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2014年01月30日

「第3の万能細胞」の衝撃!


いやー驚きました!!

理化学研究所とハーバード大などの国際研究チームが、
まったく新しい手法で「万能細胞」を作成することに成功したというニュースです。

ここ数年、科学の世界では大発見が相次いでいますね。

山中伸弥教授がiPS細胞を生み出した時にも、
「生きているうちにこんな世紀の大発見に出会えるとは」と感動したものですが、
その後、ヒッグス粒子発見の報に接してふたたび腰を抜かし、
さすがにもうしばらく驚くことはないだろうとタカをくくっていたら、今回の慶事です。


しかも研究チームの代表が、まだ30歳の女性だと知って二度びっくり!

ふと気がついたのですが、
このところ個人的に注目している人物を思い浮かべてみると、
ミュージシャンでは大森靖子さん、コラムニストではジェーン・スーさん、
アーティストではスプツニ子!・・・etc、というように、そのことごとくが女性です。
男はなにやってんだろう、ホントに。


ともあれ、いまもっとも面白いのは科学のジャンルかもしれませんね。


万能細胞というのは、さまざまな組織や臓器などに変化する細胞のこと。
その代表的なものは「受精卵」です。

ぼくたちのからだは受精卵が分かれてできたもの。
ヒトのからだは60兆個の細胞からできていますが、
そのおおもとはたったひとつの小さな小さな受精卵。
不思議なことに、あんな小さな卵から、
ぼくたちの目や足や髪の毛や爪などが生まれてくるのです。

ただ、ここでひとつ難問がありました。

受精卵からいったん何かになったものは、二度ともとに戻れなかったのです。

たとえば卵から親指になったものを、ふたたび卵の段階に戻すことはできない。

”もとに戻す”ことを「初期化」、
”もとに戻せませんよ”という性質を、「不可逆性」といいます。


もし体細胞を初期化し、不可逆性の壁を破ることができれば、
何らかの疾患を抱えた臓器を、新たにつくった健康な臓器と取り換えたりできるかもしれない。
しかもそれは自分の細胞をもとにつくられるものだから、拒否反応の心配もありません。

このような理由から、万能細胞の実用化に世界中の熱い視線が注がれてきたわけです。

人類が初めて万能細胞を手に入れたのは1981年のこと。
ただ「ES細胞」と呼ばれるこの万能細胞は、受精卵そのものをいじってつくるもので、
人間への応用は倫理的な問題をはらんでいました。


ここに颯爽と登場したのが、2006年にiPS細胞を発表した山中教授でした。
素人考えかもしれませんが、山中教授のオリジナリティーは、

「受精卵をつかわずに細胞の初期化ができないものか」

と考えたことにあるのではないかと思います。
問いの立て方が素晴らしかったというか。

iPS細胞は、受精卵ではなく体細胞を使うという点が画期的でしたが、
遺伝子をいじるなどのプロセスが必要で、効率的に作製ができないなどの難点がある他、
細胞が「がん化」する危険性なども指摘されていました。


今回、小保方晴子さんが発見した「STAP細胞」の作製方法はきわめて簡単です。

マウスから取り出したリンパ球(白血球の一種)を、
弱酸性溶液に25分間浸して、その後培養をするというもの。
すると数日後には、万能細胞ができあがるというのです。

酸性液に浸して、外から刺激を与えることで細胞を初期化するという、これまでにない発想。


小保方さんは記者会見で、
「なぜ細胞に外から刺激を刺激を与えてみようと思いついたのか」と問われて、

「からだの細胞から幹細胞を取り出す操作をしているときに、
これは幹細胞を『取り出している』のではなく、操作(刺激)することによって
幹細胞が『できている』のではないかと思うようになった」

といったようなことをおっしゃっていました。
彼女も山中教授と同様、問いの立て方が素晴らしかったのですね。


さて、今回の快挙が本としてまとまるまでには少し時間が必要でしょう。

それまではこんな本を読んで、予習につとめてみてはいかがでしょうか。

万能細胞の基本的なことについてわかりやすくコンパクトにまとまっているのは、
『生命の未来を変えた男』NHKスペシャル取材班編著(文藝春秋)でしょう。
書評はこちら

もっと手軽に知りたいという方は、
毎日新聞の名物科学記者・元村有希子さんの『気になる科学』(毎日新聞社)がおススメ。
山中教授のギャグセンスをネタにしつつ、
iPS細胞のキモの部分をさらりとまとめてみせたコラムはお見事。
書評はこちら


今回の大発見は、科学誌ネイチャーの巻頭論文として掲載されましたが、
ネイチャーやサイエンスといった超一流科学誌が
どのように論文審査しているかがわかるのが、 『論文捏造』村松秀(中公新書ラクレ)です。
(書評はこちら


一方、眩いばかりのスポットライトを浴びている小保方晴子さんに目を転じるとすれば、
科学者の大先輩・米沢富美子さんの自伝『二人で紡いだ物語』(中公文庫)はいかがでしょう。

