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2006年05月26日

晴天のヘキレキ!

いやーびっくりした。
このたび人事異動の発令があり、
なな、なんと、営業部へ異動となりました!!

時季外れの人事異動で、
しかも(出世した人は別にして)部署の異動は僕ひとり。
これじゃまるでなにかしでかしたかのようですが
もちろん何もやっておりません。(というか、何もバレていないはずだ・・・)
ともかく、そんなことがあったものですから、
今週はたいへんバタバタしてしまいました。

ところで。
今回の異動に関して
社内でいろんな人に声をかけていただくのですが、
みなさんの言葉を聞いていて気がついたことがあります。
先輩諸氏のおっしゃることはだいたい以下のパターンに
集約されるのです。

「このタイミングで営業に行くのはおまえにとってすごくいいことだと思う」
「大丈夫、大丈夫、おまえなら営業でもきっとやれるよ」

ありがたいことです。
もったいないお言葉です。
身に余る光栄です。

しかし!!
人間の心理というのは不思議ですね。
いろんな人に似たようなことを言われつづけるうちに、
僕のなかでむくむくと頭をもたげてきたギモンがあります。
それは・・・


「みんなして何か隠しているのではないか???」


ということ。
このようなギモンにとりつかれてからというもの、
先輩諸氏からお声をかけていただくたびに、
僕の耳にはみなさんの心の声が聞こえるようになってしまいました。

「今回の異動はおまえにとってプラスだよ」
(そんなわけないんだけどなー。でもこんなふうに励ましてやらないとなー)

「大丈夫よ!あなただったらできるわ!!」
(なんて不憫なの!こんなに太ってるのに外まわりだなんて!死んじゃうわ!!)


かあさん!!
都会の人が、みんなしておいどんを騙そうとしちょるですたい!!


・・・それにしても営業とは。
当然、営業に関してはまったくの素人です。
そんなわけで、困ったときの本頼み。
営業の奥義の書かれた本を探して、本屋さんへと走ったのでした。

買ったのは以下の3冊。

『ドキドキ初回営業の極意 「最初」の1回が「最大」の営業チャンス』
渡瀬謙(中経出版)

『買わせる心理学 トップ営業マンなら知っている』鈴木丈織(ダイヤモンド社)

『訪問しないで3倍売れる!トップ1%営業マンの「がんばらない」戦略』
八木猛(WAVE出版)

ワラにもすがりたい思いで読みはじめたのですが、
うーむ・・・・・あっという間に読み終えてしまった。

あまりにもスイスイと読めてしまった
この「ひっかかりのなさ」は何だろう。

なんというか、上記3冊を読んで感じたのは、
「どの本も同じ顔をしている」ということです。

「同じ顔」とはどういうことか。
それはいずれの本でも、「こうすれば成功する」ということだけが
語られているということです。

株式投資術の本とすごく似ていますね。
「私はファンダメンタル分析で儲けた」
「私はテクニカル分析で儲けた」
などなど、みなさんがそれぞれ自分の成功した投資法を披瀝しあっている。
この手の本はいくらでもバリエーションがききます。
「こうやって成功した」ということだけを書けばいいからです。
「私は我が家の天才犬ポチが指差した株を買って儲けました」
「私は鼻毛占いで株を買って儲けました」

たしかに万にひとつの可能性でそういうこともあるかもしれない。
しかし大切なことは、世の中「こうやって成功した」という人もいれば
「同じことをして失敗した」という人もゴマンといるということです。
当たり前の話ですが。


今回、不慣れな営業に異動になってよくわかったのですが、
よくわからない分野にのぞまなければならない人間にとって
もっとも役に立つのは、
「こうすれば成功する」という情報よりはむしろ、
「こんなことをしたら怪我をするよ」という情報です。

知らない国に行くときに役に立つのは、
その国でこんなラッキーなことがあったという情報より、
その国のタブーや危険地域についての記述であるのと同じことです。


そういう「失敗学」的な本というのが営業本のジャンルでは見当らなかった。

そしてもうひとつ、
よくわからない分野にのぞまなければならない人間に
情報をインプットする際に有効なのが「物語」なのですが、
営業本ジャンルにはこれもないのです。

活き活きとしたストーリー形式にすれば頭に入りやすいにもかかわらず、
退屈な参考書形式で書かれたものがすごく多い。
営業本のジャンルは工夫の余地があると思いました。

そんななかで読んで面白かったのが
『御社の営業がダメな理由』藤本篤志(新潮新書)です。

タイトルからして挑発的な本ですが、要するに、
営業センスというのは先天的なもので、後天的にのばすことはできない。
「いい営業マンが育たない」というのはそもそも前提を誤っている。
問題は個人の才能や資質にあるのではなく「システム」にある。
システムを変えることで、その会社の営業は驚くほど変わる、というのが
この本の主張。

システムをどう変えればいいか、
そのための方程式とはなにかということは、
ぜひ本を手に取ってご覧いただきたいのですが、
この本でひとつだけ疑問を感じたのは、
営業に限らず、仕事には、システムに還元できない部分が
あるのではないかということです。

いま僕はディレクターの仕事を後輩に引き継いでいますが、
その作業のなかでわかったのは、
長いことやってきた仕事のなかには引継ぎメモに反映できない
「暗黙知」的な部分がかなりあるということです。

言ってみればそれは、
無意識にバットを振って球を打ち返していたのを
コトバにするようなもので、
なかなかマニュアル的に説明できません。

おそらく世の営業マンたちが各々
「簡単には言葉にできない技術」を抱えているはずなのです。
僕がそういうものを獲得できるまでには
いったいどれくらいの時間がかかるのだろうと思いました。

(ところで、このブログはどうなるんだろう???)

投稿者 yomehon : 09:03

2006年05月20日

『ダ・ヴィンチ・コード』よりもこれを読め!

古今東西の物語でお馴染みの題材といえば、「イエスを裏切ったユダ」。
「裏切り者ユダ」にもとづいたシーンは、ちょっと探しただけでも
さまざまな物語に見出すことができます。

たとえば映画『ハンニバル』に出てくるこんな場面。

アンソニー・ホプキンス演ずるレクター博士が、
フィレンツェのアカデミーで居並ぶ碩学を前に講義をしています。
ダンテの神曲、そして首をつって死んだユダについて。
その直後、金のためにレクターを売り渡そうとしていた捜査官が
吊るされて殺されるのです。

自殺した(といわれる)ユダに対して、
捜査官は殺されるという違いはありますが、
このシーンのベースにあるのはいうまでもなく
銀貨30枚とひきかえにイエスを売り、その後縊死したとされる
「イスカリオテのユダ」の姿です。

このように、絵画や小説、映画や芝居などさまざまなかたちをとりながら、
「裏切り者ユダ」の物語は人類に刷り込まれてきました。


しかしこの物語じたいが間違っていたとしたら?
ユダは裏切り者などではなく、
イエスによって選ばれたたったひとりの弟子だったとしたら?

