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2012年07月30日

「イギリス」を感じる5冊!(+おまけの一冊)


ついにロンドン五輪が開幕しましたね!

まず興奮させられたのは開会式です。
実に素晴らしい演出でした。

一連の演出をひと言で表現するなら「大人の余裕」でしょうか。

オリンピックの開会式イベントというのは、
往々にして肩に力の入ったものになりがちです。
ド派手な演出やら一糸乱れぬマスゲームやらで、
これでもかと国の力を誇示しようとした北京五輪などはその典型でした。

今回の開会式は、そうしたノリとは対極にありました。

イギリスは産業革命によって近代文明を生み出し、
かつては世界に冠たる大英帝国として栄華を極めましたが、
現在では長い衰退期にある「老いたる大国」です。

けれども、そうした成熟した大人の国だからこそできる
懐の深い、自由でユーモアに満ちた演出が随所にみられました。

だいたいエリザベス女王が007とヘリコプターからダイブしたり
Mr.ビーンがロンドン・シンフォニー・オーケストラと共演するなんてアイデアは、
ユーモアを解する余裕をもった大人の国ならではの発想ではないでしょうか。

それにしても「老いたる大国」とはいえ、この国のソフト・パワーは凄まじい。
シェイクスピアの芝居や数々の名作ファンタジー群、
それにパンクやニューウェーブなどを生み出したUKロックなど、
人類の財産といってもいい素晴らしい文化財が、
すべてこの国から生まれているのというのは驚くべきことです。


そこで今回は、イギリスをより身近に感じていただける5冊をご紹介。
オリンピックはもちろん競技を観て楽しむものですが、
読書でもオリンピック気分を味わっていただこうという趣向です。

まずは贅沢な写真でイギリスの不思議を感じていただきましょう。

『巨石 イギリス・アイルランドの古代を歩く』山田英春(早川書房)は、
イギリス各地に数えきれないほどあるストーンサークルやドルメンなどの
巨石遺跡をくまなく巡り歩き、ケルトの伝説や古代の天文学などの説を
わかりやすく紹介しつつ、イギリスの美しい草原や田園に佇む巨石群を
美しいオールカラーの写真でまとめた一冊。

これは手にとる価値のある素晴らしい本です。
著者の山田英春さんの本業はブック・デザイナーで、
文章も写真も装丁も造本もすべて著者ひとりの手によるものなのですが、
このクオリティが信じられないくらい高いんです。
しかも謎の巨石文明に魅せられた著者の思いがビンビンに伝わってきて、
ページを開くと、一挙に古代へと連れて行かれます。

就寝前に飲むお酒をナイト・キャップといいますが、
ぼくにとってはこの本がナイト・キャップ代わり。
深夜、古代人の巨石信仰に思いを馳せながらページをめくっていると、
なんとも贅沢な気持ちになります。


さて、お次はイギリスのお家芸ファンタジーから。

『トムは真夜中の庭で』フィリップ・ピアス作 高杉一郎訳(岩波少年文庫)
いかがでしょうか。

兄弟がはしかにかかったために、
ロンドンから離れた親戚の家に預けられたトムは、
ある真夜中にアパートの古時計が13も時を打つのを聞きます。
裏庭に出てみると、そこには昼間はなかったはずの庭園が広がっていて、
トムはヴィクトリア朝時代の不思議な少女と友だちになるのでした……。

「時」をテーマにしたタイム・ファンタジーの傑作であると同時に、
イギリス児童文学を代表する名作でもあります。

ル・グウィンが「夜の言葉」と表現したように、
ファンタジーにはやはり夜が似合います。
ファンタジーが教えてくれるのは、ビジネスや学校の勉強のように
「昼の言葉」の世界だけで生きていると、人間の精神はやせ細ってしまうということ。
ファンタジーは決して子どもだけの読み物ではありません。
たまには手にとってみてください。とてもいい読書体験になると思いますよ。


次はコミックから。
もしこれまで読んできた漫画のなかで最高傑作を挙げよと言われれば、
ぼくは迷うことなく『MASTER キートン』浦沢直樹(小学館)の名をあげます。
昨年、脚本のクレジットに、これまでの勝鹿北星氏の他に、
新たに長崎尚志氏の名前を加えて、完全復刻版の刊行が始まったことは、
個人的には慶賀すべき出来事でした。
(復刻版の刊行に至るまでにいろんな込み入った事情があったのです。詳しくは割愛)

日本人の父とイギリス人の母を持つ平賀=キートン・太一は、
イギリス国籍でオックスフォード大学で考古学を学んだ経歴を持つ一方で、
SAS(イギリス特殊空挺部隊)の元隊員でサバイバル術のエキスパートでもあります。

キートンが巻き込まれる様々な事件には、
イギリスに伝わる民話や伝説を背景にしたものや、
国際政治におけるイギリスの立場を背景にしたものがかなりあります。
物語の面白さに没頭しながらイギリスを感じることができる。なんて贅沢なんだ!


