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2011年10月09日

知っていそうで知らないノーベル賞


iPS細胞の開発者・山中伸弥教授のノーベル賞受賞は惜しくもかないませんでしたね。
スウェーデンの地元紙でも最有力候補と報じられていただけに残念です。
あと毎年のように名前があがる村上春樹氏も受賞はならずこちらも残念でした。

ところで、新聞などが報じる「今年の○○賞は誰それが最有力」といった記事、
実はまったくの憶測にすぎないということをご存知でしたか?

なぜなら、ノーベル財団の規定で、
誰が最終候補に残ったかといった選考課程にまつわる情報のすべては、
50年間秘密にされるということが決まっているからです。
発表されるのは、結果(受賞者の名前と授賞理由)のみ。
そしてたとえ50年が経過した後も、科学史の研究家など、
適格と認められた一部の専門家だけにしか資料へのアクセスは許されません。
それくらい情報は厳しく管理されているのです。

えっ?
おまえはなんでそんなにノーベル賞に詳しいんだって?

それは『知っていそうで知らないノーベル賞の話』(平凡社新書)を読んだから。


これまでノーベル賞受賞者の業績を事細かに説明する本はあっても、
ノーベル賞そのものをとことんまで解説した本はありませんでした。
本書はそんなありそうでなかった一冊です。

著者の北尾利夫さんは、商社マンとして長くストックホルムに駐在した経験があり、
その折には隣家の奥さんが日本でいう文化庁のような組織の幹部だったという縁で、
セキュリティの厳しいノーベル財団の本部を訪ねる機会を得たり、
いまも財団から毎年決算報告などの貴重な資料を送ってもらえる関係にあるなど、
日本人にしては珍しいコネクションをお持ちの方。

本の中では自らを一介の「ノーベル・ファン」「スウェーデン好き」に過ぎない、
などと謙遜なさっていますが、これだけあらゆる角度から仔細にノーベル賞について
語った本はほかにありません。


ところで、皆さんはノーベルがどういう人だったかご存知ですか?

アルフレッド・べルンハルド・ノーベルは、
日本でいえばちょうど幕末のころ、1833年に生まれました。

古代ギリシア神話では人間に火を与えたのは
プロメテウスという神様だということになっていますが、
人類が火を使い始めたのは実に40万年前のことだそうです。
そして途方もなく長い時間を火とともに過ごした後、
ようやく19世紀になって、
人類は小さな火をより巨大な力に変える手段を手に入れました。

それがダイナマイトです。

ノーベルは優れた化学者にして発明家でもありました。
猛烈な爆発力がありながら不安定な性質を持つニトログリセリンを、
数々の不幸な爆発事故(なかには弟を失う事故もありました)を経ながら
手なずけることに成功。
爆発力と安全性を兼ね備えたダイナマイトを開発します。

このダイナマイトの発明が人類にもたらした恩恵には計り知れないものがあります。

ドイツの文化史家ヴォルフガング・シベルブシュは、
『鉄道旅行の歴史 十九世紀における空間と時間の工業化』という本で、
鉄道の発展が近代社会の成立にいかに重要な貢献をしたかを述べていますが、
そもそも鉄道にしたってダイナマイトが登場したからこそ建設が可能になったわけです。

鉄道だけではありません。

19世紀といえば、イギリス人ジェームズ・ワットが発明した
蒸気機関の普及によって起きた産業革命のまっただ中でした。
この時代のエネルギーの中心は石炭です。
石炭の増産や新しい炭坑の開発にダイナマイトは不可欠でした。
それまでつるはしでせっせと掘っていたのがダイナマイトを使えば
一挙に工事が進められるとあって各国から注文が殺到。
ノーベルは40歳にして世界的な大富豪にまでのぼりつめるのです。
開発者としても起業家としてもすぐれていたノーベルは、
現代でいえばさしずめビル・ゲイツのような存在だったのでしょう。

