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2015年01月30日

毎日新聞科学環境部がすごい!!


朝の情報番組『グッモニ』を担当していることもあって、
ウイークデーは毎朝、一般紙とスポーツ紙全紙にくまなく目を通すのが日課になっています。

各紙読み比べると、当然のことながら、
同じニュースでも新聞社ごとに切り口が違ったり、
取材の深さに差があったりなのですが、
いつも安定してクオリティの高い記事を発信していて、
「すごいな~」と感心させられているのが、毎日新聞科学環境部の記事。

科学の分野でなにかニュースがあるときは、
真っ先に毎日新聞をチェックするほど信頼しています。

昨年、STAP細胞が世間を騒がせた際も、その報道は群を抜いていました。

STAP論文については、華々しい記者会見から2週間ほどで
ネット上でさまざまな不審な点が指摘されたのはみなさんご存知の通り。
ただ、はじめのほうこそネットが先行していたものの、
途中からは独自取材に基づいた毎日新聞の報道が完全に独走状態だったように思います。


STAP研究チーム当事者や理研関係者への尋常ではない食い込み方、
専門家並みの知識を背景にまとめられた冷静かつ的確な解説記事、
その一方で、記事の行間からたちあがってくる科学界はかくあるべしという熱い思い――。

ほんとうにあの一連の報道はすごかった。

そして、連日のように他紙に先駆けて新しい情報が掲載されていた紙面には、
いつも何人かの見慣れた記者たちの名前がありました。

『捏造の科学者 STAP細胞事件』(文藝春秋)は、
一連の報道の中心となって大活躍した毎日新聞科学環境部の須田桃子記者による書下ろし。


STAP細胞事件のほぼ全容を網羅したといっていいこの本は、
今後人々が事件を振り返る際に、
必ず参照しなければならない基本文献となったといえるでしょう。

STAP細胞というと、
「どうせ嘘っ八でしょ。なにをいまさら」と醒めた反応の人もいるかもしれません。
でもそういう人にこそ、この本は読んでいただきたい。

なんといっても世界の科学史に残る大スキャンダルですし、
それに加えて、須田さんの関係者への食い込み方が半端ないからです。

そもそも、STAP細胞の取材に関わるようになったきっかけも、
後にこの事件で命を絶つことになる笹井芳樹氏ご本人から
「須田さんの場合は『絶対』に来るべき」だとメールをもらったから。

本書には、笹井さんと交わしたメール々が多数引用されているんですが、
ここで描き出されている人間ドラマは、STAP細胞の存在が否定されたいま読んでも
十二分に読みごたえがあります。

それに、いまも事件は完全に終わったわけではありません。

須田さんは、理研の対応でいちばん問題だったのは、
検証実験はやったものの、数多指摘された論文の疑義を、長らく放置したことだ、と言います。

つまり、STAP細胞があるのかないのかということだけにフォーカスし、
(小保方さんが会見で「ありまぁーす」と言ってしまったせいもあるけれど)
肝心の論文そのものの検証をおざなりにしてしまった、ということです。

なぜ論文が大切なのか。
須田さんの次の指摘は、今回の事件の本質を正確に言い当てていると思います。

しかし、科学は長年、論文という形式で成果を発表し合い、検証し合うことで発展してきた。
本来、STAP論文こそ、STA細胞の唯一の存在根拠なのである。
研究機関自らが、社会の関心のみに配慮して論文自体の不正の調査を軽視し、
先送りにしたことは、科学の営みのあり方を否定する行為ともいえよう。
理研の対応は科学者コミュニテイを心底失望させ、結果的に問題の長期化も招いた。
何より理研は、「信頼」という研究機関にとって最も大切なものを、失ったのだ。(364ページ)

科学的な大発見があると舞い上がって報道しがちなメディアの世界にも、
須田さんのように、冷静沈着に事の本質を見極めようとしているジャーナリストも
いるのだということは、ぜひ覚えておいていただきたいです。


須田さんは上記の指摘に加えて、
今回の事件の問題点を、「シェーン事件」と対比しつつ検証することもしています。
この視点にも納得。

ヤン・ヘンドリック・シェーンの事件については、こちらのエントリーをぜひ。

さて、毎日新聞科学環境部の躍進は、STAP報道だけにとどまりません。

降圧剤「バルサルタン」をめぐって、
巨大製薬企業ノバルティスファーマが、
大学病院と癒着してデータ操作を行っていた事件。

この一大スキャンダルも毎日新聞科学環境部のスクープによって明らかになりました。


目の前に立ちはだかる「薬とカネ」という巨大で分厚い壁に対して、
ふたりの記者は文字通り地を這うような取材で、少しずつ穴を穿っていきます。

そのスリリングな取材の過程は、
『偽りの薬 バルサルタン臨床試験疑惑』河内敏康・八田浩輔(毎日新聞社)で読むことができます。

医学の世界では権威といわれる学術誌が、実際は広告誌と化している現状や、
治験をクリアした市販薬を使った臨床試験には、規制する法律がないという実態など、
本書にはいろいろな事実を教えてもらいました。

それにしても科学環境部には精鋭がそろっていますね。

大学で物理を学んだ須田記者は、第一線の科学者とも議論ができるほどだし、
河西記者は医療分野で調査報道の実績をお持ちだし、
八田記者に至っては、STAPとバルサルタン両方の取材を掛け持ちして
その両方で成果をあげるという離れ業をやってのけます。


最近はテレビのコメンテーターとしてもご活躍中ですが、
以前、科学環境部デスクをお務めだった元村有希子さんにお話を伺ったことがあります。。
(元村さんの本はこちらのエントリーをどうぞ)


印象的だったのは、元村さんが、
記者会見などでわからないことがあったら、
たとえ相手にシロート丸出しと思われようが、
気にせずにとことんわかるまで質問をするとおっしゃっていたこと。

そのお話にぼくは、
とても健全なアマチュア精神を感じたのでした。


考えてみれば、
STAP細胞事件とバルサルタン臨床試験事件、
どちらの報道にも、元村さんの発言と共通するする姿勢がみてとれます。


それは、「アマチュアである読者の視点を常に失わない」ということ。


これからも毎日新聞科学環境部の記事には注目です!


投稿者 yomehon : 11:00

2015年01月27日

キャンプインが待ち遠しい!


プロ野球ファンにとってシーズンオフの過ごし方はとても難しい。
もちろん選手はトレーニングなどやることがたくさんあるわけですが、
プレーを楽しむ側にとってみればこれほど退屈な時間もありません。

だから本を読みます。
野球について書かれた本をモーレツに読み込むのです。
球春到来の報せを待ちわびながら、ただひたすらにページをめくるのです。

今回はそんなシーズンオフ期の読書の中から、収穫をご紹介しましょう。


まずは『プロ野球、伝説の表と裏』長谷川晶一(主婦の友社)を。

サブタイトルに「語り継がれる勝負の裏に隠された真実の物語」とあるように、
プロ野球ファンにとってはすでにお馴染み、定番中の定番といっていい伝説が取り上げられます。

それは野茂英雄さんのフォークであり、福本豊さんの足であり、
伊藤智仁さんのスライダーであったりします。
このようなラインナップをみて「なにをいまさら」と感じる人もいるかもしれません。
「そんなの実際のプレーもこの目で見ているし、いろんなエピソードだって知ってるよ」と。

年季の入ったプロ野球ファンほどそうでしょう。
でもこの本はむしろそういう人にこそ読んでいただきたい。
知っているようで意外に知らなかった事実が、本書の中で数多く明らかにされているからです。


代表的なのが「一本足打法伝説」。

王貞治選手と荒川コーチとの運命的な出会い、畳の上での素振り、
真剣を用いたトレーニングなどなど、
これまで折に触れていろいろなところで語られてきたエピソードの数々は、
プロ野球ファンであれば知らぬ者はいないでしょう。

ところがそこに著者は、「光と影」という視点を持ち込みます。

一本足打法を自分のものにしようと挑んで叶わなかった男たちのドラマを描くことで、
一本足打法の本質をあぶり出そうと試みるのです。


「一本足フォロワー」の代表として真っ先に浮かぶのは、
なんといっても片平晋作さんでしょう。
南海ホークス、西武ライオンズ、大洋ホエールズと渡り歩き、
ひょろりとした長身で左打席に立ち続けた姿をおぼえているファンも多いでしょう。