三人の娘を育てながら、物理学者として世界的な業績(アモルファス研究)を打ち立てた
米沢さんの人生には、常に彼女を励ます夫の存在があったのですね。

愛する夫の死までが描かれた感動的な内容ですが、
家庭をもった女性が第一線で活躍するのがいかに大変かということもよくわかる一冊です。


また小保方さんをみて思わず、我が子の教育に思いを馳せてしまった方には、
『理系の子 高校生科学オリンピックの青春』ジュディ・ダットン(文藝春秋)を。

科学に魅せられた子どもたちを追いかけたすこぶる面白いノンフィクションです。

この本には、石炭ストーブが原因の喘息に苦しむ小さな妹のために、
太陽光エネルギーを使った暖房装置を開発した少年や、
自閉症を持ついとこのために、画期的な教育プログラムを開発した少女などが出てきます。

子どもって本当に純粋な想いから好きなことに没頭したりするものなんですね。
科学の分野で頭角を現した子どもたちの物語を読んでいると、
科学ってこんなにも面白いものなのか!と感動すること間違いなしです。


 

投稿者 yomehon : 12:22

2014年01月27日

【1月27日 ON AIR】



大竹まことさんとパートナーとのオープニングトークをお楽しみください!!
(月)阿川佐和子 (火)眞鍋かをり (水)町亞聖
(木)光浦靖子 (金)室井佑月

[更新 1月27日] [毎日更新]
[TIME 20:55]

投稿者 joqr : 16:50

2014年01月20日

最高の選手 最低の選手


「Don't think. feel ! 」(考えるな。感じるんだ!)

直木賞を大外ししてからというもの、
この言葉を胸に刻んで日々の精進を続けております。

ブルース・リーこと偉大なる李小龍が、
ただ一本だけハリウッドと組んだ功夫フィルム
『燃えよドラゴン』の中で口にしたこの言葉。

感じたままに動けば、道はおのずから示される。
心の声の前に小理屈は不要である。

なんて深い言葉なんだろう!

・・・・・・と思っていたのですが、
野村克也さんの『私が見た最高の選手、最低の選手』(東邦出版)を読んで、
はたしてこの言葉は正しいのかどうか、確信が持てなくなくなってしまいました。


ご存知の通り、球界を代表する知性の持ち主である野村さん。

ノムさんからすれば、配球にはすべて「根拠」がなければなりません。

ぼくが前々から疑問に思っていたのは、
「ノーボール、ツーストライクのカウントで、なぜ一球外すのか」ということ。

野球中継を聴いていても、


アナウンサー 「カウント0-2と追い込みました!」
解説者     「次は一球外して、様子をみるんじゃないですかねー」


みたいなやり取りがしばしばみられますが、
ピッチャー有利のカウントで、なぜお約束のように一球外すのかというのが
かねてから疑問だったのです。

この本を読んでようやく疑問が解けました。

野村さんによれば、これは
「V9時代の巨人が0-2から打たれたら罰金というルールを作ったために広まった、
日本プロ野球の悪癖」だそう。

セオリーなどでは全然なくて、要するに慣習に過ぎなかったわけですね。


野村さんはかつての教え子である田中将大投手にも、
0-2から捕手に一球外せと要求されたら、
そのサインには首を振るべきだとアドバイスしたことがあるそうです。
(本の中では、ここからピッチングにおける「遊び」の大切さという深い話になるのですが、
そこはぜひ本をお読みください)

漠然と常識だと考えられていたことが、
実は何の根拠もないことだったわけです。

さすが球界ナンバーワンの頭脳派だけあって、
本書にはこの手の目からウロコの話がたくさん出てきます。


たとえば野村さんは、近年の野球は判で押したような戦術選択ばかりだと嘆きます。
ノーアウト一塁となれば、迷わずバント。
守る側もセカンドでアウトをとろうとせず、確実にファーストでアウトをとる、というふうに。
この結果、何が起きたか。
一塁手に守備力が求められなくなって、名一塁手が育たなくなったのです。
(他にも理由が挙げられていますがそれは本書で)


あるいは、近年の野球でセンターラインが重視されるのはなぜか。
かつて花形だったのは「ホットコーナー」と呼ばれたサードでしたが、
近年では「二遊間コンビ」が重要な役割を果たすことになりました。
その背景にある時代の変化とは何か、などなど。

まさにすべての話に根拠が示されていて実に面白い。


そんなノムさんの手にかかれば、ピッチングの要諦も至極明快。

「間違っても本塁打は打たれない」という外角低めへの投球を「原点投球」、
またそこに投げることができる制球力を「原点能力」と名付け、
その理論を軸に歴代現役の投手をたちまちにしてマッピングしてみせます。

意外だったのは、その理論からすると、松坂大輔投手があまり評価できないとされていること。
球速、球威にこだわって原点能力を磨かないのは「努力の方向性を誤っている」と
野村さんは断じています。

この本には理論的な話だけではなく、
野村さんがご覧になってきた数々の歴代の名選手のエピソードも出てきます。
むしろ野村さんの鋭い観察力が堪能できるのはこちらのほうかもしれません。


