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2014年02月28日

雪かきと信頼社会


先日の2週にわたる大雪、みなさんご無事でしたか?
まだ雪が残っていて不便な生活を強いられている方や、
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

そういう大変な思いをなさっている方々に比べれば、
我が家の懸案事項は雪かき程度とかわいいものでしたが、
それでも最初に雪が積もった時は、
都心で27センチの積雪は45年ぶりと聞いて
向こう三軒両隣のご近所の雪かきは全部やってやろうと
鼻息荒く意気込みました。

なにしろ45年ぶりです。
今回きっちりやっておけば、次に同じくらいの雪が積もるまでの間、
おそらく数十年くらいはご近所に感謝されっぱなしなんじゃないかと
セコく算盤をはじきまして、せっせと雪かきに精を出したわけです。

それがまさか翌週に再び27センチとは……。

しかも今度はすっかり寝坊してしまい、
スコップ片手に慌てて外に飛び出したところ、
ご近所中がすでにもう総出で作業を始めていまして、
大変申し訳ないことに我が家の前の雪も片付けてくれていました。

出遅れを挽回しようと他所さまの三倍くらいは頑張ったでしょうか。
みんなで力をあわせたおかげで、
お昼頃には通りの雪はきれいさっぱり片付いてしまいました。

普段は挨拶を交わす程度のご近所の皆さんと
たまにああやって力をあわせて作業するのも気持ちがいいものですね。


ところで、集団作業について考えていてふと思い出したのですが、
以下の命題は正しいでしょうか?それとも間違っているでしょうか?

「日本人は集団主義的な考えの人が多い。
一方、アメリカ人や西欧の人たちには個人主義的な考えの人が多い」

おそらくほとんどの人は「うん、その通り」と同意するんじゃないかと思います。

でも実は間違っているんです。

こういうことを専門に調べているのが、社会心理学者の山岸俊男さん。


『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(集英社インターナショナル)
紹介されている数々の調査や実験からみえてくるのは、
意外にも日本人は個人主義者で、
他人を信用しない性質を持っているということ。
他人を信頼する度合いでは、アメリカ人のほうがはるかに高いそうです。

日本人は和を貴ぶ文化を持っているというのがこれまでの「常識」でしたが、
数々の実験からあぶりだされる姿はそれとは正反対。

ただ不思議なことに、個人主義的な考えを持っている人が多いにもかかわらず、
日本人はついつい集団主義的な行動をとってしまうのです。

それはなぜでしょうか?


山岸さんは、メンバーがお互いを監視し、
なにかあった場合には制裁を加えるようなシステムが
社会に組み込まれていたからだといいます。

ここで大事なポイントは、
お互いを見知っているからこそ、メンバーには「安心」が保証され、
たとえ他人を心の底では信頼していなくても生きていけるのだということ。
こういう社会を「安心社会」といいます。

ぼくの田舎では出かける際も戸締まりをしない家が多いのですが、
これなどは典型的な安心社会です。

かつては日本全体がこのような安心社会でした


ここで誤解のないように申し上げておくと、
安心社会自体は決して悪いものではありません。
歴史的にみれば、安心社会のほうがずっと歴史が長かったですし、
安心社会に適応した日本人の集団主義的ふるまいが、
「奇跡の高度成長」を実現させるプラスの原動力となるなど利点もありました。


ところが、その後の長い停滞の中で打ち出された「構造改革」が、
日本独特の安心社会に否応のない変化を迫ることになります。

終身雇用が保証されていた時代はまさに安心社会でしたが、
これからの日本人は、不透明な未来を前提に、
身ひとつで世界と向き合っていかなければなりませんし、
価値観をまったく共有していない他者とも、
信頼関係を結んでいくことが求められます。

いま日本社会は、従来の「安心社会」から、
他者を信頼する「信頼社会」へと大きく変貌を遂げようとしているのです。

でもここで大きな問題があります。
日本人ははたして信頼社会に適応できるのでしょうか?


山岸さんは、現代の日本では信頼社会への移行は決してうまくいっておらず、
そのことが相次ぐ企業の不祥事隠しや偽装問題などに現れているといいます。

他者を信頼できない社会とはいかなるものでしょうか。

それは、人々が疑心暗鬼に駆られる社会であり、不信が不信を呼ぶ社会。

みんなで協力すれば得をすることがわかっているのに、
「あいつは協力しないんじゃないか」とか、
「あいつは裏でいい思いをしているんじゃないか」などと
疑心暗鬼にとらわれた結果、非協力的な行動をとってしまう。

これを「社会的ジレンマ」といいます。

これはぜひとも本書で読んでいただきたい大切なところですが、
山岸さんはこの「社会的ジレンマ」という概念を駆使して、
いじめ問題や企業の情報隠しなどに対する有効な解決法をいくつも提示しています。

けれどもそれではなぜ日本人に比べて
アメリカ人は他人を信頼することができるのでしょうか?

山岸さんは、その理由のひとつとして、他人を信頼するほうが
信頼社会で暮らしていくには都合がいい、ということを指摘します。
つまり他人を信頼することが自分にとってトクになるわけです。

「人間が利他的な行動をとるのは、
決して理性のなせるわざなんかじゃなくて、
そのほうが自分にとって利益となるからである」
という考えは、山岸さんの理論の基本的なアイデアです。

人間が他人を助けるのは、
まわりまわってそのことが自分に返ってくるから。

まさに「情けは人のためならず」というわけです。


いまはたと気づきましたが、
そういえば我が家の近所の雪かきもそうかもしれません。

よくよく考えると、みんな小さな子どものいる家ばかり。
この先も長いこと顔をつきあわせなければならない隣人とうまくやるためには、
他の家の前も雪かきをやってあげるほうが、合理的な行動なわけです。
隣人に感謝されることがまわりまわって自分にとっての利益になるのですから。


なるほどー。
みんな考えることは一緒だったんだな。


このように一見、礼儀正しい行動にみえたり、倫理的に素晴らしい行動にみえるものでも、
その背景にあるのは、生まれながらにして人間に備わっている特性だったりするのです。

この視点をもとにさらに話をひろげるならば、教育の問題なども、ずいぶんと論点が整理されます。


たとえば保守派の政治家のみなさんが主張するように、
倫理教育や道徳教育といった「心の教育」をすれば社会が善くなるかのような主張は、
まったく根拠もないうえに意味もないと山岸さんは本書で一刀両断しています。