もしそれが本当なら大変なことになる。
これまで人類が紡いできた膨大な物語群は見直しを余儀なくされる。
いや、そんなことよりも、あまたの物語の源泉である「聖書」そのものが
書き換えを迫られることになるのです!!


『ユダの福音書を追え』(日経ナショナルジオグラフィック社)は、
1700年前に書かれた「ユダの福音書」の発見から復元、そして解読に
いたるまでを追ったドキュメントです。


1970年代のこと。
エジプトのナイル河畔で、
ある農夫が1500年近く人目に触れることのなかった洞穴を発見します。
初期キリスト教時代、こうした洞穴は死者の埋葬場所として利用されていました。
「もしかすると金目のものがあるかもしれない」と
洞穴を物色した農夫が見つけたのは、宝飾品などではなく、
ボロボロになった石灰岩でできた箱でした。そしてそのなかには、
古代エジプトのパピルス紙でできた写本がおさめられていたのです。


この謎めいた古文書は、それから約20年、各地を転々とし、
そのたびに劣化していきました。
ようやくしかるべき機関で修復と復元が行われることになったとき、
ある学者が「これほどひどい状態のパピルス文書は初めて見た」と語ったほど
文書の傷みは激しかったのです。

まさにギリギリのタイミングで救出された文書を解読したところ、
そこには驚くべき記述がありました。


これまで裏切り者とされてきたユダこそが英雄であり、
イエスの教えを誰よりも深く理解していた弟子だった。
そして何よりも驚くのは、イエスをローマの官憲に引き渡したのは
イエス自身の言いつけに従ったもので、
ユダはその行為が自分にもたらす運命(裏切り者の汚名を着せられること)を
すっかり承知していたというのです。

パピルス文書に書かれていたのは、
イスカリオテのユダにイエスがもたらした秘密の啓示と
地上で肉体を失うまでのイエスの最後の日々。
なんとこの文書は、1700年前に禁書とされた記録はあるものの
その後行方がわからなくなっていた「ユダの福音書」だったのです!!


この「聖書学上の大発見」には多くの聖職者が猛反発しているそうです。
無理もないことです。
「ユダの福音書」は、グノーシス派の思想にもとづくものだからです。

グノーシスは古代キリスト教の異端思想です。
この宗派は、人はラビや司教といった聖職者を通さずとも
自己の本質を知ることで神を認識できると考えることから、
正統派教会から異端として退けられてきました。
ちなみに、グノーシスについて知りたい方には
『グノーシス』筒井賢治(講談社選書メチエ)がわかりやすくオススメです。


しかし正統派がいちばん承服しかねるのは、
「ユダは裏切り者ではなかった」という部分でしょう。
正統派の根拠が揺らぐことになるからです。

けれども僕は、「ユダの福音書」にでてくるイエスのこんなセリフをみると
思わずぞくぞくしてしまうのです。

「お前は真の私の肉体を包む この肉体を犠牲とし、
すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

肉体という牢獄から解放されるために、
イエスは自分を売れとユダに命じます。
ユダも裏切り者の汚名を着せられるとわかっていながらそれに従います。
というより、ユダにとっては、
現実世界で裏切り者呼ばわりされるなんてことはどうでもよくて、
イエスをもっと理解したいという気持ちのほうが重要だったのではないでしょうか。

たかが銀貨30枚のためにイエスを裏切るというのは、
いかにも人間の愚かさを指し示しているようではありますが、物語としてはベタです。
なんというか、凡人が考えがちなストーリーという感じがするのです。

それよりも、現実世界でどう思われようが、「自分を殺せ」という、
普通ではあり得ないイエスの命令に従ってしまうユダのほうが、
圧倒的に凄みを感じさせる。
つよい信仰をもっている人間にしか書けない深みを感じるのです。


それにしてもロマンのある話ではないですか。
現存するのはギリシア語からコプト語に翻訳されたと推察される写本のみ。
この「コプト」というのは、エジプト人をさすギリシア語が転化した古い言葉で、
コプト教はエジプトにおけるキリスト教のことです。

コプト教に関しては
『砂漠の修道院』山形孝夫(平凡社ライブラリー)という素晴らしい本が
ありますのでぜひ読んでみてください。

イスラム教が国教であるエジプトの全人口の1割占めるのがコプト教徒だそうです。
修行僧たちは、砂漠の奥深くで共同生活を営んでいるのですが、
この本は、宗教人類学を専門とする著者が、砂漠のなかの修道院を
フィールドワークした記録をまとめたもので、
88年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

エジプト人にとって砂漠は死の世界だそうですが、
著者が砂漠の修道院で見出すのは、
「死者たちも共にいる、明るく透明な個人主義の可能性」です。
深い読後感を残す名著です。

投稿者 yomehon : 00:03

2006年05月17日

フジタに会いに行く!

東京国立近代美術館で開催中の『藤田嗣治展』を観てきました。
展覧会はもうすぐ終わりますが(5月21日まで。その後は京都、広島を巡回)
ギリギリまであえて足を運ばなかったのは、
当分混んでいるだろうと予想したから。

さすがにもう人出も一段落しただろうと考え、
しかも念には念を入れて平日を選んで行ったにもかかわらず、
おいおい、ハンパじゃなく混んでいるじゃないか!!

