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2011年09月27日

生命の未来を変えた男


10月になると毎年ノーベル賞受賞者が発表されます。

今年は10月3日の生理学・医学賞の発表に始まり、
4日に物理学賞、5日に化学賞と続きます。

ちなみに科学関連の3賞では、これまで15名の日本人が受賞。
その内訳は、物理学賞と化学賞がともに7人ずつ。
ところが、生理学・医学賞に関して云えば、
受賞したのはいまに至るまで利根川進さんただひとりなのです。
(利根川さんが受賞した研究については立花隆さんとの対談をまとめた
『精神と物質』がわかりやすくてオススメです)

でも今年は、利根川氏以来のノーベル生理学・医学賞が
有力視されている日本人が何名もいます。

その中でももっとも熱い注目を集めているのが、
京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さん。

2006年、山中さんの率いるチームがiPS細胞を開発したと発表し、
世界の科学界に衝撃を与えました。


『生命の未来を変えた男』NHKスペシャル取材班編著(文藝春秋)は、
山中教授へのロングインタビューや世界各国の研究者への取材をもとに、
現在進行形のiPS革命の全貌に迫った一冊。
ぼくの知る限りiPS細胞についてもっともわかりやすくまとめられた本です。

iPS細胞とは、心臓などの臓器、骨、神経、血液など、
およそ生物のからだを構成するどんな細胞にも分化することができる
能力を持つ特殊な細胞のこと。

このiPS細胞のどこが凄いのか。
ひと言で云えば、
これまでいのちは卵から生まれていたのが、
卵がなくてもいのちがつくれるようになった、ということ。
これは、ぼくたちの持っている生命観を根底からくつがえすものです。

これまでの生命観に従えば、
いのちは1個の受精卵がさまざまな細胞に分化していって
ひとつの個体として生まれるというイメージでした。


人間の身体でいえば、
はじまりはたった1個の受精卵だったのが、分裂を繰り返し、
最終的に60兆個もの細胞で人体が形づくられることになります。
この過程で出来上がった臓器や神経系などの組織は、
けっして受精卵のような元の状態に戻ることはありえないとされてきました。

生命は卵から生まれ、
けっしてもとに戻ることはないというのがこれまでの常識だったのです。

ところがiPS 細胞では、誰かの皮膚の一部をもとにして、
そこから個体をつくりあげることができます。

「でも、ちょっと待って。
皮膚の細胞は皮膚にしかなれないんじゃないの?」と思ったあなたはスルドイ。
その通りで、ふつう心臓の細胞は心臓に、視神経の細胞は視神経にしかなりません。

ところが山中教授は、「細胞の初期化」という画期的な技術を編み出しました。
細胞を受精卵のような初期の状態にリセットするのに重要な働きをする
4つの遺伝子(「山中ファクター」と呼ばれています)を発見したのです。

細胞に秘められた生命プログラムを初期化すると、どんなことが可能になるのでしょう。

たとえば皮膚の細胞をもとにして、肝臓や角膜や髪の毛など、
ありとあらゆる組織をつくることが可能になります。
「夢の再生医療」の時代の到来です。


でもこの本を読んで、手放しで喜んでばかりもいられないとも感じました。
iPS細胞がはらむ問題はふたつあります。

ひとつは、各国との研究競争。

創薬や難病治療など医療分野で莫大な利益が見込めるとあって、その競争は熾烈を極めます。
もはや研究者は実験をして論文だけを書いていればいいというものではなく、
特許戦略にまで目配りをしなければなりません。
この競争で日本は世界をダントツにリードしているといえないのが現状です。

本書で興味深かったのは、中国の動向です。
中国はいま次々とiPS細胞で画期的な研究発表を行っていますが、
その背景にあるのが、国家をあげての支援体制だけではなく、
日本人や欧米人とは違う「倫理観」にあるという指摘には驚かされました。

日本や欧米では、
「人間の受精卵やヒトの初期胚」を研究利用することに強い規制がかけられていますが、
中国ではその点がほとんど問題視されないというのです。
「ヒトの初期胚(受精卵が細胞分裂してできたごく初期の個体のこと)は
人間とみなさない」という倫理観をもとに、人間の胚を使った研究を存分に行い
他国をリードしているということを知り、なんともいえない複雑な思いを抱きました。


もうひとつiPS細胞がはらむ問題は、まさにこの「倫理観」にかかわるものです。

先月、京大の研究グループが、iPS細胞から精子をつくることに成功しました。
これによってたとえばレズビアンのカップルが子どもをつくることが可能になります。

もっと想像をひろげてみましょう。
ぼくの皮膚から卵子をつくって子どもをつくったら、母親は誰になるのでしょう?
あるいは、死者の細胞からその人を甦らせたとしたら、出生届は必要になるのでしょうか?

男と女、あるいは生と死。
ぼくたちを分かっていた境界線を、iPS細胞は無効にしようとしています。

それだけではありません。
IPS細胞は生物種の境界すら無化しようとしているのです。

昨年、東大のグループが発表した研究では、
なんとマウスとラットという異なる種をかけあわせて新しい動物を生み出し、
その技術を使ってマウスの体内にラットの膵臓をつくることに成功したといいます。
これによって、臓器を別の種の体内でつくることが可能だということがわかりました。
ヒトの肝臓や心臓などの臓器を移植用にブタの体内で育てることができるかもしれないというのです。

ここでもまた想像をひろげてみましょう。
だとするなら、ヒトの細胞が混じったブタを殺せばそれは「殺人」になるのでしょうか?
あるいは、ヒトの脳を持った動物が誕生した場合、彼らにも「基本的人権」はみとめられるのでしょうか?

なんだかサンデル教授のようになってきましたが、
iPS細胞という画期的な発見は、このように、
ぼくたちの生命観に根本的な変容を迫る要素を秘めているのです。

当の山中教授がこの点をどう考えているかについては、ぜひ本書をお読みください。
きわめて誠実に真摯にiPS細胞が持つ問題点について考えていらっしゃいます。


この他、科学と倫理について考える材料を与えてくれるオススメ本としては、
ある黒人女性の細胞が無断で利用され、科学界や医学界に多大な貢献をしたものの、
その遺族にはなんの恩恵ももたらされていないという驚きの事例を克明に描いた
『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』(講談社)を。

また、ノーベル賞の有力候補とまでいわれた若きスター学者がおこした
論文ねつ造の大スキャンダルを追った『論文捏造』(中公新書ラクレ)もオススメです。

投稿者 yomehon : 2011年09月27日 00:21