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2015年07月21日

あなたを挑発する物語 『オールド・テロリスト』


小説家が物語を生み出すパワーはいったいどこから来るのでしょうか。

まずごく単純に、それは年齢的な若さからだと考えることができるでしょう。

一世を風靡した作家が、ある時からまったく作品を発表しなくなったと思ったら、
しばらくして訃報を耳にしたなんてことがたまにありますけど、
年をとって体力がなくなるにつれて書けなくなる人がいることを思えば、
若さがパワーの源泉だという考えもうなずけます。

あるいは、金銭的な成功が執筆の動機になっているケース。

名前は伏せますが、
ある男性作家の書いた小説がベストセラーになり、
(みなさんもよくご存じの小説です)
海外で映画化もされて大ヒットし、
作家の懐には15億のキャッシュが転がり込んできたそうです。

やがてこの作家は、ホテル暮らしをするようになり、
クルーザーだったかヨットだったかを購入して海の冒険に繰り出し、
父性の大切さみたいな説教くさい教育論を説くようになりました。

小説はめったに書かなくなり、時々思いついたように発表する作品は、
まるで別人が書いたもののようにつまらなくなりました。

この作家と親しいある女性作家にこの話を聞いた時、
彼女が「お金持ちになってモチベーションを失ったみたい」と評していたのが
すごく印象に残っているのですが、
このように社会的成功への執念が執筆のパワーにつながっている人もいるようです。


村上龍さんもある時からあまり新作を発表しなくなりました。

はたして年齢的な衰えなのか、
あるいは経済やビジネスのほうに興味関心が傾いてしまったのか、
長年の読者としてはずいぶん気を揉んだものです。


村上さんは『限りなく透明に近いブルー』というアンチモラルなデビュー作で芥川賞を受賞しますが、
その後は強烈な社会変革のメッセージを盛り込んだ作品を手掛けるようになります。

盟友・坂本龍一氏とともに、各界の知識人と対話した『EV.Cafe 超進化論』という本があるのですが、
この中で村上さんが、ファシズムをテーマにした小説を書くために経済を猛烈に勉強していると
述べています。(後にその努力は『愛と幻想のファシズム』として結実)

意外だったのは、村上さんがこれ以降、すっかり経済にハマってしまったことで、
90年代にはJMMという経済・金融や政治問題についてのメールマガジンを発行するようになりました。
(このJMMはなかなか読み応えがあって、山崎元さんや北野一さん、真壁昭夫さんなど、
このメルマガから一般に知られるようになった専門家が多数いらっしゃいます)


国のかたちやあり方を構想するのに、
経済や金融の知識は不可欠です。
村上さんはこれらの知識をベースに、
「あり得たかもしれないもうひとつの日本」を物語を通して描くようになります。


まだ日本が降伏せずに戦争を続けているパラレルワールドを描いた『五分後の世界』

戦争に魅了されていく引きこもり青年を描いた『共生虫』

中学生がネットを武器に社会を変革する『希望の国のエクソダス』

日本への北朝鮮の侵攻を描いた『半島を出よ』

などなど、人々に覚醒を促すような作品を数多く書いてきました。


ところが、2010年のディストピア小説『歌うクジラ』を最後に、
メッセージ性の強い長編小説が発表されることはなくなってしまったのです。

いったい村上龍はどうしてしまったのだろう…・・・。

そんなことを考えていたところに届けられた新作が
『オールド・テロリスト』(文藝春秋)でした。


ひさしぶりの村上作品の舞台となるのは、
オリンピックを2年後に控えた2018年の日本。

渋谷のNHKや池上の商店街や新宿の映画館などで
立て続けに無差別テロが引き起こされます。

犯行後ただちに命を絶った実行犯は、
いずれも生きる希望を失った若者たち。

しかし主人公の中年フリーライターのもとには、
なぜか事前に犯行予告が届き、
テロの背後にいるのはどうやら複数の老人らしいということがわかります。

キーワードは「満州国」。

妻子に逃げられドン底の日々を送っていた主人公は、
老人たちの行方を追う過程で知り合った心を病んだ若い女性とともに、
テロの真相を突き止めるため行動を開始します。
その行く手に待ち受けていたのは、想像もしなかったような力を持つ連中でした――。

気がつけば物語に引き込まれ、あっという間に読み終えていました。

現代社会の病巣を実に正確に剔出した作品ではないでしょうか。


テロ集団の構成メンバーは70代から90代の老人たち。
彼らは何に怒っているのか。

また実行犯に仕立て上げられた若者たち。
彼らはなぜ生きる希望を失っているのか。

主人公の男性が、両者の中間に位置する50代であることにも注目しましょう。
彼は主人公とはいえヒーローらしさは微塵もなく、
常に目の前の事態に動揺し、嘔吐し、涙を流し、
去って行った妻子に未練を抱いている情けない中年男。

物語の主人公なのに実に無様で、無力な存在として描かれているのですが、
なぜこの主人公の造型が、これほどまでに読んでいてリアリティーがあるのか。

あるいは、日常生活で普通にコミュニケーションがとれないパートナーの女性。
なぜ彼女は病んでいるにもかかわらず、まともにみえるのか……。


無様で無力な者、あるいは病んでいる者は、
現代においてはむしろ正気を保とうとしている側なのかもしれない。

正常にみえるほうが、実は異常なのかもしれない……。

この価値観の転倒がこの作品の大きな魅力。

読めばあなたもきっと常識を揺さぶられるはずです。


またこれまでの村上作品の要素があちこちに見いだせるのも楽しい。

たとえば謎めいたパートナーの女性は
『コックサッカーブルース』を思い出させるし、
主人公の力になる異形の者たちは、
『フィジーの小人』を想起させます。

作中ではもっと直接的に過去作品に言及しているところもあるし、
こういう村上作品の集大成的なところはオールド・ファンにはたまりません。
(「村上作品」なんて書くと、最近では春樹だと思われちゃうか)


あとひさしぶりに読んで「いいなぁ」と思ったのが、
村上龍さん独特の言葉のセンスですね。

たとえば今回、登場人物の名前はカタカナ表記になっているのですが、
これは村上龍さんがやり始めて以降、いろんな書き手に真似されています。

あるいは、作中でテロに使用された武器を、
犯人たちが「赤身」とか「大トロ」などと称するのですが、
これもうまいなぁと思いました。

日常で使い慣れた単語が
不意にテロの現場で使われることで生まれる禍々しさというか。

昔、『五分後の世界』を読んだときに、
地下にもぐった日本軍が戦闘用に開発した向精神薬の名称を
「向現」と名付けていたのにもシビレましたが、
村上龍さんはこういう言葉の選び方のセンスが絶妙なのです。


老人たちが日本を「リセット」するためにテロを起こすという刺激的な物語。

もちろんテロは言語道断。絶対にあってはならないものですが、
「いまの社会を変えなければならない」「このままではヤバい」という気分が、
この社会で広く共有されているのは事実ではないでしょうか。