知らなかったんですが、
平日の美術館というのは
巣鴨の地蔵通り商店街みたいになっているんですね。
お年寄りが押し合いへし合いで
週末の客層とはまったく違うことに驚かされました。

それにしてもご年配のみなさんはお目が高い!
今回の『藤田嗣治展』は、伝説の画家フジタの全貌が
我が国で初めて明らかにされる記念すべき展覧会なのです!
こんなに充実した展覧会はめったにないといっていいでしょう。


1920年代のパリ。
ふたつの大戦のあいだに訪れた
つかの間の平和に人々が酔いしれたこの時期、
パリのモンパルナスには、ピカソ、モディリアニ、マチス、ヘミングウェイ、
ガーシュインなど世界中からたいへんな才能を持った芸術家たちが集まり
祝祭のような毎日を送っていました。
この華やかなパリで人々に喝采をもって迎えられた日本人画家が藤田嗣治でした。
江戸期の浮世絵画家は別格として、明治以降の日本人画家で
藤田嗣治ほどの評価を海外で得ることのできた画家はひとりもいません。

しかしその一方で、藤田嗣治は母国・日本では不当に低い評価を受けてきました。
晩年、藤田は日本国籍を捨て、
その名をレオナール・フジタとあらため、フランス人として生涯を終えます。

そんな藤田の波乱に満ちた生涯を丹念に取材し、
公平な視点でその人物像を描き出した画期的評伝が
『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』近藤史人(講談社文庫)です。

藤田嗣治が長年にわたって厚いベールに包まれてきたのはなぜか。
そこには、著作権継承者である未亡人の意向が強く働いていました。
「日本人に理解してもらえないならいっそ忘れられたほうがいい」
未亡人が作品の公開に慎重な態度をとり続けたことから、
長いあいだ画集や伝記もほとんど出版されず、
本格的な回顧展も開かれることがなかったのです。

NHKスペシャルのディレクターだった近藤さんは、
藤田嗣治の実像を取材したいと考え、
10年近くも未亡人にアプローチを続けた後、
1999年にNHKスペシャル「空白の自伝・藤田嗣治」を制作し放送。
しかし45分の放送時間では到底すべてを伝えきれず
評伝のかたちにまとめることになります。
この『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』は出版後たちまち話題となり
第34回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。


藤田嗣治は「乳白色の肌」で人々の賞賛を浴びました。
藤田の描く裸婦は「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」と呼ばれる
乳白色の肌と、面相筆で描かれた流麗な輪郭を持ち、
その誰にも真似の出来ない画風はパリ画壇を席巻するのです。

驚くのは、この「乳白色の肌」の技法を藤田が生涯秘密にし、
現代の専門家の調査でも解明しきれないということです。

実際に展覧会会場で絵をみるとわかりますが、
裸婦の肌は陶器のような光沢を放っているにもかかわらず、
どうみても絵の具が厚塗りではないのです。
この感じは画集ではわからなかった。
藤田は絵の具だけではなくキャンバス自体にも
何らかの工夫を凝らしていたようですが、
この「乳白色の肌」をみるだけでも展覧会に足を運ぶ価値があります。

しかし、今回の展覧会でもっとも話題となっているのは、
実は「乳白色の肌」ではありません。
戦後、藤田嗣治という画家の評価を著しく貶めた「戦争画」です。

戦意高揚のために描かれた戦争画は、
日本の国立美術館に所蔵されているわけではなく、
所有権はアメリカにあることを知っている日本人はどれくらいいるでしょうか。
戦争画はその持ち主であるアメリカが日本に「無期限貸与」するという
かたちをとっているのです。

この戦争画はほんとうに凄い!
これまで画集でしか見たことがなかった
有名な「アッツ島玉砕」などの前に初めて立って感じたのは、
たとえ戦争画であろうと超一級のアートに仕立て上げようとした
画家の業のようなものです。
展覧会会場でも人々は息をのむように藤田の戦争画をみつめていました。

戦後はこの戦争協力を指弾され、藤田は日本を去ります。
このあたりの経緯はぜひ本を読んでみてください。
人々は暗い時代の記憶を忘れるために、
藤田嗣治ひとりに責任を負わせるのです。
藤田の沈黙をいいことに悪い評判を流したりするのが
パリで挫折した才能のない画家だったりするのがなんとも哀しい。
藤田嗣治を天高く飛翔した一羽の鳥だとするなら、
彼を糾弾した人々は井戸のなかにいる蛙といったところでしょうか。


藤田嗣治に続け、とばかりにこれまで数多くの日本人画家が
パリで研鑽を積みましたが、もし興味があったらそんな画家たちの作品もぜひ。
ここでは『佐伯祐三』(新潮日本美術文庫)
『今井俊満の真実』(芸術出版社)をあげておきます。

個人的には、同時代にパリにいたにもかかわらず、
藤田がいっさい佐伯祐三に言及していないことが不思議でなりません。
もしかしたら才能ある若手としてライバル視していたのでしょうか。

六本木キャンティの常連でもあった今井画伯は、
ガンに冒された晩年も、渋谷のコギャルを題材に作品をつくるなど
信じられないパワーで創作活動を続けていらっしゃいました。
僕が唯一身近に目撃したことのある偉大な画家です。
この人の作品ももっと評価されてもいいと思います。

しかし!なにはともあれ急がなくてはならないのはフジタです。
これほどの規模の回顧展はしばらくないでしょうから(というか二度とないかも)
まだみていない人はぜひとも足を運んでみてください。
乳白色の美しい肌を持つ裸婦像や凄惨な戦争画だけではなく、
藤田がもっとも愛した猫たちのかわいらしい絵も多数展示されていますよ。

「藤田嗣治展」は5月21日(日)まで、
竹橋にある東京国立近代美術館で開かれています。


投稿者 yomehon : 23:00

2006年05月12日

「白石さん」も面白いが「梅原さん」もかなり面白い!

新しく家を探すことになりました。

まるで大雨で川の水位がどんどんあがり、
警戒水域を超え、ついには限界水域も超えて溢れ出したかのように、
我が家の本が生活領域にどっと流れ込んできたのです。

もうダメ。
さすがにこれでは生活に支障をきたします。
そんなわけで引越し先を探し始めたのですが・・・・
いつもは本のことで半狂乱になるヨメが、
今回は無口なのがちょっとコワイ。
いったい何を考えているんでしょうね?