野村さんといえばバッターの心理を乱す「ささやき」が有名ですが、
それがまったく通用しなかった打者が榎本喜八さんだそうです。

これまで対戦した中でも選球眼はナンバーワン。

外角にビシッとコントロールされた球が来て、球審が「ストライク!」とコールする。
すると榎本さんは前を向いたままボソッと「ボール半個ぶん、外れてるよ」。

実際、ほんのわずか外れていることを野村さんもわかっていて、
背筋がゾッとしたことが何度もあったとか。

選球眼でいえば王貞治さんもよかったけれど、
それでも王さんは際どい球にはバットがピクッと反応したそう。

一方の榎本さんのバットは絶対に動かず、頭も動かず、表情も変わらない。

「王のほうがよほど扱いやすかった。あれほどに恐ろしい打者には、
あとにも先にもお目にかかったことがない」

という野村さんの述懐には、
長く野球界の第一線で活躍してこられた名選手ならではの重みがあります。


歴史あるジャンルには、決まって語り部がいるものです。
野村さんは1935年(昭和10年)生まれ。
この年に大日本東京野球倶楽部が初めてアメリカに遠征し、
帰国後、東京巨人軍と大阪タイガースが生まれ、
翌1936年からプロ野球のリーグ戦が始まりました。

野村さんご自身の人生は、
まさにプロ野球の歴史そのもの。

この本には、野村さんが現役時代に直接対戦した選手と、
引退後から現在に至るまでに活躍している選手の2つのカテゴリーで
「プロ野球最高の選手」が選び出されていますが、
でもそれは野村さん個人の、ひとつの見方に過ぎません。

「ノムさんはこう書いているけれど、自分の考えは違う」と言ってもらって
大いに結構、とご本人もおっしゃっています。

ならばお言葉に甘えて、この本を題材に大いに語ろうではありませんか。

誰もが評論家になれる。

誰もが口角泡を飛ばして朝まで語り明かせる。

それこそがプロ野球の歴史の厚みの証なのですから。


投稿者 yomehon : 11:46

2014年01月16日

直木賞予想 敗戦の弁 ついでに芥川賞も……。


第150回直木賞が決定いたしました!

受賞作は


朝井まかてさん 『恋歌』(講談社)

姫野カオルコさん 『昭和の犬』(幻冬舎)


が選ばれました。おめでとうございます!!


しかしなぁ……。

昨日のエントリーで、最後まで迷った4作品のうち、
最終的に切り捨てた2作が受賞するとは……。

カッコ悪いったらありゃしない。

いかに「持ってない」男かということを満天下に知られてしまいました。
ああ、恥ずかしい。

(ちなみに朝井さんの作品評は4日前のエントリーを。
姫野さんの作品評は2日前のエントリーをご覧ください)


今回は150回という大きな節目だったわけですが、
選考結果をみるとやはり節目らしさは感じられましたね。
(あとづけの理屈かもしれないけれど)

従来の受賞作がオーソドックスにまとまった直木賞らしい作品だとすれば、
今回は、大器を感じさせる骨太な作品(朝井さん)や、
文壇の動きとは無縁な孤高の作家の作品(姫野さん)が選ばれました。

また偶然かもしれませんが、
今回の受賞作はいずれも女の人生を描いたものですね。
かたや幕末から明治、かたや昭和から平成、
どちらの主人公の人生も読者に感動を与えてくれるのは請け合いです。
(魂をふるわせるような感動と、深く味わい深い感動の違いはあるけれど)


芥川賞も未来志向の選考結果でした。

小山田浩子さんは昨年出た『工場』(新潮社)
本好きのあいだで大評判になった期待の若手。

読んでいると時間や空間が歪んでくるような不思議な作品世界を構築する作家で、
間違いなくこれからさらに大きくなる作家です。
(ちなみに読むなら受賞作の「穴」よりも『工場』のほうがおススメです)


ただ、新しい才能が世に出るのは喜ばしいけれど、
だったら、いとうせいこうさんのような方を候補に選ぶのはどうなのかとは感じました。
だって実績やキャリアがひとりだけ突出してるんですもん。
これではいくらなんでも、いとうさんに失礼。
次回からは候補者は若手や新人で統一すべきではないでしょうか。


ま、なにはともあれ、新しい傾向の受賞作が選ばれたことに拍手!
おめでとうございました!!


投稿者 yomehon : 20:04

2014年01月15日

第150回直木賞の受賞作はこれだ!!


いちど口に出してしまったことは取り消せないのが生放送の恐ろしさであります。
今朝の『福井謙二グッモニ』に出演する直前まで、ぼくは迷っておりました。


最後まで迷ったのは以下の4作品です。


朝井まかて 『恋歌』(講談社)

伊東潤 『王になろうとした男』(文藝春秋)

姫野カオルコ 『昭和の犬』(幻冬舎)

万城目学 『とっぴんぱらりの風太郎』(文藝春秋)