王さんが真剣を手に一本足打法を鍛錬したように、
片平さんもまた遠征先のホテルの屋上にのぼり、鉄柵を乗り越えて、
屋上の縁に一本足で立ち続けるという命がけの練習をしました。

その結果、片平さんが発見した一本足打法の要諦は、「間」にあるといいます。

この「間」とは何か、詳しくはぜひ本で読んでいただきたいのですが、
一本足打法にこだわりつづけた代償は大きく、片平さんのひざはボロボロになり、
いまでは足をひきずりながらの歩行を強いられるほどなのだそう。

一本足打法というのは、それだけの代償を払ってもなお、
挑む価値のあるものだったということが、片平さんの話からひしひしと伝わってきます。


片平さんは膝を痛めても18年間にわたって選手生活をまっとうされましたが、
一本足打法によって選手生命が短くなってしまった人もいます。

先日、急性骨髄性白血病のために51歳で急逝された大豊泰昭さんがそうでした。

台湾から来日して苦労してプロ野球選手になった大豊さんもまた、
王貞治さんの背中を追い続けたひとりだったのです。

大豊さんは、プロ野球選手を長く続けようとしたら
一本足打法はやるべきではないと振り返ります。

でもそれでも後悔はないと言う。
大豊さんの言葉は、彼が亡くなってしまったいま読み返すと胸に迫るものがあります。


一本足打法を追い求めた選手たちはどんな壁に当たったのか。
また王貞治さんの目には、彼ら「一本足フォロワー」のスイングはどう映っていたのか。

定番だと思われた伝説が、斬新な視点から光を当てることで、また新しい姿をみせる。

他のスポーツ・ノンフィクションでもぜひ参考にしていただきたい手法です。

選手が書いた(というか語り下ろした)本にも面白いものがありました。


『どんな球を投げたら打たれないか』金子千尋(PHP新書)は、
昨年の沢村賞投手が語るピッチングの極意。

この本で全編にわたって語られるのは、「変化球とは何か」。

かつてホークスのエースだった斉藤和巳投手の高速フォークをみて、
フォークは大きく落ちなくてもいい、と気づいた金子さんは、
変化球について徹底的に考え直します。

その結果、「ある真理」に辿りついて、球界を代表するエースにまで登りつめました。
(これも詳しくは本をお読みください)


とにかく金子千尋とう人はピッチングの細部にいたるまで考察せずにはいられない人なのですが
驚いたのは、プレー中のボール交換についての考え方。

硬球は硬いボールとはいえ、それでもゲームが進むなかで少しずつ変形します。

普段、まっさらな新品のボールで練習しているものですから、
ピッチャーはボールが変形すると試合中に交換を要求しがち。

ところが、金子投手は、そのボールの形状の変化でさえもピッチングに利用するというのです。

自然に変形したボールですから、金子投手にもどう変化するかわかりません。
それでも打者からみれば、打ちづらいに決まっているんだから、と金子投手は意に介さない。

このように偶然の力でさえも、考えてピッチングに利用しようとするところはすごいと感心しました。


ともかく、金子投手の武器は徹底的に考え抜く力だということが、この本を読むとよくわかります。

金子投手によれば、どんな状況になっても力まないで投げる、投げ急がないために大切なのは、
「投げようと思わないで」投げることだと言う。

なんだか禅問答みたいですよね。
でも読めば納得の理由が書いてある。

やっぱり超一流の選手は凄い。
ここまで考え抜いているのかとため息がでます。


現在、巨人でプレーしている井端弘和選手も、とことんまで考える選手。

『守備の力』(光文社新書)では、身体的に恵まれたわけでもない井端選手が、
17年にわたってプロで生き残ることができた秘密が語られます。

井端選手は、「守備には練習の見返りが必ずある」と断言します。

いま井端選手は「年齢からくる”間”を詰める練習」に取り組んでいるのだとか。
年齢からくる”間”とは何かが、いまをときめくカープの菊池涼介選手を引き合いに語られる。
これも詳しくはぜひ本でお読みください。


面白いのは、金子投手も井端選手もともに自分のことを、
身体的にも才能の面でも決して恵まれた選手ではない、と認識していること。

それをカバーするためにどんな工夫や努力をしたかがどちらも読みどころです。

「思考はときに才能を超える」という金子投手の言葉は
あらゆるジャンルに通じるまさに金言ではないでしょうか。


ああ、それにしてもキャンプインが待ち遠しい。そわそわ・・・・・・。


投稿者 yomehon : 21:40

2015年01月24日

文学と「土地」の力  芥川賞『九年前の祈り』


小野正嗣さんが『九年前の祈り』(講談社)で芥川賞を受賞されました。
あらためておめでとうございます。

お目にかかったことはないのですが、
同い年で同郷ということもあって、なんとなく親しみをおぼえて
デビュー当時からずっと彼の作品は追いかけてきました。


印象的だったのは、記者会見で小野さんが、
土地の力に言及されていたこと。
小野さんはこんなことをおっしゃっています。

「小説は土地に根ざしたもので、そこに生きている人間が描かれると思うんです。
あらゆる場所が物語の力を秘めている。それを切り取って書くことが、普遍的な力を持つと。
世界の優れた文学は、個別の土地や人間を掘り下げて描くことで普遍的になっていると思います。」

小説の秘密に触れるとても重要な発言です。
自分にとって物語が湧き出てくる泉はどこにあるのか。
小野さんは率直に述べています。

と同時に、小野さんの言っていることはとてもよくわかる、と思いました。
彼の生まれた土地をぼくも知っているからかもしれません。


小野さんがここで話題に挙げている「土地」のことを、
批評の世界では、場所を意味するギリシア語で「トポス」と呼びます。
専門的な細かい定義は措いておいて、
とりあえず「意味が生成される場所」というくらいにとらえておいてください。

みなさんがよくご存知の作家も、
自分だけの特権的なトポスを持っています。

大江健三郎さんにとっては「四国の森」がそうだし、
故・中上健次さんにとっては「路地」がそうです。

いま合作の『キャプテンサンダーボルト』が話題になっている
伊坂幸太郎さんにとっては仙台がそうだし、
阿部和重さんにとっては、山形の神町がそれにあたるでしょう。


それぞれの作家の作品を思い浮かべれば、
トポスが作品にどのような影響をもたらしたかがイメージできるのではないかと思います。

では、小野さんの作品に、土地の力はどのように作用しているのでしょうか。


小野さんの出身地は、大分県南部にある蒲江(かまえ)というところ。
小野作品には「浦」という名称でしばしば登場しますね。
いまは佐伯市と合併しましたが、昔は南海部郡蒲江町といいました。
リアス式の海岸線に囲まれた小さな入り江の町で、真珠の養殖などで知られています。

同じ大分でも、ぼくは山のほうで、久住高原にほど近い山間の町で生まれました。

海と山、場所は違えど共通しているのは、まわりの住民が全部顔見知りだということでしょう。

お互いの家族構成はもとより、
誰それの奥さんがこれこれこういう理由で家を出て行ったとか、
あそこのお祖父さんは昔集落に用水路を引くのに尽力したとか、
各家庭の内情から一族の歴史に至るまでがみんなに共有されているのです。


ずいぶん前のことになりますが、ヨメを初めて実家に連れて行った時、
近所の畑で作業をしているおばちゃんやら道路の補修工事をしているおじちゃんやらが、
じぃーっとこちらを見るのを、ヨメが気味悪がったことがあります。

都会育ちのヨメからすれば無理もありません。

「見慣れない人が来た」というのは、彼らにとってはとても珍しいことで、
実は悪意などまったくなく、ただただ興味をもって見ているだけなんですけどね。

都会ではごく当たり前である匿名性がここでは成り立たないのです。


このように地縁・血縁関係が濃密にからみあって、ひとつの磁場を形成していること。

そこで暮らしてきた人々の記憶が、積もり積もって豊かな土壌をなしていること。

単なるいち行政区画であることを超えて、
その土地には、その土地固有の「土着的な力」としか言えないようなパワーが働いているのです。

ここで、人々をその土地に結び付ける役割を果たすのが、言葉=「方言」です。


時折、大分の方言について訊かれることがありますが、
みなさんいかにも九州男児の遣いそうな言葉という先入観をお持ちのようで、
「~たい」とか「~ばい」といった語尾をイメージしていることがほとんど。