お次はイギリスの顔といってもいいヒーロー007です。

『カジノ・ロワイヤル』イアン・フレミング作 井上一夫訳(創元推理文庫)は、
この世に007ことジェームズ・ボンドを生み出した記念すべき一冊。

もはや説明は不要でしょう。
ただ映画に関していえば、一連のボンド・シリーズの中でも、
この原作の雰囲気をもっとも忠実に踏襲しているのは、
現在ボンドを演じているダニエル・クレイグの作品であるとだけ申し上げておきます。


最後はいまのロンドンの街の空気がもっともよく伝わってくる一冊を。

『ブリジット・ジョーンズの日記』ヘレン・フィールディング著 亀井よし子訳
(ヴィレッジブックス)
は、30代シングル女性の等身大の姿を描いて、
イギリスのみならず世界中の女性たちの共感を得たベストセラー小説。

足の太さを気にしながらも頑張ってミニスカートをはいたり、
女子会で盛り上がって飲み過ぎたり、機械オンチでAV機器の操作にイライラしたり、
ロンドンで一人暮らしをおくる女性の日常が巧みに描かれています。


さて、5冊といっておきながら、
きょう読み終えたばかりの本がとても面白かったので、おまけでもう一冊ご紹介。

『英連邦』小川浩之(中公叢書)は、
「大人の余裕」を持つイギリスという国の秘密を教えてくれます。

この本で初めて知ったのですが、
2012年現在、世界各地の大国から小国まで、あわせて54カ国が、
英連邦に加盟しているそうです。(この数はなんと国連加盟国の28%にあたります)

しかもオリンピックのように4年にいちど、
英連邦競技大会(コモンウェルス・ゲームズ)なる大規模なスポーツ大会が開催され、
しばしば世界記録も生まれるなど毎回大きな注目を集めているなんてこと、みなさん知ってました?

著者が本書を通じて解き明かそうと試みていることは、以下の一文に集約されます。


「中国、韓国をはじめ、日本は過去に植民地支配、あるいは侵略を行った相手である
アジアの国々から強い憤りと非難を繰り返し浴びせかけられてきた。日本による過去の
植民地支配は、多くの場合、現在の厳しい対立につながっている。それに対して、
イギリスはなぜ、過去の帝国支配から脱して独立した国々と、英連邦という枠組みを
通して共存を可能にできたのだろうか」


その秘密はぜひ本書でどうぞ。

ただひとつだけ、ぼくたちが観たあの開会式にこそ、
その秘密の一端が現れていたとだけ申し上げておきましょう。

投稿者 yomehon : 20:28

2012年07月17日

第147回直木賞は辻村深月さんに決定!


第147回直木賞は辻村深月さんに決まりました。

当ブログの予想は半分しか当たらなかったですね。

選評を読んでみないとなんともいえませんが、
原田マハさんは、もしかしたらストーリー展開がややご都合主義的なところ
(たとえば伝説の絵画コレクターであるバイラーの孫娘が登場するところとか)
などがマイナスにとらえられたのかもしれませんね。
ぼくはそういう不備を補って余りある美点を備えた小説だと思ったのですが……。


辻村深月さんの受賞作『鍵のない夢を見る』を特徴づけているのは
次の2つのポイントです。

ひとつは、「普通の人たちが犯罪に手を染める瞬間を描いていること」。
そしてもうひとつは、「地方都市に暮らす人間の閉塞感を描いていること」。

若者を題材にした作品をずっと書いてきた辻村さんですが、
この作品ではより幅広い層にアプローチしています。

お子さんが生まれて母親になった経験なども、
作品にいいかたちで反映しているのかもしれませんね。

キャリアの中でも転機となる作品だっただけに、
受賞の喜びもひとしおではないでしょうか。

何はともあれ、直木賞受賞おめでとうございます!!

投稿者 yomehon : 22:23

2012年07月15日

第147回直木賞直前予想!(後編)


前回、貫井徳郎さんの『新月譚』で注目すべきポイントは、
「広げた大風呂敷をいかに畳むか」であると述べました。

物語は若い編集者がある大物作家のもとを訪ねるところから幕を開けます。

咲良怜花という名のその作家は、女優も顔負けの美貌を持ち、
過去数々の傑作を世に送り出したベストセラー作家でしたが、
49歳で突然筆を折り、表舞台から姿を消していました。

絶筆から8年後、怜花の小説のファンだという若い編集者が彼女のもとを訪れます。
もういちど小説を書いて欲しいと熱心にアプローチする編集者に対して、
怜花は、これまで誰にも語ることがなかった絶筆の理由を語り始めるのでした……。


どうですか?
数々の大ベストセラーを生み出し、しかも絶世の美女でもある作家が、
突然筆を折って隠棲した理由を告白しようというのです。
これを大風呂敷と言わずしてなんと言うのでしょう。

小説の神様に愛され、富も名声も両手からこぼれ落ちるほど手にした人間が、
小説を書くことをやめるというのには、おそらく相当な理由があるはずです。
つまり「風呂敷を広げただけのことはある」と誰もが納得するような理由が
これから明かされなければなりません。
大風呂敷の畳み方がポイントだというのはそういうことです。

このように、作者はいきなり高いハードルを自らに課したところから物語を始めます。
では、咲良怜花の告白とはどのようなものだったのか。もう少しみてみましょう。


物語はここから一挙に過去へ遡ります。
21歳の後藤和子が小さな貿易会社の入社面接を受けるところから始まります。
後藤和子は平凡な女性でした。本を読むのが好きで、頭もいいけれど、
性格は暗く、そしてなによりも容姿に恵まれていませんでした。
ところが和子はこの会社で、木之内徹という一回り年上の男性と出会い、
ここから彼女の運命が大きく変わっていくのです。


もうお気づきだと思いますが、
この後藤和子が咲良怜花の過去の姿です。
さらに察しのいい方は、ここまでの記述でおわかりかと思いますが、
和子は木之内との壮絶な恋愛の過程で、自らの顔を整形するのです。