道徳教育に効果があるという主張の根底にあるのは、
「人間の心は教育によって、いかようにも作り変えることができる」という考え。

山岸さんはこれを「タブラ・ラサの神話」と呼びます。

タブラ・ラサというのはラテン語で、「白い板」のこと。
要するに、人間の心を真っ白いキャンバスのようにとらえ
そこに適切な教育によって色を塗ることで、思い通りの人間をつくれるという考えです。

このような考え方は、かつて旧ソ連や中国などの
社会主義国家で行われたイデオロギー教育と根っこを同じくしています。
(おそらく保守派の政治家のみなさんは社会主義国家は大嫌いなのではないかと
推察いたしますが、意外や意外、似た者同士として気が合うかもしれませんね)


人間は白板に色を塗るように心を入れ替えられるような単純なものではなく、
まずは人間の心に最初から組み込まれている
特性を理解することが大事だと山岸さんは言います。

人間性の本質がわかればわかるほど、その性質を利用して
いじめなどの社会問題を解決する事ができるようになるからです。

山岸さんの話を読んでいると、
「心の教育」などというものがいかに無意味かということがよくわかります。

アメリカもかつては「安心社会」でした。
けれども移民の大量移入や急速な工業化といった社会変動によって、
19世紀後半あたりから従来の「安心社会」に綻びが見え始めました。
(ちょうどいまの日本と同じですね)

移民たちがたくさんやってくれば、
かつてのように身内や顔見知りだけでコミュニティをつくるわけにはいかなくなります。

ここで初めてアメリカ人たちは、
異民族や余所者といった本当の他者と共生できる社会の構築を迫られるのです。

アメリカ人がつくりあげた「信頼社会」の核となるものをひと言で言い表すなら、
それは「正直ものがトクをするフェアな社会」ということになるでしょうか。


フェアネス(公正さ)を担保するためには、
それを保証する法律や裁判所などの社会制度の整備が必要となります。

中世ヨーロッパの地中海貿易の覇権を競い合った
イタリアのジェノア商人と北アフリカのマグレブ商人の争いは、
公正さを保証するシステムをつくりあげたジェノア商人が勝利しました。
身内だけの安心社会で商売していたマグレブ商人は、
資本主義の萌芽が生まれようとしていた時代の変化についていけなかったのです。

現代社会においてフェアネスを担保するアイテムのひとつとして
山岸さんがネットオークションなどにおける
評価のシステムに注目しているところは覚えておいていいポイントでしょう。
岡田斗司夫さんなども『評価経済社会』などで似たような点に注目しています。


ともかく今後の日本に必要なのは、
社会的ジレンマをいかに乗り越えて、信頼社会に適応するかということなのです。

いまヘイトスピーチをはじめとする
外国人を排斥する動きが目につきますが、
ああいった勢力が生まれる背景にも、
安心社会が崩壊し、信頼社会がいまだ構築できていないという
我が国特有の課題があるように思うのです。

そういえば、山岸俊男さんの理論には、早くから糸井重里さんも注目されていて、
ほぼ日刊イトイ新聞を生み出すきっかけになったとどこかでおっしゃっていました。

興味を持った方は、
『日本の「安心」はなぜ消えたのか』から入って、
『社会的ジレンマ』(PHP新書)、
『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)と読み進めるとわかりやすいでしょう。

そして最終的には名著『信頼の構造』(東京大学出版会)を読むことをおススメします。


投稿者 yomehon : 15:00

2014年02月23日

世界の獣人たち

昔レコードが全盛だった頃はよく「ジャケ買い」をしていました。
ジャケット買い、つまりレコードジャケットのデザインに惹かれて、
誰が歌っているのかといった内容をまったく気にすることなく購入することです。

最近読んでとても面白かった美術評論(かつ音楽評論)に
『ロックの美術館』楠見清(シンコーミュージックエンタテイメント)という本があります。
この本を読むと、レコードのジャケットデザインが、
ファッションやグラフィックや映像といった他のジャンルに
いかに大きな影響を与えてきたかということがよくわかります。

それくらいレコードジャケットのデザインというのは重要だったわけですけど、
レコードがCDになり、近年のようにCDから配信へと音楽の流通形態が変化すると、
ジャケ買いという言葉自体、すっかり死語になってしまいました。

ジャケ買いといえば、最近はもっぱら、
安いガブ飲み系のワインを買う時にジャケ買いを楽しんでいます。
ワインなのでラベル買いと言うほうが正確かもしれませんが。
ワインバーをやっている友人が教えてくれたやり方で、これが結構当たるんですね。
かわいかったりカッコ良かったり、自分なりにセンスのいいと思えるラベルのワインは
飲んでも美味しいことが多いように思います。あくまで個人調べのデータですけど。


さて、ジャケ買いするケースがあんまりないのが本の世界。

もちろん本屋さんの中を回遊していて、
まだ出会った事のない本に「呼ばれる」ということはよくあります。

ただあれは、ハンターが獲物の気配を感じるようなもので、
本全体から放たれている、いわくいいがたいオーラのようなものを
感じているのであって、表紙のデザインだけを見て
買いたくなるというわけではありません。


にもかかわらず、表紙に魅了されてジャケ買いしてしまったのが、
『WILDER MANN 欧州の獣人ー仮装する原始の名残』シャルル・フレジェ(青幻舎)です。

まずこの表紙をみて何を連想しますか?
スター・ウォーズに出てくるチューバッカ?それともガチャピンの相棒のムック?
これはブルガリアの「バブゲリ」と呼ばれる獣人です。

獣人はヨーロッパ各地で冬のあいだに行われる祝祭の儀式などに登場するキャラクター。

藁や木の枝、動物の毛皮を身にまとい、山羊や熊、悪魔などに扮するのが特徴で、
伝説によれば、もともと熊と人間の女が交わって生まれた子を表したのが始まりのようです。
このような人間と動物ふたつの世界をまたいだ存在は、「超人」的存在とみなされ崇められてきました。

北欧ではクリスマスのことを「ユール」といいますが、
そもそもこれは古代ヨーロッパのゲルマン民族のあいだで行われていた冬至の祭りのこと。
このような寒くて長い冬のあいだに翌年の豊作を願って行われる儀式のなかに、獣人が登場します。

