« もうすぐ第153回直木賞予想 | メイン | 直木賞候補作を読む(1) 『東京帝大叡古教授』 »

2015年07月04日

『火花』って読んどいたほうがいいですか?

「あのぉ~、『火花』ってやっぱ読んどいたほうがいいっすかね?」


芥川賞の候補作になってからというもの、
番組スタッフなどからよくこういう質問をされるようになりました。


この手の質問はよくされるのですが、
「読んだほうがいいか?」と聞かれたら、
ぼくはいつも「読んだほうがいいに決まっている」と答えるようにしています。

というのも、読書はひとつの「体験」だからです。


「素晴らしい」とか、「つまらなかった」とか、読んだ感想は人それぞれでかまいません。

大切なのは、本を読んでいるときに、
「はっ」と息を呑むような驚きをおぼえたとか、
忘れていた記憶を呼び覚まされたとか、
心の奥がざわざわするような得体の知れない感じがしたとか、
あなたの内側で起きていたドラマのすべて。
本を読みながら、あなたが感じ取った心の変化のすべてです。

それは他の誰でもない、
この世であなただけが味わうことのできた貴重な「体験」なのです。


本を読むというのは、ひとつの体験をくぐりぬけるということで、
だから、ぼくは本を読んだほうがいいかと聞かれれば、
読んだほうがいいと答えることにしているのです。

もちろんその人がどんな感想を持つかはわかりません。
ぼくが面白いと薦めた本もつまらないと感じるかもしれない。
でもそれでいいのです。

あなたがその本を読んで体験したこと。
それはあなただけのものなのですから。

というような基本スタンスなものですから、
もちろん『火花』だって訊かれればお薦めするのは規定路線ですが、
ただ、この作品に関しては、
そういう基本スタンスをさらに踏み越えたテンションで、
「絶対、読んだほうがいい!」
と強くお薦めしています。


なぜこの『火花』を読むべきなのか。

それはこの小説が、いまどき珍しい青春小説だからです。

なぜ珍しいかといえば、
昔に比べると青春小説を書くことが困難になっているから。

青春時代をとっくに通り過ぎた僕たちのような読者が
青春小説を読んだときに、いったいどこに惹かれるのか考えてみましょう。

それは登場人物がどのような悩みやトラブルを抱えていたとしても、
作品のベースに、「未来に向けた可能性への信頼」があるからではないでしょうか。

年をとるということは、
無数にあったはずの人生の選択肢がひとつずつ閉じられていくということです。

僕たちが青春小説を読むときに感じるあの独特の「眩しさ」は、
そんな未来が待っていることなんてみじんも頭の片隅にない登場人物たちのふるまいに、
もう自分たちがとうの昔に失ってしまった
自らの可能性への無邪気な信頼、確信のようなものを感じるからではないでしょうか。


でも、いまやそのような青春小説は成立しづらくなってしまいました。

文芸評論家の三浦雅士さんの名著『青春の終焉』(講談社学術文庫)などを読むと、
日本が近代国家として歩み始めてまだ若かった頃は、
文学者たちにとって青春というものが一大テーマだったことがわかります。

ところがもはや日本は、国自体が老いの域に達しようとしています。

未来への不透明感が増すなかで、若者たちのノリもかつてとは違ってきました。
無茶をやらかす若者は減り、地に足の着いた堅実な人生設計をする連中が増えています。

青春小説が成立しづらいというのには、こういう時代背景の変化があるのです。


ようやくここで『火花』の話に辿り着きました。

ストーリーはさんざんあちこちで紹介されているので、詳しくは繰り返しません。

芸人の「僕」と破天荒な先輩芸人・神谷との交流を描いた作品、との紹介にとどめておきます。


ぼくがこの小説を読んで、「素晴らしいなぁ」と感じたのは、登場人物たちがよく歩くところでした。

お金がないせいもあるけれど、彼らは酒を飲んだ後などによく歩きます。
何時間も歩いて、その間にいろんな話をする。

そこで語られるのは、芸人の生き方であるとか、笑いについてです。

このたびたび出てくる歩くシーンがいいのですね。
タクシーに乗ってショートカットしたりせず、だらだらと延々と歩いている。
こういう無為な時間を過ごすことこそ、青春の特権であるはずです。


考えてみれば、いま真っ当に青春しているのは、芸人くらいかもしれません。

ミュージシャンの卵や小演劇の俳優を主人公にして
こういう小説が書けるかふと考えてみたのですが、やっぱりちょっと違う。

あくまで個人的な感触ですけど、彼らはしっかり働いている人が多いように思います。
特に小劇場系はほとんど働いているんじゃないでしょうか。

それに対して、この小説の登場人物もそうですけど、
芸人はどうやって生活しているのかよくわからない連中が多い。

「売れなかったら将来どうする」という心配がないわけではないでしょう。
でも芸人には、それ以上に、自分の可能性に賭ける思いを持つ者が多いように思います。

少なくともぼくが知っている芸人たちはみんなそうです。
彼らは将来設計などとは無縁の「愛すべき愚か者」とでも呼びたくなるような人生を送っていますが、
一方でそれは、ぼくのような小心者には真似の出来ない生き方です。

いよいよ死ぬという時、どちらが「全力で生きた」という充実感があるだろう?
芸人たちと接していて、ふとそんなことを考えてみたこともあります。


一見、無為にもみえる時間には、とてつもない豊かさが含まれているものですが、
いまの若者たちは、そんな時間を資格をとるための時間に費やしたりしている。

勿体ない話です。でも、勿体ないけれど、世の中に余裕がなくなっているのも事実です。


そんな世の中の流れとは、この小説の登場人物たちがまったく無縁のところにいる。
そこもこの作品の好ましいところ。

文化人類学者の山口昌男さんが名著『道化の民俗学』などで教えてくれたように、
硬直した秩序から我々を解き放ってくれる道化的な存在をトリックスターといいます。


いまぼくたちは、未来がどんどん細っていくような時代を生きています。

未来が不透明になるにつれて、生き方の幅も狭まっていっている。
「どうすれば生き残れるか」といった類いの指南書が
書店の店頭で目につくようになったのはどれくらい前からでしょうか。

語学やプログラミングや会計の知識を身につけないと、
これからの時代は食べていけないというような脅迫めいたメッセージが
あちこちから聞こえてきます。

現代においては、芸人こそが、そんな硬直した価値観に揺さぶりをかけるトリックスターです。


人気者というのは、時代の無意識の要請によって生まれるもの。
それでいうなら、この『火花』がベストセラーになっているのも、
時代がこのような小説を求めていたからでしょう。

世の中は若者たちに無為な時間を過ごすことさえ許さないほどセコくなったけれど、
人々の無意識は「それはおかしい」と思っているのではないでしょうか。

売れるべくして売れた。
それがこの『火花』という小説なのです。


最後に、「芥川賞とると思う?」という質問も多いので私見を。

作品の水準としてはじゅうぶんにとる可能性はあると思います。
ただ、芥川賞は「今後も書き続けられるかどうか」という点も選考基準のひとつ。

芸人としての活動が忙しい方なので、
小説が余技のように捉えられてしまうと厳しいかもしれません。

投稿者 yomehon : 2015年07月04日 11:30