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2014年02月28日

雪かきと信頼社会


先日の2週にわたる大雪、みなさんご無事でしたか?
まだ雪が残っていて不便な生活を強いられている方や、
被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

そういう大変な思いをなさっている方々に比べれば、
我が家の懸案事項は雪かき程度とかわいいものでしたが、
それでも最初に雪が積もった時は、
都心で27センチの積雪は45年ぶりと聞いて
向こう三軒両隣のご近所の雪かきは全部やってやろうと
鼻息荒く意気込みました。

なにしろ45年ぶりです。
今回きっちりやっておけば、次に同じくらいの雪が積もるまでの間、
おそらく数十年くらいはご近所に感謝されっぱなしなんじゃないかと
セコく算盤をはじきまして、せっせと雪かきに精を出したわけです。

それがまさか翌週に再び27センチとは……。

しかも今度はすっかり寝坊してしまい、
スコップ片手に慌てて外に飛び出したところ、
ご近所中がすでにもう総出で作業を始めていまして、
大変申し訳ないことに我が家の前の雪も片付けてくれていました。

出遅れを挽回しようと他所さまの三倍くらいは頑張ったでしょうか。
みんなで力をあわせたおかげで、
お昼頃には通りの雪はきれいさっぱり片付いてしまいました。

普段は挨拶を交わす程度のご近所の皆さんと
たまにああやって力をあわせて作業するのも気持ちがいいものですね。


ところで、集団作業について考えていてふと思い出したのですが、
以下の命題は正しいでしょうか?それとも間違っているでしょうか?

「日本人は集団主義的な考えの人が多い。
一方、アメリカ人や西欧の人たちには個人主義的な考えの人が多い」

おそらくほとんどの人は「うん、その通り」と同意するんじゃないかと思います。

でも実は間違っているんです。

こういうことを専門に調べているのが、社会心理学者の山岸俊男さん。


『日本の「安心」はなぜ消えたのか』(集英社インターナショナル)
紹介されている数々の調査や実験からみえてくるのは、
意外にも日本人は個人主義者で、
他人を信用しない性質を持っているということ。
他人を信頼する度合いでは、アメリカ人のほうがはるかに高いそうです。

日本人は和を貴ぶ文化を持っているというのがこれまでの「常識」でしたが、
数々の実験からあぶりだされる姿はそれとは正反対。

ただ不思議なことに、個人主義的な考えを持っている人が多いにもかかわらず、
日本人はついつい集団主義的な行動をとってしまうのです。

それはなぜでしょうか?


山岸さんは、メンバーがお互いを監視し、
なにかあった場合には制裁を加えるようなシステムが
社会に組み込まれていたからだといいます。

ここで大事なポイントは、
お互いを見知っているからこそ、メンバーには「安心」が保証され、
たとえ他人を心の底では信頼していなくても生きていけるのだということ。
こういう社会を「安心社会」といいます。

ぼくの田舎では出かける際も戸締まりをしない家が多いのですが、
これなどは典型的な安心社会です。

かつては日本全体がこのような安心社会でした


ここで誤解のないように申し上げておくと、
安心社会自体は決して悪いものではありません。
歴史的にみれば、安心社会のほうがずっと歴史が長かったですし、
安心社会に適応した日本人の集団主義的ふるまいが、
「奇跡の高度成長」を実現させるプラスの原動力となるなど利点もありました。


ところが、その後の長い停滞の中で打ち出された「構造改革」が、
日本独特の安心社会に否応のない変化を迫ることになります。

終身雇用が保証されていた時代はまさに安心社会でしたが、
これからの日本人は、不透明な未来を前提に、
身ひとつで世界と向き合っていかなければなりませんし、
価値観をまったく共有していない他者とも、
信頼関係を結んでいくことが求められます。

いま日本社会は、従来の「安心社会」から、
他者を信頼する「信頼社会」へと大きく変貌を遂げようとしているのです。

でもここで大きな問題があります。
日本人ははたして信頼社会に適応できるのでしょうか?


山岸さんは、現代の日本では信頼社会への移行は決してうまくいっておらず、
そのことが相次ぐ企業の不祥事隠しや偽装問題などに現れているといいます。

他者を信頼できない社会とはいかなるものでしょうか。

それは、人々が疑心暗鬼に駆られる社会であり、不信が不信を呼ぶ社会。

みんなで協力すれば得をすることがわかっているのに、
「あいつは協力しないんじゃないか」とか、
「あいつは裏でいい思いをしているんじゃないか」などと
疑心暗鬼にとらわれた結果、非協力的な行動をとってしまう。

これを「社会的ジレンマ」といいます。

これはぜひとも本書で読んでいただきたい大切なところですが、
山岸さんはこの「社会的ジレンマ」という概念を駆使して、
いじめ問題や企業の情報隠しなどに対する有効な解決法をいくつも提示しています。

けれどもそれではなぜ日本人に比べて
アメリカ人は他人を信頼することができるのでしょうか?