村上龍さんは、
テロという極端な選択肢を提示することで、
読者を挑発しているかのようです。

「君はどう考えるのだ」と。


還暦を超えてなお、
社会的な成功を手にしてもなお、
村上龍はこれだけの危険な物語を世に問うことの出来る作家なのですね。

そのパワーはどこから来るのでしょうか。

ともあれ、村上龍健在なり。

そのことが確認できただけでも満足です。


あ、最後に。
この小説が、読者の大半がいまや高齢者だという噂の
月刊『文藝春秋』に連載されていたという事実が、ぼくにはいちばん恐ろしかったです。

老人たちが起こすテロ。

読者はこの物語をどう読んだのでしょうか。

その感想がいちばん知りたい。

投稿者 yomehon : 21:27

2015年07月20日

さよならリブロ


池袋のリブロ本店が7/20(月)21時をもって閉店。
40年の歴史に幕をおろしました。

世間からすればひとつの書店が店仕舞いをしたというだけのことかもしれません。

でも個人的には、なんというかわずかに残っていたキャンドルの火が消えてしまったような感覚です。
「80年代は遠くなりにけり」という感じ。

閉店は前から決まっていたことですが、やはりいろいろと思うところはあります。

ひとつはもう、ああいう文化の集積地みたいなリアル書店は、今後現れないだろうということですね。

閉店にあたって店頭では、
「40年間ありがとう リブロ池袋本店歴代スタッフが選ぶ 今も心に残るこの一冊」
と題するブックフェアが行われていました。

これまで数々のブックフェアを見てきましたけど、このブックフェアはとても心に残りました。


「この本は、何かある度に、そっと忍び込ませていました。
フェアに、おすすめ本の紹介に、お客様のお問い合わせ時に。」

とある店員さんが思い入れたっぷりにカードに記していたのは、
J.R.ヒメネスのノーベル賞受賞作『プラテーロとわたし』(理論社)

江國香織さんが帯で「私の知る限りもっとも美しい書物」と語るこの本は、
驢馬のプラテーロとの日々を詩人がやさしいまなざしで綴った宝石のような一冊。

この店員さんは、
「これからも大切に販売していくであろう一冊ですが、
この本が一番似合う棚は、僕の中では、池袋本店の棚であり続けると思います」
と書いていたけれど、まさにおっしゃるとおり。


リブロの店内にはかつて「ぽえむ・ぱろうる」という詩集の専門店があったり
(今回も期間限定で復活していました)アートや建築関係の本がやたら充実していたり、
80年代の東京の文化のあるとんがった部分を確実に下支えしていたと思います。


アートと言えば、ある店員さんは、
店頭でコンスタントに売れた一冊として、
ジョン・バージャーの『イメージ 視覚とメディア』を挙げていましたっけ。

「ものを見る」という行為はどういうことかということを
名画から広告表現までを並べて論じた視覚文化論の古典です。

いまはちくま学芸文庫に入っていますが、
リブロで売れに売れたのは当然、PARCO出版のバージョンですよね。

この本の訳者は、現在は東京藝大教授の伊藤俊治さんですが、
あの頃は伊藤さんもばんばん本を出していたな。
その後、大学の授業に専念されたのかほとんど本を出さなくなったけれど。


学生時代に読んで頭をぶん殴られるような衝撃を受けた美術/音楽評論、
椹木野衣さんの『シミュレーショニズム ハウスミュージックと盗用芸術』
思い出の一冊として挙げている店員さんもいました。

この本もその後、ちくま学芸文庫や河出文庫に入りましたけど、
あのピンクのバラが映える装丁の洋泉社版がとても懐かしい。
リブロの店頭ではさぞ目立ったことでしょう。

この本は、美術や写真、音楽のジャンルで当時バラバラに生まれつつあった新しい動きを、
これまでにない批評言語でひとくくりにしてみせた名著。


あの頃はリブロに足を運ぶたびにこういう新刊と出会えたのです。
いまにして思えば、なんと幸福な時代だったことでしょう。


そういえばぼくが足繁くリブロに通っていた頃、
よくお見かけしていたのが高橋源一郎さんでした。

当時のことは、高橋さんの日記文学l『追憶の一九八九年』にまとめられています。
(入手は古書のみ)

あの頃に比べると、高橋さんのプライベートな環境は激変したし、
それに作品の背景となっている1989年に起きた世界史的な大事件からも遠く離れて、
世界は思ってもいなかった方向へと変化してしまいました。


当たり前のことかもしれませんが、時は過ぎ行くのだなぁ・・・。 

as time goes by なのだなぁ・・・と。

リブロ閉店の日にそんなことを思いました。


投稿者 yomehon : 21:30

2015年07月18日

第153回直木賞は『流』に決定!

第153回直木賞は東山彰良さんの『流(りゅう)』(講談社)に決まりました!

初エントリーでの受賞。
しかも聞くところによれば選考会では満票だったとか。
本当におめでとうございます。


予想はダブル受賞でしたから、
またしても予想を外してしまったことになりますけど、
そんなことはどうでもいいのです。

選考委員の北方謙三さんも「20年に1回の作品」とおっしゃっていたように、
『流(りゅう)』はおそらく、今後の東山彰良さんのキャリアの中でも代表作になること間違いなしの大傑作!!

ぜひぜひ手にとっていただきたいと思います。


一方、芥川賞は、
又吉直樹さんの『火花』と羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』が同時受賞。

『火花』は受賞と同時に100万部を突破したそうです。
その前がたしか60万部ほどでしたから、賞の勢いというのはスゴイですね。

翌朝の新聞各紙も又吉さんの受賞を大きく取り上げていましたけど、
個人的に気になったのは、同時受賞の羽田圭介さんのこと。


あまりに扱いが薄すぎるんじゃないでしょうか。


又吉さんの『火花』は、彼が根っからの純文学ファンということもあって、意外とオーソドックスな作品です。

生真面目に純文学のスタイルを踏襲していて、
「芸人の書いた小説だから爆笑できるに違いない」と期待して読むと肩透かしを食らうでしょう。

もちろん素晴らしい作品ですし、
こういう正統派の純文学が特に若い世代に読まれるというのは歓迎すべきことです。


一方、羽田圭介という作家は、これまでの作品から推察するに、
とてつもないナチュラル・ボーン・アブノーマルな人物だと思うわけです。

記者会見でも、恥ずかしそうに微笑む又吉さんの隣で、
あまりに感情が見えない表情でたたずむ羽田さんを見て、
「なんかものすごくド変態なことでも考えているんじゃないだろうか」と
激しく想像力を掻き立てられてしまいました。


いやーものすごく気になるな、羽田圭介。


受賞作はまだ単行本化されていないので未読ですが、
おそらくこれもすこぶる変な作品に違いありません。

こちらも発売されたらいちはやくご紹介しますのでお楽しみに!