なんといっても今回は記念すべき150回。
だからダブル受賞ではないかと思うのです。

まずやっぱりこの人かなと思うのは、伊東潤さん。
前回からもうとっくに機が熟しています。
まず受賞は間違いないのではないか。


そしてあと一人・・・・・・


個人的には今回、朝井まかてさんの筆力に驚かされたんですよね。

特に牢屋に捕らわれの身となった主人公が目撃する凄惨な処刑シーンなどは
いまでも夢でうなされるくらいインパクトがありました。

ただ、この作品にはひとつだけ気になって仕方ない点があるんですね。

それは一連の物語が、主人公・中島歌子の書いた手記(というか私小説)のかたちで
語られるんですが、明治の時代に書かれたものにしては、文章が新し過ぎるんです。

「この時代を描いた小説でこんな表現は使わないよ」というのはよく選考会でも指摘が出るところで、
ぼくはこの作品に関してもそこがマイナスに評価されるのではないかと考えました。

これがポップなネオ時代小説だったらまだ目をつぶれますが、
正統派なたたずまいをしている小説だけに余計この点が目に付いてしまうというか。


そして姫野カオルコさん。
もう何回も候補になっていて、いつ受賞してもおかしくない方です。
でも150回にふさわしい華々しさは、今回の候補作にはないんですよねー。


万城目学さん。
彼の作品も時代小説の保守本流からみればツッコミどころは多々あるかもしれません。
でも、ネオ時代小説にくくれるような作品ですし、
直木賞が今後、若く新しい読者を獲得していくためには、そろそろこの手の時代小説にも
門戸を開くべきだと思うのです。


そんなことをつらつら考えたあげく、ついに生放送で宣言してしまいました。

今回の直木賞は、

伊東潤さん 『王になろうとした男』

万城目学さん 『とっぴんぱらりの風太郎』

まさかの文春ダブル受賞で決まりです!!

 

投稿者 yomehon : 19:04

2014年01月14日

祝!第150回直木賞 直前予想その③


(前回からの続き)

残るはあと3作。

次は姫野カオルコさんの『昭和の犬』(幻冬舎)にまいりましょうか。

柏木イクという昭和33年生まれの女性の半生を描いたこの小説は、
今回の候補作の中では、もっとも玄人受けする作品ではないかと思います。

というのも、何か大きな事件が起きるわけでもなく、物語が淡々と進行する、
言ってみればものすご~く地味な本であるにもかかわらず、
誰もが記憶にあるような風景がちゃんと描かれていて、
実に味わい深い読後感をもたらしてくれるからです。

ぼくらもニュースで知っているような
ロッキード事件だのバブル景気だのが時代背景として描かれつつ、
イクの身に起きた出来事が語られていく。
それは犬に咬まれただとか、母親から愛されないだとか、
はっきりいって世間ではありふれた出来事ばかりです。

だからといって読んでいて退屈かといえばそんなことはありません。
それはここに書かれているのが、ぼくたちの人生そのものだからです。

この小説の副題に、
「Perspective」
という言葉が使われていることに注目しましょう。
「遠近法」を意味するこの言葉に、
ぼくは作者がそっとメッセージを忍ばせているように思うのです。


世の中では日々いろいろな事件が起きています。
起きた事件を並べてみれば、
思わず「激動の昭和(平成)史」とかキャッチコピーをつけたくなるくらい、
ほんとうにいろいろな大事件が起きている。

そんなふうに激動する社会を遠景に置きつつ、
一方で足元に目を転じてみると、毎年着実に年をとっていく自分がいる。

自らの来し方を振り返った時、
おそらくほとんどの人が、
激動というほどの変化はなかったけれど
それなりに大変なこともあって、
でもそこそこに幸せだったな……というような
感慨を抱くのではないでしょうか。

激動する社会との対比のもとに描かれた平凡な人生、とでもいいましょうか、
ここに描かれているのは、まさしくぼくら自身の姿だと思うのです。


木村多江さんとリリー・フランキーさんが夫婦を演じた
橋口亮輔監督の傑作『ぐるりのこと』という映画を
ご覧になったことはあるでしょうか。

生まれたばかりの子どもを失った夫婦が長い時間をかけて
立ち直るまでを静かに見つめた作品ですが、リリーさん演じる夫の職業が
法廷画家で、地下鉄サリン事件や東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件などの
裁判の模様を効果的に織り込むことで、激しく変化する時代と、
その中で営まれる夫婦の日常とのコントラストを見事に浮き彫りにしていました。


「ぐるりのこと」とは日常生活で起きるさまざまな出来事のこと。
この小説で描かれているのはまさに「ぐるりのこと」であり、
そこに込められた作者のメッセージは、「平凡な人生の肯定」なのです。

別に難しいことが書いてあるわけではありませんが、
この小説はガキが読んでもよくわからないかもしれませんね。
世間の荒波に揉まれた大人の読者が読んでこそ、
その真価がよくわかる作品ではないかと思います。


ただ直木賞としてはどうだろう?
姫野さんはこれまでも4回(今回で5回目)候補になっていますが、
個人的には傑作『ツ、イ、ラ、ク』でとってほしかった。
(第130回。受賞は江國香織さんと京極夏彦さんですからスゴイ戦いだったのですね)