ところが大分の方言はまったく違って、
語尾は「~やろ」とか「~やんか」、「~っちゃ」という感じ。

余談ですが、ぼくは関西へ行くと、わりと関西弁に感染しやすいです。
たぶん語尾がちょっと似ているからだと思いますが。


小野作品の中で登場人物が発する方言は、
漁師町ということもあるのでしょうが、大分弁のなかでもややワイルドなような気がします。


でもだからこそ、これらの言葉には、その土地の個性が強烈に刻印されている。
その独特の方言を聞くだけで、浦の風景をたちまち想起させられる。
方言にはそういうパワーがあります。

また方言と言うのは不思議なもので、生理的な部分に響いてきます。
理ではなく、情の部分に響く言葉が、人々の集合的無意識を結びつけているのです。

『九年前の祈り』のストーリーはシンプルです。

都会でカナダ人の男と暮らして、男の子を授かったものの、
捨てられて母子ともども故郷へと戻ってきたさなえ。

息子の希敏(けびん)は、
父親に似て美しい顔をしていますが、
発達障害を抱えているらしくコミュニケーションがとれません。

精神的に不安定で、気に入らないことがあると、
腕の中で「引きちぎられたミミズがのたくる」ように暴れる希敏。

物語は、知り合いのみっちゃん姉の息子が脳を患って入院しており、
見舞いの品として近くの島まで貝を拾いに行くことになったこと、
そしてそこに、かつてみっちゃん姉をはじめとする土地の女たちと
カナダへ旅行した回想などが挟まりつつ進行していきます。


この小説はとても豊かな言語空間を持っています。
まず、カナダ旅行で描かれる女たちのけたたましく方言が飛び交う場面が素晴らしい。

たとえば、町に留学生としてやって来たジャックがガイド役を務め、
レストランでケベックの郷土料理を女たちにふるまう場面をみてみましょう。


「ジャックさん、こりゃ何な?」とすみ姉がジャック・カロ―に尋ねた。山盛りのフライドポテトの上に
茶色いソースととろりと溶けたチーズがたっぷりかけられていた。「なんかーい、この泥水のような
もんは?」とふっちーが声を上げた。「泥水っちゅうか腹でも下したときの大便のようにあるな」と
みんなの気持ちを代弁してすみ姉がささやいた。「気持ちわりぃのぉ。こげなもんが食わるるん
かーい?」
(略)
「それにしたって見た目が悪いわ、この料理は」
「ほんとに食わるるんかーい?」
目の前に鎮座した気味の悪いソースがかかった食べ物そのものに尋ねるように、
ふっちーが言った。明らかにカロリー過剰なその料理はもちろん返事をしなかったが、
そこに注がれていた視線が瞬時に、ふっちーに向けられた。その視線に気づいたふっちーは、
そんな必要もないのに、みんなの期待を裏切れずに叫んだ。
「食われん、食われん!あたしゃ、こげなもんを食うたら、まーた肥えてしまう!」
驚いた鳥の群れが一斉に舞い上がるように笑い声が上がった。そこに屈託なく加わった
ジャックが実に見事な方言で言った。
「しゃーねー!しゃねーが!」


ちなみに最後の「しゃーねー」という方言は、「大丈夫」という意味。
(似た方言で「しゃーしー」というのもあるんですが、こちらは「うるさい」という意味になります)

おばさんたちが肥ったからだを揺すりながら笑っている。
にぎやかな食卓の描写です。

どうですか?
なんというか、とてもおおらかな光景だと感じませんか。

ちょっとおおげさに思われるかもしれませんが、
ぼくは神話の神々がにぎやかに酒盛りをしている光景を目にしているような気がしました。


さなえは、希敏と生きていくことに不安をおぼえています。
その不安との対比で、こういう場面が描かれているように思います。


あまりメタフォリカルに作品を読み解き過ぎるのもどうかと思いますが、
女たちの会話の場面で、「鳥の群れが一斉に飛び立つように」とあることに注意しましょう。
「引きちぎられたミミズ」のようになってしまう希敏との対比がここにはあります。


屈託なく楽しそうにさえずる鳥と、身を引きちぎられたようにのたうつミミズ。
自由に空を舞うものと、地を這うもの。
空と地の対比。

さなえはこの先もずっと、
地を這うように暮らしていかなければならないのかと不安をおぼえ
空を見上げているとも言えるわけです。

そして彼女たちとの旅行を思い出す過程で、
さなえは少しずつ恢復への階段を上がり始めている。
まだ本人は気がついていないけれど、「土地の力」がゆっくりと作用し始めているのです。


物語の白眉は、
貝を拾うために渡った島で、さなえが希敏を置き去りにする場面でしょう。

ちょっとここは幻想的な描写になるんですが(この手の描写は小野作品の特長でもあります)、
追い詰められた人間が魔が差したかのような行動に出てしまう瞬間や、
息子を捨てたことで思いもよらず解放感を感じてしまうところなどが巧みに描かれます。
それから、さなえの内面に訪れるある決定的な変化も。


古いお寺などで「胎内めぐり」ができるところがありますよね。
真っ暗な通路を進んで、地上に出ることで、
もういちど生まれる瞬間を体験するという。

さなえにとっては、島を訪れた時間がこの「胎内めぐり」のようなものでした。

ずっと悲しみが感情のベースにあったさなえが、
悲しみから切り離され、それを客観的に見ることができるようになる。
そこを描いたラスト1ページの描写は特に素晴らしい。

人間は劇的に変わることもあるけれど、
そうではなくて、ゆっくりと静かに生まれ変わることもあるのです。

そうしたさなえの内面を変化が、静謐に描かれていて胸を打たれました。

小野さんはこれからどんな作品を描いていくのでしょうか。


いまから十年以上も前のことになりますが、
スタジオ・ジブリの鈴木敏夫さんにインタビューをしたことがあります。

その時もっとも印象に残ったのは、
宮崎駿監督はじめ、ジブリのみなさんは、
「半径3メートルのことをとても大切にしている」というお話でした。

半径3メートル。
つまりは日常生活です。

作品のテーマもすべてそこから見つけるのだと。

そして、半径3メートルでみつけたものだからこそ、世界中の人の心にも響くのだと。


小野さんが記者会見で「土地の力」に触れたのを目にした時、
ぼくが思い出したのは、この鈴木敏夫さんの言葉でした。

真にローカルなものだけが、グローバルたりうるのです。

小野さんには、これからもずっと、
あの海辺の小さな町の物語を書いていただきたい。

あの近代化や都市化からは取り残されたような小さな、けれど美しい町から、
いつの日か、世界文学が生まれることを願ってやみません。


投稿者 yomehon : 08:17

2015年01月16日

第152回直木賞は『サラバ!』に決定!


直木賞は『サラバ!』(小学館)でしたね。
西加奈子さんの記者会見での表情がとても印象的でした。
見ているこちらまで幸せになるような。
いやーおめでとうございます!!

それにしても今回はなによりも書店のみなさんのプッシュが凄かったですし、
本好きの知り合いの感想や日頃チェックしている書評家の方々の発言などでも
『サラバ!』は大絶賛でした。

ちょっと天邪鬼な思いもあって、『あなたの本当の人生は』を推しましたが
(あ、もちろんこの作品が受賞作でもおかしくなかったと今でも思っています)
作家生活十周年という節目での西さんの受賞は順当ではないでしょうか。


というわけで、あらためて『サラバ!』のご紹介です!