投稿者 yomehon : 09:01

2015年07月16日

第153回直木賞受賞予想はこれ!

今朝の「グッモニ」でもお話いたしましたが、
今回の直木賞の受賞作は、


西川美和  『永い言い訳』 (文藝春秋)


東山彰良  『流(りゅう)』 (講談社)


以上、2作品の同時受賞と予想いたします!!


「グッモニ」でも、政治になぞらえて(ヘタなたとえですみません)ご説明しましたが、
政局として考えれば、
ベテラン議員なのに大臣ポストに就いたことがない
(6回目のエントリーなのに直木賞を受賞していない)
馳星周さんの『アンタッチャブル』と、
サラブレット2世議員(お母様が時代小説家の澤田ふじ子さん)の
澤田瞳子さんの『若冲』
入閣(受賞)する可能性が大ではないかと思います。


しかーし!!

ここはやはり政策本位(作品本位)を貫きたいのであります。

向田邦子の再来を思わせる西川美和さんの『永い言い訳』

物語の無類の面白さを堪能できる東山彰良さんの『流(りゅう)』

どちらも今年の文学界の収穫ともいえる作品。

胸を張って、自信を持って、この2作を推します!!

投稿者 yomehon : 12:01

2015年07月14日

直木賞候補作を読む(6) 『ナイルパーチの女子会』


候補作のご紹介もいよいよオーラス。

柚木麻子さんの『ナイルパーチの女子会』 (文藝春秋) にまいりましょう。


実はこの作品、今回の候補作の中では、いちばんの難物でした。

すでに山本周五郎賞を受賞している作品であるにもかかわらず、です。

というのも、この作品が取り扱うテーマが、「女の友情」だったからなのですが…・・・。

えーい!あれこれ言う前に、まずはストーリーを紹介してしまうおう。

志村栄利子は国内最大手の総合商社に勤めるエリート。
一流大学を卒業し、隙のないファッションに身を包み、年収もとうに1千万を超えています。

仕事のかたわらのひそかな楽しみは、
自分と同い年の30歳の主婦が書いている『おひょうのダメ奥さん日記』なるブログを読むこと。

自分にはないセンスが気に入って読み続けているのですが、
ブログに登場するお店などから、どうやらご近所さんらしいというところも気になっています。

ある時、栄利子と「おひょう」こと丸尾翔子は偶然、近所のカフェで知り合うことに。

あらためて待ち合わせた深夜のファミレスでふたりは急速に親しくなり、
互いに女ともだちが出来たことを喜び合うのですが……。

ささいなすれ違いによって、栄利子の生来の性格が頭をもたげ、
翔子にストーカーまがいの接触を行うようになり、
両者の関係が歪なものへと変化していきます。

ただ、栄利子の攻撃がきっかけだったとはいえ、
翔子のほうもあることから夫婦関係に亀裂を生じさせてしまい、
両者はそれまでの生活から転落していくことになるのでした……。

女友達の関係が崩壊していくところなどは圧巻の迫力で、
怖がる読者の首根っこをむんずとつかんで離さないような異様なパワーを感じさせる作品です。

柚木麻子さんはこれまでにも女性同士の関係を軸にすえた作品を書いてきました。

でもこの『ナイルパーチの女子会』は、
互いの親との関係であるとか、職場の上司や派遣社員との関係であるとか、
より広範囲に視点を拡げて物語を紡いでいるところが、これまでの作品とは違います。

よりスケールが大きくなっていますし、これまでの路線の集大成と言っていいのかもしれません。

ただ……この作品の核にある「女の友情」というテーマ。
これがなんともわかりづらい。


たとえば、彼女たちは、女友達がいないということが強迫観念になっている。
セックスとか社会的な利害関係とは無縁のところでくつろげる相手が欲しいと思っていて、
互いに求め合うのですが、ささいなボタンの掛け違いからディスコミュニケーションが生じ、
やがてそれは相手への攻撃的な感情へと転化してしまう。

そのプロセスはもちろん頭では理解できるのですが、肚の底に落ちた感じがしない。

そもそもなぜ彼女たちは、
そんなにも周囲の人々との関係の網の目みたいなものにとらわれているのだろう?
わざわざその隙間を探し出して、そこに「女友達」という存在を当てはめようとしているけれど、
友達というのは、そんなに頭でっかちに考えないでも成り立つような関係なんじゃないだろうか。


ひらたくいえば、たまに会って楽しくおしゃべりして、
気が向けばセックスするような異性の友達だってありなんじゃないの?と思うわけですよ。
ぼくのことじゃないですよ。


あるいは、世代がまったく違うし、社会的な地位だってたぶん違うけれど、
そういう世間的な関係抜きに、友人として楽しくつきあえる関係だってあるわけです。
趣味のサークルとか、行きつけの飲食店の常連とかね。


そんなんじゃない。同性の、しかも同世代の友達が重要なんだ、ということなのでしょうか。
うーん、こんなこと言うとミもフタもないけど、そもそもそんなに女友達って、重要???


作中、栄利子が、
自分たちは男社会で競うように仕向けられている、
女の敵は女だと思い込まされているというような発言をするところがあります。

タイトルにあるナイルパーチというのは、
食用の「白身魚」として一般にも流通している淡水魚のこと。
淡白な味とは似ても似つかない獰猛な肉食魚で、
湖などに放たれると、生態系を破壊してしまうくらいに小魚などを食べ尽くす
要注意外来生物でもあります。


栄利子や翔子はもちろんのこと、
現代の社会に生きる女性はナイルパーチみたいなものなのだと作者は言いたいのでしょうか。
お互いを食らいあう獰猛な生き物なのだと。


でも本当にそうだろうか。

もちろんある一面では、女性が生き辛さを感じる社会であることは否定できません。
男社会が女性に生存競争を強いているという言説もまったくの的外れではないでしょう。

しかしそういう面はあるにせよ、
少なくともぼくが身近に知っている女性たちは、もっと柔軟だし、多様な人生を生きています。

男のほうがもっとくだらない社会性にとらわれている。
会社で出世した男性ほど退職してから面倒くさいじいさんになると聞きますがさもありなんです。
女性のほうがよっぽど生物多様性を生きているという印象がありますけどね。


この小説に出てくる女性同士が罵倒しあう場面などには、
読んでいてほんと呼吸が浅くなっていくような息苦しさを感じたものですが、
息苦しさの理由はたぶんそれだけじゃなくて、
社会の見方がスクエア過ぎるところにもあるように思うのです。