まあそれはともかく。

新しく住む町の条件として譲れないのは
「商店街が充実していること」、
それに「個性的な本屋さんがあること」のふたつ。

現在住んでいるところは
都内でも指折りの商店街が元気な町なのですが、
残念ながら本屋に関しては、雑誌と参考書しか置いていないような
小さな書店があるだけ。
おおいに不満だったので、今回の引越しを機に良い書店を探したいのです。

良い書店というのは、お店の人の顔がみえます。

まず本の品揃え。
良い書店は棚がメッセージを発しています。
本の並べ方から店の人の個性が読み取れるのです。

もっと直接的にお店の人の顔がみえるのは「POP(ポップ)」です。
ポップ広告というのは、店頭広告のこと。
本が平積みされたところに、店員の推薦コメントが書かれた
手づくり広告があるのを目にしたことがあるでしょう。あれです。

本の業界では、ポップひとつで本の売上げが左右されると言われています。
そんなポップ広告づくりの達人の作品集(?)がこのほど出版されました。


『書店ポップ術 グッドセラーはこうして生まれる』梅原潤一(試論社)
本好きなら誰もが楽しめる一冊です。


梅原潤一さんは、横浜の名物書店、有隣堂に勤務し、
現在はランドマークプラザ店でフロアマネージャーをなさっている方。
彼はポップ広告の名手として知られています。

本を開くと、
「ミステリー小説」「小説(ミステリー以外)」「エッセイ・ノンフィクション」
「海外小説」「コミック」のカテゴリー別に、
ページの見開き左側に本の写真と梅原さんのコメントが、
右側にはどかーんと梅原さんが作ったポップが掲載されています。


いや、見ていて飽きない。
素晴らしく面白いですね。

いくつか紹介しましょう。

まずは奥田英朗さんの傑作クライムノベル『最悪』のポップです。
メインコピーが


「最悪最高!」


そしてその下に書かれたコメントが


「襲い来る不幸のつるべ打ち!
これぞ災難のジェットコースター!!
直木賞受賞(予定)作家による痛快犯罪小説!」


いいなぁ。梅原さん。すごくよくわかる。
「最悪最高!」っていうのはうまいコピーだけど、
これ自体は頑張って考えれば思いつける文句でしょう。
僕が共感するのはむしろ「直木賞受賞(予定)作家」のくだり。
読んで面白い作家がいると、こんなふうに肩入れしたくなるのは
本好きに共通する性向ですから。


次は「うまい!」と思わず膝を打ったポップ。
保坂和志さんの『プレーンソング』です。
まずメインコピーが、


「あ、これは面白い。」


その下に書いてある文句は、


「ちょっと不思議な味わいの、青春(?)小説 
猫好きな人、良かった頃(!)の村上春樹が好きな人は是非。」


このメインコピーには唸りましたね。
梅原さんによれば「小説のもつ空気感を伝えるようなコピー」を
目指したようですが、わかるわかる、わかりますよ。

保坂さんの小説でよく言われるのは「なにも起こらない小説」ということ。
じつは深く読みさえすればそんなことはないんですが、
波乱万丈の物語かどうかということを基準にするなら、
たしかに「なにも起こらない」といえる。

平凡な日常を淡々とスケッチしたような保坂さんの小説は、
まさに読みながら「あ、これ面白いかも」と気がつくような種類のものです。
街を歩いていて「あ、風が気持ちいい」とふと思うような。そんな感じ。

このポップは、保坂さんの小説の特長をよくつかまえていると同時に、
「良かった頃(!)の村上春樹」と梅原さんなりの批評も入っていています。

個人的には、保坂さんと村上さんは、
顔はそっくりでも作品はまるで違うと思いますが、
でも、こんなふうに意見の相違について考えさせられた時点で
すでに梅原さんの術中にはまっているのかもしれません。


梅原さんはインタビューで
自分が「面白い」と思った本を他の人にも知ってほしいという
気持ちがすごく強いと話していますが、僕が深く、深く共感したのは、
ベストセラー作家だけではなく、売れない人をなんとかしたいという
気持ちを持っているところ。

「なんとかして、みんなに知ってほしいよ、この人の面白さを」
梅原さんのそんな思いが現れているのが、
夏石鈴子さんの『バイブを買いに』という小説のポップでしょう。

「女性からみたセックス」が率直に描かれた短編集で、
特に男性読者にとってはいろいろ勉強になる本です。
この本のポップのメインコピーは


「まっすぐな恋愛小説です」


これ自体は平凡なコピーです。
ところがその上にこんな文句がくっついている。


「タイトルと表紙でひかないで!」


「お客さん、ちょっと待って!」と必死に呼び止める梅原さんが目に浮かびます。

この本のなかで僕がもっとも傑作だと思ったのは、
『黒のトリビア』新潮社事件取材班(新潮文庫)のポップですが、
それは実際に本を手にとってご覧ください。
こんな素晴らしいコピーまでここで紹介してしまってはさすがに申し訳ないので。


それにしてもこんなふうに一堂に会したポップをみるのはすごく新鮮な体験です。
ポップは書店員の強い思いが込められた立派な作品なのですね。

ちなみに以下は、僕がこの本について考えたコピーです。


「白石さん」も面白いが、「梅原さん」もかなり面白い!

1963年横浜生まれ。立教大学卒。趣味:映画鑑賞。
職業:どんな本もベストセラーにしてしまう伝説の書店員!
「生協の白石さん」の次は「有隣堂の梅原さん」に注目! 


投稿者 yomehon : 09:00

2006年05月11日

ミニチュアという距離感

他人のプロフィールで「趣味」ほどあてにならないものはないと思います。

あくまで僕の経験則ですが、
「趣味は料理」という女性は、まず間違いなく料理が下手です。
もしあなたの身近にそういう女性がいたらこんな質問を投げかけてみてください。
「じゃぁどんな料理が得意なの?」
かなりの確率で「肉じゃが」か「パスタ」という答えが返ってくるはずです。

毎日あたりまえのように料理をつくっている人は
決して「趣味」だなんて言いません。
それに、そういう人ほど得意料理を聞かれると答えに窮します。

「得意料理?冷蔵庫の残り物でちゃっちゃと作っちゃうし・・・特にない」
「得意料理?まぁ普通に家庭料理かな~」

このように相手の女性が答えたらまず間違いなく料理上手!
迷わず結婚を申し込みましょう。(ただし責任は持ちません)


これとまったく同様なのが「趣味は読書」というやつですね。
「読書が趣味」という人で、ほんとに本を読んでいる人に
お目にかかったことがありません。

毎日あたりまえのように本を読む人間にとって、
読書は「ごはんを食べる」ことや「ウンコをする」のと同じこと。

また、ほんとう読むのが好きな人はもっと具体的に表現します。
「アメリカのミステリーを読むのが好き」
「司馬遼太郎が好き」

それに倣えば僕の趣味は、
「料理本を集めること」、
それに「写真集を集めること」のふたつです。


ところで、本棚にある写真集をみると、
もっとも多いのが「リトル・モア」という出版社の写真集たちです。

この原宿にある小さな出版社は、良質な写真集を出すことで知られています。

クールな都会の子供の表情をみごとにとらえたホンマタカシ『東京の子供』。
人間が存在しない都市を写しだした『Tokyo nobody 中野正貴写真集』。
平凡な日常がいとおしいものにみえてくる川内倫子『うたたね』。