整形した和子がいかにして作家になっていくのか。
和子と木之内との関係を描いていた物語は、
ここからもうひとつ「作家のシミュレーション小説」の様相も見せ始めます。

作家になるにはどうすればいいか。
新人作家はどのように扱われるか。
編集者というのはいかなる人種か。
創作の苦しみとはなにか。
作家はどんなことに悩み苦しんで作品を生み出しているか。

普段、我々がなかなか知る機会のない作家の生活の実態が描かれていきます。
(このあたりは選考委員の方はどういう反応を示すのでしょうね。
自分も同じだと共感するのか、それとも文学観が違うなどと反発するのか……)


さて、ひとりの男との出会いが、
女を整形手術や小説執筆に踏み切らせ、
その結果、女の運命は大きく変わっていきます。
器量が悪く、子どもの頃から自分に期待せず地味に生きるのが当たり前だった和子が、
ふつうの人が望んでも手に入れることのできないような富と名声を手にします。

けれども、「咲良怜花」となった和子が、
人生を変えるきっかけとなった小説を書くことを封印するのもまた、
木之内徹とのあいだに起きたある決定的な出来事がきっかけだったのです——。


まるで大河小説のように女の一生を描いたこの作品を読み終えた後、
しばらくぼくは「うーーん」と腕を組んだまま考え込んでしまいました。

「はたしてこれは大風呂敷を畳めているだろうか?」

そんな疑問を感じてしまったのです。


まず思ったのは、和子の整形が表沙汰にならないなんてことがあるだろうかということ。
大きな文学賞(たぶん直木賞のような賞でしょう)を受賞したとき、
その顔がテレビのニュースで流れ、興奮した親戚たちから電話がかかってきた、とある。
けれども、和子の容貌がすっかり変わったことに親戚たちは気づかなかったのか。
あるいは、和子が整形した後に憎み合う関係になったかつての親友は、
受賞を知らなかったのだろうか。

そんなはずはないだろう、と思います。
現在のように何かあればネットで暴露されるような時代ではないとはいえ、
それにしたって「あのベストセラー作家は顔を整形している」というタレコミが
マスコミにまったくないということはちょっと考えられません。

それともうひとつ違和感を覚えたのは、
咲良怜花を絶筆にいたらせた「ある出来事」についてです。
端的に言って、そこまでの決断を作家にさせるほどのインパクトがあるとは思えない。

というのは、小説を書くというのは、
理性ではどうにもならない業(ごう)のようなものではないかと思うのです。
何かに取り憑かれるというか、自分以外の何者かに突き動かされるかのように書く、
いや、書くというよりも、どうしても書かざるを得ないから書いてしまう。
だから作家は苦しくても苦しくてもペンを執り机に向かう。

昔、ある才能あふれる料理人が
「私、料理していないと死んじゃうんですよ」
と話すのを聞いたことがありますが、
作家もそれと似ているのではないかと思うのです。

そんなどうにもならない業を抱えた作家がペンを折ろうというからには、
それ相当の理由がなければなりません。

木之内とのあいだに起きたある出来事については、
人それぞれいろんな感想があるでしょうが、
少なくともぼくには「そんな理由では弱い」としか思えませんでした。

言葉をかえれば、もしその程度の理由で創作意欲がなくなるのであれば、
それまでさんざん小説の中で語られていた創作論や小説論はどうなるのかということです。

たとえば、伸び悩んでいた怜花が、
ベストセラー作家の鴻池に創作の悩みを相談する場面があります。
そこで鴻池が語ったことに怜花は次のような感想を抱きます。


「鴻池の言葉は、まるで鋭利な刃物のようだった。わたしの肉がどんなに抵抗しても、
するすると体内に入り込んでくる。そしてこの傷は、一生癒えずに残り続けるのでは
ないかと予感させる。それほどに、衝撃的だった」


これほどまでに真剣に創作と向き合っていた怜花が、
たかが長年の腐れ縁にあった男とのいざこざで果たして筆を折るだろうか。
一生傷が癒えないほどの衝撃を受けたとか言っていたのは嘘だったのか。
そんなに軽々しく言葉を使っていたのか、ということになりはしないか。

ぼくは村山由佳さんの『ダブル・ファンタジー』を思い出します。
あの小説は、創作に取り憑かれ、男性遍歴のなかで自由と孤独を見出していく女性が
描かれていました。いわば創作が「主」で、恋愛が「従」という関係の物語だった。


でもこの『新月譚』は、恋愛が「主」で創作が「従」になってしまっている。
日々、創作の困難と向き合っている選考委員たちはどう思うでしょうか。
彼らだって、いろんなものを犠牲にして小説を書いているはずです。
おそらくこの部分には、多くの選考委員から疑問の声があがるのではないでしょうか。


さて、長々と述べてきました今回の直木賞予想ですが、
そろそろ結論を申し上げなければなりません。

『楽園のカンヴァス』は着想のオリジナリティや物語の面白さで群を抜いています。
山本周五郎賞との同時受賞は、熊谷達也さんの『邂逅の森』のように過去例がないわけではありません。
(唯一の例ではありますけれど)

そしてもう一作は、文藝春秋の作品が入るのではないかと思います。
貫井さんと辻村さんはどちらもいつ受賞してもおかしくない実績を持っていますが、
『新月譚』は500ページを超える力作ではあるものの、上記の理由から、
ぼくは同じ文藝春秋の作品でも、辻村深月さんのほうに軍配をあげたい。

実は今回の山本周五郎賞で、『楽園のカンヴァス』と最後まで受賞を争ったのが、
辻村さんの作品(『オーダメイド殺人クラブ』)でした。
ほんとうは2作同時受賞だったのに、新潮社の社長のツルの一声で1作だけになったと、
選考委員の白石一文さんが『小説新潮7月号』に掲載された選評で暴露しています。
ぼくは直木賞にも引き続きその因縁が持ち込まれるような気がしてなりません。


というわけで今回は、

辻村深月さんの鍵のない夢を見る』

原田マハさんの『楽園のカンヴァス』

2作同時受賞を当ブログの予想といたします!