基本的なストーリーなどについては前に書いたので、今回はちょっと違う角度から。

きのうの記者会見で面白いなぁと思ったのは、
「村上春樹さんと似ているという声もあるがどう思うか」という質問があったことです。

西さんはちょっと戸惑いつつ、
そう言ってもらえるのはとても嬉しいと笑顔を弾けさせていました。


質問をした記者がはたしてどんなところに
村上作品との類似点を見出したかはわかりませんが、、
「あながち的外れではないかも」と感じたのは、
この『サラバ!』が、ジョン・アーヴィングに大きな影響を受けているからです。

村上春樹さんもこれまでエッセイなどでたびたびアーヴィング愛を語っています。


かつてポストモダン文学というジャンルが一世を風靡したことがありました。

小説はもとより、映画や音楽などの他ジャンルからのおびただしい引用をもとに物語を書いたり、
起承転結のようなわかりやすい展開を破壊してストーリーらしきストーリーがなかったり、
伝統的な物語とは一線を画したポップな小説(よくいえば。悪く言えばわけのわからない小説)が、
猛威をふるったことがあったのです。

ジョン・アーヴィングは、そんな風潮に異を唱えた作家でした。

ポストモダン文学をけちょんけちょんにけなす一方で、
アーヴィングが高く評価したのは、たとえばチャールズ・ディケンズでした。

ディケンズといえば、19世紀文学を代表する作家です。
バルザックなんかもそうですよね。

この時代に書かれた小説は、
ストーリーは波瀾万丈、喜怒哀楽が全部詰まった人間ドラマが特色で、
長い長い大河小説だけど、いったん読み始めたら面白くてやめられない、
そんな物語がほとんど。

アーヴィングは、ポストモダンブームに抗して、
19世紀に書かれたこのような小説を、
ふたたび現代に甦らせようとした作家です。

「物語の力」を強く信じる作家といえばいいでしょうか。

物語の力を信じる点において、
アーヴィングと村上さんは同志のような間柄です。

そして西加奈子さんもまた、
アーヴィングの志を受け継ぐ作家なのです。


『サラバ!』は、
ジョン・アーヴィングの名作『ホテル・ニューハンプシャー』にインスパイアされた作品です。

『ホテル・ニューハンプシャー』は、ベリー家というある家族のお話。
ともかくあらゆる不幸な出来事がこの家族を襲うのですが、
読んでいてもまったく暗い気分にならない。
むしろ読み終えた時には、前向きな生きるエネルギーをもらえているという稀有な物語です。
『サラバ!』と読後感がとても似ている。

『サラバ!』には、この作品が、ある人物との友情を象徴するアイテムとして出てきます。

ちょっと脱線しますが、『サラバ!』では、他の小説作品や映画、音楽などが
物語の中で実に効果的な使われ方をしています。
(たとえば、大学生になった主人公が壁の薄いオンボロなアパートに住んでいて、
連れ込んだ女の子とコトに及ぶときにかける曲がCurtis Mayfieldの「Move On Up」だったりとか。
せわしなく腰を動かすのにピッタリな曲調で思わず笑ってしまいました)


といっても、『ホテル・ニューハンプシャー』は、
単なるアイテムとして登場するだけではなくて、
より本質的な部分も『サラバ!』と共有しているように思えるのです。

それを言葉にするなら、
「人生ではどんなことでも起こりうる。でも人はどんなことも乗り越えていける」
というような感じになるでしょうか。
人生にたいする構えのようなもの、とでもいうか。


そういえば、アーヴィングつながりで19世紀文学のことを考えていて気がついたんですが、
『サラバ!』のあの長さは、ディケンズやバルザックの時代にはむしろ当たり前なんですよね。

上巻では登場人物にまつわるいろんな情報を把握するのにちょっと辛抱が必要なのに対して、
下巻ではすべての糸がつながってクライマックスに向かって一挙になだれ込んでいく。
あの流れはまさに19世紀文学を彷彿とさせます。

もちろん西さんがそんなことまで意識してお書きになったかどうかはわかりませんが、
物語の巨匠たちが活躍した時代との思わぬつながりに気がついた時に、
西加奈子という作家は、もしかすると文学の王道を歩いていく作家なのかもしれないと思いました。

最後に、記者会見でもうひとつ印象に残ったのが、
西さんが自分を支えてくれた編集者への感謝に、
心からの言葉を尽くしていたこと。


伝え聞いたところでは、
『サラバ!』を担当されたのは、
『世界の中心で愛を叫ぶ』『のぼうの城』なども担当された方とのこと。

実は以前、お目にかかったこともあるのですが、
文学への情熱を持った素晴らしい編集者です。

傑作は作者ひとりの力だけで生み出せるものではありません。

記者会見でも、西さんの言葉からいちばん強い思い入れが感じられたのが、
この編集者への感謝の言葉を述べているときで、
ぼくも聞いていて、思わずウルッときてしまいました。

二人三脚で素晴らしい作品を世に送り出されましたね。

おふたりに心からお祝いを申し上げます。
本当におめでとうございます。


投稿者 yomehon : 13:23

2015年01月15日

第152回 直木賞直前予想!


今朝の『福井謙二グッモニ』のなかでもお話させていただきましたが、
今回の直木賞予想は、


大島真寿美さんの『あなたの本当の人生は』(文藝春秋)


を本命といたします。


西加奈子さんの『サラバ!』(小学館)が受賞するとの声しきりなものですから、
番組では勝手に『サラバ!』を巨人軍に見立て、
時代小説の候補作を阪神だとするならば・・・などと言いつつ、
『あなたの本当の人生は』はカープ的な立ち位置にある、わけのわからない説明をしてしまいました。
(西さん大阪だしむしろ阪神かもしれないのにすみません・・・・・・)

下馬評ではそれぐらいの期待度かもしれないけれど、
実は秘めたる能力はそんなものじゃないんだぜ!ということが言いたかったんですけど・・・・・・。

でもまあ、リスナーのみなさんにはきっと、
お伝えしたかったニュアンスは汲み取っていただけたのではないかと思います。

ともかく、いちばん心に響いた作品を推しました!


ところで番組では、芥川賞についてもちらりと触れたのですが、
こちらは小野正嗣さんの『九年前の祈り』(講談社)に注目しています。

リアリズムの中に、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような
マジック・リアリズム的な要素が入り込んでくるのが小野さんの作風。

また出身地・大分の町を舞台にするなど「場所」にこだわることでも知られています。


同郷で同い年ということもあって、小野さんはデビュー当時からずっと追いかけている作家。

今回の作品は従来の小野作品の延長線上にある作品で、
傑作というよりは佳作というべき出来ですけど、
そろそろ受賞するタイミングではないかと思います。

ちなみに小野さんの出身校は佐伯鶴城高校。
ここは広島カープの前監督・野村謙二郎さんの母校でもあります。

フタを開けてみたら、
芥川賞も直木賞も、実はカープが裏テーマだったなんてことになるかも・・・・・・???

投稿者 yomehon : 11:58

2015年01月13日

直木賞候補作を読む(5) 『悟浄出立』

「近代日本文学史のなかで天才だと思う作家をひとりだけ挙げよ」
と問われたら、どんな作家の名前が挙がるでしょうか。
たぶん人それぞれ、答えは異なることでしょう。

では、「3人挙げよ」と言われたら?
まず間違いなくこの人の名前は入るのではないでしょうか。

誰あろう、
中国古典と近代文学を融合させた天才・中島敦です。


万城目学さんの『悟浄出立』(新潮社)を読んだときに思ったのは、
「ああ、万城目さんは中島敦がやりたかったのだなぁ」ということでした。

万城目作品いえば、鹿やひょうたんがしゃべったり、大阪国が日本から独立したり、
山田風太郎の系譜に連なるかのごとく奇想天外な作風でお馴染みの作家。

そんな万城目さんが、中島敦の衣鉢を継ごうというのです。
さて、どんな作品を書いたのでしょうか。


『悟浄出立』は、5つの短編からなっています。
どの話も独立していますが、全体を貫く共通コンセプトはあります。


まず、中国の故事に材をとり、それを語り直すということ。
そして、いずれも脇役にスポットを当てるということ。


表題作の『悟浄出立』をみてみましょう。
タイトルから想像がつくとおり、この作品の主人公は沙悟浄です。

沙悟浄といえば、中国古典を代表するトリック・スターである孫悟空は言うに及ばず、
デブキャラで愛される猪八戒と比べても、なんとも影の薄い存在。

いつも真っ先に妖怪につかまってしまうのがお約束で、
物語の中では傍観者的な地位に甘んじているキャラクターです。

『悟浄出立』は、そんな沙悟浄が、
猪八戒とのあるやりとりをきっかけに、
傍観者であることをやめ、
自分を変えるための小さな一歩を踏み出すというストーリー。

「まず一歩踏み出してごらん。きっと景色が変わるよ」
そんなふうに迷いや悩みを抱えた読者の背中をそっと押してくれるような作品です。


この作品を読んでぼくが思い出したのが、
中島敦の『悟浄出世』と『悟浄歎異』でした。
『山月記・李陵』所収)


『悟浄出世』では、三蔵法師と出会うまでの沙悟浄が描かれます。
彼はある病気にかかっています。「我とはなにか」という哲学的な問いに取り憑かれているのです。
沙悟浄はその答えを求めて、流沙河の底をさ迷い、
賢人たち(といっても妖怪ですが)のあいだを訪ね歩くのです。