そういえば、ヨーロッパで盛んな仮面劇も、
もともとは農閑期の冬に農民たちが演じたのがはじまりで、
その起源を辿ると、このような獣人の伝統へとつながるようです。


さて、この獣人、実はその拡がりはヨーロッパにとどまりません。

たとえばオーストリアのクランプスの仮面などをみていると、
日本の「ナマハゲ」によく似ていることに気がつきます。

いや、似ているなんてものではありません。
ナマハゲはこの本に掲載されているヨーロッパの「ワイルド・マン」と同様の存在なのです。


冒険家の高橋大輔さんが書いた
『12月25日の怪物 謎に満ちた「サンタクロース」の実像を追いかけて』(草思社)は、
サンタのルーツを求めて世界中を訪ねた知的刺激に満ちたノンフィクション。

この本によれば、クランプスやフィンランドのヨールプッキと呼ばれる山羊男や
ナマハゲといった冬至の怪物は、その恐ろしい容貌とは裏腹に、
人々に春の恵をもたらす慈悲深い豊穣の神様(来訪神)でもあるのです。

冬のお祭りは、やがてキリスト教と混じり合い、クリスマスへと変化していきます。
その過程で、幸せを運ぶ来訪神であるワイルドマンも、
プレゼントを持ってやってくるサンタクロースへと変化していくのです。

もちろんサンタのルーツはワイルドマンだけではなくて、
聖ニコラウスの伝説などもその源流のひとつなのですが、
そのあたりの詳細はぜひ本書でお確かめください。

でもヨーロッパのワイルドマンがサンタのルーツのひとつで、
ワイルドマンと同じナマハゲも
遠いところでサンタとつながっていると思うと、実に不思議ですよねー。

こういう古代からの伝説や神話が、
現代文化の意外なところにつながっているケースは他にもあります。

そのあたりは思想界の講談師・中沢新一さんの
カイエ・ソバージュと名付けられた講義録などで読むことができますので
そちらもぜひ手に取ってみてください。


投稿者 yomehon : 12:28

2014年02月10日

いま絶対に読むべき一冊!!『殺人犯はそこにいる』


いま誰彼なく会うたびに猛烈プッシュしている本があります。

出演者に打ち合わせそっちのけで本のことを熱く語ったかと思えば、
我が家に遊びに来ていたヨメの友達にも夢中で語り、
ぼくにとってのいわゆる『サードプレイス』である夜の街でも大宣伝しています。

相手が読んでくれたかどうかはすぐにわかります。
なぜならこの本を読んだ人は皆、一様に興奮しながら
(頭に血が上ってと言ったほうが正確かも)連絡してきて、
「こんなひどいことがまかり通っているとは知らなかった」と憤るからです。

それくらいこの本には大変なことが書かれている。
はっきり言って、この本を読む前と読んだ後とでは、
世界がまるっきり違って見えると言ってもいいくらいです。

もし今年一冊しか本を読めないという人がいたら、ぼくは迷わずこの本をすすめたい。
大上段に振りかぶり過ぎだと言われてしまうかもしれませんが、
この本のメッセージはそれくらい重要なのです。


まずは本のタイトルをしっかりと記憶に焼き付けていただきたい。
その本の名は

『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』清水潔(新潮社)

といいます。


関東北部のある地点を中心に半径10キロほどの円を描くと、
その小さなエリアの中で、この17年の間に
なんと5人もの幼い女の子たちが姿を消しています。

彼女たちはいずれも無惨な遺体として発見されたり、
誘拐されて行方不明のままの状態です。しかもいまだ犯人は捕まっていません。

時系列に沿って、被害にあった女の子の名前をあげると次のようになります。
(年齢はいずれも事件当時)

1979年 福島万弥ちゃん 5歳 (栃木県足利市) 遺体で発見

1984年 長谷部有美ちゃん 5歳 (栃木県足利市) 遺体で発見

1987年 大沢朋子ちゃん 8歳 (群馬県尾島町) 遺体で発見

1990年 松田真実ちゃん 4歳 (栃木県足利市) 遺体で発見

1996年 横山ゆかりちゃん 4歳 (群馬県太田市) 行方不明

事件は3年から6年のスパンで、
栃木と群馬の県境の半径10キロ圏内で発生している。
しかもいずれも幼女を狙った犯行です。

類似点は他にもあります。

・3件の誘拐現場がパチンコ店であること。

・3件の遺体発見現場が河川敷が生い茂ったアシ原の中であること。

・事件のほとんどが週末などの休日に発生していること。

・いずれの現場でも泣く子どもの姿などは目撃されていないこと。


ここまで読めば、普通はごく自然にこう思うんじゃないでしょうか。

「これ、同一犯による連続幼女誘拐殺人事件なんじゃないの?」


しかし現実はそのような判断にはならないのですから世の中は恐ろしい。

著者の清水潔さんは、
かつて新潮社の写真週刊誌『FOCUS』の記者時代に、
のちに「桶川ストーカー事件」と呼ばれる事件を追跡。
警察よりも先に、真犯人に辿り着き、
その居場所も特定したという実績を持つ敏腕記者です。

当然のことながら逮捕権など持っていない清水さんは、
警察に真犯人の情報を提供しますが、あろうことか警察はこの情報を放置。

しかも呆れたことに、
助けを求めていた被害者の私生活に問題があったかのような情報を
意図的にマスコミにリークするなど、捜査機関としてはあるまじき行為に及び、
やがて事態が明るみに出るにいたって、
社会から猛バッシィングを浴びせられることになったのはみなさんご存知の通り。

「警察は都合の悪いことは隠す」という印象を国民に強く植え付け、
いまに続く警察不信のきっかけとなったこの事件の詳細は、
清水さんの『桶川ストーカー殺人事件——遺言』(新潮文庫)で読むことができます。

清水さんはその後、日本テレビに移り、
現在は報道局記者・解説委員として活躍されているのですが、
今回の連続幼女誘拐殺人事件に着目するきっかけとなったのは、
日本テレビの報道特番の企画を考えるよう上司に命じられたことでした。

ひとつのテーマを追いかけ、1年間にわたって報道する。その結果、日本を動かす。

そんな壮大な計画を持ちかけられた清水さんが、
未解決事件を洗っていて見つけ出したのが、
既に述べた奇妙な類似点を持つ5つの事件でした。


ところが、取材に取り掛かった途端、暗礁に乗り上げることになります。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
上記の5つの事件のうち、松田真実ちゃんの事件は、
すでに犯人とされる人物が逮捕されており、
無期懲役囚として刑務所に収監されていたのです。