伊東潤さんと同様、受賞すべきタイミングで受賞できてない感あり、です。


さて、お次は万城目学さんの『とっぴんぱらりの風太郎』(文藝春秋)です。

現時点での万城目さんの最高傑作といっていいでしょう。

いきなり大上段に振りかぶったところから話を始めますけれども、
日本文化には「奇想」というキーワードで括れる流れがあります。

美術史家の辻惟雄さんは、伊藤若冲や曽我蕭白、岩佐又兵衛など、
それまでの美術史の正統からは無視されていた画家たちに
「奇想の画家たち」という括りで光を当て、
日本美術史に新たな1ページをつけくわえました。
(詳しくは大名著『奇想の系譜』をどうそ)

辻さんの見立てに倣って、文学の世界で「奇想の系譜」を探すとすれば、
真っ先に名前をあげなければならないのが、故・山田風太郎です。

『魔界転生』であるとか『甲賀忍法帖』であるとか、
奇抜な発想のもとに物語を自在に操ってみせた娯楽小説の巨人ですね。

ぼくは万城目学さんこそ、山田風太郎の衣鉢を継ぐ作家であると思うのです。

鬼や式神を使った怪しげな競技をでっちあげてみせた『鴨川ホルモー』、
鹿が偉そうに話しかけてくる『鹿男あをによし』、
実は大阪は独立国だったという『プリンセス・トヨトミ』などなど、
楽しい法螺話を書かせたら、当代でこの人の右に出る人はいないのではないか。

では今作ではどんな法螺を吹いているのかを見てみましょう。

主人公は伊賀を追い出された忍者の風太郎。
忍者としての高度な教育は受けたけれど、職はない。
まさに現代の「ニート」のような無為な日々を送っていた風太郎ですが、
ある時、しゃべる「ひょうたん」と出会います。
そしてひょうたんに導かれ、豊臣と徳川の決戦の地へと飛び込んでいくのです。

ひょうたんがしゃべるなんてまさに万城目ワールドなわけですが、
ぼくはこれまで万城目作品にひとつだけ物足りないものを感じていました。

山田風太郎にあって、万城目学になかったもの。
それは「悪」の描写です。

これまでの万城目作品では、
凄惨な殺しの場面などが書かれることはありませんでした。
そこが唯一、物足りない部分だった。

ところが本作では、殺人を正面から描いている。
風太郎が誤って子どもを殺すシーンが出てきます。
もちろん読んでいて気持ちのいい場面ではありませんが、
戦国の世にはこなんふうに無辜の民が虫ケラのように殺されることなんてのは
普通にあったわけで、こういった悪の描写にも挑戦することで、
本作はこれまでの万城目作品にはない奥行きを獲得することに成功しています。


ニートの若者がいかに人生を賭けるに値するものを見つけるかという
現代社会にも通じる問いもみてとることができる。
時代小説の皮をかぶってはいるけれど、
この小説はすぐれて現代小説でもあるのです。

とはいえ、やはり戦国時代を描いた作品ではあるわけで……。

それでいえば、この小説で使われている登場人物のしゃべり言葉が
正統な時代小説の言葉遣いからはかけ離れたものであることは、
もしかすると選考委員のマイナス評価につながってしまうかも!?


さあようやく最後の候補作に辿り着きました。


柚木麻子さんの『伊藤くんAtoE』(幻冬舎)です。

これはですね、顔もスタイルも洋服のセンスもよくて、
実家も金持ちで生活に不安がなく、夢は脚本家とのたまう
自意識過剰な伊藤誠二郎くんという男を取り巻く5人の女性の物語です。

タイトルにあるAtoEというのは女たちのこと。
Aが、彼のことを好きなのに邪険に扱われているデパート勤務の女性で、
Bが、伊藤に好意を抱かれつきまとわれるフリーターで……という具合。

伊藤くんは、ホントにイタイ奴で、
空気の読めない非常識な振る舞いや言動が当たり前なキャラ。
女たちは彼に振り回されるわけですが、
伊藤くんに振り回されるうちに、女性たちがしっかりと自分の進むべき道を
見出していくところが物語のキモです。


実はこの小説を読みながら、ずーっと既視感があったんですけど、
あれですね、この小説は第131回直木賞を受賞した奥田英朗さんの
『空中ブランコ』と物語の構造が似ているところがありますね。

性格が破たんした伊良部という精神科医のもとを訪れた患者たちが、
破天荒な伊良部に振り回されながら、勝手に治っていくという。

もっとも伊良部が完全なトリックスターの役割だったのに比べ、
本作では傷つくことを極度に恐れる伊藤くんの内面もしっかり描かれていて、
まったく同じというわけではありませんが。

視聴率用語でいえば、F1層(20歳~34歳の女性)にウケそうな小説。

テレビドラマで伊藤くんの姿をみるのも
そう遠くない日のことのような気もしますが、
はたして現実に伊藤くんを演じることができる俳優がいるんでしょうか。
(ものすごくカッコいいのに、ものすごくイタくてウザいわけですから。難しいですよね)

文字では成立するけれど、映像化となると難しい。
ちょっとしたことですけれど、こういう部分こそ小説の強みだったりします。


さあ、これですべての候補作のチェックが終了いたしました。

はたして記念すべき第150回直木賞は誰の手に!?

それは・・・・・・1/15(水)の『福井謙二グッモニ』をお聴きください!!