一方の『悟浄歎異』では、沙悟浄の手記のかたちをとって、
三蔵法師や孫悟空、猪八戒らに対する沙悟浄の観察が記されます。

見る前に飛ぶタイプである孫悟空の圧倒的な行動力を前に、沙悟浄は自らにこう問いかける。

「俺みたいな者は、いつどの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、
観測者にとどまるのだろうか。決して行動者にはなれないのだろうか?」

でもこんなふうに本人は悩んではいるけれど、
この2編で描かれる沙悟浄は、とても魅力的です。

それはおそらく、懊悩の極みにあっても、
沙悟浄がその問いから目をそらさないからではないでしょうか。

そして、ゆっくりと少しずつではあるけれど、前に進んでいるからではないでしょうか。

ぼくらは孫悟空のような凄い存在にはなれないかもしれないけれど、
沙悟浄のようになら生きることができるかもしれない。

ぼくはこの作品から、中島敦のそんなメッセージを感じるのです。


『悟浄出立』におさめられた作品がどういう順番で書かれたかは存じ上げませんが、
万城目さんはきっと中島敦のこの作品に触発されて、
この本を書いたのではないかと勝手に想像しています。
沙悟浄に注がれる作者のまなざしがとても似ているからです。

中島敦は、「わが西遊記」というタイトルで、
沙悟浄を主人公にした小説を書こうとしていたのではないかと言われています。
残念なことに、33歳で夭折したことから未完となってしまうのですが、
万城目さんなら名作の続きを書き継げるのではないかと夢想してしまいました。
あ、急いで付け加えておきますが、もちろん書き継ぐといっても、万城目さんですから、
いま風にポップにトリビュートするイメージですけどね。
中島敦のような天才作家と肩を並べられる人なんてそもそもいないですし。

さて、本書におさめられたこの他の作品でも、脇役にスポットが当てられています。

『三国志』に材をとった『趙雲西航』では、マニアックにも趙雲が取り上げられ、
「四面楚歌」の故事をもとにした『虞姫寂静』では、項羽ではなく虞姫が取り上げられます。
映画やドラマにもなった始皇帝暗殺未遂事件をベースにした『法家孤憤』では、
有名な刺客・荊軻ではなく、彼と一瞬人生が交わった京科なる小役人の内奥が描かれ、
あるいは『父司馬遷』では、偉大なる司馬遷の姿が、その娘を通じて描かれる。


万城目さんがとても楽しそうに書いているのがわかります。
だから読んでいるとこちらの気持ちまで明るくなる。
しみじみいい短編集だと思います。


世界では日々いろんな出来事が起きていて、
その出来事の連なりがやがて歴史と呼ばれるようになるわけですが、
そのほとんどに関して、ぼくらは傍観者、脇役に過ぎません。

でもその一方で、
ぼくらはそれぞれが自分の人生の主人公でもあります。

当たり前のことだけれど、忘れがちなこと。
そんな大切なことをあらためて教えてくれる一冊です。

さて、5回にわたって候補作をみてまいりました。
第152回直木賞の受賞作はどの作品でしょうか。

最終的な予想は、
1月15日(木)の『福井謙二グッモニ』にて行います。

ぜひお聴きください!

投稿者 yomehon : 13:29

2015年01月12日

直木賞候補作を読む(4) 『サラバ!』


もしも太宰治が現代に生きていたら。
しかも若者としていまを生きていたら。
きっとこういう小説を書いたのではないか。

西加奈子さんの『サラバ!』(小学館)を読みながらふとそんなことを思いました。


この作品はとにかく書店員からの支持が凄くて、
はやくも2015年本屋大賞の本命との声もあがるほど。

あの人気作家・西加奈子さんの作家生活10周年の記念作品という触れ込みだし、
分厚い上下巻だし、装丁もインパクト十分だし、
たしかに書店に並んだ当初からこの本は目立っていました。

しかしこの本が書店のみなさんに熱く支持される理由は、
それだけではないと思うのです。

この本が愛される理由、
それはこの小説が「自意識」の問題を扱っているからに他なりません。

物語は、
「僕はこの世界に、左足から登場した」
という印象に残る一文から始まります。
(この書き出しは素晴らしい!)

時は1977年5月、イランの首都テヘランで生まれた男の子は、
「歩(あゆむ)」と名付けられます。

姓は「圷(あくつ)」。
圷歩(あくつ・あゆむ)というユニークな名前の男の子には、
4歳上の貴子という姉がいました。
そして背が高く物静かな父親と、お姫様気質で気の強い母親も。

石油会社に勤める父の都合で、
圷家はイランからいったん実家のある大阪へと戻った後、
その後ふたたびエジプト・カイロへと赴きます。

そこで家族にある決定的な出来事が起こり、
圷家は解体へと向かうのです。


事情を語らない父、不安定な母、社会と馴染めず問題行動ばかりの姉。
歩は家族に振り回されながらも、高校、大学を出て、ひとりで生き始めます。

ところが、30歳を超えて、歩の人生が突如転落の一途を辿り始めるのです。

仕事の依頼は絶えてひさしく、交友関係も絶って
ひきこもり同然の生活に埋没する歩。

先行きの見えない日々を送りながら、歩はようやく家族や自分と向き合うことになります。

そしてある出来事をきっかけに歩は動き始めます。
なにかに衝き動かされるように彼が向かった先は、
自らの人生に決定的な影響をもたらしたエジプトでした……。

この小説では歩が誕生してから37歳までの半生が描かれます。

読者はただちにそれが、歩と同じく1977年にテヘランで生まれ、
その後、大阪やエジプトで育ったという、
著者自身のプロフィールと重なっていることに気がつくでしょう。
もちろん私小説ではないので、体験がそのまま書かれているわけではないでしょうが、
それでもカイロの街頭の空気感などはさすが濃密に描かれています。


それと同時に、イラン革命に始まり、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、
9・11同時多発テロや「アラブの春」、東日本大震災といった
20世紀の終盤から21世紀初頭にかけて、この国と世界を揺るがした大きな事件も
物語に色濃く影を落としていることにも気がつくでしょう。

まさに作者と世界のこの30年余りの時間がギュッと凝縮されたような物語です。

ところで、生きていくとき、人はどこかで世界と折り合いをつけなければなりません。

小さな子どもにとって、世界とはすなわち家族です。
家族というミクロコスモスとどう関係を結ぶかが子どもにとっての一大事ですが、
バラバラの家族を前にして、歩は常に受け身でやり過ごす術しか知りませんでした。

人はなぜ世界とうまく関係を結べないのか。
それは自意識が邪魔をするからです。


太宰治は生涯、自意識に囚われつづけました。
たとえば太宰は『人間失格』中で、自らの生家が大きすぎて恥ずかしいといったことを述べています。
太宰が死ぬまで持ち続けていたのは、この生きているのは恥ずかしい、という自意識でした。

他者と関係を結ぼうとするとこの自意識が邪魔をする。
だからたとえば『津軽』で、故郷を旅して友人たちと会っても、酒ばかり呑んでいる。
呑まないとやっていけないからです。


そんなの自意識過剰だよと切って捨てるのはたやすい。
というか、そうやって自意識の問題をスルーして
やすやすと世界と折り合いをつけることのできる人間は幸せです。
(少しいじわるに言えば、おめでたい)

周囲の人間となんだかうまく馴染めないとか、
教室や職場で無理して笑顔をつくっているとか、
自分を取り巻く世界とうまく関係を結べずにいいるという人は存外多い。

だからこそ、いまも太宰の作品に多くの人が惹かれるのではないでしょうか。


西加奈子さんのこの作品も、
そういった「自意識の文学」の系統にあるといえるでしょう。

この小説を熱烈に推している書店員たちは、
この作品のどこかに太宰的な中毒性を見出しているのかもしれません。

さて、この長い長い物語は、圷歩という人物が
いかに世界と関係を結び直すか、そのプロセスを描いています。

歩がもういちど生まれる(といっていいでしょう)場面はとても美しく感動的です。
「サラバ!」というタイトルがここへ来て見事な着地を決め、読んでいてカタルシスもある。

さすが熱狂的に読者が支持する作品だけあるなぁと納得します。


ただ、問題がないわけではありません。

それはこの作品の「長さ」です。
(特に圷家がエジプトに行くまで)