犯人とされた人物の名は、菅谷利和さん。
事件の名前は「足利事件」と呼ばれていました。

菅谷さんが犯人とされた決定的理由は「自供」と「DNA型鑑定」です。
しかも足利事件は、我が国で初めてDNA型鑑定が証拠採用されたケースで、
当時は「科学捜査の勝利」が誇らしげに宣伝された警察にとってはメルクマールとなる事件でした。


連続すると思われた事件に、突如差し挟まれた断絶。
しかしどう考えても、5つの事件を連続したものと考えなければ、
いろいろと説明のつかないこともあります。

ならば菅谷さんを容疑者から「排除」するのが自然ではないか。
清水さんは松田真実ちゃんの事件を再検証することにしたのです。

その検証は徹底したものでした。
菅谷さんは真実ちゃんを自転車で連れ去ったとされていました。
ならば、と菅谷さんが使っていた自転車を使用して、
菅谷さんと同じ身長体重の記者が、
真実ちゃんと同じ重量の重しをのせて走り、何度も時間を計ってみる。

その結果、明らかになったのは警察のあまりにずさんな捜査でした。
(他にも警察の怠慢が明らかになる検証結果が出てきますが割愛します)


「でもDNAがあるだろ?」と思った方!!
それこそが本書の白眉なのです。


警察が誇らしげに宣伝していたDNA型鑑定。
これについてぼくたちはいったいどれほどのことを知っているでしょうか。
科学を持ち出された途端に、なにか万能のモノサシを目の前に示されたような
思考停止に陥っていないでしょうか。

本書では過去のDNA型鑑定がいかに精度の低いものだったかが暴かれます。

いやもっと端的にいえば、菅谷さんのDNA型鑑定は誤っていたのです。
警察が胸を張ってPRしていたDNA型鑑定が
こんなにも杜撰なものだったことに背筋が寒くならない人はいないでしょう。
(DNA型鑑定の旗ふり役は科学警察研究所。本書では「S女史」と表記されている、
この方の本を読めば、警察がどんなPRをしていたかを知ることができます)


結果として、日本テレビの追及によって再審への扉が開かれ、菅谷さんは無罪になりました。
(日本テレビの一連の取材活動は、ジャーナリズム史に残る素晴らしいものでした)

ようやく5つの事件が連続したものとして
捜査線上にのぼるかと思いきや、そうはなりませんでした。


なぜなら同じ鑑定で飯塚事件の被告がすでに死刑になっていたからです!!


もし連続幼女誘拐殺人事件として捜査した結果、
真犯人が逮捕されることになれば、
警察は、誤ったDNA型鑑定で、飯塚事件の被告を
死に追いやった責任を追及されることになるでしょう。

そんなことになれば、いまの警察トップは全員辞職を免れません。


ここで再び、かつての桶川ストーカー事件同様、
「決して誤りを認めようとしない警察」がその醜悪な姿を現すことになります。

本書には戦慄をおぼえる箇所がいくつもあるのですが、
そのひとつが、菅谷さんが法廷で、
取り調べにあたった元検事を取詰める場面です。

過ちを認めてほしいと問いつめる菅谷さんに対して元検事がとった態度は、
全国の小学校の道徳の授業で、「こんな醜い大人になってはいけないよ」と
教えるのに絶好の教材になるくらい、醜く、ある種の人間の卑小さが出たものです。


このくだりを読んでぼくが連想したのは、アドルフ・アイヒマンでした、

ナチスの小役人として、数十万人のユダヤ人をガス室に送ったこの男は、
戦後は偽名を使って逃亡生活を続け、最終的にはアルゼンチンで
自動車のセールスマンをしているところをイスラエルの諜報機関に捕らえられ、
裁判にかけられることになりました。

その裁判の模様は、哲学者のハンナ・アーレントによって書かれた
『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)
読むことができます。

アーレントによって描き出されたアイヒマンは、平凡な小役人でした。
頭がいい、いわゆる能吏なのでしょうが、職務に忠実で、
命じられたことに基づいて仕事をこなすことに疑問を持たないタイプ。

当時、世間の人々は、アーレントがアイヒマンを
悪魔のように描かなかったことに猛反発しました。

けれどもぼくはアーレントの描き出したアイヒマンのほうが怖い。

この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とあるように、
悪はいつでもごく普通の顔をしているのではないでしょうか。

菅谷さんを取り調べた元検事もきっと
アイヒマンと同じように優秀な官僚だったのでしょう。
このふたりがぼくの中では重なり合って仕方ありません。

さて、警察が本腰を入れないために、
事件の真相究明は暗礁に乗り上げたかのように見えます。

しかし、この清水潔という記者の凄いところはここからです。

桶川ストーカー事件と同様、
警察が動かなければ自分が、とばかりに、
なんと!この連続幼女誘拐殺人事件の容疑者を思しき男を、
独自に突き止めてしまうのです!!

ルパン三世に似ているとされるこの男の居場所を
著者がどうやって突き止めたのかは詳らかにはされていませんが、
ともかく男の情報を警察に提供したところ、
これまた桶川ストーカー事件と同様、警察は動きませんでした。


それにしても警察はなぜこれほどまでに間違いを認めようとしないのでしょうか。

飯塚事件のことがあるにせよ(著者は飯塚事件も再取材して冤罪の可能性を示唆しています)
桶川ストーカー事件でも同じような過ちを犯しているわけで、
これはもはや組織的な病理といっても過言ではありません。


そのことで思い出したことがあります。

先日、九州新幹線や日本初のクルーズトレイン「ななつ星」のデザインで知られる
デザイナーの水戸岡鋭治さんにお目にかかる機会がありました。

その時に心に残った話があります。
水戸岡さんは、「物事の善し悪しを判断する時には、子どもたちのことを考えると、
だいたい判断を間違えない」とおっしゃいます。

たとえば、寝台列車の床材を、木にするか、
それともよく電車の床に使われるようなパネルにするかを判断するとしましょう。

企業に属する組織人の判断からすればコストの安いパネルだという結論がでます。

けれどもそう答えた人に、「では親として判断したらどうなります?」と訊くと、
「そりゃ自然の木材がいいに決まっているでしょう」という答えが返ってくるそうです。

「ということはつまり、木を使うというのが正しい答えなんですよ」と水戸岡さんはいいます。

過ちを認めようとしない警察の皆さんに、ぼくはごくごく素朴に問いかけたい。

「そんな仕事をしていて、あなたたちのお子さんに恥ずかしくないのですか?」と。

清水潔さんが突き止めた「ルパン」はいまものうのうと生きています。
けれども、本書からは「いいか、逃げきれると思うなよ」という
清水さんのただならぬ気迫が伝わってきます。