いずれも近年の名作ばかりです。
そんななかに最近また新しい写真集が加わりました。

本城直季写真集『small planet』です。

この写真集を初めて目にする人はきっと混乱するはずです。

高層ビル群や高速道路、夏のプール、公園などなど、
写真に写されているのは都会ではお馴染みの場所ばかり。
でも、そのどれもが精巧につくられたミニチュアのようにみえるのです。

たとえば東京駅の写真があります。
ちょうど丸の内の南口あたりが写されているのですが、
辰野金吾設計のクラシックな東京駅がまるでドールハウスのように見え、
お客を待つタクシーの列はまるでミニカーのようなのです。

これはまったく新しい視覚体験です。

20世紀に驚異的な発展をとげたテクノロジーによって
僕たちは次々と新しい視覚を手に入れてきました。

たとえば僕たちは気が遠くなるほど遠く離れた
宇宙からの視覚を体験することができます。
 『ビヨンド 惑星探査機が見た太陽系』をみてください)

また逆にものすごくミクロな視覚も体験することができる。
有名なのは「ミルククラウン」の写真でしょう。
出典は「横浜物理サークル」のホームページです)

極端に遠いところから極端に近いところまでの光景を、
テクノロジーの力を借りて、僕たちは見ることができるのです。

けれど本城直季さんがつかまえたのは、
ちょうど都市がミニチュアのようにみえる距離感です。

都市を俯瞰して、あるポイントでカメラの焦点をあわせると、
突如、都市が「作り物」のように表情を変える。

都市を被写体にした写真は腐るほどあるけれど、
このような距離感で撮影された写真集は初めてです。

ひとりのカメラマンが見出した、
都市を見つめるまったく新しい距離感。
そこから生み出された「ミニチュアみたいなホントの景色」。
これは凄い!面白い!
ぜひあなたも体験してみてください。

投稿者 yomehon : 12:23

2006年05月09日

博士が愛したイルカ

ゴールデンウィークの真っ只中、
ヨメが突然、水族館に行きたいと言いだしました。

どこも大混雑のゴールデンウィークのさなかに
なんで水族館なんかに行きたがるのか。
まったく理解に苦しみます。

そもそもデブにとって混雑スポットは
絶対に足を向けてはいけない場所なのです。
どんなに身を縮めていても、
周囲は「こんなに窮屈なのはお前のせいだ」とばかりに
敵意のこもった視線を投げつけてくる。
こういう場所で必ずといっていいほど差別されるデブの哀しみを
いったいどれほどの人が理解しているのでしょうか。

ただでさえゴールデンウィークの混雑で客はイライラしているはず。
そんなところへ巨体を揺らしてのこのこ出かけていくというのは
わざわざ殺されに行くようなもの。まさに自殺行為です。

聞けばヨメは、よしもとばななの『イルカ』(文藝春秋)を読んで
水族館に行きたくなったのだとか。

本来であれば「誰が行くかっての!!」と一喝するところですが、
ヨメに内緒で買った『ムーミンコミックス』全14巻(筑摩書房)
もうすぐ自宅に届くことを思い出し、あわてて水族館行きに同意しました。
要するにヨメの機嫌をとるために媚びたわけです。
まったく情けない話です。

そんなわけで、
心ならずも某水族館へ足を運んだのですが、
案の定ペンギンプールやマンボウの水槽など行く先々で、
ガキが「ママー!見えないよー!!」
などと僕の後ろから声をあげる。
それを聞いた母親がまた「ほんとだね~見えないねー、困ったね~」
などとこれみよがしに言うわけです。

でも、こちらに対する意思表示があるのはまだいいほうで、
見知らぬ誰かに足を踏みつけられたり腹を肘で突かれたりするのは
かなりヘコみます。

そういう屈辱的場面になんども遭遇して哀しい思いはしたものの、
イルカプールだけはけっこう楽しめました。

水族館では2種類のイルカが飼育されていました。
ひとつはカマイルカ。
白と黒のツートーンカラーで鎌のような背びれを持つのが特徴です。

もうひとつがバンドウイルカ。
グレーがかった体で好奇心旺盛。
世界の水族館でもっとも多く飼育されているイルカです。

ショーじたいは約15分と短くて拍子抜けでしたが、
面白かったのはショーが終わった後でした。
この水族館ではイルカの訓練風景も観ることができるのです。

飛び上がって宙返りしたり人を乗せて泳いだり、
それぞれのイルカに課題があるようでみな熱心に練習していました。

イルカとインストラクターがコミュニケートしながら
練習している光景を観ていて思い出したのが、
『ジョン・C・リリィ 生涯を語る』フランシス・ジェフリー&ジョン・C・リリィ【著】
中田周作【訳】(ちくま学芸文庫)
という本です。


ジョン・C・リリィは70年代を中心に活躍した
アメリカのカリスマ脳神経学者です。
脳の中の「報酬系」というシステムの研究などで
ノーベル賞は確実と言われていましたが、
LSDなどの幻覚剤を使用して人間の「意識」や「こころ」の仕組みを
解明しようとする方向へ進んだことから、
学会などでキワモノ的扱いをされるようになりました。

たしかにその行動はマッド・サイエンティストのようでもあります。
なにしろリリィ博士は「私のからだが私の実験室だ!」と宣言し、
なんでもかんでも自分の体で試したのですから。
その結果、幻覚剤でラリったまま自転車にまたがって事故に遭ったり
浴槽で溺れたりします。

けれどもそのような行動は、博士の倫理的姿勢の現れでもありました。
リリィ博士は、自分がやられて嫌だったり恐ろしかったりすることを
平気で患者に行う医学研究者に疑問を持っていたのです。
まず自分のからだで試してみるというのが博士に一貫した態度でした。

脳の神経系の研究からアイデアを発展させ、
外界からの刺激を完全に遮断した環境に長時間隔離されると
人間の意識はどうなるかということに関心を抱いた博士は、
有名な「アイソレーションタンク」を開発します。

遮断されたタンクの中で長時間過ごした結果、
博士は瞑想状態を体験します。
そしてその過程で、脳が外界からの刺激がなくても
リアルな現実を作り出すことを発見するのです。