(まだまだ続きます)


投稿者 yomehon : 14:58

2014年01月13日

祝!第150回直木賞 直前予想その②

(前回からの続き)

さて、次は伊東潤さんの『王になろうとした男』です。

信長に仕えた男たちを主人公にした短編集ですが、
すべての作品を貫いているのは「権力」に対する視点。
もちろん権力の中心にいるのは信長です。

権力に背を向け戦場に散った男や(「果報者の槍」)、
権力に魅せられて人生を狂わせる男(「毒を食らわば」、「小才子」)、
あるいは大切な者を失った末にようやく野心への執着から自由になる者(「復讐鬼」)など、
信長をめぐるさまざまな人間模様が描かれます。

特に表題作の「王になろうとした男」が素晴らしい。
この作品は、黒人奴隷の身から信長に仕えることになった
彌介の視点を通して信長を描くという斬新な試みとなっています。

そもそもあの時代に黒人を小姓として雇うという信長の感性が凄い。
周囲が彌介に対して差別的な態度をとる中、信長はどうふるまったか。
また、当時の武士のメンタリティなどとは無縁のアフリカ人が、
信長と出会い、どのように変わっていったのか。
信長という男の底知れないスケールの大きさが見事に描かれていて、
読み応えのある一篇に仕上がっています。


この本を読んで、あらためてよくわかったのですが、
信長というのは徹底して成果主義の人だったのですね。

手段はどうあれ、結果を出しさえすれば良い。
結果を出した者は引き立て、そうではない者は切り捨てる……。

たとえば藤田達生さんの『信長革命』(角川選書)のような最近の研究を読むと、
信長というのはわが国では類を見ない卓抜した合理主義者だったようですね。


その上、池波正太郎さんが『男の系譜』(新潮文庫)で書いていますけれども、
信長は部下にひどいあだ名をつけるのが得意だったみたいで、
かなりサディスティックで嫌な奴だったんじゃないかと思います。

お情け頂戴が通じない合理主義者な上に、性格も嗜虐的……。
こんな上司の下にいる人間はいったいどれだけ辛いんだという話です。


作者の伊東潤さんは、作家専業になる前は経営コンサルトをおやりになっていました。
以前、番組ゲストでお目にかかった際も、ご自身の作品の強みについて
「コアコンピタンス」といったコンサル用語で説明なさっていたのが印象に残っています。

ちなみにコアコンピタンスの意味は、簡単に言うと「他社にない強み」。
伊東さんはぐいぐい読ませるストーリーテリングの力と、
読者をはっと驚かせるような歴史の解釈力を、
車の両輪にたとえながら解説してくださいました。

そんな元経営コンサルタントの伊東さんが描く織田家は、
さながら弱肉強食の成果主義が徹底された外資系企業のようです。


ただ、直木賞を逃した前回候補作『巨鯨の海』で描かれた、
人間と鯨が織りなす営みの雄大なスケールに魅せられた者からすれば、
本作はどうしてもこじんまりまとまった感が否めません。

いま本が手元にないので間違っていたらごめんなさいですが、
昨秋お亡くなりになった文芸評論家の秋山駿さんが
名著『信長』(新潮文庫・古書のみ)をお書きになった際のエピソードを
どこかで書いていらっしゃいました。
巨大な信長像と日々格闘して、とことんまで苦しみ抜いて本を書きあげた時、
枕元に信長の霊が立ったんだそうです。秋山さんはそれをご覧になって、
信長に認めてもらえたと安堵した、というようなことを書いていらしたと記憶しています。

同じ信長を書いているとはいえ、本書からは正直そこまでの鬼気迫る感じは感じられません。

勝手な思い込みかもしれませんが、
やはり直木賞には受賞すべきタイミングがあるのではないかと思います。

それでいえば、伊東さんの場合はやっぱり
前回の予想でも熱烈に推した『巨鯨の海』でとってほしかった。

信長ならば、プロセスなんてどうでもいい、結果がすべてだ、と言うのかもしれませんが……。

さて次は、初の候補となった千早茜さんの『あとかた』です。

「痕跡」を切り口に男女の関係を描いた6つの短編がおさめられています。
冒頭に置かれた婚約者がいる女性が謎の男と逢瀬を重ねる「ほむら」だけが独立していて、
あとは登場人物が重複した連作短編となっています。

ではその「痕跡」とは何でしょうか。

恋人からからだに刻み込まれた刻印、
忘れられない相手が心に遺していった引っ掻き傷……。

そういうからだやこころに他者が遺していった痕跡が、
その人の人生にどんなさざ波を立てるかと言うことを、
作者は丁寧に掬い取ろうとしています。

微妙なニュアンスを掬い取ろうとすれば、
より精密なセンサーを使わなければなりません。

この場合のセンサーというのは、文章のことを指します。
作者はより感覚的で、鋭敏なセンサーで、
男女のあわいに漂う微細な粒子をつかまえようとする。


たとえば、まだよく知らない男とバーのカウンターに座っている時、
主人公がカーディガンを羽織ろうとしたはずみに肘がグラスに当たってしまう。
男はとっさに倒れかけたグラスをつかむ。