投稿者 yomehon : 16:33

2012年07月12日

第147回直木賞直前予想!(中編)


前回からのつづきです。

直木賞の実質的な興行元である文藝春秋が候補に送り込んできたのが、
辻村深月さんと貫井徳郎さんです。どちらもこれまでに大きな賞を受賞していますし
(辻村さんは吉川英治文学新人賞、貫井さんは山本周五郎賞)実績は申し分ありません。

「そろそろとらせたい。しかも文藝春秋から出た作品で」
という興行元の意気込みを感じます。

ともかくこのふたりはどちらも直木賞の本命候補といえるでしょう。


さて、それでは辻村深月さんの『鍵のない夢を見る』からみてみましょう。

まずみなさんにこんな問いを投げかけてみます。

ここに若いカップルがいます。

女性のほうは少しだけ男性経験がありますが、
男性のほうはこれまで女性とつきあったことはありません。

さて、このふたりの差を、みなさんはどう考えるでしょうか。

ふたりの関係にとって、この差は決定的なものか、
それとも、さしたる違いはないといえるのか……。


おそらく年をとった人ほど、
「そんなのはたいした違いではない」と答えるのではないかと思います。
(ぼくもそうです)

でも、辻村さんは違います。
彼女の小説というのは、このわずかな違いに徹底的にこだわり、
その差を微細に描き出そうとする、そういう性格の作品なのです。


『鍵のない夢を見る』におさめられた
「芹葉大学の夢と殺人」をみてみましょう。

大学の研究室で出会った未玖と雄大はお互いの夢を語り合う仲でした。
未玖の夢は絵本作家になること。
雄大の夢は医学部を受け直して医者になること、そしてその後、
サッカーの日本代表に選ばれること。

ほどなくしてふたりはつきあいはじめますが、
卒業後にふたりの進む道ははっきりとわかれます。

高校の美術教師の道を選んだ未玖と、
留年していまだ夢を追い続ける雄大と。

ところが、それぞれの道を歩みはじめたかにみえたふたりの人生は、
ある悲劇的な結末に向けて、ふたたび交錯するのでした……。


この短編には、辻村さんの上手さが端的にあらわれています。

たとえば、初めてキスを交わしたときに雄大のみせる怯えや、
セックスは初めてのくせにAVや雑誌で仕入れた乏しい知識で虚勢をはるところ。
週1回の体育の授業でしかサッカーをしていないくせに、
日本代表になるのが夢などと本気で語ってしまうイタさ。
未玖の描いた習作を平気で「稚拙」だと言ってしまえる無神経さ。
医学部受験に失敗し、工学部を留年したことを他人のせいにする身勝手さ。

未玖のほうが雄大よりもほんの少し大人で、
そんな彼女の目からみた彼の幼稚さが、
これでもかというくらいに細かく描き出されていきます。

こういう若者心理の細部を描かせたら、
いま辻村さんの右に出るものはいないでしょう。

辻村さんの上手さを実感していただくために、こんなシーンを引用してみましょう。
職場で揉まれ、少しずつ大人になりつつある未玖の目に雄大はどう映るのか、
そんなことをさりげなく表現している場面です。


「高校時代の友人の式に出たという雄大が『驚いちゃった』と報告してきた。
『ご祝儀って、あんなに取られるものなの?——それと周り見回したら俺と同じ年の
奴らってみんなおじさんくさくてさ。俺、年取ったんだなあってびっくりしたよ』
みせてもらった写真に写る人たちは、雄大が言うほど『おじさん』ではなくて、
私から見れば年相応の若い人たちばかりだった。
彼には、わからないのだろうと思った。
本当の大人を知らないから、彼らが若いことに気づけないのだ」


「本当の大人を知らないから、彼らが若いことに気づけない」なんて
雄大のイタいところを的確に表現しています。
こういう一節をさりげなく挿入して、
ふたりの間の距離を際立たせてみせるところなどは、辻村さんはとても上手い。


ところで、若さというのはなんでしょうか。
また、年をとるということはどういうことなのでしょうか。

辻村さんの小説を読むといつもそんなことを考えてしまうのですが、
ぼくは年をとるというのは、
「細かい違いが次第にどうでもよくなっていくこと」
ではないかと思います。

だから年をとったぼくなどは、
「男が童貞で女のほうが多少男を知ってるなんてのはたいした違いじゃないだろう」
などと考えてしまう。

でも当の若者にとってはそうではないのですね。
その小さな差異こそがものすごく大切で、大事で、切実なのです。

そういえば桐野夏生さんの傑作『グロテスク』などは、
まさに女子校を舞台にして、ささいな違いをあげつらうことで
息苦しい階級社会がつくられていく様を描いたものでした。

若者というのは、お互いの小さな違いに目を向けてしまう生き物なのでしょう。
考えてみればそうですよね。若い頃、あれだけ毎日が退屈しなかったのは、
ささいなことにも意味を見出せていたからに違いありません。