生まれてから成人するまでに歩の身に起きた出来事のあれこれが、
「一人称」で、これでもかというくらい細かく書き込まれる。
その細かさたるや、草間弥生が描きこむドット・アートのよう。


昔むかし、まだ携帯電話もないころ、
女ともだちから深夜に悩みの電話をもらい、
延々朝まで8時間もつきあわされたことがあります。

彼女の悩みはひとことでいえば、
「優等生の人生を送ってきた自分がイヤ」という一言に集約されるのですが、
そこに至るまでに生い立ちから話を始め、親や先生、友人との関係などが細々語られました。

あるいはこれまた昔むかし、
ある飲食店の女将から夫婦関係の相談を受けた時も、
店に留め置かれたまま、延々と空が白み始めるまで女将の一人語りを聞かされました。
やっぱりそれも、「旦那が家に帰ってこなくなった」とまとめることができる話を、
女将は旦那以外の男性との恋愛経験も含め、延々と語り続けたのです。


熱烈なファンのみなさんには大変申し訳ないのですが、
この小説の前半部分を読んでいるとき、
ぼくはその時にも似た忍耐を必要としなければなりませんでした。


もっとも本屋さんの店頭に掲げられたPOPなどのコピーをみると、
「一気読みしてしまった」とか
「時のたつのを忘れて読みふけった」という感想もあるので、
これは人によるのかもしれませんが。


ぼくがこの小説の前半部分を読むのに忍耐を要してしまったのは、
「一人称」で物語が綴られているから。

これも物語の終盤である仕掛けが明らかにされ、
なぜ一人称で語られていたのか、その理由が明らかになる段になってようやく、
「そうだったのか、なるほどー!!」と納得することにはなるのですが。

とはいえ、全編一人称で通すというのは、かなりリスキーな試みです。

作者は素晴らしい一人称での書き出しの一文に引っ張られてそうしたのかもしれませんし、
歩が自意識の檻に閉じこもっていたことにやがて気づくという流れである以上、
歩以外の人物の視点が入らない一人称を選ぶのは、間違いではないのかもしれません。


でもぼくはやはり延々と続く一人語りを追うのに徒労感をおぼえてしまった。
そこは正直に告白しておきたいと思います。


これはすでにこの小説を読んだという方にしかわからないかもしれませんけど、
全編一人称で語り通すのが、物語の仕掛けからいって「あり」だとしても、
もう少し読みやすくする工夫はあってもよかったんじゃないかと思うんです。

作者は一人称で書かれた理由を、
この物語全体の種明かしにうまく利用しているのですが、
とはいえ、別の視点人物を時折挿入するなどの工夫はできたんじゃないか。


ともあれ、この「一人称で続く長い一人語り」を選考委員がどう評価するか。
それがこの作品の分かれ道になるような気がします。


投稿者 yomehon : 11:52

2015年01月10日

直木賞候補作を読む(3) 『宇喜多の捨て嫁』


「梟雄(きょうゆう」という言葉をご存知でしょうか。

「残忍で強い人物」という意味で、
戦国時代のような乱世に力をふるった武将などに冠されることの多い言葉です。

なぜ「梟(ふくろう)」の文字が使われているかといえば、
中国では昔からふくろうは雛が親鳥を食べて育つと考えられていたためで、
このことから、主君や肉親を犠牲にして成り上がる下剋上のイメージとともに
「梟雄」という言葉が生まれたようです。


ゆえに戦国の世というのは、
大小さまざまな梟雄が跋扈した時代でもあったわけですが、
その中でも代表格と呼べるのは、なんといっても宇喜多直家でしょう。


木下昌輝さんの『宇喜多の捨て嫁』(文藝春秋)は、
そんな宇喜多直家の人間像を描かんと挑んだ野心作。


備前の国を本拠とした宇喜多直家は、
戦国時代屈指の謀略家として知られています。

いずれ刃向う可能性ありとみた武将に自らの娘を嫁がせ、
縁戚関係を結んでおきながら、頃合いをみて相手を仕物(暗殺)したり、
肉親同士に干戈を交えさせたりする。

まあ要するに、最低な人物としてその名が伝えられているわけです。


宇喜多直家の家族がどんな運命を辿ったかを知れば、
この人物のおおよそのイメージがつかめるかもしれません。

たとえば、直家の妻・冨は、
夫が父・中山信正を仕物したことを知り自害しました。

直家と冨のあいだには、四人の娘がいたのですが、
長女・初の嫁ぎ先である松田家を、
次女・楓の嫁ぎ先である伊賀家に滅ぼさせ、
初は自害し、楓は精神を狂わせてしまいます。
また詳しくは明かせませんが、
三女・小梅と四女の於葉にもそれぞれ過酷な運命が待っている。

つまり、直家と関わった人間はみんな不幸になっていくのですね。


呪われた宇喜多家の負のオーラを一身に背負ったかのように、
直家自身も「尻はす」と呼ばれる病を患っています。

体に刻まれた刀傷などが腐って腫れ物に転じ、
そこから血と膿が大量に滲み出るという病です。

人倫にもとる直家の所業を思えば、
血膿にまみれ、腐臭を撒き散らす様は、まさに業病というに相応しい。

そんな生きながらにして鬼になったかのようなダーク・ヒーローを、
この作品ではいかに描いているのでしょうか。

本書は六つの短編がおさめられた連作短編集の体裁をとっています。

この本を読む際にお気をつけいただきたい点がひとつ。

この小説はぜひ頭からお読みいただきたい。


謀略のための「捨て嫁」と陰口を叩かれながら嫁ぐ四女・於葉を描いた表題作から、
直家と母が巻き込まれる過酷な運命を描いた「無想の抜刀術」、
直家と冨の新婚時代、そして義父との関係を描いた「貝あわせ」、
主君の浦上宗影の歪んだ心に映る直家が描かれる「ぐひんの鼻」、
三女・小梅とその夫の哀しい人生が描かれる「松之丞の一太刀」、
鼓の名手・江見河原源五郎の目を通して宇喜多家の末路を描いた「五逆の鼓」――。

語り手や視点を変えて描かれる六編を冒頭から順に読み進めるうちに、
戦国屈指の「梟雄」とある種の蔑みをもって称されてきた宇喜多直家が、
巷間伝えられているものとはまったくかけ離れた人物像として立ち現われてくるのです。


「あの人には実はこんないい人の顔がありました」
といったようなお手軽な描き方ではないということは急いで付け加えておかなければなりません。

戦国の世で、直家なりに真実を貫き通そうとした結果が、
肉親を斬ることだったりしたのだということが、実に説得力をもって描かれている。

血の匂いがまとわりついたダーク・ヒーローが、
作者の筆によって浄化されていく様は圧巻です。

もちろん舞台は戦国ゆえ、浄化といっても、
それは血溜まりに咲かんとする一輪の白い花のごとくで、
花弁に飛んだ返り血の飛沫は消したくとも決して消せないのではありますが。

候補者プロフィールによれば、木下昌輝さんは、
表題作の「宇喜多の捨て嫁」でオール読物新人賞を受賞し、
本書が初の単行本となる正真正銘の新人作家。

大変な才能を持つ新人作家が現れたものです。

デビュー作でここまでの水準の高さというのは、
時代小説でいえば、隆慶一郎さんが登場した時みたいなものじゃないか。
(「そのたとえよくわかんない」という人のために言い換えると、
日本ハム・大谷翔平選手のような新人が現れたと言えばわかっていただけるでしょうか)

まったく末恐ろしい新人作家ですが、
さて直木賞は?となると、ぼくは今回の受賞は「なし」とみます。

選考委員の方々はみな欲張りだと思うんですね。
というか、選考委員に限らず、本読みというのは貪欲なのです。

ここまでレベルが高く、しかも新人作家となると、絶対に

「あと二、三作読んでみたいなー。評価はそれからね」

となるはず。(実は評価はすでに胸の内で定まっているくせに)

ですので、今回の受賞はなし。
でも受賞の如何にかかわらず
読んで絶対に損はない驚異のデビュー作であることは間違いありません!


