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2015年01月12日

直木賞候補作を読む(4) 『サラバ!』


もしも太宰治が現代に生きていたら。
しかも若者としていまを生きていたら。
きっとこういう小説を書いたのではないか。

西加奈子さんの『サラバ!』(小学館)を読みながらふとそんなことを思いました。


この作品はとにかく書店員からの支持が凄くて、
はやくも2015年本屋大賞の本命との声もあがるほど。

あの人気作家・西加奈子さんの作家生活10周年の記念作品という触れ込みだし、
分厚い上下巻だし、装丁もインパクト十分だし、
たしかに書店に並んだ当初からこの本は目立っていました。

しかしこの本が書店のみなさんに熱く支持される理由は、
それだけではないと思うのです。

この本が愛される理由、
それはこの小説が「自意識」の問題を扱っているからに他なりません。

物語は、
「僕はこの世界に、左足から登場した」
という印象に残る一文から始まります。
(この書き出しは素晴らしい!)

時は1977年5月、イランの首都テヘランで生まれた男の子は、
「歩(あゆむ)」と名付けられます。

姓は「圷(あくつ)」。
圷歩(あくつ・あゆむ)というユニークな名前の男の子には、
4歳上の貴子という姉がいました。
そして背が高く物静かな父親と、お姫様気質で気の強い母親も。

石油会社に勤める父の都合で、
圷家はイランからいったん実家のある大阪へと戻った後、
その後ふたたびエジプト・カイロへと赴きます。

そこで家族にある決定的な出来事が起こり、
圷家は解体へと向かうのです。


事情を語らない父、不安定な母、社会と馴染めず問題行動ばかりの姉。
歩は家族に振り回されながらも、高校、大学を出て、ひとりで生き始めます。

ところが、30歳を超えて、歩の人生が突如転落の一途を辿り始めるのです。

仕事の依頼は絶えてひさしく、交友関係も絶って
ひきこもり同然の生活に埋没する歩。

先行きの見えない日々を送りながら、歩はようやく家族や自分と向き合うことになります。

そしてある出来事をきっかけに歩は動き始めます。
なにかに衝き動かされるように彼が向かった先は、
自らの人生に決定的な影響をもたらしたエジプトでした……。

この小説では歩が誕生してから37歳までの半生が描かれます。

読者はただちにそれが、歩と同じく1977年にテヘランで生まれ、
その後、大阪やエジプトで育ったという、
著者自身のプロフィールと重なっていることに気がつくでしょう。
もちろん私小説ではないので、体験がそのまま書かれているわけではないでしょうが、
それでもカイロの街頭の空気感などはさすが濃密に描かれています。


それと同時に、イラン革命に始まり、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、
9・11同時多発テロや「アラブの春」、東日本大震災といった
20世紀の終盤から21世紀初頭にかけて、この国と世界を揺るがした大きな事件も
物語に色濃く影を落としていることにも気がつくでしょう。

まさに作者と世界のこの30年余りの時間がギュッと凝縮されたような物語です。

ところで、生きていくとき、人はどこかで世界と折り合いをつけなければなりません。

小さな子どもにとって、世界とはすなわち家族です。
家族というミクロコスモスとどう関係を結ぶかが子どもにとっての一大事ですが、
バラバラの家族を前にして、歩は常に受け身でやり過ごす術しか知りませんでした。

人はなぜ世界とうまく関係を結べないのか。
それは自意識が邪魔をするからです。


太宰治は生涯、自意識に囚われつづけました。
たとえば太宰は『人間失格』中で、自らの生家が大きすぎて恥ずかしいといったことを述べています。
太宰が死ぬまで持ち続けていたのは、この生きているのは恥ずかしい、という自意識でした。

他者と関係を結ぼうとするとこの自意識が邪魔をする。
だからたとえば『津軽』で、故郷を旅して友人たちと会っても、酒ばかり呑んでいる。
呑まないとやっていけないからです。


