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2015年07月07日

直木賞候補作を読む(2) 『若冲』


さて、次なる候補作は、澤田瞳子さんの『若冲』(文藝春秋)です。


江戸時代中期の京都で活躍した画人・伊藤若冲をご存知でしょうか。

京都錦小路の青物問屋の主人でありながら、家業は弟まかせで画業三昧。
独創的な動物画などをのこした画家として知られています。


『若冲』についてみていく前に、ちょっとみなさんに考えてみていただきたいことがあります。

私たちが何かをみたときに「美しい」と感じる。
その美しいと感じる感性は、はたしてあなたオリジナルのものなのでしょうか?

もちろん人間には生まれながらに美を感じる心も備わっているでしょうが、
ぼくたちが美しいと感じるものの多くには、最初にその美しさを発見した人がいるのも事実です。

たとえば縄文土器。
この縄文土器が人類の歴史上、
特筆すべき造形美を誇るものだと最初に看破したのは岡本太郎でした。

あるいは土地土地で昔から大切に使われてきた器などの生活用具。
それらは柳宗悦によって「用の美」という新しいコンセプトを与えられ、
民芸として人々に愛されるようになりました。

また路地裏で目にした、ただのぼっておりるだけの階段や、
セメントでふさがれたドアといった用途不明、意味不明なモノたち。
それらを「超芸術トマソン」と命名し、前衛芸術に仕立て上げたのは、
赤瀬川原平さんをはじめとする「路上観察学会」の人々でした。

近年では、正式な美術教育を受けておらず、発表するあてもないままに作成されたような作品群を
アウトサイダーアートとしてくくる動きもあります。
(生涯のほとんどを引きこもって奇妙な作品を書き続けたヘンリー・ダーガーをみよ!)


つまり、「この作品は美しい!」「スゴイ!」と、
誰か優れた目利きによって見出されて初めて、
ぼくたちはそこに美が存在することに気がつくわけです。

伊藤若冲もそのようにして「再発見」された作家でした。

1970年、美術史家の辻惟雄さんが、
それまで美術史の中に埋もれていた、
伊藤若冲、岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らを、
「奇想」というキーワードでくくった記念碑的名著『奇想の系譜』を発表したのです。
この著作が、若冲を再び世に出すきっかけとなりました。

その後、2000年に没後200年を記念して開かれた大回顧展によって、
さらに世間一般に若冲はブレイクすることになります。
ちょっとした若冲ブームが起きたのです。


この時、「奇想の画家」のひとりとしてではなく、若冲が単独でブレイクしたのは、
おそらく時代の後押しみたいなものもあったのではないでしょうか。

というのも、若冲は「元祖おたく」といってもよいような人物だったからです。

家業は放っぽらかして、日がな一日、絵ばかり描いている。
好きなことだけを突き詰めて生涯独身。
まさにおたくの鏡のような人物ではありませんか。

しかも方眼を利用してドット絵のようにして描いた屏風画の大作などは、
まるでコンピュータ・グラフィックの走りのようにも見えるし。

このように現代から見ても、まったく古びていないというか、
今の時代にも通じるようなところがあったがゆえに、
若冲は人々にウケたのではないかと思います。


しかしこの『若冲』は、そのような「元祖おたく」的な若冲像に異を唱えます。

なにしろここで描かれる若冲には妻がいて、
その妻が自死してしまった責めを負って、贖罪のために画を描いているというのですから!

しかも自死した妻には弟がいて、それが後に絵師・市川君圭となり、
君圭の息子を若冲が育てていたというのですから!


このアイデアというか設定が、この小説の根幹だといっても過言ではありません。


この設定の上に作者は、作家的な想像力を存分に駆使して、
これまでのほんわかしたイメージのおたくな若冲像をぶち壊して、
絵筆を手に苦悩し、もがき苦しむ新しい若冲像を打ち立てたのです。

この力業には脱帽せざるを得ません。


しかも何の根拠もなく、想像力にまかせて書いたというのではなく、
週刊ポストの著者インタビューによれば、
若冲の晩年の様子を書いた当時の雑文にみつけた
「尼の姿をした妹と男の子がいた」という記述を核にして、
物語を肉付けしていったようです。

そういう雑文の類にまで目配りして資料をしっかり読み込んでいるんですね。

資料といえば、社会性がないイメージがあった若冲が、
錦市場の存続問題が持ち上がった時に、存続に向けて奔走したということも
最近の研究で明らかになっているとのこと。
そんな新たに掘り起こされた史実も、この作品で知ることができました。

このように先行研究も含めて、
歴史資料をしっかりと読み込んているのは見事だと思います。

ただ、少し残念なところもありました。

それは、次のような部分。

「おお、そうじゃ。絵というもんはすべからく人の世を写し、見る者の眼を楽しませるもの」(293ページ)


「絵は美しければ美しいほど、喜ばれるもん。そやから絵師は須らく、絵を見る者に媚び、
一つの綻びもない草花を描くんどす」(352ページ)

「すべからく」は本来、
「ぜひともしなければならない」という意味を指します。
ですので、「すべからく」は、その下の「~べし」という言葉とセットで、
「すべからく~すべし」という使われ方が正しいのです。

要するに「すべて」という意味で使うのは、誤りだということですね。

(上記ふたつの引用はどちらも「すべて」の意味で使っていますよね?オレ間違ってないよな……)


サドやバタイユなど異端の文学や思想の紹介者として知られ、
また小説家としても『高丘親王航海記』などの傑作を遺した
故・澁澤龍彦さんに、「すべからく」というエッセイがあります。
『太陽王と月の王』所収)

さすがに澁澤さんの説明はわかりやすい。


「『すべからく』はもともと漢文の訓読から出た語で、漢文では須と書くのである。
須田町の須である。必須の須である。
必須課目というのは、選択課目とちがって、どうしても学習しなければならない課目のことだ。
すべからく学習すべき課目のことだ。『すべからく』という言葉は、こういう場合に用いるのである」

もちろん僕だってずいぶん言葉は間違って使っているでしょうし、
他人のことをあれこれ言える立場ではないのは自覚しています。

ただ、文学作品で、この手の言葉の間違いに出くわすと、
読んでいてテンションが途端に下がってしまうのです。


しかも、この二か所、
一方は「すべからく」とひらがなに開いているのに、一方jは「須らく」と漢字。
この表記の不統一もなんだか雑な感じがしてしまう。


前述のエッセイの中で、澁澤さんはこう書いています。


「かつて旧制中学で漢文を習ったことのある世代には、こういう間違いは、
まず絶対に考えられないであろう。もしもレトリックとして漢語的な表現を使いたいなら、
若い世代といえども、すべからく漢文を学ぶべきであろう」


漢文の伝統が途切れたいまの時代に、時代小説を書くことの難しさ。
そんなことをちょっと考えさせられました。

文藝春秋が満を持して送り出したであろう野心作ではありますが、
「大胆にして細心」の「細心」の部分で、ちょっと引っかかってしまいました。

投稿者 yomehon : 2015年07月07日 16:09