もっともラストで、栄利子と翔子は、それぞれの道をみつけて一歩を踏み出すので、
そういうナイルパーチがうようよいるような底なし沼にとどまるわけではありません。

ただ、その踏み出す一歩というのは、
30歳にしてようやく大人の階段を上るみたいなレベルのことだったりするのですが。


作中でも30歳ってところが強調されてるから、
一見それくらいの年齢の女性の生き辛さがテーマのような気もついしてしまうのだけれど、
「ちょっと待てよ?」と思ったのは、
この物語を、年齢に関係なく、
他人との距離感をうまくつかめない人の物語として読み直すとどうなんだろう?ということ。

ほら、時々、いるじゃないですか。
初対面なのにやけに距離感が近い人が。

昔、亡くなった森田芳光監督をゲストでお招きしたとき、
観客に怖いと思わせる演技のつけかたについてお話をうかがったことがあります。

それは「距離感だ」と森田監督は仰った。

「距離のチューニングがおかしい奴を人は怖いと思うのだ」と。

だから距離が近いのに大きな声で話させるとか、
俳優にそういう演技をさせると、観客は恐怖を感じるのだそうです。


なるほど!とものすごく納得したのをおぼえています。

この小説でも、エリートに見えていた栄利子のことを、
ある時点で「あ、こいつヤバイかも」と気がついたのも、
まさに翔子に対する距離感がおかしいと思えた瞬間だったし。


そういう「他者との距離感をうまく育めなかった人たちの成長物語」として読めば、
この作品は非常に腑に落ちるものとなるわけです。


ただ、そこに「女たちが置かれている過酷な現実」というような
社会性のフレーバーをまぶしたものだから、
かえって味の本質がわかりにくくなったんじゃないだろうか、と……。

かように思った次第であります!

生意気申し上げて申し訳ございません!


さて、第153回直木賞の候補作のご紹介はこれにて終了。

気がつけばいつの間にか目のものもらいも治ってしまった。
ずいぶん長い間、候補作と格闘していたのですね。


受賞作の最終予想は、7月16日(木)、選考会当日の「グッモニ」の中で行います。

いつものように外したら全候補作をプレゼントいたします。

お楽しみに!!

(でも今回は外しませんけどね)

投稿者 yomehon : 20:26

2015年07月13日

直木賞候補作を読む(5) 『流』


ふだん勤勉とは程遠い人間が、
なぜかこの時ばかりはコツコツと読書にいそしむ直木賞予想も5作目となりました。

東山彰良さんの話題作『流(りゅう)』(講談社)です。


たとえて言うなら、今回の候補作の中では、
バッターボックスに入った時の「構え」がいちばん大きな作品。

なにせ台湾の近現代史ともリンクした物語ですから。

そんなこともありますので、まず初めにストーリーをご紹介したほうがいいでしょう。


1975年。
台湾の初代総統・蒋介石が没したこの年、
主人公の葉秋生(イエ・チョウシェン)は、17歳にして大切な人の衝撃的な死を目撃します。

祖父の尊麟が、何者かに惨殺され、その現場の第一発見者となったのです。

祖父は誰に殺されたのか。

この謎解きが、まず物語を貫く縦糸となります。


秋生は、台北イチの進学校に通っていたにもかかわらず、
その後、悪友に唆され替え玉受験の片棒を担いだことが露見してドロップアウト。

「名前さえ書けば誰でも入れる」高校に編入してからの喧嘩に明け暮れる毎日、
不良仲間との友情や、幼馴染の年上の女性との初恋、大学受験の失敗や、
軍隊での最低の体験などなど、秋生の青春の日々が活き活きとした筆致で描かれる。

これが物語を彩るもうひとつの横糸となります。


このあたりの躍動感にあふれ、しかも瑞々しい青春の日々の部分を読んで、
在日朝鮮人の青年を主人公にした(正確には在日韓国人に国籍を変えた青年、ですが)
金城一紀さんの直木賞受賞作『GO』を思い起こす人もいるかもしれません。

でもこの『流』は、そのようなポップな青春小説の要素も備えながら、
片方では、重厚な歴史小説の顔もあわせもっているのです。


ご存知の通り、台湾は、
戦前は日本の支配を受け、
戦後は国民党と共産党との内戦によって、
大陸から切り離されるなど、複雑な歴史的背景を負った地域。

祖父の殺害にも、大陸での抗日戦争や国共内戦が深く関わってきます。

祖父を殺した犯人探しは、やがて主人公のルーツ探しとも重なってくるのですが、
こうした台湾の近現代史に刻まれた負の記憶も、しっかりと描かれていて読み応えがあります。


ポップにして、重厚。
鮮烈にして、ノスタルジック。

この振れ幅の大きさが、この作品の魅力でしょう。


台湾ヤクザの生態であるとか、
日本とはくらべものにならないくらいデカいゴキブリがいるとか、
幽鬼がどんなふうに恐れられているかとか、
そこかしこに撒き散らされた檳榔(びんろう)の真っ赤な噛み汁とか、
台北の街が匂い立つような描写の数々も素晴らしいし、
そのうえで、戦争がいかにその人の人生に暗い影を落とすかということも
しっかりと描かれていて、これまたお見事。


ひとつの作品の中に、
これでもかというくらいに複雑な要素をぶちこんだにもかかわらず、
物語が空中分解することなく、クリスタルカットされた宝石みたいに
ここまで多面的な輝きを放っているというのは、ほとんど奇跡的出来事といっていいのでは。

ちなみに著者の東山彰良さんは、台湾で生まれ、9歳の時に来日しています。
実際にお祖父さんが国民党の遊撃隊だったりといった史実をもとにしているところも多いそう。


すぐれた作家には、
その人が一生に一作書けるかどうかといった渾身の傑作があるものです。

『流』はまさにそのような作品ではないか。


ただし、直木賞の選考会では、
初エントリーの作家が、「次作もみてみたい」という理由からスルーされることもしばしば。

さあ、選考委員のみなさん!

これほどまでの力作を前に、
今回もそういう呑気なこと、言えますか???

投稿者 yomehon : 10:35

2015年07月11日

直木賞候補作を読む(4) 『アンタッチャブル』


候補作も4作目に突入。

馳星周さんの『アンタッチャブル』(毎日新聞出版)です。

馳さんといえば、やはり『不夜城』のような「暗黒小説」(ロマン・ノワール)の
書き手という印象が強いのですが、この作品は意外にもコメディ。
まずそこに驚かされました。


で、興味津々読み始めたのですが、
なるほど、この小説は、以下のような公式で読み解けるようです。


『相棒』 × 『イン・ザ・プール』 = 「お笑い公安小説」

容疑者を追跡中に一般人をはねて植物状態にしてしまうという大きなミスをおかし、
捜査一課から左遷された宮澤が配属されのは、まったくの畑違いの公安部。

しかもそこで待っていたのは、公安のアンタッチャブルと言われる椿警視でした。

警視庁公安部外事三課に籍を置く椿警視は、エリート中のエリート。

父は外務省のキャリア官僚で豪邸に暮らすお金持ち。
東大法学部を首席で卒業し、国家公務員Ⅰ種試験もトップ合格。

全国約29万人の警察職員を統括するわずか500名ほどのキャリアの中でも
別格の毛並みの良さと頭脳をあわせ持ち、ゆくゆくは警察庁長官も間違いなしと言われた人物です。