なぜ彼がこれほどまでにこの事件にこだわるのか。

その理由は「あとがき」でさりげなく明かされています。
その事実を目にした時、読者ははっと胸を衝かれるでしょう。

命のかけがえのなさを誰よりも痛感している記者が、
地を這うような取材で突き止めた真相を世に訴えています。

ぼくも微力ながら、その戦列に加わりたいと思います。

投稿者 yomehon : 10:00

2014年02月09日

夜と女、ネオンに引き寄せられた男たち


ふだんは早朝番組をやっていますし、
しかもこの年になると滅多にないことなのですが、
先日ひさしぶりに朝まで飲み明かしてしまいました。

「飲まねぇとやってらんねー」みたいなノリではありませんよ。
(正直まぁ多少はそういう気持ちもあるけれど)

「ひさしぶりに今日はいくか」と飲み始めたら楽しくなり、
すっかりチャクラが開いて(?)しまいまして、
日本酒やら焼酎やらワインやらを大量に摂取したあげく、
気がついたら何軒目かで辿り着いた場末のスナックで
一夜を明かしていたというパターンです。

そのスナックは、昔はそこそこいいお店で働いていたホステスが
独立して開いた店で、当初はそれなりにきらびやかな雰囲気を醸し出していましたが、
開店して15年ほどたつうちにすっかりお店もママも薹が立ってしまい、
いまでは貫禄あるママが酒ヤケした喉からドスの利いた声を響かせながら仕切る、
場末と聞いてみなさんが抱くであろうイメージを決して裏切らないお店へと成長しました。


「最近どうなの?」なんて会話は
どこの飲み屋でも聞かれるお決まりのやり取りです。
ひとしきりばか騒ぎをして一息ついたところで
そんな定番の質問を投げかけると、
「全然だめ」と彼女はため息をつきました。

彼女が水商売の世界に入ったのはバブル華やかなりし頃、
それから20年以上「ず〜っと右肩下がりなような気がする」と
首を振りながら答えました。

とはいえ、彼女の店は近隣でも繁盛しているほうです。
そう告げると、
「だからよそはもっと大変だと思う。
特に地方でお店やってる友だちは悲惨だって言ってる」
そんな言葉が返ってきました。


彼女の話を聞きながら、思い浮かべた一冊が
『誘蛾灯 鳥取連続不審死事件』青木理(講談社)

鳥取のうらぶれたスナックに務めるホステスの周辺で続いた
6人の男たちの不審死事件を追ったノンフィクションです。

事件が発覚したのは2009年のこと。
首都圏では木嶋佳苗という女性の周辺で
相次いで男性が死んでいることがわかり、
一方、鳥取県では上田美由紀という女性の周辺で
何人もの男性たちが命を落としていることがわかったのです。

首都圏と鳥取県——。
ふたつの事件には共通点と相違点がありました。

共通点は、どちらの事件も、
主犯とされた女性が30代半ばの小柄な肥満体型をしており、
お世辞にも容姿には恵まれているとはいえない風貌であること。
にもかかわらず、彼女たちは何人もの男性たちと肉体関係を結び、
多額の金銭を貢がせていたこと。

メディアの俗情を刺激したのはこちらの共通点のほうで、
もっぱら「こんな容姿の女性になぜ男たちはハマったのか」という
視点からの報道が繰り広げられました。


しかし相違点の方に目を向けた途端、
それぞれの事件は途端に異なった相貌を帯び始めるのです。

木嶋佳苗被告の事件は、
北海道の田舎から出てきた女性が、都会の生活に憧れを抱き、
婚活サイトで釣り上げた中年の独身男性から吸い上げたカネで、
都心の高級マンションに住み、高級外車を乗り回しては、
そんな生活の模様をブログにアップしていたというものでした。

この事件について書かれた数々の本の中でもっとも優れた一冊は、
『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』北原みのり(講談社文庫)ですが、
この本から見えてくるのは、メディアが垂れ流すオシャレな都会生活というイメージに、
過剰なまでに適応しようとした、貧しい地方出身の女性の哀しい姿でした。

事件当時、木嶋被告のブログをみて思ったのは、
「都心のラグジュアリーホテルの一室でグラシャン飲んでる私」みたいに、
ベタな「アーバンライフ」をなぞっているなーということでした。
それはとても滑稽で、物悲しい姿ではあるけれど、
少なくとも彼女は、いまの自分とは違う、
別の姿になろうと足掻いていたとは言えるのではないでしょうか。


けれども鳥取の上田美由紀被告の事件には、
木嶋被告のようなある種のわかりやすい物語を当てはめにくいところがあります。

なにしろ上田被告には5人もの子どもがいたのです。

ゴミ屋敷のようなアパートで子どもたちを育てながら
鳥取市内の寂れたスナックでホステスとして働き、
そこで知り合った男たちと次々に肉体関係を結んでは、
多額の金品を貢がせていた上田被告の生活からは、
少なくとも木嶋被告のような
「都会のセレブ生活に憧れて…そのためにお金が必要で…」的な
わかりやすい動機は見出し辛いのです。

にもかかわらず、この事件には妙に人を引きつけるところがあります。
それはこの事件が、ぼくらにも共通する
なにか普遍的なものを抱えているからではないでしょうか。
青木さんはこう書いています。


「また、少しだけ大上段に構えることを許してもらえるなら、
数々の流行言葉や疑似装飾に彩られていたことで
世の耳目を集めた首都圏連続不審死事件とは裏腹に、
時代性や社会性などないように思われていた
鳥取連続不審死事件のほうがむしろ、
現代日本社会に巣食う病が底流で脈打っているのではないか」


ここで言われている「現代日本社会に巣食う病」とはなんでしょうか。
それは、都会に比べて疲弊の度合いを強める地方の問題や、
格差の底辺に位置する貧困にあえぐ人々、
人が誰しも抱え込んでいる業や宿痾のようなもの。