山岸さんは、その理由のひとつとして、他人を信頼するほうが
信頼社会で暮らしていくには都合がいい、ということを指摘します。
つまり他人を信頼することが自分にとってトクになるわけです。

「人間が利他的な行動をとるのは、
決して理性のなせるわざなんかじゃなくて、
そのほうが自分にとって利益となるからである」
という考えは、山岸さんの理論の基本的なアイデアです。

人間が他人を助けるのは、
まわりまわってそのことが自分に返ってくるから。

まさに「情けは人のためならず」というわけです。


いまはたと気づきましたが、
そういえば我が家の近所の雪かきもそうかもしれません。

よくよく考えると、みんな小さな子どものいる家ばかり。
この先も長いこと顔をつきあわせなければならない隣人とうまくやるためには、
他の家の前も雪かきをやってあげるほうが、合理的な行動なわけです。
隣人に感謝されることがまわりまわって自分にとっての利益になるのですから。


なるほどー。
みんな考えることは一緒だったんだな。


このように一見、礼儀正しい行動にみえたり、倫理的に素晴らしい行動にみえるものでも、
その背景にあるのは、生まれながらにして人間に備わっている特性だったりするのです。

この視点をもとにさらに話をひろげるならば、教育の問題なども、ずいぶんと論点が整理されます。


たとえば保守派の政治家のみなさんが主張するように、
倫理教育や道徳教育といった「心の教育」をすれば社会が善くなるかのような主張は、
まったく根拠もないうえに意味もないと山岸さんは本書で一刀両断しています。

道徳教育に効果があるという主張の根底にあるのは、
「人間の心は教育によって、いかようにも作り変えることができる」という考え。

山岸さんはこれを「タブラ・ラサの神話」と呼びます。

タブラ・ラサというのはラテン語で、「白い板」のこと。
要するに、人間の心を真っ白いキャンバスのようにとらえ
そこに適切な教育によって色を塗ることで、思い通りの人間をつくれるという考えです。

このような考え方は、かつて旧ソ連や中国などの
社会主義国家で行われたイデオロギー教育と根っこを同じくしています。
(おそらく保守派の政治家のみなさんは社会主義国家は大嫌いなのではないかと
推察いたしますが、意外や意外、似た者同士として気が合うかもしれませんね)


人間は白板に色を塗るように心を入れ替えられるような単純なものではなく、
まずは人間の心に最初から組み込まれている
特性を理解することが大事だと山岸さんは言います。

人間性の本質がわかればわかるほど、その性質を利用して
いじめなどの社会問題を解決する事ができるようになるからです。

山岸さんの話を読んでいると、
「心の教育」などというものがいかに無意味かということがよくわかります。

アメリカもかつては「安心社会」でした。
けれども移民の大量移入や急速な工業化といった社会変動によって、
19世紀後半あたりから従来の「安心社会」に綻びが見え始めました。
(ちょうどいまの日本と同じですね)

移民たちがたくさんやってくれば、
かつてのように身内や顔見知りだけでコミュニティをつくるわけにはいかなくなります。

ここで初めてアメリカ人たちは、
異民族や余所者といった本当の他者と共生できる社会の構築を迫られるのです。

アメリカ人がつくりあげた「信頼社会」の核となるものをひと言で言い表すなら、
それは「正直ものがトクをするフェアな社会」ということになるでしょうか。


フェアネス(公正さ)を担保するためには、
それを保証する法律や裁判所などの社会制度の整備が必要となります。

中世ヨーロッパの地中海貿易の覇権を競い合った
イタリアのジェノア商人と北アフリカのマグレブ商人の争いは、
公正さを保証するシステムをつくりあげたジェノア商人が勝利しました。
身内だけの安心社会で商売していたマグレブ商人は、
資本主義の萌芽が生まれようとしていた時代の変化についていけなかったのです。

現代社会においてフェアネスを担保するアイテムのひとつとして
山岸さんがネットオークションなどにおける
評価のシステムに注目しているところは覚えておいていいポイントでしょう。
岡田斗司夫さんなども『評価経済社会』などで似たような点に注目しています。


ともかく今後の日本に必要なのは、
社会的ジレンマをいかに乗り越えて、信頼社会に適応するかということなのです。

いまヘイトスピーチをはじめとする
外国人を排斥する動きが目につきますが、
ああいった勢力が生まれる背景にも、
安心社会が崩壊し、信頼社会がいまだ構築できていないという
我が国特有の課題があるように思うのです。

そういえば、山岸俊男さんの理論には、早くから糸井重里さんも注目されていて、
ほぼ日刊イトイ新聞を生み出すきっかけになったとどこかでおっしゃっていました。

興味を持った方は、
『日本の「安心」はなぜ消えたのか』から入って、
『社会的ジレンマ』(PHP新書)、
『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)と読み進めるとわかりやすいでしょう。

そして最終的には名著『信頼の構造』(東京大学出版会)を読むことをおススメします。


投稿者 yomehon : 2014年02月28日 15:00