人間の意識の研究にのめりこんだ博士は、
人間とは別の大型の脳を研究してみたいと考えるようになり、
やがてイルカにたどりつきます。

そしてイルカを研究するうちに博士は、
その高度な知性に深く心を動かされるのです。

ジョン・C・リリィ博士の画期的な業績のひとつは、
「イルカの知性」という未開拓の分野の研究を初めて行ったことです。

イルカは弱っている仲間をみんなで助け、
種全体に共通するSOS信号を持ち、
快楽や愛情のためにセックスをします。

神経学的にみるとイルカの脳は人間に匹敵するものだそうですが、
なかでも驚いたのは、
イルカの脳には人間の脳よりも大きい部分があるという話です。

この部分は、サルよりも人間の脳のほうが大きい部分と同じで、
その部分とは驚くなかれ、「抽象化」や「洞察力」などの高度な働きを
担っている場所なのです。
このことは、イルカの脳が人間よりも高次の機能を持っている可能性を
示唆しています。

このように、この本には人間とイルカの可能性をめぐるワクワクする話が
たくさん出てきます。

しかしその一方で、リリィ博士の研究にはつねに軍が目をつけていました。
海軍がベトナム戦争でイルカを「海の兵士」として利用していたことが
のちに暴露されますが、博士の研究人生は、この種の圧力との
戦いの歴史でもあったのです。

とはいえ、LSDをキメて隔離タンクの中で瞑想し、
「自分の心に深く入り込むことで、
ヒトは、全宇宙とつながりうるのだ」と言ったりする博士自身が
かなりやばい存在です。
ジョン・C・リリィは生涯を通じて毀誉褒貶の激しい人物でした。

そんな型破りの科学者が振り返った人生が面白くないはずがありません。
グレゴリー・ベイトソンやR・D・レイン、オルダス・ハクスリ、
リチャード・P・ファインマンなど超一流の知性との交友も
本書の読みどころのひとつです。

投稿者 yomehon : 11:42

2006年05月03日

ニャ夢ウェイに夢中!!

ニャニャニャ、ニャーッ!!

猫ひろしではありません。
我が家の合言葉です。
いま我が家はネコマンガに夢中なのであります。

きっかけは書店でみかけた一匹のネコでした。
表紙いっぱいにアップになったキジトラに
「ニャーッ」と呼びかけられたような気がして
思わず手にとったのが『ニャ夢ウェイ』(ロッキング・オン)。

表紙をめくると、階段の上からわずかに顔をのぞかせながら
こちらをうかがうネコの写真があって、

「カ・・・カワユス!!」(by しょこたん

即、購入しました。


ある日、松尾スズキ宅にかわいらしい雑種ネコがやってきます。
名前は適当な経緯で「オロチ」に決定(最初はオロチョンだった・・・)。
このオロチを主人公にした爆笑ネコマンガが『ニャ夢ウェイ』なのです。

松尾スズキが原作を書き河井克夫がマンガを描いた『ニャ夢ウェイ』は、
2002年から雑誌『BUZZ』で連載され、その後は『ロッキング・オンJAPAN』で、
途中からは「ニャーと言える日本!」とタイトルを替え連載されています。

奇才・松尾スズキと河井克夫のコンビですから
まず面白くないわけがありません。
僕もヨメも爆笑しまくりで、
以来、我が家ではこのネコマンガがすっかりブームになっています。


ネコマンガといえば、まず名作として思い浮かぶのが
小林まことの『What‘s Michael?』です。

週刊モーニングで連載が始まった20数年前、
ちょうど僕もマイケルと同じ柄のネコを飼っていたために
このマンガにどっぷりハマった思い出があります。

『What‘s Michael?』の面白さを支えていたのは
ひとえに作者の観察眼です。

たとえば(飼ったことのある人はわかると思いますが)、
ハエなどをつかまえようとして失敗したとき、
ネコはよくその失敗を取り繕うような行動をとります。

じっくり狙いを定めて獲物に飛びかかったクセに、失敗すると、
まるで何事もなかったかのように毛づくろいをはじめたり
たまたまその場にあったオモチャで遊びはじめたり、
「ホントはぼく、ハエになんて興味なかったんだ」
とさかんにアピールするかのごとくふるまいます。

小林まことさんもマイケルのそんなふるまいに目をとめてネタにしていました。
たしかオチは、失敗したマイケルが踊り出すというものだったと思います。


松尾スズキも同様の観察眼を持っています。
が!松尾スズキの凄いのは、さらにそこに妄想が加わること。

たとえばオロチを観察していた松尾氏は、
餌場にやって来て器に餌がないとわかったときのオロチが
奇妙な行動をとることに気がつきます。

一回、奥に引っ込んでから、もういちど違う出方で餌場にやってくるのです。
リセットする感覚なのでしょうか、
それとも登場の仕方を変えれば餌が現れるとでも思っているんでしょうか。
ともかく、いちど階段の奥に引っ込んで、違う出方をするという行為を繰り返します。

最初はふつうに出てきて「あ・・・エサがない」と気がつく。
次は、「火事!?火事!?」みたいな感じでダーッと走ってくる。
次は、「家政婦はみた」的テイストでそろ~っと現れる。
次は、上京したての人みたいにキョロキョロしながら・・・
次は、「ミッション・インポッシブル」のトム・クルーズみたいに上から・・・
次は、メイン司会者に食らいつく若手芸人みたいな感じで・・・

というように、松尾スズキの妄想はどこまでも暴走するのです。

また、たんなる観察日記に堕していないところもこのマンガの素晴らしいところ。

あるときは、飼い主とオロチが合体した「マツオロチ」が登場し、
あるときは、飼い主とオロチが漫才をし、
あるときは、わざわざつくった紙粘土の人形で人形劇仕立てにし
あるときは、他のマンガをパクって「だにゃんずうぉ~か~」をやり・・・

というように、読者を飽きさせない工夫も満載です。
ちなみに僕のいちばんのお気に入りは、
近所のバアさんに勝手に去勢される野良ネコを薄幸な女に見立てた回です。


ところで、オロチを見つけてきたのは、松尾氏の奥さま「妻子」です。
マンガを読んでいる時はうちのヨメと同類のアホな女かと(失礼!)
思っていたのですが、
巻末のエッセイ「妻子のオロオロオロチ!」を読んで驚愕!
な、なんと、うちのヨメとは似ても似つかぬ知的な美しい女性ではないか!!
この妻子さんも『ニャ夢ウェイ』には欠かせないキャラクターです。