投稿者 yomehon : 23:09

2015年01月09日

直木賞候補作を読む(2) 『あなたの本当の人生は』

「ヤバい・・・・・・これは傑作かも。心して読まねば」

読んでいる途中、思わず背筋が伸びたのが、
大島真寿美さんの『あなたの本当の人生は』(文藝春秋)です。

おそらくこの作品は、今回の選考委員会の中でも特異なポジションを占めるでしょう。

というのも、文学賞の選考では、選考委員は候補作に対して、
言葉はちょっと悪いですが、「上から目線」で相対するものだと思うのです。

「あそこはよく書けてるんじゃないか」とか「あそこはいまいち描写が足りない」とか。
先輩作家が後輩の作品について上からあれこれモノを言う。
それが文学賞の選考会のベーシックな光景ではないかと思うのです。
(もちろん同席したことなんてありませんから勝手な想像ですよ)


ところが、この『あなたの本当の人生は』には、そういう姿勢を許さないところがある。

選考委員に対して、「あなたはどうなの?」と問いを突きつけるところがあるのです。

その問いとは何か。

それは、「あなたにとって書くとはどういうことか」という問いです。


この小説は、3人の女性の物語を軸に展開します。

新人賞を得てデビューしたものの、その後伸び悩んでいる若手作家・國崎真美。

かつて「錦船」シリーズという傑作ジュニア小説で一世を風靡したけれど、
いまではまったく書くことから遠ざかってしまっている老作家・森和木ホリー。

二十数年にわたってホリーを支え続けている秘書・宇城圭子。


書けども書けどもボツ原稿ばかりの國崎真美に対し、
ある時編集者が、森和木ホリーの弟子となれ、となかば強引に話をまとめてしまいます。

敬愛するホリーのもとで住み込みの弟子となった真美は、
そこで大作家ホリーのある秘密を知ることになります。

その秘密を真美が知ったことがひとつのきっかけとなって、
3人それぞれが「自分にとって書くとはどういうことか」というテーマに直面することになります。

その問いと向き合った3人は、やがてそれぞれの人生を賭けて答えを出していくのでした――。

「あなたにとって書くとはどういうことか」

このきわめて個人的な問いを
さらに普遍的なレベルにまで拡げるとすれば、それは

「人間にとって物語とは何か」

という根源的な問いへとつながるでしょう。


おそらくすべての小説家が、この問いを胸に日々物語を紡いでいるのではないでしょうか。


そして、この作品を読んだ選考委員は、
そんなみずからの小説家としての日々を顧みずにはいられないはずです。

小説家を志した若き日のこと、
初めて作品が評価され歓びに打ち震えた日のこと、
筆が進まず「もう書けない」と絶望した夜のこと、
苦しみの果てに物語が降りてきた瞬間のこと。

なにが物語を生み出すのか。

物語はどこからやってくるのか。

物語の尻尾をつかまえるにはどうすればいいか・・・・・・。

この小説の中で語られているのは、物語を生み出す「創作」という行為の秘密です。

ぼく自身、小説家ではないので、想像でしかありませんが、
小説家が創作行為そのものについて書くというのは、恐ろしく困難ではないかと思うのです。

創作の奥義なんてものがわかっていれば、物語を生み出すのに苦労はしないわけで、
その秘密を探ろうとすれば、必然的にそれは、自らの心の奥底を晒すことになるからです。

誰にでもできることではありません。

大島さんはこの作品で、3人の登場人物の力を借りながら、
自らの中にある、物語が生まれてくる泉の場所を探り当てようとしています。

ぼくの背筋が思わず伸びてしまったのは、
そんな大島さんの真摯な姿勢に胸を打たれたからでした。


かといって、この作品が、
創作行為をめぐる哲学的な省察で埋め尽くされたようなものかといえば、さにあらず。


3人の登場人物それぞれが語り手となって、
軽快なテンポで物語が進むので、楽しく読み進めることができます。

小道具の使い方もうまい。
たとえば、小道具としてコロッケが出てくるんですが、
作者はコロッケに託して、他人を笑顔にするモノ(作品)をつくるにはどうすればいいかを語ろうとする。
実に巧みです。読んでいると猛烈にコロッケも食べたくなるし。


大島さんは直木賞初エントリーですが、かなりの実力作家です。
作曲家ヴィバルディをめぐる女性たちを描いた傑作『ピエタ』(ポプラ社)は、
本屋大賞の3位に選ばれました。

初エントリーだからといって、
選考委員が新人作家のように扱うようなレベルの作家ではありません。

でもそんな心配はたぶんいらないでしょうね。

「却下照顧」という言葉があります。
理屈を言う前に自分の足元をよく見よ、というような意味ですが、
この作品には選考委員の背筋すらも伸ばしてしまうような力があります。

直木賞の有力候補とみました。


投稿者 yomehon : 14:48

2015年01月08日

直木賞候補作を読む(1) 『鬼はもとより』


さて、きょうから1作品ずつ、
第152回直木賞の候補作を読み解いてまいります。

トップバッターは、青山文平さんの『鬼はもとより』(徳間書店)です。


まずはじめにひとこと申し上げておきましょう。
これは、いまの時代だからこそ、広く読まれるべき作品です。


時は宝暦8(1758)年。
主人公は、江戸で浪人暮らしをしている奥脇抄一郎という武士です。

表向きは、万年青(おもと)を売って生計をたてていますが、
抄一郎には別の顔がありました。

彼はかつてある藩の「藩札掛」でした。

宝暦の飢饉で藩の財政がひっ迫した際、
藩札を刷り増しせよという上役の命に逆らい、
抄一郎は藩札の原版を持って出奔。
その後、藩は改易の憂き目にあいました。

江戸に落ち着いた抄一郎は、万年青売りで糊口をしのぎながら、
藩札の指南役、いまでいえばコンサルタント業をしていたのです。

そんな抄一郎の評判を耳にした東北の貧しい小藩から依頼が舞い込みます。

藩の財政を立て直すために力を貸してほしいというのです。

ただしこの貧しい藩に残された時間は3年。

抄一郎の命をかけた挑戦が始まります――。

ざっとストーリーを説明しただけでも、
この小説の特色はおわかりいただけるのではないでしょうか。

そう、この作品の眼目は、「経済」をテーマにしているところにあるのです。


藩札とは何か。
それはひとつの藩(国)のなかで流通する紙幣のことです。

では紙幣(貨幣)とは何でしょうか。
ぼくたちは「1万円」と書かれた紙を、なぜ1万円の価値があると信じることができるのか。

手元にあるのが、1万円分の「金(きん)」であれば、話は簡単です。
ゴールドにはそれだけの価値があるからです。
一方、手元にあるのが、1万円札だった場合はどうか。
この紙きれの価値は、何によって担保されているのでしょうか?

経済学ではちゃんとこういうことも研究されています。

紙きれを1万円たらしめているものは何かといえば、それは「信用」です。
この「壱萬円」と書かれた日本銀行券の価値は、間違いなく日本銀行が保証している。
もっといえば、日本という国家が価値を保証している。だから大丈夫だ。
そういった信用のもと、紙幣は流通しているのです。

ひとたび信用が失われればどうなるか。
取り付け騒ぎが起こり、紙幣はたちまちにして紙屑と化します。


作品の中で、抄一郎に藩札の役割を教え込んだ
藩札頭の佐島兵衛門の言葉が出てきます。
ちょっとみてみましょう。
きっとみなさんも何かとの類似に気がつくはずです。

「藩札を板行するに当たっては、あらかじめ服を大きくしようとする者を
しっかりと見定めておかなければならない。我々の敵は誰なのか、ということだ。
実は、我々の最大の敵は内にある。御家老をはじめとする御重役こそが、
最も用心せねばならぬ相手である」

「政(まつりごと)を預かる御重役方は、国の内証が厳しいからして、
どうしても藩札を多く刷りたがる。ある程度、上手くいっているときが最も厄介だ。
つい、これで大丈夫なら、もう少しなんとかなるだろうということになる。
しかし、それをやったら藩札は終わりだ。
そのもう少しが次のもう少しを生んで、どんどん膨らんでいき、
仕舞いには収拾がつかなくなる」

どうですか?
何かと似ていませんか?