ね?
ミスをした捜査官が閑職に追いやられたかと思ったら、
そこにいたのが警察組織きってのエリートという設定。
これがまず『相棒』を彷彿とさせるでしょ。

ただこの椿警視、杉下右京のようなスマートな人物とは程遠いんですよね。

妻の浮気がきっかけで離婚したことから人格が崩壊、
いまは常に妄想にとらわれたイカレた人物として、公安内でも持て余されています。

他人の都合もかえりみず、無理難題を押し付けたり、傍若無人にふるまったりする椿をみていて、
「あれ?この感じどっかで……」と既視感をおぼえてよくよく考えてみると、
これって奥田英朗さんの『イン・ザ・プール』の主人公、
人格が破たんした精神科医・伊良部一郎にそっくりでした。

物語は、椿が独自の情報源から、
北朝鮮の大物スパイが日本に潜入しているという情報を入手し、
宮澤が巻き込まれていくという展開に。

ストーリーの本筋は、北朝鮮スパイをめぐるコンゲーム。
(コンゲームというのはストーリーが二転三転する犯人との追いかけっこのような小説のこと)

そこに、宮澤が公安上層部から椿の行動を監視しろと命じられたり、
植物状態にしてしまった一般人の娘・千沙とのからみがあったりで、
物語はさらに派手に、そして賑やかに転がっていき、
ラストでは意外などんでん返しを迎えるのです。


先日、読売新聞の読書欄で、
奥田英朗さんが特集されていたのですが、
その中で奥田さんが珍しく自作について語っていて、
『イン・ザ・プール』ことを、「余技」だとおっしゃっていたのが印象的でした。

ちなみに奥田さんはこのシリーズ2作目の『空中ブランコ』で直木賞を受賞しています。

奥田作品に親しんできた者からすれば、当時「なんでこの作品が?」と疑問に思ったものです。
「代表作は他にあるじゃないか」ということですね。

でも直木賞というのは、よくこういうことがあるんです。

これまでのキャリアからすれば、とうに授賞していなければおかしい相手に、
タイミングを逸してしまって、まったく的外れの作品で賞を与えてしまうということが。


普段、本をあまり読まないような人が、
直木賞をきっかけに初めてその作家に興味を持ってくれたのに、
受賞作を代表作であると勘違いしてしまったらどうしよう……。

余計なお世話と言われるかもしれませんが、
昔からその作家を追いかけてきた者からすると、
そういうことまで心配してしまうんですよね。

この『アンタッチャブル』にも、まさしくそういう心配をしてしまうわけです。

馳さんはこれで6回目の直木賞候補。

どうみても『アンタッチャブル』は、馳さんが楽しみながら、「余技」で書いたものとしか思えません。

もしこれで受賞したら、
日本を代表する「暗黒小説」の書き手の受賞作がコメディということに……。

そんなの、あり???

投稿者 yomehon : 22:39

2015年07月08日

直木賞候補作を読む(3) 『永い言い訳』


では3作目まいりましょう。

西川美和さんの『永い言い訳』

ご存知のとおり西川美和さんはすぐれた映画監督でもあり、脚本家でもあります。
『ゆれる』(06年)なんてゼロ年代の邦画を代表する傑作じゃないかと思いますね。


ぼくはこの『永い言い訳』を帰りの電車で読んでいたのですが、
駅で降りたところで残った最後の数ページを、そのままホームのベンチに座って読み続けました。

読み終えて目をあげたときに景色が煙ってみえたのは、
そぼ降る雨のせいばかりじゃなかった。

気がついたら、泣いていました。

ただでさえ梅雨の長雨で鬱陶しいのに、
デブの中年男がベンチで泣いている光景は
さらに輪をかけて鬱陶しいものだったに違いありません。

でもこの作品は、それだけ読むものの心を揺さぶる力を持っている。
実に素晴らしい小説です。

ここでみなさんにひとつ質問を。

あなたは過去の自分のことを好きですか?それとも嫌いですか?

ぼくは大嫌い。

もし時間をさかのぼれるなら、あの時代のあの時に戻って、
自分の首根っこをつかまえて、とことんぶん殴ってやりたいと本気で思う、
そんな消したい過去が山のようにあります。

人生とは、後悔が積み重なったものであり、
生きるとは、大切なことにいつも手遅れになってから気づくことではないでしょうか。

この小説を読んでいるときにぼくは、
そのような過ぎ去った時間への取り返しのつかない思いを何度も呼び覚まされました。

主人公は「津村啓」というペンネームを持つ流行作家の衣笠幸夫。
(あの鉄人・衣笠祥雄さんと同じ名前。この仕掛けは主人公のキャラ付けにうまく活かされています)

幸夫の性格は屈折していて、自分のことにしか関係がなく、他者とうまく関係が結べません。

大学時代に知り合った美容師の妻がいますが、ふたりの関係は冷え切っています。

そんな折、親友とバス旅行にでかけた妻が突然事故で亡くなってしまうのです。


流行作家の妻が事故に巻き込まれたとあって世間の注目が集まり、
そんな世間体との折り合いをつけることにばかり頭がいく幸夫。
カメラの前で哀しみの演技をしつつ、その裏では、
妻の死を心から悲しめず、涙を流すこともできずにいました。

ある時、バス会社の説遺族向け説明会の席で、
幸夫は感情をあらわにバス会社に食ってかかる大宮陽一という人物と知り合います。

誰あろうこの陽一こそが、妻とともに事故の犠牲になった親友の夫だったのです。

長距離トラックの運転手をしている陽一には、小6の息子・真平と4歳の娘・灯がいました。

被害者同士が親友だったという縁で、
互いに面識のなかった幸夫と大宮家のあいだに交流が生まれます。


これまでまったく違った環境にいた両者のぎこちない交流を、
作者は時に優しく、時に残酷な視点でもって描き出していきます。

作中に配置したいくつものエピソードの中で、
大の大人がみせる卑小さであったり、子供の驚くような大人びた内面であったり、
普段の生活ではそこまで人がみせないようなこと、見落としがちなことを丁寧に掬い取っていくのです。

両者の経済的な格差から生じるささいなすれ違いに胸を痛め、
他人とうまく関係を結べない幸夫が
子供たちと関わることで変わっていく場面に鼻の奥をつんとさせ……というように、
作者に導かれて泣いたり、笑ったりしているうちに、
やがてひとつの事件が起き、物語は思ってもいなかった方向へと舵を切ります。


もちろんここでストーリーの詳細は明かせませんが、
ひとつだけ言えるのは、この物語は、
「大切な人の死がきっかけで出会った両者のあいだに新たな絆が生まれる」
というようなありがちな展開にはとどまらないということ。