ともかく読めば爆笑間違いなしのネコマンガ。
ネコ好きのいかんを問わず超オススメです。

投稿者 yomehon : 12:20

2006年05月02日

面白い吸血鬼小説は別にある!(その2)

前回の続きです。


まず駆け足で吸血鬼小説の歴史を押さえておきましょう。


そもそも吸血鬼伝説は
古くからヨーロッパの民衆のあいだで語られていたものですが、
現代の吸血鬼小説のルーツとなった名作が誕生したのは1816年のことです。


この年の夏、詩人のバイロン、同じく詩人のシェリーとその妻メアリ、
そしてバイロンの主治医ポリドリが、スイスのジュネーブ湖畔を訪れていました。


雨が降り続いたある日、
憂さ晴らしにみんなで怖い話を考えようということになりました。
それぞれが一編ずつ怪談を書いてみようということになったのですが、
実際にはバイロンとシェリーは忙しさにまぎれて怪談をつくれませんでした。
しかし若いメアリとポリドリのふたりは怪談を完成させました。


驚くなかれこのときメアリ・シェリーが書いたのが「フランケンシュタイン」。
ジョン・ポリドリが書き上げたのが「吸血鬼」だったのです!


なんとふたつの怪物が同時に誕生したという驚きのエピソードは、
荒俣宏『ホラー小説講義』(角川書店)で紹介されています。

その後、いくつかの吸血鬼小説が書かれましたが、
特筆すべき傑作は『吸血鬼カーミラ』ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ【著】
平井呈一【訳】(創元推理文庫)
でしょう。
女吸血鬼カーミラと山荘の娘のレズビアンがテーマの異色小説です。

そして1897年に真打ちが登場します。
イギリスの作家ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』を発表したのです。


劇場支配人の仕事をしていたブラム・ストーカーは(ちなみにブラムは愛称で
正式にはエイブラハムです)あるときブタペスト大学の学者と出会い、
15世紀にワラキアとトランシルヴァニア地方に実在した王の物語を聞きます。

ワラキア、トランシルヴァニア地方というのは、現在のルーマニアです。
この地方に王として君臨した男は洗礼名をヴラド・ツェペシュといい、
あらゆる拷問を考案し、後に「串刺し公」と呼ばれました。
また彼にはもうひとつ、「ドラクラ」というあだ名もありました。
「ドラクラ」はルーマニア語で「悪魔」を意味する言葉であると同時に、
「龍」(ドラゴン)のルーマニア語読みでもあります。

この実在の人物にインスピレーションを得て書かれたのが『ドラキュラ』です。
吸血鬼=ドラキュラとなったのはこのときからです。


日本では平井呈一氏による名訳が長く親しまれてきましたが、
まだこの作品が英文学の古典として認知される以前のものであることから、
ストーリー展開にそれほど重要でない部分が省略されたり改竄されるなどして
原文に忠実な翻訳ではないことがわかっています。


なんといってもいま手に入るもので最高なのは
『ドラキュラ 完訳詳注版』新妻昭彦・丹治愛【訳・注釈】(水声社)
です。
「ドラキュラ」が書かれる前に構想された短編「ドラキュラの客」や
ストーカーの「ドラキュラ創作ノート」などもおさめられて至れり尽くせりの内容。
興味があるかたは読んでみてください。

ところで、ストーカーが生み出したドラキュラはそもそもなぜ
19世紀のイギリスで受け入れられたのでしょうか。

その背景には、他国による侵略恐怖やユダヤ人恐怖、
当時流行したコレラへの恐怖がある、と喝破したのが
『ドラキュラの世紀末』丹治愛(東京大学出版会)です。
当時の人々が抱いていた「ぼんやりとした不安」を
キャラクターとして形象化させたのがドラキュラだったのです。

「ホームズ学」ならぬ「ドラキュラ学」とでもいうべきたいへん面白い研究なので、
こちらもあわせてお読みください。


そろそろ面白い吸血鬼小説を紹介しなければなりません。


まずスティーヴン・キングの『呪われた町』(集英社文庫)ははずせません。
人々が吸血鬼に襲われ同類になっていく様子が淡々と描かれているのが
読む者の恐怖心を掻き立てます。

日本の作家では小野不由美の『屍鬼』(新潮文庫)をおさえておきましょう。
『呪われた町』へのオマージュから書かれた作品であることは
あまりにも有名ですが、この作品から感じる恐怖は、
夏の夜に首筋にべったりとかいた汗のようなもの。
不快な恐怖とでも言えばいいでしょうか。

恐怖という切り口では、この2作品が群を抜いていると思います。
次はちょっと切り口をかえて、
吸血鬼を異形の者としてとらえその哀しみを描いた作品。
『ポーの一族』萩尾望都(小学館文庫)は名作中の名作です。
この歴史的傑作が『吸血鬼カーミラ』に多くの影響を受けていることは
あまり知られていないかもしれません。

でも、キングも小野不由美も萩尾望都もぜんぶ有名な吸血鬼作品じゃないか!
あらたまって紹介されなくったって知っているよ!
という人がいるかもしれませんね。

たしかに定番すぎたかもしれない。
では最後はちょっとひねったチョイスでいきましょう。


『石の血脈』半村良(ハルキ文庫)という傑作伝奇小説があるのをご存知ですか?
これも吸血鬼小説のひとつに数えていいと思います。


ある新進建築家の美しい妻が失踪します。
妻の行方を追ううちに、建築家はある集団と遭遇するのですが、
それは不死を求める人々でした・・・。


筋はたったこれだけしか明かせない!!
この小説の面白さを損なわないためには
ストーリー紹介に細心の注意が必要だからです。

吸血鬼伝説はもちろん物語の大きな柱となっていますが、
この小説の凄いところは、吸血鬼の話が、古代の巨石信仰やアトランティス伝説、
狼男伝説や日本の犬神信仰などにまでつながっていくところです。

これだけのものを詰め込めば、普通なら作品が破綻してもおかしくありません。
しかし読んでいただくとわかりますが、
信じられないほどの説得力をもってそれぞれの要素がつながっています。

吸血鬼、アトランティス、ストーンヘンジなどの巨石(メガリス)信仰、
狼男、犬神信仰などなど、世界に残る伝説・伝承には
人類の恐るべき事実を解く鍵が潜んでいるのですが・・・・・・
ダメだ!これ以上は言えない。