この事件では、読売新聞の記者や鳥取県警の刑事など、
地元ではエリートと目されているような人々が
上田被告に入れあげたあげく、命を絶っていました。
彼らはいったい何に魅入られたのでしょうか。

著者はそれを見極めるために、鳥取の歓楽街へと分け入っていくのです。


それにしても、
この本で描き出される地方都市の風景のなんと荒涼たることか。


「すっかりと寂れ、人の気配がほとんどない歓楽街。
その片隅で太った二人の老女が営む店。ゴミ屋敷に一人住まい、
唾を飛ばしながら憤る老女。縁者もなく、生活保護を受けながら
ぎりぎりの生を紡ぐ人々。
段ボールを被って轢死した記者。雪の山中で首を吊ったという刑事。
身内の不審死を隠蔽する警察。不自然な捜査に憤りながらも、
息をひそめてそれを見つめるしかない遺族。
それぞれにそれぞれの事情はあるのだが、目の前に次々と立ち現れてくる情景は
溜息が出るほど暗く、目を背けたくなるほど澱んでいた」


鈍色の雲が重く垂れ込める下、吹きすさぶ寒風に粉雪が舞い、
海に目を転じれば、荒れた日本海で白い波頭が浮かんでは消える……。

そんな冬の鳥取特有の光景が拍車をかけたのでしょうか。
本書で著者の描き出す一地方都市の姿は、どこまでも息苦しい。

でも、この出口のない閉塞感に包まれた感じは、ぼく自身も馴染みがあります。
ぼくは九州の山間にある小さな町で生まれました。
数十年前は多少の個性があった町の景色も、
いまでは都会のチェーン量販店やパチンコ店などが立ち並ぶ、
どこにでもある光景へと成り果ててしまいました。
(三浦展さんの言う「ファスト風土」というやつです)

たまに聞こえてくる同級生の話にも明るいものはありません。

こうした地方のどうしようもない行き詰まり感を
いち早く小説で描こうとしたのが、
吉田修一さんの傑作『悪人』(朝日文庫)でしょう。
あの小説と本書で青木さんが描く地方都市の光景はとても似ています。

あの小説にも、未来が感じられない日常の中で、
不意に落とし穴にはまったかのように犯罪を犯してしまう人間が出てきますが、
上田被告も同じようにふと魔が差したかのように犯罪に手を染めたのでしょうか。
いったい上田美由紀という女性はどういう人間だったのでしょうか。


この事件で彼女は、強盗殺人などの罪に問われ、一審で死刑判決を受けます。
事件の捜査では結局直接的な証拠は見つかっておらず、
そうした乏しい証拠によって裁判が進められること自体には大きな問題があるでしょう。
著者も上田被告が真犯人で間違いないなどと断言しているわけではありません。

けれども、本書で著者が上田被告に接見した場面を読んだ時に、
ぼくは上田美由紀という女性が、その小柄でぽっちゃりした外見の内側に隠し持った
素顔を垣間みたように思えたのです。

事件の公判で明らかになったのは、
男たちが上田被告にどのように翻弄されたかということでした。


「美由紀は、呆れ果てるほどの大ウソを次から次へと吐き出す女だった。
妊娠したと告げて中絶費用や養育費を要求するのは得意のパターンだったし。
自傷や自殺をちらつかせて交際相手の男に覚悟を迫り、強烈な圧迫をかけてくるのも
十八番の手口だった。
それでも落ちない男には、五人の子どもまで盾にとって脅迫し、懐柔し、
大混乱の中へと誘っていった。重要な場面では架空の妹=アケミを登場させ、
すでに吐き出した病的なほどの大ウソをさらに奇天烈な大ウソで糊塗しようとした。
(略)
一方で美由紀には、男たちを心地いい気分にさせてくれる一面も持ち合わせていた。
それを安西は『癒される』という言葉で表現し、大田は『男を立ててくれる』
『居心地のいい空間をつくってくれた』と評し、松島は『子どもみたいに無邪気で
可愛いところがあった」と振り返った。また、五人の子どもを女手一つで育てる
美由紀の姿に心打たれ、情のようなものを抱いてしまったと語る点でも共通していた」


上田被告と著者の面会室でのやりとりを読んでいると、
彼女が会話の中にいかに巧みにウソを忍び込ませてくるかということが、
これまた著者の巧みな筆によって再現されていて、読んでいて寒気をおぼえました。

つまるところ、小説『悪人』で描かれたような、
窒息しそうな毎日の中で、ふと闇に魅入られたように日常を踏み外してしまった人間は、
上田美由紀被告のほうではなく、その被害者たちのほうだったのではないでしょうか。

ニーチェが『善悪の彼岸』の中で、
「おまえが深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返しているのだ」
と述べたように、
上田被告の肉体に溺れ、破滅に向かっていった男たちは皆、
底知れぬ闇に魅入られてしまったのかもしれません。

では上田美由紀という女はなんだったのか。

著者は彼女を、
昏い底なし沼へと男たちを導く
誘蛾灯のような存在だったのではないかと書いていますが、
ぼくはもっと得体の知れないもの、モンスターとしか名付け得ないような、
常人には想像できないような怪物性を隠し持った存在ではないかと思いました。

ではなぜそんな怪物的な存在が生まれたのか・…・。
その謎はいまだ解明されていません。


著者の青木理さんについても少し触れておきましょう。

以前、青木さんに番組に出ていただこうとある人に連絡先を訊いたら、
「彼に会いたかったらあそこに行くといいよ」
とある飲屋街の名前を告げられたことがあります。

権力と真っ向から対峙することも辞さない骨太のジャーナリストは、
また夜の街と酒を愛する人でもありました。

本書でもそのキャラクターはいかんなく発揮されています。
もし本を読んだ時に、
やけにスナックの止まり木での情景描写が多いように感じたとしても、
それはまったく気のせいではないということを最後に付け加えておきます。


投稿者 yomehon : 09:00

2014年02月08日

「オリジナル」とはなにか


一連のゴーストライター騒動をみていて
「オリジナル」という概念について考えさせられました。

たとえば、オリジナル作品とはなんでしょうか。

定義してみよと言われたら、実はとっても難しい。

ある作家が生みの苦しみを経て生み出した作品のこと。

先行作品の模倣ではなく、
まったく新しくその人の中から生まれてきた作品のこと……。


でも実際に、そんなことがあり得るでしょうか?

