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2012年07月12日

第147回直木賞直前予想!(中編)


前回からのつづきです。

直木賞の実質的な興行元である文藝春秋が候補に送り込んできたのが、
辻村深月さんと貫井徳郎さんです。どちらもこれまでに大きな賞を受賞していますし
(辻村さんは吉川英治文学新人賞、貫井さんは山本周五郎賞)実績は申し分ありません。

「そろそろとらせたい。しかも文藝春秋から出た作品で」
という興行元の意気込みを感じます。

ともかくこのふたりはどちらも直木賞の本命候補といえるでしょう。


さて、それでは辻村深月さんの『鍵のない夢を見る』からみてみましょう。

まずみなさんにこんな問いを投げかけてみます。

ここに若いカップルがいます。

女性のほうは少しだけ男性経験がありますが、
男性のほうはこれまで女性とつきあったことはありません。

さて、このふたりの差を、みなさんはどう考えるでしょうか。

ふたりの関係にとって、この差は決定的なものか、
それとも、さしたる違いはないといえるのか……。


おそらく年をとった人ほど、
「そんなのはたいした違いではない」と答えるのではないかと思います。
(ぼくもそうです)

でも、辻村さんは違います。
彼女の小説というのは、このわずかな違いに徹底的にこだわり、
その差を微細に描き出そうとする、そういう性格の作品なのです。


『鍵のない夢を見る』におさめられた
「芹葉大学の夢と殺人」をみてみましょう。

大学の研究室で出会った未玖と雄大はお互いの夢を語り合う仲でした。
未玖の夢は絵本作家になること。
雄大の夢は医学部を受け直して医者になること、そしてその後、
サッカーの日本代表に選ばれること。

ほどなくしてふたりはつきあいはじめますが、
卒業後にふたりの進む道ははっきりとわかれます。

高校の美術教師の道を選んだ未玖と、
留年していまだ夢を追い続ける雄大と。

ところが、それぞれの道を歩みはじめたかにみえたふたりの人生は、
ある悲劇的な結末に向けて、ふたたび交錯するのでした……。


この短編には、辻村さんの上手さが端的にあらわれています。

たとえば、初めてキスを交わしたときに雄大のみせる怯えや、
セックスは初めてのくせにAVや雑誌で仕入れた乏しい知識で虚勢をはるところ。
週1回の体育の授業でしかサッカーをしていないくせに、
日本代表になるのが夢などと本気で語ってしまうイタさ。
未玖の描いた習作を平気で「稚拙」だと言ってしまえる無神経さ。
医学部受験に失敗し、工学部を留年したことを他人のせいにする身勝手さ。

未玖のほうが雄大よりもほんの少し大人で、
そんな彼女の目からみた彼の幼稚さが、
これでもかというくらいに細かく描き出されていきます。

こういう若者心理の細部を描かせたら、
いま辻村さんの右に出るものはいないでしょう。

辻村さんの上手さを実感していただくために、こんなシーンを引用してみましょう。
職場で揉まれ、少しずつ大人になりつつある未玖の目に雄大はどう映るのか、
そんなことをさりげなく表現している場面です。


「高校時代の友人の式に出たという雄大が『驚いちゃった』と報告してきた。
『ご祝儀って、あんなに取られるものなの?——それと周り見回したら俺と同じ年の
奴らってみんなおじさんくさくてさ。俺、年取ったんだなあってびっくりしたよ』
みせてもらった写真に写る人たちは、雄大が言うほど『おじさん』ではなくて、
私から見れば年相応の若い人たちばかりだった。
彼には、わからないのだろうと思った。
本当の大人を知らないから、彼らが若いことに気づけないのだ」


「本当の大人を知らないから、彼らが若いことに気づけない」なんて
雄大のイタいところを的確に表現しています。
こういう一節をさりげなく挿入して、
ふたりの間の距離を際立たせてみせるところなどは、辻村さんはとても上手い。


ところで、若さというのはなんでしょうか。
また、年をとるということはどういうことなのでしょうか。

辻村さんの小説を読むといつもそんなことを考えてしまうのですが、
ぼくは年をとるというのは、
「細かい違いが次第にどうでもよくなっていくこと」
ではないかと思います。

だから年をとったぼくなどは、
「男が童貞で女のほうが多少男を知ってるなんてのはたいした違いじゃないだろう」
などと考えてしまう。

でも当の若者にとってはそうではないのですね。
その小さな差異こそがものすごく大切で、大事で、切実なのです。

そういえば桐野夏生さんの傑作『グロテスク』などは、
まさに女子校を舞台にして、ささいな違いをあげつらうことで
息苦しい階級社会がつくられていく様を描いたものでした。

若者というのは、お互いの小さな違いに目を向けてしまう生き物なのでしょう。
考えてみればそうですよね。若い頃、あれだけ毎日が退屈しなかったのは、
ささいなことにも意味を見出せていたからに違いありません。


また辻村さんが見事なのは、
この差異に、また違った角度から光を当ててみせるところです。

たとえば、働きながら絵本作家を目指している未玖に比べれば、
根拠のない夢ばかり語っている雄大はあきらかに子どもです。
そのことはさんざん小説のなかで語られるので読者はよくわかっている。

でもその一方で、未玖がそんな雄大を羨ましいと感じていることにも、
辻村さんはちゃんと目を向けるのです。


「どうしてだろう。
私には、もう何も、清潔なものも、きれいなものも、憧れていたものは二度と
手に入らない気がする。何も選べない気がする。
夢見る力は、才能なのだ。
夢を見るのは、無条件に正しさを信じることができる者だけに許された特権だ。
疑いなく、正しさを信じること。その正しさを自分に強いることだ。
それは水槽の中でしか生きられない、観賞魚のような生き方だ。だけどもう、
私にはきれいな水を望むことができない。これから先に手に入る水はきっと、
どんなに微量であっても泥を含んでいる気がした。息が詰まっても、私はそれを
飲んで生きていくしか、ない」


辻村さんのこのような視点が物語に奥行きをもたらしている。
同じ若者を取り上げた小説でも、朝井リョウさんと比べると、
やはり辻村さんのほうが一枚上手ではないかと思います。

ただ、誤解のないように付け加えておくと、
『鍵のない夢を見る』におさめられた短編すべてが若者を描いているわけではありません。

窃盗や放火犯、ドメスティックバイオレンスや幼児虐待など、
ごく普通に暮らしていた人にふと魔がさす瞬間が訪れてしまう、
そんな刹那をつかまえようとした作品が並んでいます。

日常のささやかな事柄に目をとめることのできる美点はそのままに、
若者だけでなく社会のいろいろな世代や階層の人々を描いてみせたという意味で、
本書は著者の新境地を開いた一冊といえるでしょう。


さて、次はもうひとりの有力候補、
貫井徳郎さんの『新月譚』にまいりましょう。
              
この小説を読むうえで注目すべきポイントはただひとつ、
「広げた大風呂敷をいかに畳むか」ということです。
                       (つづく)

 
 

投稿者 yomehon : 2012年07月12日 22:23