ともかく読み始めると止まらなくなりますからご注意を。
僕もひさしぶりに読み返したら徹夜するはめになってしまいました。

それと再読して思い出したのですが、
この小説に出てくるセックスシーンはけっこうエロいです。
そして実はそのエロさにも吸血鬼伝説が関係しているのです・・・。

どうですか?読みたくなったでしょう。

投稿者 yomehon : 08:22

2006年05月01日

面白い吸血鬼小説は別にある!(その1)

遅ればせながらベストセラー小説『ヒストリアン』
エリザベス・コストヴァ【著】 高瀬素子【訳】(NHK出版)
を読みました。
Ⅰ巻、Ⅱ巻あわせて990ページ。週末をまるまる費やしてようやく読了です。

ストーリーはこうです。
ある日、16歳の女の子が父親の書斎で奇妙な本を見つけます。
真ん中に竜の挿絵があるだけであとは白紙という不思議な本でした。
その本のことを尋ねると、父親は青ざめ、隠していた過去について語り出します。
竜の本の謎、失踪した恩師のこと、そしてドラキュラについて。

やがて父も姿を消します。
あとに残されていたのは父の手紙。
その手紙に書かれていたのは、
謎を追って旅する若かりし頃の父と母の姿でした。
娘は残された手紙を手がかりに、父を捜しはじめるのです。


ここでドラキュラについてちょっと説明しておきましょう。

15世紀にワラキア公ヴラド・ツェペシュという人物がいました。
彼は、オスマン帝国十数万の大軍をわずか数千の兵で退けた英雄にして、
数千とも数万ともいわれる人々を敵味方問わず串刺しにして殺戮した暴君でもありました。

その残虐な殺し方から「串刺し公」とも呼ばれたヴラドは謎に包まれた人物です。
どのように死んだのかは不明、その亡骸も、墓のありかもはっきりとしません。

この「串刺し公」ヴラド・ツェペシュと、
古くから民間に伝わる吸血鬼伝説をミックスさせ、
1897年(明治30年)にイギリスの作家ブラム・ストーカーが誕生させた
キャラクターが『ドラキュラ』です。

鏡にその姿が映ることなく、にんにくや十字架に弱く、
血を吸った人間を「死なざる者」に変えてしまう、
僕らがよく知っている「ドラキュラ」はこの時に生まれました。

『ヒストリアン』もこの『ドラキュラ』を下敷きにしており、
歴史家たちの調査にはつねに吸血鬼の影がついてまわります。


この小説は歴史マニアには楽しめる本かもしれません。
著者は歴史が大好きなのだと思います。
古文書館や修道院を描くときの筆致から、
著者がこういう空間を愛しているのだということがわかりますし、
古書にたいする並々ならぬ知識も持っているようです。
それにハンガリーやルーマニア、ブルガリアなどといった東欧各地の描写も、
馴染みのない読者にとっては旅愁をそそるものでしょう。


けれど、いかんせん長すぎる!


結末が二転三転するような手に汗握る展開ではなく、
じりじりと真相に迫っていくかたちなので、
途中で我慢できず放り出してしまう人も多いのではないでしょうか。
少なくとも、Ⅰ巻の第1部を読み終えないと物語は動きはじめない。
でもこの時点でもう普通の単行本一冊分くらいの分量ですから、短気な人には向きません。


また、構成にも難がある。


物語のほとんどを占めるのは父の手紙の内容です。
父親が母親とドラキュラの謎を追いかけて東欧各国を旅する。
この様子が父の視点から延々と語られるのですが、
その一方で、父を追いかける娘は申し訳ていどの扱い。
物語全体が娘の回想になっているにもかかわらず、彼女の存在感が薄すぎます。

どうして作者は「ヒストリアン(歴史家)」の卵である娘をもっと中心にすえて、
試練を与え、大きく成長させないのでしょうか。
読者が共感を抱きやすいのは、作品中でもっとも未熟な人物なはず。
父の物語はほどほどにして、娘をもっと活躍させるべきでした。


さらに問題なのは、
せっかくブラム・ストーカーの『ドラキュラ』を下敷きにしておきながら、
肝心のドラキュラの描き方が幼稚なことです。これはかなり痛い。


ドラキュラはⅡ巻の第3部で初めてはっきりと姿を現します。
問題は387ページ。
ここで初めてドラキュラが口をきくのですが、
僕にしては珍しく本を投げ捨てようかと思いました。


「彼は誇らしげにいっそう胸を張ってすっくと立つと、
ふたりのあいだをへだてる薄闇の向こうからまともに私の顔を見た。
『ドラキュラだ』と、彼は言った」


初めて口をきいたと思ったら「ドラキュラだ」はないでしょう。
ここまで引っ張っておきながら読者をバカにしている。


「ドラキュラ」というのは、ワラキアの言葉で「悪魔」を意味します。
いわばヴラド・ツェペシュに領民たちがつけた異名です。
本人が名乗るときに、
「私の名はヴラド・ツェペシュだ」とでも言うならわかる。
それがいきなり「ドラキュラだ」はないでしょう。


豊臣秀吉が「サルです」って自己紹介するようなものですよ、これは。


たぶん作者がほんとうに書きたかったのは東欧の歴史ミステリーで、
ドラキュラは読者の興味を引きつけるための道具に過ぎないのだと思います。
だから書き方がぞんざいになっている。
というか、へたくそです。
この作家は歴史には通じているようだけれど、恐怖小説を書く腕はないようです。
ブラム・ストーカーの作品は英文学の古典であるにもかかわらず、
著者はあまりに軽々しく手を出している。

東欧の歴史に詳しいのなら、
安易にブラム・ストーカーなどを引っ張り出してこないで、
著者独自の解釈で、新しい吸血鬼像を打ち立てるべきでした。


というわけで、結論。
この小説は歴史小説としてはそれなりに面白い。
しかし、「ドラキュラは実は生きていた」というアイデアは思いっきり失敗している。


例によってハリウッドで映画化されるそうですがどうなることやら。
映画化にあたっては当然、マニアックな中世ヨーロッパ史の話よりも
ドラキュラのほうがクローズアップされるでしょうから。


せっかく他の本を読むのを我慢して長い小説を読み切ったのに、
なんだか消化不良です。


こうなったら次回は、僕が責任をもって
「吸血鬼小説」というカテゴリーのなかからもっと面白い小説をご紹介しましょう。

投稿者 yomehon : 20:19