万感迫るラストから伝わってくるのは、
「人生は他者そのものだ」という作者のメッセージ。

大切な誰かとの別れを経験した時、人はいつも
「もっとこうしてあげればよかった」とか、
「あの時あんなことを言わなければよかった」と後悔の念に駆られます。

大切なことに気がつくのは、いつも手遅れになってから。

でもだからといって、別れがすべて美化されるかといえば、それも違うと思うのです。

ひどい言葉をぶつけてしまった相手がそのまま帰らぬ人になってしまったり、
謝るきっかけを失ったまま二度と会えない関係になってしまったり……。

そのようなことは世の中にはままあることです。


「別れ」がいつも切なくて、甘酸っぱいものであるとは限りません。
むしろキレイごとではない別れのほうが多いのではないか。

この小説は、そういった「みっともない別れ方」というか、
別れに際してじたばたとあがくしかない人々を真っ直ぐに見つめた作品なのです。

後悔はもう取り返しがつかないけれど、
でも一方で、人はまた、生きている他者ともともにあるのです。
他者がいるからこそ、悲しみの中にあっても人は踏みとどまることができるのです。


「あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える『あのひと』が、
誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことのできる存在が。」(306ページ)

人間の愚かさと美しさを、真摯に描いた素晴らしい作品。

もし選考委員のどなたかがケチをつけるとすれば、
作中、視点人物が頻繁に切り替わる箇所があるところかもしれません。
でもそれも、映画におけるカットの切り替えのようなものだと思えばなんということもない。

そんな瑣末なことで、この小説の価値はいささかも揺るがないと思います。


投稿者 yomehon : 17:08

2015年07月07日

直木賞候補作を読む(2) 『若冲』


さて、次なる候補作は、澤田瞳子さんの『若冲』(文藝春秋)です。


江戸時代中期の京都で活躍した画人・伊藤若冲をご存知でしょうか。

京都錦小路の青物問屋の主人でありながら、家業は弟まかせで画業三昧。
独創的な動物画などをのこした画家として知られています。


『若冲』についてみていく前に、ちょっとみなさんに考えてみていただきたいことがあります。

私たちが何かをみたときに「美しい」と感じる。
その美しいと感じる感性は、はたしてあなたオリジナルのものなのでしょうか?

もちろん人間には生まれながらに美を感じる心も備わっているでしょうが、
ぼくたちが美しいと感じるものの多くには、最初にその美しさを発見した人がいるのも事実です。

たとえば縄文土器。
この縄文土器が人類の歴史上、
特筆すべき造形美を誇るものだと最初に看破したのは岡本太郎でした。

あるいは土地土地で昔から大切に使われてきた器などの生活用具。
それらは柳宗悦によって「用の美」という新しいコンセプトを与えられ、
民芸として人々に愛されるようになりました。

また路地裏で目にした、ただのぼっておりるだけの階段や、
セメントでふさがれたドアといった用途不明、意味不明なモノたち。
それらを「超芸術トマソン」と命名し、前衛芸術に仕立て上げたのは、
赤瀬川原平さんをはじめとする「路上観察学会」の人々でした。

近年では、正式な美術教育を受けておらず、発表するあてもないままに作成されたような作品群を
アウトサイダーアートとしてくくる動きもあります。
(生涯のほとんどを引きこもって奇妙な作品を書き続けたヘンリー・ダーガーをみよ!)


つまり、「この作品は美しい!」「スゴイ!」と、
誰か優れた目利きによって見出されて初めて、
ぼくたちはそこに美が存在することに気がつくわけです。

伊藤若冲もそのようにして「再発見」された作家でした。

1970年、美術史家の辻惟雄さんが、
それまで美術史の中に埋もれていた、
伊藤若冲、岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを、
「奇想」というキーワードでくくった記念碑的名著『奇想の系譜』を発表したのです。
この著作が、若冲を再び世に出すきっかけとなりました。

その後、2000年に没後200年を記念して開かれた大回顧展によって、
さらに世間一般に若冲はブレイクすることになります。
ちょっとした若冲ブームが起きたのです。


この時、「奇想の画家」のひとりとしてではなく、若冲が単独でブレイクしたのは、
おそらく時代の後押しみたいなものもあったのではないでしょうか。

というのも、若冲は「元祖おたく」といってもよいような人物だったからです。

家業は放っぽらかして、日がな一日、絵ばかり描いている。
好きなことだけを突き詰めて生涯独身。
まさにおたくの鏡のような人物ではありませんか。

しかも方眼を利用してドット絵のようにして描いた屏風画の大作などは、
まるでコンピュータ・グラフィックの走りのようにも見えるし。

このように現代から見ても、まったく古びていないというか、
今の時代にも通じるようなところがあったがゆえに、
若冲は人々にウケたのではないかと思います。


しかしこの『若冲』は、そのような「元祖おたく」的な若冲像に異を唱えます。

なにしろここで描かれる若冲には妻がいて、
その妻が自死してしまった責めを負って、贖罪のために画を描いているというのですから!

しかも自死した妻には弟がいて、それが後に絵師・市川君圭となり、
君圭の息子を若冲が育てていたというのですから!


このアイデアというか設定が、この小説の根幹だといっても過言ではありません。


この設定の上に作者は、作家的な想像力を存分に駆使して、
これまでのほんわかしたイメージのおたくな若冲像をぶち壊して、
絵筆を手に苦悩し、もがき苦しむ新しい若冲像を打ち立てたのです。

この力業には脱帽せざるを得ません。


しかも何の根拠もなく、想像力にまかせて書いたというのではなく、
週刊ポストの著者インタビューによれば、
若冲の晩年の様子を書いた当時の雑文にみつけた
「尼の姿をした妹と男の子がいた」という記述を核にして、
物語を肉付けしていったようです。

そういう雑文の類にまで目配りして資料をしっかり読み込んでいるんですね。

資料といえば、社会性がないイメージがあった若冲が、
錦市場の存続問題が持ち上がった時に、存続に向けて奔走したということも
最近の研究で明らかになっているとのこと。
そんな新たに掘り起こされた史実も、この作品で知ることができました。

このように先行研究も含めて、
歴史資料をしっかりと読み込んているのは見事だと思います。

ただ、少し残念なところもありました。

それは、次のような部分。

「おお、そうじゃ。絵というもんはすべからく人の世を写し、見る者の眼を楽しませるもの」(293ページ)


「絵は美しければ美しいほど、喜ばれるもん。そやから絵師は須らく、絵を見る者に媚び、
一つの綻びもない草花を描くんどす」(352ページ)

「すべからく」は本来、
「ぜひともしなければならない」という意味を指します。
ですので、「すべからく」は、その下の「~べし」という言葉とセットで、
「すべからく~すべし」という使われ方が正しいのです。

要するに「すべて」という意味で使うのは、誤りだということですね。

(上記ふたつの引用はどちらも「すべて」の意味で使っていますよね?オレ間違ってないよな……)