また辻村さんが見事なのは、
この差異に、また違った角度から光を当ててみせるところです。

たとえば、働きながら絵本作家を目指している未玖に比べれば、
根拠のない夢ばかり語っている雄大はあきらかに子どもです。
そのことはさんざん小説のなかで語られるので読者はよくわかっている。

でもその一方で、未玖がそんな雄大を羨ましいと感じていることにも、
辻村さんはちゃんと目を向けるのです。


「どうしてだろう。
私には、もう何も、清潔なものも、きれいなものも、憧れていたものは二度と
手に入らない気がする。何も選べない気がする。
夢見る力は、才能なのだ。
夢を見るのは、無条件に正しさを信じることができる者だけに許された特権だ。
疑いなく、正しさを信じること。その正しさを自分に強いることだ。
それは水槽の中でしか生きられない、観賞魚のような生き方だ。だけどもう、
私にはきれいな水を望むことができない。これから先に手に入る水はきっと、
どんなに微量であっても泥を含んでいる気がした。息が詰まっても、私はそれを
飲んで生きていくしか、ない」


辻村さんのこのような視点が物語に奥行きをもたらしている。
同じ若者を取り上げた小説でも、朝井リョウさんと比べると、
やはり辻村さんのほうが一枚上手ではないかと思います。

ただ、誤解のないように付け加えておくと、
『鍵のない夢を見る』におさめられた短編すべてが若者を描いているわけではありません。

窃盗や放火犯、ドメスティックバイオレンスや幼児虐待など、
ごく普通に暮らしていた人にふと魔がさす瞬間が訪れてしまう、
そんな刹那をつかまえようとした作品が並んでいます。

日常のささやかな事柄に目をとめることのできる美点はそのままに、
若者だけでなく社会のいろいろな世代や階層の人々を描いてみせたという意味で、
本書は著者の新境地を開いた一冊といえるでしょう。


さて、次はもうひとりの有力候補、
貫井徳郎さんの『新月譚』にまいりましょう。
              
この小説を読むうえで注目すべきポイントはただひとつ、
「広げた大風呂敷をいかに畳むか」ということです。
                       (つづく)

 
 

投稿者 yomehon : 22:23

2012年07月08日

第147回直木賞直前予想!(前編)


また直木賞の季節がめぐってまいりました。
受賞作発表のタイミングと梅雨明けがほぼ例年重なるため、
ぼくにとってこの時季の直木賞は、本格的な夏の到来を告げる風物詩。
まぶしい夏の太陽のように栄冠を頭上に輝かせるのは、どの候補者でしょうか。

ではさっそくラインナップをみてみましょう。
候補作は以下の5作品。


朝井リョウ 『もういちど生まれる』(幻冬舎)


辻村深月 『鍵のない夢を見る』(文藝春秋) 
 ※辻村の「つじ」は正しくは二点しんにょう


貫井徳郎 『新月譚』(文藝春秋)


原田マハ 『楽園のカンヴァス』(新潮社)


宮内悠介 『盤上の夜』(東京創元社)


『楽園のカンヴァス』はすでに山本周五郎賞を受賞していて世評も高い作品。
となると、『楽園のカンヴァス』が本命で、それに対抗する作品はどれか、
という構図が思い浮かびますが、さてどうなりますか。

では各作品の検討に入ってきましょう……でもその前に、
今回の候補作の報じられ方についてひと言。

今回の候補作発表をぼくはテレビのニュースで知ったのですが、
まずがっかりしたのは、その「伝えられかた」でした。

1989年生まれの朝井リョウさんがノミネートされたことから、
「初の平成生まれ受賞なるか」という切り口で報じていたのです。

実にくだらない。
というか、本好きでもない記者が適当に書いた記事としか思えません。

直木賞で大切なのは、その小説が傑出して面白いかどうかだけであって、
候補者が平成生まれだろうが昭和生まれだろうが、そんなことはどうでもいいことです。
(せいぜい驚いていいのは「小学生が候補に!」というようなケースだけでしょう)


今回の候補作のライアンナップをみて本来、記者が注目すべきなのは、
「デビュー作がいきなり直木賞にノミネートされた候補者がいる」という点のはず。

宮内悠介さんの『盤上の夜』がこれにあたります。
まずはこの作品からみていくのが筋というものでしょう。

タイトルに「盤」の字が入っていることからわかるように、
この作品は、囲碁やチェッカー、古代のチェス、麻雀、将棋などの対局を、
ひとりのジャーナリストの目を通して描いた連作短編集です。

この作品全体の雰囲気を想像してもらうためには、
表題作の「盤上の夜」をご紹介するのがいいでしょう。


この短編の主人公は「灰原由宇」という女性棋士です。
といっても、女性棋士がただ活躍するだけの話ではありません。
この作品は細かい設定がぶっ飛んでいるのです。

由宇は卒業旅行で中国を旅している時に、
騙されて四肢を切断され、変態どものなぐさみものになってしまいます。
やがて賭け碁で生計をたてている男のもとに売り飛ばされるのですが、
男の勝負をかたわらで観察しながら碁をマスターした由宇は、
勝ったら自分の身柄を自由にせよと男に大一番を挑んで見事勝利します。
そしてたまたま中国を訪れていた日本のプロ棋士に助けられ、
日本へ帰国して大活躍を始めるのですが、
そこに思いも寄らない結末が待っていて……というお話。

