« 第147回直木賞直前予想!(中編) | メイン | 第147回直木賞は辻村深月さんに決定! »

2012年07月15日

第147回直木賞直前予想!(後編)


前回、貫井徳郎さんの『新月譚』で注目すべきポイントは、
「広げた大風呂敷をいかに畳むか」であると述べました。

物語は若い編集者がある大物作家のもとを訪ねるところから幕を開けます。

咲良怜花という名のその作家は、女優も顔負けの美貌を持ち、
過去数々の傑作を世に送り出したベストセラー作家でしたが、
49歳で突然筆を折り、表舞台から姿を消していました。

絶筆から8年後、怜花の小説のファンだという若い編集者が彼女のもとを訪れます。
もういちど小説を書いて欲しいと熱心にアプローチする編集者に対して、
怜花は、これまで誰にも語ることがなかった絶筆の理由を語り始めるのでした……。


どうですか?
数々の大ベストセラーを生み出し、しかも絶世の美女でもある作家が、
突然筆を折って隠棲した理由を告白しようというのです。
これを大風呂敷と言わずしてなんと言うのでしょう。

小説の神様に愛され、富も名声も両手からこぼれ落ちるほど手にした人間が、
小説を書くことをやめるというのには、おそらく相当な理由があるはずです。
つまり「風呂敷を広げただけのことはある」と誰もが納得するような理由が
これから明かされなければなりません。
大風呂敷の畳み方がポイントだというのはそういうことです。

このように、作者はいきなり高いハードルを自らに課したところから物語を始めます。
では、咲良怜花の告白とはどのようなものだったのか。もう少しみてみましょう。


物語はここから一挙に過去へ遡ります。
21歳の後藤和子が小さな貿易会社の入社面接を受けるところから始まります。
後藤和子は平凡な女性でした。本を読むのが好きで、頭もいいけれど、
性格は暗く、そしてなによりも容姿に恵まれていませんでした。
ところが和子はこの会社で、木之内徹という一回り年上の男性と出会い、
ここから彼女の運命が大きく変わっていくのです。


もうお気づきだと思いますが、
この後藤和子が咲良怜花の過去の姿です。
さらに察しのいい方は、ここまでの記述でおわかりかと思いますが、
和子は木之内との壮絶な恋愛の過程で、自らの顔を整形するのです。

整形した和子がいかにして作家になっていくのか。
和子と木之内との関係を描いていた物語は、
ここからもうひとつ「作家のシミュレーション小説」の様相も見せ始めます。

作家になるにはどうすればいいか。
新人作家はどのように扱われるか。
編集者というのはいかなる人種か。
創作の苦しみとはなにか。
作家はどんなことに悩み苦しんで作品を生み出しているか。

普段、我々がなかなか知る機会のない作家の生活の実態が描かれていきます。
(このあたりは選考委員の方はどういう反応を示すのでしょうね。
自分も同じだと共感するのか、それとも文学観が違うなどと反発するのか……)


さて、ひとりの男との出会いが、
女を整形手術や小説執筆に踏み切らせ、
その結果、女の運命は大きく変わっていきます。
器量が悪く、子どもの頃から自分に期待せず地味に生きるのが当たり前だった和子が、
ふつうの人が望んでも手に入れることのできないような富と名声を手にします。

けれども、「咲良怜花」となった和子が、
人生を変えるきっかけとなった小説を書くことを封印するのもまた、
木之内徹とのあいだに起きたある決定的な出来事がきっかけだったのです——。


まるで大河小説のように女の一生を描いたこの作品を読み終えた後、
しばらくぼくは「うーーん」と腕を組んだまま考え込んでしまいました。

「はたしてこれは大風呂敷を畳めているだろうか?」

そんな疑問を感じてしまったのです。


まず思ったのは、和子の整形が表沙汰にならないなんてことがあるだろうかということ。
大きな文学賞(たぶん直木賞のような賞でしょう)を受賞したとき、
その顔がテレビのニュースで流れ、興奮した親戚たちから電話がかかってきた、とある。
けれども、和子の容貌がすっかり変わったことに親戚たちは気づかなかったのか。
あるいは、和子が整形した後に憎み合う関係になったかつての親友は、
受賞を知らなかったのだろうか。