そして1896年、イタリアのサン・レモで
ノーベルは脳溢血により63年の生涯を閉じるのですが、面白いのはここからです。

生まれ故郷のストックホルムで、
民間人としては初めてといわれるほどの盛大な葬儀が執り行われた後、
スウェーデンの銀行に預けられていた遺書が開封され、
当時ヨーロッパ最大ともいわれた巨額の遺産の行方が明らかとなったのですが、
新聞で報じられた遺言の内容に人々は衝撃を受けました。

そこには、ノーベル賞の構想が記されていたのです。


まず記されていたのは、甥や姪といった親族への遺贈額。
けれどもその額は遺産総額のわずか3%に過ぎませんでした。
さらに世話になった関係者へ渡すわずかな金額が記された後、
残りの金額の使い途について、次のような遺言がのこされていました。


「残りの換金可能な私のすべての財産は、次の方法で処理すること。
すなわち、私の遺言執行人によって、安全な有価証券に投資された資本をもって基金とし、
これから生ずる金利は毎年、その前年に、人類にもっとも大きな貢献をした人に
賞のかたちで配分すること」


「この金利は五等分され、以下のように配分するものとする。
すなわち、一部は物理学の分野でもっとも重要な発見、または発明をなした人に、
一部はもっとも重要な化学上の発見または改良をなした人に、
一部は生理学または医学の分野においてもっとも重要な発見をなした人に、
一部は文学の分野で理想主義的傾向のもっとも優れた作品を創作した人に、
一部は国家間の友好、常備軍の廃止または削減、および平和会議の開催や
復興のために最大、または最前の仕事をなした人に」


そして、各賞の選考機関について指定した後、
遺言の基本精神ともいえる重要な文言が記されていました。


「賞を与えるにあたっては、候補者の国籍は一切考慮されてはならず、
スカンジナビア人であるなしにかかわらず、もっとも相応しい人が
受賞しなければならないというのが、私の特に明示しておきたい願いである」


現代のように世界が狭くなってしまった時代ならいざ知らず、
19世紀当時に国籍や人種を問わず、人類のために貢献した人間に
賞をあたえるという国際賞を構想していたノーベルの先見性には驚かされます。

でも、たとえノーベルがこのような遺言をのこしたとしても、
ノーベル賞が創設されるまでには紆余曲折がありました。
遺産の取り分の少なさに納得のいかない遺族が猛反発したのです。
このあたりのドロドロとした話は本書に詳しいのでぜひお読みください。

この他にも、ノーベルがなぜ国籍を問わないということを主張したのかとか、
平和賞の選考だけはなぜスウェーデンではなくノルウェーに委ねられたのかとか、
なぜ芸術賞ではなく文学賞なのかとか、経済学賞ってなかったっけ?とか、
ノーベル賞のあらゆる疑問についての回答や推理もすべてのっています。


それにしても、本書を一読してあらためて思うのは、
「国籍や人種を問わず、人類にもっとも貢献した人に賞を与える」という
ノーベル賞のコンセプトがいかに優れたものかということです。

100年以上にわたって選ばれ続けた受賞者をずらり並べてみれば、
それがそのまま人類の進歩に重なるというのは、考えてみれば凄いことです。
オリンピック100m走の勝者は「人類最速」と呼ばれますが、
これにならえば、ノーベル賞は「人類最高の知性」ということになるでしょう。
毎年のように人々が賞の行方に夢中になるのも無理はありませんね。

それにソフト・パワーの観点からしても、ノーベル賞があることで
スウェーデンは国際社会のなかで相当に得をしているのではないかと思います。
これさえあれば国のブランディングなんて考える必要なしというくらいに
ノーベル賞はスウェーデンのイメージ向上に寄与しているのではないでしょうか。


著者がノーベル財団の内側にまで足を踏み入れているおかげで、
本書はそのへんのウンチク雑学本の類いとは一線を画す読み物に仕上がっています。
ノーベル賞に深入りした著者ならではの知られざるエピソード満載の一冊です。

投稿者 yomehon : 2011年10月09日 20:06