サドやバタイユなど異端の文学や思想の紹介者として知られ、
また小説家としても『高丘親王航海記』などの傑作を遺した
故・澁澤龍彦さんに、「すべからく」というエッセイがあります。
『太陽王と月の王』所収)

さすがに澁澤さんの説明はわかりやすい。


「『すべからく』はもともと漢文の訓読から出た語で、漢文では須と書くのである。
須田町の須である。必須の須である。
必須課目というのは、選択課目とちがって、どうしても学習しなければならない課目のことだ。
すべからく学習すべき課目のことだ。『すべからく』という言葉は、こういう場合に用いるのである」

もちろん僕だってずいぶん言葉は間違って使っているでしょうし、
他人のことをあれこれ言える立場ではないのは自覚しています。

ただ、文学作品で、この手の言葉の間違いに出くわすと、
読んでいてテンションが途端に下がってしまうのです。


しかも、この二か所、
一方は「すべからく」とひらがなに開いているのに、一方jは「須らく」と漢字。
この表記の不統一もなんだか雑な感じがしてしまう。


前述のエッセイの中で、澁澤さんはこう書いています。


「かつて旧制中学で漢文を習ったことのある世代には、こういう間違いは、
まず絶対に考えられないであろう。もしもレトリックとして漢語的な表現を使いたいなら、
若い世代といえども、すべからく漢文を学ぶべきであろう」


漢文の伝統が途切れたいまの時代に、時代小説を書くことの難しさ。
そんなことをちょっと考えさせられました。

文藝春秋が満を持して送り出したであろう野心作ではありますが、
「大胆にして細心」の「細心」の部分で、ちょっと引っかかってしまいました。

投稿者 yomehon : 16:09

2015年07月06日

直木賞候補作を読む(1) 『東京帝大叡古教授』


今回から第153回直木賞の候補作をみていきます。

ただここへきて問題発生。
ひどいものもらいが出来てしまい、左目が塞がってしまいました。
全候補作を読み込まなければならないタイミングでこのアクシデントは正直キツい……。

でも選考会は待ったなし。
なにがなんでも読み終えてみせます!


さて、本日取り上げるのは、門井慶喜さんの『東京帝大叡古教授』 (小学館)

日露戦争の頃の日本を舞台に、
東京帝国大学の天才政治学者・宇野辺叡古(うのべ・えいこ)教授が、
連続殺人事件を鮮やかに解決していくというストーリー。


「うのべ・えいこ」という名前を訊いて、ただちに思い浮かべるのは、
イタリアの哲学者・文学者のウンベルト・エーコでしょう。

この時点で、読む前から既にいくつかのイメージが湧いてきます。


哲学者としてのエーコは、記号論という分野での業績が知られています。
記号論というのは、簡単に言えば、ぼくらが使う言語の秘密を解き明かそうとする学問分野。
(興味のある方は、講談社学術文庫の『記号論』を読んでください)

でも世界的にエーコの名前を有名にしたのは、
世界的ベストセラー小説 『薔薇の名前』ではないでしょうか。

映画化もされたので、ご覧になった方もいるでしょう。

中世北イタリアのカトリック修道院で起こる連続殺人事件を、
修道士と見習い修道士が解き明かしていくというこの作品。

最大の特徴は、現代を代表する知性といってもいいウンベルト・エーコの博識が、
随所に活かされていることです。

中世の神学論争、失われた(?)アリストレスの『詩学』の続編について、
異端論争、おびただしい書物からの引用と言及・・・・・・。


宇野辺叡古教授も、そういう博識ぶりを発揮して
その薀蓄で我々を楽しませてくれるのだろうかと、いやでも期待が高まります。


それから、 『薔薇の名前』の登場人物が、
「ホームズとワトソン」の関係を踏襲していることにも注意しましょう。
ウンベルト・エーコは、名うてのシャーロキアンなのです。

となれば、叡古教授にも魅力的な助手がいるのだろうと、これまた期待が高まります。


結論からいえば、後者については
「阿蘇藤太」という実に魅力的な学生がワトソン役として登場します。

彼は熊本の第5高等学校から叡古教授を頼って上京するのですが、
いきなり殺人事件の現場に居合わせ、叡古によって
「本名を出すと後々支障が出る」という理由から、
「阿蘇藤太」という変名で通すよう命じられるのです。


一方、前者については、うーん、事件の解決にあたって、
それなりにあっと驚く知識が駆使されたりはするのですが、
さすがにエーコばりに、該博な知識を披露するというまではいかず、いささか期待はずれ。

でも、これはこれで面白い。

詳しくは言えませんが、作中で起こる事件のトリックは、
すべて技術史に属するような事柄がネタになっているからです。

日本が近代国家に生まれ変わっていく過程で、
科学技術が取り入れられ、テクノロジーを背景にいろんなメディアも生まれてくるわけですが、
そういった時代背景がうまく取り入れられている。


時代背景ということでいえば、
当時の実在の人物もたくさん登場します。
ミステリーでありながら、歴史小説の側面もあるところはユニーク。
(歴史小説といってもずいぶんポップなノリなのですが)

徳富蘇峰、原敬、西園寺公望、夏目漱石らが、
事件の重要な関係者として次々に登場してなんとも楽しい。

特に当時探訪記者として活躍した松崎天民などは、いい具合にキャラが立っていますね。
(松崎天民については、坪内祐三さんの『探訪記者松崎天民』がおススメ)

ラストには、「阿蘇藤太」の正体が明かされるというサプライズも。

明治、大正、昭和を生き、特に戦後日本の枠組みを作った大変重要な人物で、
ここは「あっ!そうだったのか!!」と驚かされます。
(ぼくは同郷なのにうっかり気づきませんでした。まさか藤太が実在の人物とは思わず・・・)


連続殺人事件の謎を解き明かす体裁をとりながら、
日露戦争を経て、大衆社会が姿を現し、
やがて庶民に大国意識が芽生えていくという
近代日本の歩みが、巧みにスケッチされているところはお見事。


ただ、直木賞受賞作としては、うーん……やや軽量級でしょうか。


最後にひとつ余談を。

近代日本はその後、困難な道のりを経て、戦後は経済大国として名を成すわけですけど、
バブル崩壊と「失われた20年」を経て、現在はふたたび大きな岐路に立たされています。

現代の日本を取り巻く世界の状況についても、
ウンベルト・エーコは鋭い指摘をしているということを教えてくれたのは、
ジャーナリストの青木理さんでした。

興味のある方は、青木さんもおススメの『永遠のファシズム』をどうぞ。


投稿者 yomehon : 15:59

2015年07月04日

『火花』って読んどいたほうがいいですか?