まったく先行作品の影響を受けずに、
歴史上なかったような真に新しい作品を生みだすなんてことが、
本当にあり得るのでしょうか?


一連のゴーストライター騒動をみていて感じるのは、
どうも世間では、

「オリジナル作品はエラい!」

と思われているのではないかということ。

でも、実はこの考えは幻想に過ぎません。
そもそもオリジナルな作品などというものは存在しないのです。


かつてフランスにロラン・バルトという批評家がいました。

とてもスタイリッシュな文章を書く人で、
いや、というか、文章のスタイルそのものについて考え抜いた人で、
1950年代から70年代にかけて、世界に大きな知的インパクトを与えました。

バルトの仕事のなかでもっとも重要なのが、「作者の死」という概念です。
(名著『物語の構造分析』に収録されています)

作品に対して、それを生み出した神のような存在として位置づけられる
「作者」という存在に、バルトは疑問を投げかけます。

バルトの考えをごくごく簡単にまとめると、
作品というのは、さまざまな要素の上に成り立つものであり
作品がどんな要素から成り立っているかを読み解くのは読者であるということです。

ここで大切なこと視点がふたつ提示されています。

ひとつは、「オリジナル」な作品などないということ。

そしてもうひとつは、これまで受動的な存在だった読者にも、
創造的に作品に関われる可能性があるということ。


バルトは1980年に自動車事故で亡くなりましたが、
彼がその後の文化に与えた影響は計り知れないものがあります。

日本では高橋源一郎さんを嚆矢とする
ポストモダン小説(いろんな先行作品からの引用などをもとに書かれる小説)や、
コミケなどでお馴染みの先行作品をもとにした二次創作や、
音楽やアートにおけるサンプリングなど、みんな根っこにあるのは、
バルトの提示した「作者の死」というコンセプトです。


それに日本文化には、
そもそもオリジナルなんて考えはなかったのではないでしょうか。

生前の立川談志師匠に聞かされた話で、
もっとも心に残っているのが「型」の話でした。

「型を身につけた者だけが『型破り』な芸を演じることが出来る。
一方、型を身につけていない者の芸は『型無し』と言う」

この話は、いまは亡き中村勘三郎さんがよく口にされたことでも知られていますね。

どちらが先におっしゃったのかはわかりませんが、
仲が良かったおふたりのこと、
きっと酒席でそんなお話を肴に大いに盛り上がったのでしょう。

落語と歌舞伎、どちらの芸にも共通する真理なのでしょうね。

ともかく、作品というものは、
さまざまな先行作品の模倣の上に成り立つものだということです。

でも不思議なことに、
たとえ模倣の上に成り立っていたとしても、
そこから漏れ出してくる「その人らしさ」というものもあるのですね。
個性としか名付けようのない「その人らしさ」が。

ものをつくるということは、
先行作品に敬意を払いつつつ、
少しでもそこに自分らしさを付け加えようと足掻くプロセスなのかもしれません。

投稿者 yomehon : 10:00

2014年02月07日

「ゴーストライター」は悪くない!


いまから30年以上も昔の話です。

野球少年だったぼくは、当時ベースボールマガジン社から出ていた
プロ野球選手の自伝を愛読していました。

掛布雅之選手や篠塚利夫選手(後に和典に改名)らが大活躍していた時代で、
自伝には彼らの野球についての考えだけでなく、初恋のエピソードなども載っていて、
プロ野球選手に憧れる少年にとってはたまらない内容でした。
比喩ではなく本当に暗記してしまうくらい繰り返し繰り返し読んだものです。


ある日のこと。
あまりに夢中に読んでいる様子をみて興味を持ったのでしょう。
父親が「何を読んでいるんだ」と聞いてきました。

息子からすれば「よくぞ聞いてくれた!」という感じですよ。
どんなにその本が面白いかを力説しました。

すると父親は一言、

「ま、書いているのはゴーストライターだからな。実際は脚色も入っているだろうな」


まだ小学生でしたが、この一言にはカチンと来ましたね。
ひいきの選手を馬鹿にされたような気がして、
猛烈に腹を立てて父親に食って掛かったのをおぼえています。

音大の非常勤講師を務める新垣隆さんが、
佐村河内守さん作とされていた楽曲の「ゴーストライター」を
18年にわたって続けてきたことを記者会見で告白しました。

このニュースをみてぼくが思い出したのが、
いま述べた小学生の頃の父親とのやり取りです。


ぼくはなぜ、「ゴーストライター」という言葉に憤ったのでしょう?

小学生ですから、もちろん世間を知らないということもあるでしょう。

だって現役選手が本を執筆するなんて普通はあり得ないわけで、
(球団だってせっせと本を書いてる暇があったら練習しろとなるはず)
ゴーストライターが書いているという父親の指摘は正しいわけです。


でもそれだけではなかったような気がします。

「ゴーストライター」という言葉をあれだけ否定的にとらえてしまったのは、
たぶんぼくの心のなかに、

「実際は書いていないのに、自分で書いたように装うのはズルい」

という意識があったからではないでしょうか。


今回の一連の騒動をみていて思ったのは、
こと「ゴーストライター」の部分に限って言えば、
世間の反応が当時のぼくの反応とそっくりだということです。


でも実際には、ぼくたちが思っている以上に「ゴーストライター」による仕事は多いのです。


『職業、ブックライター。毎月1冊10万字書く私の方法』上阪徹(講談社)は、
一般にゴーストライターとも呼ばれる「ブックライター」の仕事の実際が書かれた大変面白い本。