そんなの自意識過剰だよと切って捨てるのはたやすい。
というか、そうやって自意識の問題をスルーして
やすやすと世界と折り合いをつけることのできる人間は幸せです。
(少しいじわるに言えば、おめでたい)

周囲の人間となんだかうまく馴染めないとか、
教室や職場で無理して笑顔をつくっているとか、
自分を取り巻く世界とうまく関係を結べずにいいるという人は存外多い。

だからこそ、いまも太宰の作品に多くの人が惹かれるのではないでしょうか。


西加奈子さんのこの作品も、
そういった「自意識の文学」の系統にあるといえるでしょう。

この小説を熱烈に推している書店員たちは、
この作品のどこかに太宰的な中毒性を見出しているのかもしれません。

さて、この長い長い物語は、圷歩という人物が
いかに世界と関係を結び直すか、そのプロセスを描いています。

歩がもういちど生まれる(といっていいでしょう)場面はとても美しく感動的です。
「サラバ!」というタイトルがここへ来て見事な着地を決め、読んでいてカタルシスもある。

さすが熱狂的に読者が支持する作品だけあるなぁと納得します。


ただ、問題がないわけではありません。

それはこの作品の「長さ」です。
(特に圷家がエジプトに行くまで)


生まれてから成人するまでに歩の身に起きた出来事のあれこれが、
「一人称」で、これでもかというくらい細かく書き込まれる。
その細かさたるや、草間弥生が描きこむドット・アートのよう。


昔むかし、まだ携帯電話もないころ、
女ともだちから深夜に悩みの電話をもらい、
延々朝まで8時間もつきあわされたことがあります。

彼女の悩みはひとことでいえば、
「優等生の人生を送ってきた自分がイヤ」という一言に集約されるのですが、
そこに至るまでに生い立ちから話を始め、親や先生、友人との関係などが細々語られました。

あるいはこれまた昔むかし、
ある飲食店の女将から夫婦関係の相談を受けた時も、
店に留め置かれたまま、延々と空が白み始めるまで女将の一人語りを聞かされました。
やっぱりそれも、「旦那が家に帰ってこなくなった」とまとめることができる話を、
女将は旦那以外の男性との恋愛経験も含め、延々と語り続けたのです。


熱烈なファンのみなさんには大変申し訳ないのですが、
この小説の前半部分を読んでいるとき、
ぼくはその時にも似た忍耐を必要としなければなりませんでした。


もっとも本屋さんの店頭に掲げられたPOPなどのコピーをみると、
「一気読みしてしまった」とか
「時のたつのを忘れて読みふけった」という感想もあるので、
これは人によるのかもしれませんが。


ぼくがこの小説の前半部分を読むのに忍耐を要してしまったのは、
「一人称」で物語が綴られているから。

これも物語の終盤である仕掛けが明らかにされ、
なぜ一人称で語られていたのか、その理由が明らかになる段になってようやく、
「そうだったのか、なるほどー!!」と納得することにはなるのですが。

とはいえ、全編一人称で通すというのは、かなりリスキーな試みです。

作者は素晴らしい一人称での書き出しの一文に引っ張られてそうしたのかもしれませんし、
歩が自意識の檻に閉じこもっていたことにやがて気づくという流れである以上、
歩以外の人物の視点が入らない一人称を選ぶのは、間違いではないのかもしれません。


でもぼくはやはり延々と続く一人語りを追うのに徒労感をおぼえてしまった。
そこは正直に告白しておきたいと思います。


これはすでにこの小説を読んだという方にしかわからないかもしれませんけど、
全編一人称で語り通すのが、物語の仕掛けからいって「あり」だとしても、
もう少し読みやすくする工夫はあってもよかったんじゃないかと思うんです。

作者は一人称で書かれた理由を、
この物語全体の種明かしにうまく利用しているのですが、
とはいえ、別の視点人物を時折挿入するなどの工夫はできたんじゃないか。


ともあれ、この「一人称で続く長い一人語り」を選考委員がどう評価するか。
それがこの作品の分かれ道になるような気がします。


投稿者 yomehon : 2015年01月12日 11:52