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2012年07月08日

第147回直木賞直前予想!(前編)


また直木賞の季節がめぐってまいりました。
受賞作発表のタイミングと梅雨明けがほぼ例年重なるため、
ぼくにとってこの時季の直木賞は、本格的な夏の到来を告げる風物詩。
まぶしい夏の太陽のように栄冠を頭上に輝かせるのは、どの候補者でしょうか。

ではさっそくラインナップをみてみましょう。
候補作は以下の5作品。


朝井リョウ 『もういちど生まれる』(幻冬舎)


辻村深月 『鍵のない夢を見る』(文藝春秋) 
 ※辻村の「つじ」は正しくは二点しんにょう


貫井徳郎 『新月譚』(文藝春秋)


原田マハ 『楽園のカンヴァス』(新潮社)


宮内悠介 『盤上の夜』(東京創元社)


『楽園のカンヴァス』はすでに山本周五郎賞を受賞していて世評も高い作品。
となると、『楽園のカンヴァス』が本命で、それに対抗する作品はどれか、
という構図が思い浮かびますが、さてどうなりますか。

では各作品の検討に入ってきましょう……でもその前に、
今回の候補作の報じられ方についてひと言。

今回の候補作発表をぼくはテレビのニュースで知ったのですが、
まずがっかりしたのは、その「伝えられかた」でした。

1989年生まれの朝井リョウさんがノミネートされたことから、
「初の平成生まれ受賞なるか」という切り口で報じていたのです。

実にくだらない。
というか、本好きでもない記者が適当に書いた記事としか思えません。

直木賞で大切なのは、その小説が傑出して面白いかどうかだけであって、
候補者が平成生まれだろうが昭和生まれだろうが、そんなことはどうでもいいことです。
(せいぜい驚いていいのは「小学生が候補に!」というようなケースだけでしょう)


今回の候補作のライアンナップをみて本来、記者が注目すべきなのは、
「デビュー作がいきなり直木賞にノミネートされた候補者がいる」という点のはず。

宮内悠介さんの『盤上の夜』がこれにあたります。
まずはこの作品からみていくのが筋というものでしょう。

タイトルに「盤」の字が入っていることからわかるように、
この作品は、囲碁やチェッカー、古代のチェス、麻雀、将棋などの対局を、
ひとりのジャーナリストの目を通して描いた連作短編集です。

この作品全体の雰囲気を想像してもらうためには、
表題作の「盤上の夜」をご紹介するのがいいでしょう。


この短編の主人公は「灰原由宇」という女性棋士です。
といっても、女性棋士がただ活躍するだけの話ではありません。
この作品は細かい設定がぶっ飛んでいるのです。

由宇は卒業旅行で中国を旅している時に、
騙されて四肢を切断され、変態どものなぐさみものになってしまいます。
やがて賭け碁で生計をたてている男のもとに売り飛ばされるのですが、
男の勝負をかたわらで観察しながら碁をマスターした由宇は、
勝ったら自分の身柄を自由にせよと男に大一番を挑んで見事勝利します。
そしてたまたま中国を訪れていた日本のプロ棋士に助けられ、
日本へ帰国して大活躍を始めるのですが、
そこに思いも寄らない結末が待っていて……というお話。

実は彼女には、碁盤や碁石を自分のからだの一部のように感じられる
特殊能力が備わっていて、次に指すべきところはどこか、その声を
石から聞きとることができるのです。

これでおわかりになるように、この小説はSFに分類されるべきものです。
このような主人公のあり得ないキャラ設定があって、
そこにサピア=ウォーフ仮説だの、近松門左衛門の浄瑠璃だの、
囲碁の歴史だの、言語と抽象の話だのがペダンティックに散りばめられている。


一方、「原爆の局」という短編では、
1945年の8月6日に広島市郊外で本因坊戦が行われていたという史実をベースに
(爆風で対局室が吹き飛ばされたにもかかわらず、おもむろに石を並べ直して、
「じゃあ続きをやりましょう」と何事もなかったかのように対局を再開したそうです)、
詩的イメージを駆使して、人類の科学技術への驕りがあらわになった3・11の原発事故へと
物語をアクロバティックにつなげてみせる。

このあたりの腕の冴えといい、文系と理系の双方を股にかけた教養といい、
デビュー作が即ノミネートというのも頷ける完成度です。

作品が読者を選ぶようなマニアックな性格のものであること、
初めてのノミネートであることなどを考えると、おそらく今回の受賞はないでしょうが、
このようなおそるべき新人作家が登場したということこそがニュースバリューなのであって、
平成生まれかどうかなんてのはまったくもってどうでもいいことなのです。
(だいいち1988年生まれと89年生まれに何か本質的な違いがあるのでしょうか?)


