものに貼り替えられていて、
またもやあなたの奥さんのテンションは上がるのです——。

カシータのサービスを実況中継ふうに記述するとそんな感じでしょうか。

もちろんサービスのかたちは、お客の要望によって変わるので、
必ずしも上の通りではありませんが、
あなたが事前に希望を伝えておけば、お店は全力で応えようとするでしょう。
(ぼくが聞いた話では、季節外れなのに店内に雪を降らせて欲しいと頼んだ猛者もいるらしい)

ただ、このようなマニュアルと一線を画したサービスが、
アマンに端を発するものかといえばそうではありません。

アマンのホスピタリティが、
日本の旅館に似ているというのはよく言われるところです。

本書は、アマンにも影響を与えたと言われている
日本を代表する旅館、京都・俵屋の女将、佐藤年さんにもインタビューして、
興味深い証言を引き出しているのですが、それはぜひ本を手に取ってご覧ください。


この他、エイドリアン・ゼッカと三浦半島のある別荘の知られざる関係を発掘していたり、
日本での幻のアマン・プロジェクトの詳細が明らかにされていたり、
とにかく読みどころ満載の一冊です。


アマンというフィルターを通して、
世界のリゾート文化の変遷や
日本の「おもてなし」までをも射程におさめる本書は、
今後、サービスについて学ぼうとする人が
避けては通れない基本文献になるのではないでしょうか。


投稿者 yomehon : 15:00

2014年06月13日

サッカーを愉しむ本

いよいよ4年にいちどのサッカーのお祭りが開幕しました!

世界的なビッグイベントとあって本屋さんにも関連本がずらりと並んでいますが、
そんな中から今回はより深くサッカーを愉しむためにオススメの本をご紹介いたしましょう。


まずは「世界最高のサッカー選手論」の副題がついた
『英雄への挑戦状』へスス・スアレス 小宮良之(東邦出版)を。

スアレスは、超有名選手にも容赦なく厳しい質問をぶつけることで知られ、
インタビュー中に選手から、
「君の言いたいことはわかったよ。でも少しは譲歩したほうがいい」
と諭されたり、ひどいときには、
「お前とは二度と口を聞かない!」
と完全に怒らせてしまったりすることもある名物記者。

その一方で、かつてFCバルセロナを率いたグアルディオラのように、
「彼の言葉はいつだってオリジナルなんだ」と信頼を寄せる人間も数多くいます。

本書で俎上にのせられているのは、
メッシやネイマールをはじめ、クリスティアーノ・ロナウド、シウバ、ピルロ、
ロッベン、エジル、イブラヒモビッチなど錚々たるビッグネームたち。


スアレスの評価基準は実に明快です。
彼にとっての最高のプレーヤーとは、「フットボールを創り出す選手」のこと。

敵や味方がどこにいるかを俯瞰した視点から瞬時に把握し、
巧みに最適なスペースを見つけてボールを出して行く選手。
時間や空間を芸術家のように創造的に使える選手が、スアレスが評価する選手なのです。
(そう、スペインのパスサッカーの中心を担うイニエスタのように)


「フィジカルを生かして無理矢理ドリブルで持ち込もうとするプレーは愚策」と断言するだけに、
2013年にバロンドールを4年ぶりにメッシから奪還して、
世界最高のプレーヤーに返り咲いたクリスティアーノ・ロナウドにさえ、
「彼はフットボールを創る選手としては凡庸の域を出ない」
と手厳しい批判を浴びせます。