ただそれだけのシーンなのに、作者はまるでコマ送りにして、
ひとつひとつのコマをルーペで確かめるように描いていく。

たとえばこんな具合に。


「おっと」と、男が身を乗り出してグラスを掴んだ。
アルコールであたたまった肌の匂いが押し寄せて、
身体が触れた。私より熱い身体だった。あ、と思った。
「濡れませんでしたか」
落ち着いた声だった。子どもがいるのだろうな、と思った。
親になると人との距離を容易くつめられるようになる気がする。
私はどうしても人に近付く時、かたくなる。
かたさは静電気のように素早く伝わって相手もかたくなる。
けれど、男はゆったりとしたままだった。
細かな泡を含んだ液体がグラスの中で揺れていた。たゆたう水面で店の照明が白く瞬いた。
少し酔ったのかもしれない。グラスを見つめながら私は小さく礼を言った。(「ほむら」より)


一瞬の行動の中に、これだけの要素を読み込む。
男がどんな男か、女がどんな女かが読者にしっかりと伝わる。
うまいと思いませんか?
本書は先に第20回島清恋愛文学賞を受賞していますがそれも納得です。

ただ、男女のあいだにある、容易く言葉にできない微妙なものを掬い取るこの手の感性は、
特に作者の専売特許というわけではなくて、
少女マンガの世界なんかでは当たり前のようにみられるものだということは指摘しておきましょう。

たまたま最近読み返していたから例に挙げるのですが、
『ホットロード』紡木たく(集英社)なんて、
主人公のモノローグの占める割合がびっくりするくらい多いですしね。

少女マンガの世界でどうしてこのように感性が洗練されていったのかは、
たしか宮台真司さんらが『サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫)で書いていました。

少女マンガというメディアは、女の子たちにとって、
社会における人間関係や男女間でのふるまい方などを学ぶための
学習用のツールとして機能してきた、というような趣旨だったと思います。

この小説もそういった伝統の延長線上にあります。

あとはこの短編集から感じられる死の気配にも触れておかなければなりません。
セックスを死と結びつけたのはフロイトですけれど、
この短編集におさめられたほとんどの作品からは死のイメージが感じられます。

そんなところはいかにも直木賞選考委員の渡辺淳一さんあたりが好みそうな気がするんだよなぁ。

(まだまだ続きます!)

投稿者 yomehon : 20:23

2014年01月12日

祝!第150回直木賞 直前予想その①


新年早々、大層おめでたいことに、直木賞がこのほど150回を迎えます。
例年だと候補作は年が明けてから発表されるのですが、
今回は記念すべき回ということもあってか、年末にはもう発表となり、
書店では候補作を並べたフェアなどが始まっています。

直木賞がスタートしたのは1935年(昭和10年)。
爾来、直木賞は我が国の大衆文芸の屋台骨を支えてきました。

記念すべき第1回の受賞者は川口松太郎さん。
いまでも水商売の女性を「夜の蝶」と呼ぶことがありますが、
あの表現はもともと川口松太郎の小説からきたものです。
このように大衆文芸が文化に与えきた影響には無視できないものがあります。
(余談ですが、『夜の蝶』が書かれた当時の銀座のことが知りたければ、
石井妙子さんの素晴らしいノンフィクション『おそめ』をどうぞ)

記憶を辿ると、ぼくがリアルタイムで直木賞を追いかけるようになったのは、
たぶん第96回(1986年下半期)あたりからではないでしょうか。
このときの受賞作は逢坂剛さんの名作『カディスの赤い星』
ぼくは16歳で、この小説の影響で生まれて初めてスペイン文化に興味を持ちました。

それからというもの、年に2回の直木賞は、
まるでクリスマスやお正月のような年中行事のひとつとして、
ぼくの人生のカレンダーに当たり前のように組み込まれてきました。

とはいえ、150回という数字を目にすると、やっぱり感慨深いものがあります。
気持ちは若いつもりでもおっさんになったんだなぁ、という個人的な思いと、
戦前から綿々と続く直木賞の歴史を前に、膝を正して背筋が伸びるような思いと。
150回というのはやはり大変な数字だと思います。


そんなわけで、今回はいつも以上に気合いを入れて
受賞作予想に臨まなければなりません!!!

候補作は以下の通りです。


朝井まかて 『恋歌』(講談社)


伊東潤 『王になろうとした男』(文藝春秋)


姫野カオルコ 『昭和の犬』(幻冬舎)


万城目学 『とっぴんぱらりの風太郎』(文藝春秋)


柚木麻子 「伊藤くんA to E』 (幻冬舎)


時代小説が3作。(朝井・伊東・万城目)
恋愛小説が2作。(朝井・千早)
女の一生・半生を描いたものが2作。(朝井・姫野)
短編小説集が3作。(伊東・千早・柚木)
過去候補実績がある者が3名。(伊東・姫野・万城目)
初候補者が3名。(朝井・千早・柚木)

まだまだいくらでもあげられそうなくらい
いろんなくくりかたができるラインアップになっていますね。


さあそれでは、今回は作者名であいうえお順にみていきましょう。
なんてったって150回ですからね。
いつも以上にじっくりみていきますよ。

さて、トップバッターは朝井まかてさんの『恋歌(れんか)』です。
いきなりものすごい傑作が登場ですね。

この小説は、個人的には昨年読んだ時代小説のナンバーワン!!
それだけではありません。
すぐれた時代小説であるだけでなく、恋愛小説としても超一級の作品なのです!!