ここで述べられているのは、
バンバンお金を刷ったらどうなるのかということ。

もうお気づきだと思いますが、
このくだりは現政権の経済政策への痛烈な批判にもなっています。


兵衛門は続けてこう述べます。


「藩札は傾いた国の内証を立て直す最後の手立てだ。
その最後の手立てが失敗した後の傷は深いぞ。
それゆえ、いまから各々方に断わっておくが、
御重役方はむろん、たとえ御当代様の命といえども、
この儀ばかりは己の一命を賭しても阻止せねばならん。
それができぬ者は、即刻ただいま、この部屋から立ち去ってもらいたい」


抄一郎は、武家にできて商人や農民にできぬことがある、それは死ぬことだ、として、
死の覚悟を固めて財政の立て直しを依頼してきた小藩の改革に乗り出します。

この小説を読んでいるあいだ、
国家の命運を左右する経済政策を実施するにあたって、
いまの政治家にそこまでの覚悟はあるだろうかという疑問が常に頭から離れませんでした。


ひとくちに「経済」といっても、この小説には多様な切り口があります。

先に述べた貨幣論だったり、現代の金融政策に通ずる部分だったりはもちろんのこと、
現政権が力を入れている(らしい)地方創生にもつながる部分があります。

貧しい藩がどうやって特産品を生み出すのか、
そのプロセスが説得力をもって描かれていますし、
また特産品をどう売っていくのかという仕組みの部分も、
当時の流通と商圏への洞察に満ちていてなるほどと頷かされる。

グローバルを見据えてローカルの強みを打ち出す、
流行りのワードで言えば「グローカル」な視点が看て取れます。

このあたりも、この小説に「いま」を感じるところです。


ひとつ惜しむらくは、
命を賭すという部分で、
最終的には抄一郎が傍観者的な立場になってしまうことでしょうか。

また、抄一郎と対立することになる親友の長坂甚八の出し方も、
やや中途半端な感が否めません。

このあたりを選考委員がどうみるかがポイントになるような気がいたします。

ともあれ、「藩札」をテーマにすえた新機軸の時代小説であることには間違いありません。

過去を舞台にしながら、現代のアクチュアルな問題にもひとつの視点を提示してみせる。
そんな時代小説の理想型をしっかりと体現しているところも見事だと思いました。


投稿者 yomehon : 13:38

2015年01月07日

第152回 直木賞候補作


「年が明けたら直木賞」というのは本好きの合言葉。
今年も直木賞の季節がやってまいりました。

今回の候補作は以下の5作品。


『鬼はもとより』青山文平(徳間書店)


『あなたの本当の人生は』大島真寿美(文藝春秋)


『宇喜多の捨て嫁』木下昌輝(文藝春秋)


『サラバ!』西加奈子(小学館)


『悟浄出立』万城目学(新潮社)


時代小説が2作品(『鬼はもとより』『宇喜多の捨て嫁』)、
連作短編集が3作品(『鬼はもとより』『宇喜多の捨て嫁』『悟浄出立』)、
長編が2作品(『あなたの本当の人生は』『サラバ!』)。

新人作家でエントリーしたのが木下昌輝さん。
これまでも候補になったことがあるのが、西加奈子さん(2回目)と万城目学さん(5回目)です。


なるほど今回も読みごたえじゅうぶんの力作揃い。
発表は、1月15日(木)とのこと。
心して読ませていただきます。

次回より1作品ずつ、候補作を読み解いてまいります。
お楽しみに!!


投稿者 yomehon : 13:02

2015年01月06日

ミステリーの大いなる収穫 『その女アレックス』


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

......とご挨拶をしてみたものの、
なにか忘れものをしているような気がしてなりません。

なんだろうこの違和感は?と考えるうちに、はたとその原因に思い至りました。

そうなのです。
昨年もたくさんの面白い本と出会ったにもかかわらず、
そのほとんどをご紹介できないまま、年があけてしまったことに気がついたのです。

このなんともいえない消化不良な感じは、
別に正月の暴飲暴食だけが原因だけではなかったのですね。

今年はできるだけ多くの本をみなさんにご紹介できるよう努めますので、
あらためてよろしくお願いいたします。


さて、そうなると本来は年始早々に読んだ新刊をご紹介する流れになるはずですが、
振り返ってみると、昨年ご紹介できなかった本の中にも
「さすがにこれは取り上げておかないとマズいだろう」というものがたくさんあります。


今回はその筆頭をご紹介いたしましょう。

それは、『その女アレックス』ピエール・ルメートル 橘明美・訳(文春文庫)です。

帯に華々しく「史上初の6冠受賞」と記されたこの本が
本屋さんの店頭にずらりと並べられているのを目にした方もいるのでは。

ちなみに6冠というのは、
「週刊文春ミステリーベスト10」(文藝春秋)、
「このミステリーがすごい!」(宝島社)、
「『IN☆POCKET』文庫翻訳ミステリー・ベスト10」(講談社)、
「ミステリが読みたい!」(早川書房)、
「リーヴル・ド・ポッシュ読者大賞」(フランス)、
「英国推理作家協会インターナショナル・ダガー賞」の6つ。

日本のミステリー・ランキングを4つ制覇したうえに、
本国フランスとイギリスでも高い評価を得たわけです。

たしかに個人的にも2014年に読んだすべてのエンタメ小説の中でもっとも面白い一冊でした。


しかしこの小説、みなさんに紹介するのが実に難しい。
というのも、絶対にネタバレをしてはならないからです。

いや、ネタバレしてはいけないのはもとより当たり前なのですが、
少しでもストーリーの紹介を誤っただけで、ネタが割れてしまう可能性があるというか。

ともあれ、慎重を期しながら、少しでもこの小説の面白さが伝わるよう紹介してみましょう。


この小説が発売された当時の帯には、
「あなたの予想はすべて裏切られる!」という惹句が踊っていました。
その売り文句のとおり、この小説の醍醐味は、読み進めるなかで、
あなたの脳裏に浮かぶ光景が、次々と姿を変えていくところにあります。

物語はアレックスという女性がショッピングをしているところから始まります。
正確にいえば、ヘアウィッグ(かつらですね)などを扱う店であれこれ試着しているところが描かれる。

小説作法としては、当然のことながら、ここで彼女の人となりが語られることになります。

あなたの頭の中には、アレックスがどういう女性なのか、イメージが浮かぶでしょう。

ところが、このイメージは次々に裏切られていくことになります。


物語冒頭からほどなくして、アレックスは路上で男に拉致されます。
誘拐した男は、「おまえが死ぬところをみたい」と言い、
彼女を全裸で狭い檻の中に閉じ込めます。

必死に脱出を試みるアレックス。
しかし彼女は孤独で、親しい友人もいないことがすでに読者には明かされています。

はたしてアレックスが誘拐されたことを警察は突き止めることができるのか。
そしてなによりも、謎めいたアレックスという女性は、いったい何者なのか――。


ストーリーでご紹介できるのはここまで。

個人的な好みを言わせてもらうと、
ぼくは女性と子どもが虐待される小説が大嫌い。
この作品にも目を覆いたくなるシーンがたくさん出てきます。

でもそれでもなお、ぼくはこの作品をおすすめしたい。
しかも女性にこそ読んでいただきたいと思っています。

ちなみにうちのヨメにすすめてみたところ、
「えー、分厚いしやだー」などと当初は言っていたものの、
気がつけば正月三が日のあいだ無言で貪り読んでおりました。
(おかげで実に静かな正月だった)


この作品の魅力はまず、
「ひとりの女性の人物像がここまで変わるのか」
という驚きにあるでしょう。

いまにして思えば、冒頭のウィッグのシーンなど実に示唆的です。
ただでさえ女性というのは、いくつもの顔を持っているものですが、
アレックスはそのはるか上を行っています。

これほどまでに物語の中で登場人物の印象がガラリと変わるケースはそうそうありません。
それだけでも稀有な読書体験となるでしょう。


それともうひとつ。

ここが読者がもっとも共感できるポイントだと思いますが、
世の中には、命を奪われなくても殺されてしまうケースがあるのだということ。

とりあえずここでは「魂の殺人」という言い方をしておきます。

魂を殺されて、それでも生きていかなければならない人間がいるということ。
その悲惨さ。

そしてそこから必死に脱出しようとしている人間がいるということ。
その哀しさ。

時に残虐な描写があるにもかかわらず、
それを超えてこの小説が読者(特に女性)の心を鷲掴みにするのは、
おそらくこのような部分が作品のコアになっているからではないでしょうか。


なんだか新年早々、隔靴掻痒な感あふれる書評で申し訳ございませんが、
『その女アレックス』は、一読どころか、二読、三読したくなる作品です。
ぜひお読みください。


さぁ新年早々ということでいえば、直木賞も迫ってまいりました。
次回からは、第152回直木賞の予想もスタートいたします。

投稿者 yomehon : 12:50