そんなわけで、次は「平成生まれ」の朝井リョウさんです。

『桐島、部活やめるってよ』で鮮烈なデビューを飾り、すでに数冊の著作があります。
(デビュー作を目にした時は、ついに平成生まれの作家が青春を語るようになったかと
一抹の感慨も覚えましたが、もうそれなりに実績のある作家ですから、
年齢などまったく関係のない文脈で評価されるべきしょう)

朝井さんについてよく言われるのは、
「イマドキの若者をリアルに描く作家」ということです。

候補作となった『もういちど生まれる』も、
恋だったり進路だったり自分のことだったりに悩む若者たちを描いた連作短編集です。

なるほど、そこにはいかにもイマドキの若者の日常が描かれているのかもしれない。
でもぼくは、たとえば以下に示すような文章を読んだときに、
ある違和感を感じずにはいられないのです。


「ひーちゃんがトイレに行っている間にあたしにキスするなんて、
風人さ、けっこうオオカミじゃね?信じらんないな、ラムネのビー玉みたいな
くりっくりの目してさ、無理した茶髪みたいなのがマジ童貞……なんてとろけた脳を
必死に働かせながら、寝返りを打つようにして牌の散らばるテーブルに背を向けた」
                     (「ひーちゃんは線香花火」)


「〜じゃね?」とか「マジ〜」とか、
たしかにここにはイマドキの若者の言葉がある。

でも想像してみてください。

この文章を10年後や20年後に読んだときに、はたしてどう思うでしょうか。
おそらく恥ずかしくて、読むに堪えないのではないか。

ここには、小説で「いま」を書くことの難しさが端的にあらわれています。

たしかに小説にはその時代時代の風俗や流行を映し出す鏡のような役割もあります。
でも、それをそのままコピーして小説にしたのでは、
風俗なり流行なりが廃れるとともに、その小説も古びていってしまうだけでしょう。

流行の言葉遣いや固有名詞を散りばめれば、
一見、そこには現在が描かれているかのように錯覚してしまいます。
でもそれは、書かれたそばから古びていってしまうようなものに過ぎません。

「いま」を描くのはいい。
でもそれは、「小説の言葉」で描かれなければならない。
そうでなければわざわざ小説を読む意味がありません。

だってイマドキの若者のリアルな生態を知りたければ、
渋谷のファストフード店にでも入って、
店内のおしゃべりに耳を傾けていれば事足りるわけですから。

小説でしか描けない若者というのがあるはずなのです。

さも「いま」を体現しているかのような顔をした
テレビの薄っぺらい映像などでは到底掘り起こすことの出来ないような、
小説の言葉でしか切り込めない、小説でしか描けない若者の世界があるはずなのです。

しかもそういう小説は長く残ります。
たとえ風俗や流行が移り変わろうとも、
いつどんな時代の人間が読んでも共感できるような若者像がそこにはあるはずです。


先に引用した文章は、
「〜じゃね?」とか「マジ〜」とか、いかにもな若者言葉が使われている一方で、
「ラムネのビー玉みたいなくりっくりの目してさ」みたいな
イマドキの若者がとても使いそうにない比喩が混在しています。

このような文章を読むとき、
ぼくは「文学になりきれていない小説」を読まされたような気になってしまうのです。

もっと言うなら、この小説は「いま」を描こうとして、
「いま」に媚びてしまっているように思えるのですね。
小説の言葉が「いま」に拮抗できずに中途半端なものになってしまっている。

もっとも、表題作の「もういちど生まれる」のような素晴らしい作品もあります。

容姿にも運にも恵まれた姉を持つ、双子の妹の視点から描かれた物語。
姉が現役で志望校に合格したのに比べ、妹は2浪が決まり予備校でくすぶっている。
そんな中、姉が学生映画のヒロイン役で出演することになり、
妹もふとしたことからそこへ関わることになって、物語が思わぬ方向へ動き始めます。

本書の表紙写真をぜひみていただきたいのですが、
このかわいい女の子がジャンプしている写真が
この短編のとても素敵なシーンと関係しています。

喪失や欠損の感覚を抱いている主人公が、
物語のなかで新しい自分を見出す(もういちど生まれ直す)プロセスを
みずみずしく描いていて、見事な作品だと思います。

このように朝井リョウさんはとても才能のある作家で、
いずれ確実に大きな賞を受賞する人だとは思いますが、
この短編集に関しては、「いま」を表面的にしか描けていないせいで、
賞味期限の短い作品になってしまっているように思えてなりません。

いや、そういう小説があってもいいのです。
モードのように季節ごとの短いサイクルで消費される小説があってもかまわない。
ただ、直木賞に選ばれるような小説は、ちょっと違うのではないかと思うのです。

たとえ10年後や20年後の若い読者が手にとったとしても、
そこにまさにいまの自分のことが書かれていると思えるような、
そんな息の長い作品であってほしい。

要するに名作であってほしいということです。
名作というのは時間の波に洗われ続けても、
いっこうに生命力を失わない作品を言うのですから。


繰り返しになりますが、作者自身が現役の若者だったりすると、
ぼくらはそこに等身大の若者が描かれているのではと錯覚してしまいがちです。
でも、小説の言葉で若者を描くというのは、また別の話なのです。

このことにもう少しこだわってみたいのでお付き合いください。

実は、小説の言葉で子どもや若者を描くことに長けているのが、
辻村深月という作家なのです。

辻村さんの『鍵のない夢を見る』の中には、
大人の入り口にさしかかった若者を見事に描いてみせた作品があります。
                         (つづく)

投稿者 yomehon : 2012年07月08日 23:47