物語の主人公は、中島歌子。
といっても、現代ではほとんど知られていない名前でしょうが、
明治時代に良家の子女に和歌や書を教える私塾「萩の舎」を興し、
千人を超える門人を集めるほどの成功をおさめたほどの人です。
当時の文化的なスター。先進的な生き方の女性の象徴。要するにセレブですね。

もちろん歌子自身も歌人ですけど、文学史的にみると、その作品よりも、
樋口一葉こと樋口夏子や、明治時代に女性として初めて小説を発表した
三宅花圃(夫は哲学者の三宅雪嶺)の師匠としてのほうが有名かもしれません。


ともかくこの小説は、
現代ではマイナーな存在である中島歌子の人生に秘められた
驚くべき過去を掘り起こした作品です。
読者はその苛烈な運命に慄然とした思いを抱くと同時に、
人を愛するとはどういうことかとか、
「義」とはなにかといったことを、深く考えさせられることでしょう。


歌子はもともと小石川にある池田屋という宿の娘でした。
近くに水戸藩の屋敷があり藩士たちがよく利用したため、
池田屋はたいそう繁盛していて、歌子もお嬢様として何不自由なく育てられました。

そんな歌子がある時、ひとりの水戸藩士に恋をします。

歌子が親の反対を押し切って嫁ぐまでの一途な恋のありようというのが、
ピュアな恋愛小説みたいな感じでひとつ前半の読みどころではあるのですが、
この小説の真の読みどころはむしろ後半です。

というか、後半にいけばいくほど、どんどん凄みを増していくというか、
お嬢様育ちの歌子が想像だにしなかった過酷な運命に巻き込まれていくのです。

というのも、嫁いだ先が、天狗党の家。
しかも夫の林忠左衛門以徳という男は天狗党のいってみれば幹部だったのですね。

ご存じない方のために、ものすごく簡単に説明しますと、
幕末の当時、尊王攘夷をとなえる水戸藩には、
天狗党と諸生党という派閥がありました。
どちらがどんな主張をとなえていたのかは割愛しますが、
ともかく両者はいがみあっていた。

歌子の夫は血気にはやる仲間を必死におさえようとしますが、
その努力も空しく天狗党は筑波山で反乱の狼煙を上げてしまう。

諸生党の工作もあって、
天狗党は幕府に歯向かった反逆者というだけでなく、
朝廷にも弓を引いた朝敵とみなされてしまうのです。

天狗党は幕府によって殲滅させられ、
藩士たちは悲惨きわまりない最期を遂げるのですが、
このあたりの一連の経緯は、
歴史小説の大家・吉村昭さんの『桜田門外の変』『天狗争乱』などに
詳細に描かれているので、興味のある方はあわせてお読みください。

ともあれ、男たちがテロリストのレッテルをはられると、
その累が家族にも及ぶというのが古今東西あらゆる文化に共通するところで、
女こどもも囚われの身となってしまいます。
現代でいえば、強制収容所に入れられてしまったようなものですね。

ここからこの小説は、それまでの表情をがらりと変えます。
峻烈さ極まる運命が歌子を襲うのです。

読んでいて胸が苦しくなる。
怒りや悲しみで魂が揺さぶられるような思いがする。
でも著者の並々ならぬ筆力に首根っこをつかまれて、
決して、物語から眼を離すことができないのです。


この小説を読みながら、ぼくは何度も自問自答しました。
「大義とはなんだろう?」と。

歴史を振り返ってみるとよくわかるのですが、
声高に大義をとなえ、そのことに酔い、
思い通りにならないと拳を振り回したりするのは、いつも決まって男です。

澤地久枝さんに『妻たちの二・二六事件』という傑作ノンフィクションがあります。
なにゆえ傑作かといえば、
二・二六事件を女性の視点から描いた唯一無二の作品だから。

歴史は男と女によって作られるのにもかかわらず、
残念なことに世の中には男の視点で書かれた歴史ばかりが幅をきかせています。

天狗党だって例外ではありません。

だからこそこの小説は素晴らしい作品であるとも言える。
物語の面白さも当然のことながら、
『恋歌』のような視点から天狗党の乱を描いた作品はこれまでなかったのですから。

歌子は過酷な運命をどう息抜き、
後の世に何を残そうとしたのか。
物語にはあっと驚くまるでミステリーのような結末も待っています。

この小説はおおきなくくりでは時代小説ですが、
恋愛小説でもあり、幕末の志士のドラマでもあり、
知られざるこの国の近代史でもあります。

幾通りもの読み方ができることが傑作に必要不可欠の条件だとすれば、
この小説は紛れもない傑作であると断言できます。

それにしても、初っぱなからこんな傑作が出てくるなんて、
やっぱり150回だけのことはあるぜ直木賞!
というか、このテンションで読んでいって最期まで辿り着けるのか???

(まだまだ続きます!)

投稿者 yomehon : 01:29