上阪さんがゴーストライターではなく、
わざわざ「ブックライター」という言葉を使っていることに注意しましょう。

上阪さんの仕事は、著名な経営者やプロスポーツ選手などから依頼を受け、
10時間以上にわたって彼らから話を聞き、その内容を一冊の本にまとめること。

「なんだ要はゴーストライターじゃん」と思った方、たしかにその通りなのですが、
上阪さんがわざわざ「ブックライター」という言葉を使っているのには理由があります。

世の中には、その道の一流のプロで、語るべき内容を持っているにもかかわらず、
本を書く時間もなければ、そのスキルを持ち合わせていないという人がたくさんいます。

そんな人たちが持っている言葉を、わかりやすくまとめて読者のもとに届ける。

ブックライターの役割を簡単にまとめると、そんな感じになるでしょうか。

実際には書いていない人間が著者としてクレジットされるわけですが、
元はといえば、その人の語った言葉を素材に書かれたものなわけで、
なんの問題もありません。

著者にしてみれば本を書く労力が省け、
読者にしてみれば著者の主張をいち早く知ることができる。
ブックライターのおかげで、両者とも利益を得ることができるのです。

だって想像してみてください。

マー君が登板機会を削ってまで
本を書くのに四苦八苦していている状況を。

ブックライターの役割は、マー君が時間のある時を見計らって話を聞き、
マー君になり代わってその言葉をまとめるということなのです。


ブックライターとして生計をたてる上坂徹さんは、
月に一冊のペースで本をお出しになっていて、
5万部以上売れた本が10冊以上、
中には10万部、30万部売れた本もあるそうです。

杉並区立和田中学校の校長を務めたことで知られる
藤原和博さんの『坂の上の坂』(ポプラ社)など、
みなさんがよくご存知のベストセラーも上阪さんの仕事。

なかには上阪さんが過去インタビューした
たくさんの成功者の言葉をまとめた
『成功者3000人の言葉』(飛鳥新社)のように、
ご自身の本でベストセラーになったものもあります。


印税の一部が報酬となりますから、
本が売れれば売れるほど上阪さんの懐も潤います。

本書によれば、
ブックライター歴15年で、これまで4億円以上を稼いだのだとか。

仕事現場へはドイツ車で通い、土日は休んで家族とともに過ごし、
執筆は世田谷の高級住宅街の事務所兼自宅で行っています。

一流のブックライターの生活からは、
ゴーストライターという言葉から連想される
暗いイメージは微塵も感じられません。


上阪さんはゴーストライターという呼称をできれば使いたくないと言います。

それは、今回の騒動にもみられるように、
この言葉につきまとうイメージが良くないから。

「ブックライター」という呼称は、
若い才能にこの仕事をもっと知ってもらいたい、
そして胸を張って仕事をして欲しいという思いから、
上阪さんが新しく生み出した言葉なのです。


考えてみれば、小学生の頃、
ぼくが夢中になったプロ野球選手たちの自伝も、
名もなきブックライターの手になるものだったのですね。

いまとなってはどなたなのか確かめる術もありませんが、
あんなに本がボロボロになるまで熱中させてくれた
見知らぬブックライターの方に心から感謝したい。

「本ってこんなに楽しいものなのか!」

あの時に感じた楽しさが、いまもぼくの読書を支えてくれているのですから。


投稿者 yomehon : 13:05

2014年02月06日

これぞ完璧なスクープ!


ひさしぶりに目にした完璧なスクープでした。

全聾で被爆二世の作曲家として
「現代のベートーベン」の異名をとった佐村河内守氏の作品が、
ことごとくゴーストライターの手になるものだったという事実を暴いた
週刊文春の記事のことです。

ゴーストライターに対して、
時に事実の隠蔽を指示し、
時に真相の秘匿を懇願する佐村河内氏の数々のメールをはじめ、
偽装工作に使われた宅配便の伝票の控えといった物的証拠などなど、
見開き4ページにわたって示された根拠を見る限りでは、
「全聾の作曲家はペテン師だった!」と題されたこの記事は
遺漏のない完璧なスクープといってもいいのではないかと思いました。


それにしてもこれほどのスクープ記事だというのに、
大手新聞各社がことごとく週刊文春を黙殺していたのには呆れました。

週刊文春という名前を出さずに、
あたかも佐村河内さんの代理人である弁護士の発言で
事実が明らかになったかのような書き方をしています。

スクープを抜かれて悔しい気持ちはわかりますが、なんだかなぁ……。

もっともすべての新聞が
昔からこういう姿勢だったわけではなくて、
かつて月刊誌『噂の真相』が
時の東京高検の検事長の女性スキャンダルをスクープした際は、
あの天下の朝日新聞が、
一面トップで「噂の真相」のクレジット付きで後追い記事を載せたことがあります。
(1999年4月9日付朝刊)
このあたりの顛末は西岡研介さんの『スキャンダルを追え!「噂の真相」トップ屋家業』に詳しいので、
ぜひお読みいただきたいのですが、
あれは朝日新聞の英断だったと思います。
おそらく太っ腹な方が当時の上層部にはいたのでしょう。


さて、ぼくが物心ついてから、もっとも完璧なスクープと言えば、
毎日新聞が2000年11月5日付の朝刊で報じた大スクープでしょう。

当時、古い土器を次々に発見しては日本の考古学の歴史を塗り替え、
「神の手」の異名をとっていたF氏の自作自演の発掘劇の証拠写真を押さえ、
「旧石器発掘捏造事件」として報じた歴史的スクープのことです。

なにが凄いって、1面〜3面、25面〜27面のあわせて6頁を使った大きな記事で、
ニセ物の土器を埋めて、周囲を気にしながらあたかも自分が発見したかのように
掘り出すまでの一連の動きを押さえた連続写真をはじめとして、
事件の背景から今後の考古学への打撃にいたるまで、
隅から隅まで目の行き届いた内容は、
あの『田中金脈の研究』を書いた立花隆さんをして
「日本ジャーナリズム史に残るような完璧なスクープ」と言わしめたほどでした。

この大スクープが生まれるまでの経緯は、
毎日新聞旧石器遺跡取材班の『発掘捏造』『旧石器発掘捏造のすべて』で読むことができます。
ぜひお手にとって調査報道の持つ力を実感してください。

今回、佐村河内さんの事件があって、ひさしぶりに上記の本を読み返してみましたが、
当時もF氏が発掘した偽造石器の数々を「奇跡」と賞賛して、
「神の手の持ち主」などと持ち上げていたことに愕然としました。
自分自身も含め、いかに人間が過ちを繰り返す動物かということを痛感しました。

最後に補足を。
週刊文春のスクープの立役者となった神山典士さんは、
目の付け所が独特なノンフィクション作品を書く方です。
ぼくのおススメは、日本に本格フレンチを伝えたサリー・ワイル氏の生涯を追いながら、
日本のフレンチ業界やホテル業界を描いた『初代総料理長サリー・ワイル』(講談社)。
こちらも古書マーケットで探して読む価値有りです。


投稿者 yomehon : 19:19