実は彼女には、碁盤や碁石を自分のからだの一部のように感じられる
特殊能力が備わっていて、次に指すべきところはどこか、その声を
石から聞きとることができるのです。

これでおわかりになるように、この小説はSFに分類されるべきものです。
このような主人公のあり得ないキャラ設定があって、
そこにサピア=ウォーフ仮説だの、近松門左衛門の浄瑠璃だの、
囲碁の歴史だの、言語と抽象の話だのがペダンティックに散りばめられている。


一方、「原爆の局」という短編では、
1945年の8月6日に広島市郊外で本因坊戦が行われていたという史実をベースに
(爆風で対局室が吹き飛ばされたにもかかわらず、おもむろに石を並べ直して、
「じゃあ続きをやりましょう」と何事もなかったかのように対局を再開したそうです)、
詩的イメージを駆使して、人類の科学技術への驕りがあらわになった3・11の原発事故へと
物語をアクロバティックにつなげてみせる。

このあたりの腕の冴えといい、文系と理系の双方を股にかけた教養といい、
デビュー作が即ノミネートというのも頷ける完成度です。

作品が読者を選ぶようなマニアックな性格のものであること、
初めてのノミネートであることなどを考えると、おそらく今回の受賞はないでしょうが、
このようなおそるべき新人作家が登場したということこそがニュースバリューなのであって、
平成生まれかどうかなんてのはまったくもってどうでもいいことなのです。
(だいいち1988年生まれと89年生まれに何か本質的な違いがあるのでしょうか?)


そんなわけで、次は「平成生まれ」の朝井リョウさんです。

『桐島、部活やめるってよ』で鮮烈なデビューを飾り、すでに数冊の著作があります。
(デビュー作を目にした時は、ついに平成生まれの作家が青春を語るようになったかと
一抹の感慨も覚えましたが、もうそれなりに実績のある作家ですから、
年齢などまったく関係のない文脈で評価されるべきしょう)

朝井さんについてよく言われるのは、
「イマドキの若者をリアルに描く作家」ということです。

候補作となった『もういちど生まれる』も、
恋だったり進路だったり自分のことだったりに悩む若者たちを描いた連作短編集です。

なるほど、そこにはいかにもイマドキの若者の日常が描かれているのかもしれない。
でもぼくは、たとえば以下に示すような文章を読んだときに、
ある違和感を感じずにはいられないのです。


「ひーちゃんがトイレに行っている間にあたしにキスするなんて、
風人さ、けっこうオオカミじゃね?信じらんないな、ラムネのビー玉みたいな
くりっくりの目してさ、無理した茶髪みたいなのがマジ童貞……なんてとろけた脳を
必死に働かせながら、寝返りを打つようにして牌の散らばるテーブルに背を向けた」
                     (「ひーちゃんは線香花火」)


「〜じゃね?」とか「マジ〜」とか、
たしかにここにはイマドキの若者の言葉がある。

でも想像してみてください。

この文章を10年後や20年後に読んだときに、はたしてどう思うでしょうか。
おそらく恥ずかしくて、読むに堪えないのではないか。

ここには、小説で「いま」を書くことの難しさが端的にあらわれています。

たしかに小説にはその時代時代の風俗や流行を映し出す鏡のような役割もあります。
でも、それをそのままコピーして小説にしたのでは、
風俗なり流行なりが廃れるとともに、その小説も古びていってしまうだけでしょう。

流行の言葉遣いや固有名詞を散りばめれば、
一見、そこには現在が描かれているかのように錯覚してしまいます。
でもそれは、書かれたそばから古びていってしまうようなものに過ぎません。

「いま」を描くのはいい。
でもそれは、「小説の言葉」で描かれなければならない。
そうでなければわざわざ小説を読む意味がありません。

だってイマドキの若者のリアルな生態を知りたければ、
渋谷のファストフード店にでも入って、
店内のおしゃべりに耳を傾けていれば事足りるわけですから。

小説でしか描けない若者というのがあるはずなのです。

さも「いま」を体現しているかのような顔をした
テレビの薄っぺらい映像などでは到底掘り起こすことの出来ないような、
小説の言葉でしか切り込めない、小説でしか描けない若者の世界があるはずなのです。

しかもそういう小説は長く残ります。
たとえ風俗や流行が移り変わろうとも、
いつどんな時代の人間が読んでも共感できるような若者像がそこにはあるはずです。


先に引用した文章は、
「〜じゃね?」とか「マジ〜」とか、いかにもな若者言葉が使われている一方で、
「ラムネのビー玉みたいなくりっくりの目してさ」みたいな
イマドキの若者がとても使いそうにない比喩が混在しています。

このような文章を読むとき、
ぼくは「文学になりきれていない小説」を読まされたような気になってしまうのです。

もっと言うなら、この小説は「いま」を描こうとして、
「いま」に媚びてしまっているように思えるのですね。
小説の言葉が「いま」に拮抗できずに中途半端なものになってしまっている。

もっとも、表題作の「もういちど生まれる」のような素晴らしい作品もあります。

容姿にも運にも恵まれた姉を持つ、双子の妹の視点から描かれた物語。
姉が現役で志望校に合格したのに比べ、妹は2浪が決まり予備校でくすぶっている。
そんな中、姉が学生映画のヒロイン役で出演することになり、
妹もふとしたことからそこへ関わることになって、物語が思わぬ方向へ動き始めます。