ただ、スアレスのフェアなところは、そのように批判しておきながら、
一方で、最近のC・ロナウドのプレーにみられる小さな変化も見逃さないところです。

エゴイスティックな部分は影を潜め、味方を助けるようなプレーがみられるなど、
「一流選手が持つある種の寛容性」を持つようになってきたとのこと。

生まれ育った貧しい家を訪ね、
その成育歴を丹念に追いかける取材を重ねているからこそ、
C・ロナウドの内面に生じてた小さな変化にさえも目配りがきくのでしょう。

「人間の成長のカーブというのは、人それぞれ大きく異なる。
彼の場合は、野望とエゴと感受性の強さが最初に突っ走り、年を重ねる中で共存を学んでいる」

こんなふうに選手の内面の成長にまで踏み込んだ批評が
人々に受け容れられているということ自体、
ヨーロッパのサッカー文化の懐の深さを感じてしまいますね。


さて、開幕戦で2得点をたたき出したネイマールは、本書でどんなふうに評されているでしょうか。

スピードとフェイント、想像力のみっつをあわせもち、
スペクタクルな「ジョゴ・ボニート」(美しいプレー)をみせる選手。

いびつな自尊心やエゴイズムとは無縁の「健やかなる自己主張」を感じさせる選手。

高い技術と素晴らしい人間性をあわせもった
メッシを超えるアタッカーへと成長する可能性を、スアレスは示唆しています。

読みながら「やはり!」と納得したのは、
ネイマールが幼少時にボールを手放さない子どもだったというエピソード。

ある日、父親が息子の部屋にあるボールの数を数えたところ、
サッカーボールだけじゃなくゴムまりのようなものも含めると、
全部で58個ものボールがあったということです。

子どもの頃のネイマールは、
ボールを蹴ったり、つついたり、触ることだけが楽しみで、
他のおもちゃはまったく必要なかったとか。

1日数時間、それが毎日、何年にもわたって続くわけですから、
自然と足技も磨かれるわけです。


もっともこのような「ボールはともだち」状態は、ブラジルではごく当たり前。

ネルソン松原さんをご存知でしょうか。

1951年に日系ブラジル人二世として生まれたネルソン松原さんは、
1973年、日本初のブラジル人サッカー留学生として来日。
いまではたくさんの人に親しまれているフットサルを日本に紹介したり、
ルールブックを翻訳するなどして、ブラジルサッカーの普及に努め、
川崎製鉄のサッカー部やヴィッセル神戸の監督などを歴任し、
日本代表選手やJリーガーなど数多くのプロ選手を育成した方です。


『生きるためのサッカー ブラジル、札幌、神戸 転がるボールを追いかけて』は、
そんなネルソン松原さんの自叙伝。

これが素晴らしい本なんです!!


「フィールドの上をボールが転がる。それを追いかけてゴールを目指す。
サッカーはとてもシンプルなゲームだ。
そのボールは何でできている?牛の革だ。
フィールドには何が生えている?緑の芝だ。
だからボールを転がせ。大地をゆく牛が、草を食べるように。
パスはフィールドを這わせろ。それが自然だ。サッカーとはそういうものなんだ――」


ブラジルにいた頃、サッカーはこんなふうに表現されていたそうです。

ここではもうサッカーはたんなるスポーツというよりも、
牛や緑の芝、それに大地のように、
自分たちの身の回りにある自然と密接に結びついた何かです。


「ぼくの行く先はボールが決める。
ボールが転がり着いたところが、ぼくの生きる場所なんだ」


ネルソン松原さんの半生からは、
サッカーと生きることがわかちがたく結びついた
「ある幸福な生き方」とでも言うべきものが見えてきます。

ちなみに版元のサウダージ・ブックスは、小豆島にある小さな個人出版社。
『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』という素晴らしい小説集も出しています。

サッカーが日常そのものであるブラジルのことをもっと知りたければ、
日経新聞の元サンパウロ特派員・和田昌親さんが書いた
『ブラジルの流儀』(中公新書)がいいでしょう。

「なぜ大量のサッカー人材が世界に毎年出てくるのか」
「なぜ美しく勝たないといけないのか」などといったサッカーに関する話題はもちろんのこと、
「なぜ女性はお尻にシリコンを入れるのか」といった下世話な話題まで、
政治経済から文化に至るまで、あらゆる分野が網羅されています。


ブラジルにはたくさんの日系人がいて、
彼らおかげで多くのブラジル人が日本に好印象を抱いています。

ある日系人が企てた日本政府への痛快な復讐劇を描く
垣根涼介さんの 『ワイルド・ソウル』では、
ブラジルに渡ってジャングルを開墾する日本人たちの信じ難い苦労が描かれます。

彼の地で日本代表チームに送られる熱い声援の背景には、
こういう先人たちの苦労があるのだということをぼくたちは忘れてはいけません。

日本推理作家協会賞と大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞の3冠に輝いた傑作ですので、
この機会にぜひお手にとってみてください。

投稿者 yomehon : 16:00