そんなはずはないだろう、と思います。
現在のように何かあればネットで暴露されるような時代ではないとはいえ、
それにしたって「あのベストセラー作家は顔を整形している」というタレコミが
マスコミにまったくないということはちょっと考えられません。

それともうひとつ違和感を覚えたのは、
咲良怜花を絶筆にいたらせた「ある出来事」についてです。
端的に言って、そこまでの決断を作家にさせるほどのインパクトがあるとは思えない。

というのは、小説を書くというのは、
理性ではどうにもならない業(ごう)のようなものではないかと思うのです。
何かに取り憑かれるというか、自分以外の何者かに突き動かされるかのように書く、
いや、書くというよりも、どうしても書かざるを得ないから書いてしまう。
だから作家は苦しくても苦しくてもペンを執り机に向かう。

昔、ある才能あふれる料理人が
「私、料理していないと死んじゃうんですよ」
と話すのを聞いたことがありますが、
作家もそれと似ているのではないかと思うのです。

そんなどうにもならない業を抱えた作家がペンを折ろうというからには、
それ相当の理由がなければなりません。

木之内とのあいだに起きたある出来事については、
人それぞれいろんな感想があるでしょうが、
少なくともぼくには「そんな理由では弱い」としか思えませんでした。

言葉をかえれば、もしその程度の理由で創作意欲がなくなるのであれば、
それまでさんざん小説の中で語られていた創作論や小説論はどうなるのかということです。

たとえば、伸び悩んでいた怜花が、
ベストセラー作家の鴻池に創作の悩みを相談する場面があります。
そこで鴻池が語ったことに怜花は次のような感想を抱きます。


「鴻池の言葉は、まるで鋭利な刃物のようだった。わたしの肉がどんなに抵抗しても、
するすると体内に入り込んでくる。そしてこの傷は、一生癒えずに残り続けるのでは
ないかと予感させる。それほどに、衝撃的だった」


これほどまでに真剣に創作と向き合っていた怜花が、
たかが長年の腐れ縁にあった男とのいざこざで果たして筆を折るだろうか。
一生傷が癒えないほどの衝撃を受けたとか言っていたのは嘘だったのか。
そんなに軽々しく言葉を使っていたのか、ということになりはしないか。

ぼくは村山由佳さんの『ダブル・ファンタジー』を思い出します。
あの小説は、創作に取り憑かれ、男性遍歴のなかで自由と孤独を見出していく女性が
描かれていました。いわば創作が「主」で、恋愛が「従」という関係の物語だった。


でもこの『新月譚』は、恋愛が「主」で創作が「従」になってしまっている。
日々、創作の困難と向き合っている選考委員たちはどう思うでしょうか。
彼らだって、いろんなものを犠牲にして小説を書いているはずです。
おそらくこの部分には、多くの選考委員から疑問の声があがるのではないでしょうか。


さて、長々と述べてきました今回の直木賞予想ですが、
そろそろ結論を申し上げなければなりません。

『楽園のカンヴァス』は着想のオリジナリティや物語の面白さで群を抜いています。
山本周五郎賞との同時受賞は、熊谷達也さんの『邂逅の森』のように過去例がないわけではありません。
(唯一の例ではありますけれど)

そしてもう一作は、文藝春秋の作品が入るのではないかと思います。
貫井さんと辻村さんはどちらもいつ受賞してもおかしくない実績を持っていますが、
『新月譚』は500ページを超える力作ではあるものの、上記の理由から、
ぼくは同じ文藝春秋の作品でも、辻村深月さんのほうに軍配をあげたい。

実は今回の山本周五郎賞で、『楽園のカンヴァス』と最後まで受賞を争ったのが、
辻村さんの作品(『オーダメイド殺人クラブ』)でした。
ほんとうは2作同時受賞だったのに、新潮社の社長のツルの一声で1作だけになったと、
選考委員の白石一文さんが『小説新潮7月号』に掲載された選評で暴露しています。
ぼくは直木賞にも引き続きその因縁が持ち込まれるような気がしてなりません。


というわけで今回は、

辻村深月さんの鍵のない夢を見る』

原田マハさんの『楽園のカンヴァス』

2作同時受賞を当ブログの予想といたします!

投稿者 yomehon : 2012年07月15日 16:33