本書の表紙写真をぜひみていただきたいのですが、
このかわいい女の子がジャンプしている写真が
この短編のとても素敵なシーンと関係しています。

喪失や欠損の感覚を抱いている主人公が、
物語のなかで新しい自分を見出す(もういちど生まれ直す)プロセスを
みずみずしく描いていて、見事な作品だと思います。

このように朝井リョウさんはとても才能のある作家で、
いずれ確実に大きな賞を受賞する人だとは思いますが、
この短編集に関しては、「いま」を表面的にしか描けていないせいで、
賞味期限の短い作品になってしまっているように思えてなりません。

いや、そういう小説があってもいいのです。
モードのように季節ごとの短いサイクルで消費される小説があってもかまわない。
ただ、直木賞に選ばれるような小説は、ちょっと違うのではないかと思うのです。

たとえ10年後や20年後の若い読者が手にとったとしても、
そこにまさにいまの自分のことが書かれていると思えるような、
そんな息の長い作品であってほしい。

要するに名作であってほしいということです。
名作というのは時間の波に洗われ続けても、
いっこうに生命力を失わない作品を言うのですから。


繰り返しになりますが、作者自身が現役の若者だったりすると、
ぼくらはそこに等身大の若者が描かれているのではと錯覚してしまいがちです。
でも、小説の言葉で若者を描くというのは、また別の話なのです。

このことにもう少しこだわってみたいのでお付き合いください。

実は、小説の言葉で子どもや若者を描くことに長けているのが、
辻村深月という作家なのです。

辻村さんの『鍵のない夢を見る』の中には、
大人の入り口にさしかかった若者を見事に描いてみせた作品があります。
                         (つづく)

投稿者 yomehon : 23:47

2012年07月03日

2012年ナンバーワン候補!『楽園のカンヴァス』


長いこと本を読んでいると、
時に作家が「大化け」する瞬間に立ち会えることがあります。

近年では村山由佳さんがそうでした。
村山さんといえば、房総の小さな町で動物たちに囲まれ、
野菜やハーブを育てながら執筆にいそしむライフスタイルで知られていましたが、
ある日突然、すべてを投げ打って都心のど真ん中に居を構え、
それまでの作風とはがらりと変わった
『ダブル・ファンタジー』(文春文庫)という性愛小説を発表して話題となりました。
(なにしろこの小説、いきなり男の尻のかたちの描写から始まるのです)

それ以前の村山さんの小説は「ピュア」という形容で語られることが多く、
裏を返せばそこには「ジュニア小説ぽい」というニュアンスも含まれていましたが、
この作品は、夫の抑圧から解き放たれた女性が初めて性の悦びを知り、
幾人もの男たちと関係を持ちながら官能をつきつめていくプロセスを濃密に描いたもので、
それまでの村上作品と比べると、とても同じ人物が書いたとは思えない「大人の小説」でした。

この傑作をものして以後の村上さんは、
これまで心の奥に抱え込んでいた黒いものを全部吐き出すかのように、
トラウマや性をテーマにした作品を精力的に発表しています。
作風は『ダブル・ファンタジー』を境にまったく変わってしまいました。
つまり村上さんは「化けた」のです。


原田マハさんの『楽園のカンヴァス』(新潮社)を読んだ時にも同じことを感じました。

それまでの原田さんは、どちらかとえいえば「恋愛小説家」という印象で、
その手の小説の苦手なぼくは(だって他人の恋愛なんてどうでもいいじゃないですか)
正直言ってあまり食指の動く作家ではありませんでした。

ところが『小説新潮』に連載中からあまりに評判が高いので、
単行本化されてすぐ手に取って読んでみたのですが、いやー驚きました。

「原田マハさんってこういう小説も書ける人なの!?っていうか本当に同一人物??」

そこに描かれていたのは恋愛どころか、
美術界を舞台に、あっと驚く仕掛けが施されたミステリーだったのです。


倉敷の大原美術館で監視員をしている早川織絵のもとを、
ある日、大手新聞社の文化事業部の部長が訪ねてきます。

一介の監視員に何の用だろうと訝る織絵に、
彼はルソーの展覧会を開催するために協力してほしいと依頼します。
展覧会にはルソー晩年の代表作といわれる『夢』という作品が欠かせません。
ところが、作品を所蔵するニューヨーク近代美術館(MoMA)のチーフ・キュレーター、
ティム・ブラウンは、貸し出しの交渉役として織絵を指名してきたというのです。

実は織絵はかつて将来を嘱望された美術研究家でした。
最短コースの26歳でソルボンヌの大学院で博士号を取得した才媛だったのです。
しかも彼女は、画期的な着眼点の論文を次々と発表して、
国際美術史学会の話題をさらっていた新進気鋭のルソー研究者でもありました。

物語はここで一挙に1983年に飛びます。

美術界の裏の世界にも通じているといわれる伝説のコレクター、
コンラート・バイラーの屋敷に、ふたりの人物が招待されます。

ひとりはティム。そしてもうひとりは織絵です。

バイラーは彼らに、
所蔵しているルソーの絵が本物かどうか鑑定してほしいと依頼します。

その作品は、美術史のなかには存在しないものであるばかりか、
ルソー晩年の傑作『夢』と関係したものでした。

もし真作であれば、美術史が書き換えられるような大事件です。

鑑定のためにふたりに与えられた猶予は7日間。
しかも手掛かりとして与えられたのは、作者不明の一冊の古書でした……。


この物語は謎に満ちています。

まずなぜ一介の美術館職員に過ぎない織絵が
MoMAのチーフ・キュレーター、ティムから交渉役に指名されたのか。
それからなぜ世界的に有名なコレクターが織絵とティムを鑑定役に指名したのか。
さらには、鑑定の材料として与えられた古書は誰が書いたのか——。
(古書には晩年のルソーの生活が書かれていました)