「あのぉ~、『火花』ってやっぱ読んどいたほうがいいっすかね?」


芥川賞の候補作になってからというもの、
番組スタッフなどからよくこういう質問をされるようになりました。


この手の質問はよくされるのですが、
「読んだほうがいいか?」と聞かれたら、
ぼくはいつも「読んだほうがいいに決まっている」と答えるようにしています。

というのも、読書はひとつの「体験」だからです。


「素晴らしい」とか、「つまらなかった」とか、読んだ感想は人それぞれでかまいません。

大切なのは、本を読んでいるときに、
「はっ」と息を呑むような驚きをおぼえたとか、
忘れていた記憶を呼び覚まされたとか、
心の奥がざわざわするような得体の知れない感じがしたとか、
あなたの内側で起きていたドラマのすべて。
本を読みながら、あなたが感じ取った心の変化のすべてです。

それは他の誰でもない、
この世であなただけが味わうことのできた貴重な「体験」なのです。


本を読むというのは、ひとつの体験をくぐりぬけるということで、
だから、ぼくは本を読んだほうがいいかと聞かれれば、
読んだほうがいいと答えることにしているのです。

もちろんその人がどんな感想を持つかはわかりません。
ぼくが面白いと薦めた本もつまらないと感じるかもしれない。
でもそれでいいのです。

あなたがその本を読んで体験したこと。
それはあなただけのものなのですから。

というような基本スタンスなものですから、
もちろん『火花』だって訊かれればお薦めするのは規定路線ですが、
ただ、この作品に関しては、
そういう基本スタンスをさらに踏み越えたテンションで、
「絶対、読んだほうがいい!」
と強くお薦めしています。


なぜこの『火花』を読むべきなのか。

それはこの小説が、いまどき珍しい青春小説だからです。

なぜ珍しいかといえば、
昔に比べると青春小説を書くことが困難になっているから。

青春時代をとっくに通り過ぎた僕たちのような読者が
青春小説を読んだときに、いったいどこに惹かれるのか考えてみましょう。

それは登場人物がどのような悩みやトラブルを抱えていたとしても、
作品のベースに、「未来に向けた可能性への信頼」があるからではないでしょうか。

年をとるということは、
無数にあったはずの人生の選択肢がひとつずつ閉じられていくということです。

僕たちが青春小説を読むときに感じるあの独特の「眩しさ」は、
そんな未来が待っていることなんてみじんも頭の片隅にない登場人物たちのふるまいに、
もう自分たちがとうの昔に失ってしまった
自らの可能性への無邪気な信頼、確信のようなものを感じるからではないでしょうか。


でも、いまやそのような青春小説は成立しづらくなってしまいました。

文芸評論家の三浦雅士さんの名著『青春の終焉』(講談社学術文庫)などを読むと、
日本が近代国家として歩み始めてまだ若かった頃は、
文学者たちにとって青春というものが一大テーマだったことがわかります。

ところがもはや日本は、国自体が老いの域に達しようとしています。

未来への不透明感が増すなかで、若者たちのノリもかつてとは違ってきました。
無茶をやらかす若者は減り、地に足の着いた堅実な人生設計をする連中が増えています。

青春小説が成立しづらいというのには、こういう時代背景の変化があるのです。


ようやくここで『火花』の話に辿り着きました。

ストーリーはさんざんあちこちで紹介されているので、詳しくは繰り返しません。

芸人の「僕」と破天荒な先輩芸人・神谷との交流を描いた作品、との紹介にとどめておきます。


ぼくがこの小説を読んで、「素晴らしいなぁ」と感じたのは、登場人物たちがよく歩くところでした。

お金がないせいもあるけれど、彼らは酒を飲んだ後などによく歩きます。
何時間も歩いて、その間にいろんな話をする。

そこで語られるのは、芸人の生き方であるとか、笑いについてです。

このたびたび出てくる歩くシーンがいいのですね。
タクシーに乗ってショートカットしたりせず、だらだらと延々と歩いている。
こういう無為な時間を過ごすことこそ、青春の特権であるはずです。


考えてみれば、いま真っ当に青春しているのは、芸人くらいかもしれません。

ミュージシャンの卵や小演劇の俳優を主人公にして
こういう小説が書けるかふと考えてみたのですが、やっぱりちょっと違う。

あくまで個人的な感触ですけど、彼らはしっかり働いている人が多いように思います。
特に小劇場系はほとんど働いているんじゃないでしょうか。

それに対して、この小説の登場人物もそうですけど、
芸人はどうやって生活しているのかよくわからない連中が多い。

「売れなかったら将来どうする」という心配がないわけではないでしょう。
でも芸人には、それ以上に、自分の可能性に賭ける思いを持つ者が多いように思います。

少なくともぼくが知っている芸人たちはみんなそうです。
彼らは将来設計などとは無縁の「愛すべき愚か者」とでも呼びたくなるような人生を送っていますが、
一方でそれは、ぼくのような小心者には真似の出来ない生き方です。

いよいよ死ぬという時、どちらが「全力で生きた」という充実感があるだろう?
芸人たちと接していて、ふとそんなことを考えてみたこともあります。


一見、無為にもみえる時間には、とてつもない豊かさが含まれているものですが、
いまの若者たちは、そんな時間を資格をとるための時間に費やしたりしている。

勿体ない話です。でも、勿体ないけれど、世の中に余裕がなくなっているのも事実です。


そんな世の中の流れとは、この小説の登場人物たちがまったく無縁のところにいる。
そこもこの作品の好ましいところ。

文化人類学者の山口昌男さんが名著『道化の民俗学』などで教えてくれたように、
硬直した秩序から我々を解き放ってくれる道化的な存在をトリックスターといいます。


いまぼくたちは、未来がどんどん細っていくような時代を生きています。

未来が不透明になるにつれて、生き方の幅も狭まっていっている。
「どうすれば生き残れるか」といった類いの指南書が
書店の店頭で目につくようになったのはどれくらい前からでしょうか。

語学やプログラミングや会計の知識を身につけないと、
これからの時代は食べていけないというような脅迫めいたメッセージが
あちこちから聞こえてきます。

現代においては、芸人こそが、そんな硬直した価値観に揺さぶりをかけるトリックスターです。


人気者というのは、時代の無意識の要請によって生まれるもの。
それでいうなら、この『火花』がベストセラーになっているのも、
時代がこのような小説を求めていたからでしょう。

世の中は若者たちに無為な時間を過ごすことさえ許さないほどセコくなったけれど、
人々の無意識は「それはおかしい」と思っているのではないでしょうか。

売れるべくして売れた。
それがこの『火花』という小説なのです。


最後に、「芥川賞とると思う?」という質問も多いので私見を。

作品の水準としてはじゅうぶんにとる可能性はあると思います。
ただ、芥川賞は「今後も書き続けられるかどうか」という点も選考基準のひとつ。

芸人としての活動が忙しい方なので、
小説が余技のように捉えられてしまうと厳しいかもしれません。

投稿者 yomehon : 11:30