これら謎の数々が物語に強力な推進力を与えていて、
謎の力に引っ張られながら、ティムと織絵の鑑定対決と、
古書に書かれている晩年のルソーの生活と交互に読み進めるうちに、
読者は次第にページを捲る手が止められなくなってくるという仕掛けになっています。

7日間の鑑定を終えた後、ティムと織絵がそれぞれ導き出した結論といい、
そして最後の最後に明かされる驚きの真相といい、物語の決着のつけかたもお見事。

ぼくは「夢」のモデルになった女性ヤドヴィガが、
「永遠を生きる」ためにルソーのモデルになることを決意する場面に酔いしれました。
たとえ作者やモデルが死のうとも、絵の中では永遠に生き続けることができる。
「永遠を封じ込めたもの」。絵画の魅力というのは、そのようなものなのかもしれません。


本書は超一級の素晴らしいエンターテイメントであると同時に、
これまでになかったタイプの新しい美術ミステリーであるともいえます。
第25回山本周五郎賞の受賞も当然のことと言わなければなりませんし、
エンターテイメントの分野では今年最高の一冊になるかもしれません。

聞けば原田マハさんご自身が大学で美術史を専攻し、
森美術館やそれこそMoMAにも勤務していたこともあるとか。
美術館の裏側や美術市場などについての経験に裏打ちされた知識は、
ややもすれば荒唐無稽の側へと転落しかねないストーリーに説得力を与えています。

またルソーに関しても、傑作評伝として名高い
『アンリ・ルソー楽園の謎』岡谷公二(平凡社ライブラリー)が種本になっており、
史実は史実としてしっかり押さえたうえで、小説家が腕をふるうべきところでは
自由に想像力を働かせているという、このあたりの案配も完璧でしょう。


ただひとつだけ気になった点があります。
せっかく完成度の高い物語になっているにもかかわらず、
作者が間違って言葉を使っているところがある。

たとえば101ページに、こういうくだりが出てきます。


「『ただ、何よ?』ヤドヴィガが、じろりとにらみます。
『いや、その、ご婦人というのは、すべからくこういうものが好きかなと思っていたのでね。
色のきれいなふわふわした、夢のようなものが』風船をちょいとつついて、ルソーは言いました」


小説のなかに作中作として入ってくる、作者不明の古書の一節です。
「夢」のモデルになるヤドヴィガとルソーがご近所どうして、
しかもルソーはヤドヴィガに好意を抱いているということが描かれた場面ですが、
ここで使われている「すべからく」という言葉の使い方が間違っているのです。


ちょっと話が脱線しますが、いい機会なので触れておくと、
マルキ・ド・サドを我が国に紹介するなど、
西洋文化についての該博な知識を持っていた澁澤龍彦は、
「すべからく」と題したエッセイのなかで次のように書いています。
『太陽王と月の王』河出文庫所収


「古めかしい漢語的ないいまわしを、わけも分からず堂々と使っているひとがあって、
これは驚くというよりも、いっそ感心してしまうほどだ。漢文に親しんだことのない世代には、
これらの表現が、ちょっと横文字の与える効果のように、カッコよく見えるのかもしれない」

澁澤はその代表として「すべからく」をあげ、間違った使われ方をいくつか示した後、
正しい用法についてこう書いています。

「『すべからく』はもともと漢文の訓読から出た語で、漢文では須と書くのである。
須田町の須である。必須の須である。
必須科目というのは、選択科目とちがって、どうしても学習しなければならない課目のことだ。
すべからく学習すべき課目のことだ。(略)
『すべからく……』ときたら、そのあとは『……べし』で結ばなければならないのである」


つまり「すべからく」は、
「べき(べし)」と必ずセットになって使われる言葉なのです。
義務や命令で使われる言葉で、「すべて」という意味はありません。
にもかかわらず、この「すべからく」を、「すべて」のちょっと気取った表現だと
誤って認識して使っている人がとても多いのです。
評論家の呉智英さんなどもこのことを長年にわたって指摘し続けています。
(近著では『言葉の煎じ薬』双葉社など)


作者はおそらく、芸術の歴史に名を残したルソーの晩年を
格調高く描こうとしてこの言葉を使ってしまったのでしょう。
(本書には他にも「すべからく」がこういう使われ方をしてるところがあります)

いや、でもぼくだって気づかずに言葉を間違って使っていることはありますから、
こういう偉そうなことを言うこと自体、天に唾する行為なのですが、
美術に関する記述が確かなものであるだけに、こういうところを目にすると、
急に記述が雑になったような気がしてしまって、もったいないなと思ってしまうのです。


閑話休題。

本書を読んでルソーに興味を持った方は、
ぜひ先ほどもご紹介した名著『アンリ・ルソー楽園の謎』をお読みください。
税関に勤めながら絵を描き、世間にまったく理解されないまま死去した後、
美術史に天才として名を残すことになったルソーの謎にみちた生涯を知ることができます。

「天才は天才を知る」というのか、生前のルソーの才能をただひとり評価していたのはピカソでした。
ふたりの交友については、ピカソの伝記の決定版
『ピカソの世紀』ピエール・バカンヌ著 中村隆夫訳(西村書店)が多くを教えてくれます。

投稿者 yomehon : 00:33