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2013年11月20日

ヨメに知られてはならない事実


年末になるとなぜ人は掃除がしたくなるのでしょうか。

ヨメもご多分にもれず、
(普段は気にも留めない)我が家の散らかり具合が気になり始めたようで、
このあいだの週末、突如としてプチ大掃除をすることに相成りました。

ぼくが仰せつかったのはキッチンの収納部分。

まずは食器棚を開け、
大きさも種類もおかまいなしに積み上げられた食器に毒づき、
箸やらフォークやらナイフやらが適当に突っ込まれているのにため息をつき、
次に乾物などがまとめて入れられている棚に着手した瞬間です!

奥から出るわ出るわ、マカロニの袋が次から次へと
手品か?というくらい出てくるではありませんか!

袋はどれも開封済みで、
ちょっと使っただけのものを輪ゴムで丸めてあります。
それが2個や3個なんてものじゃなく大量に出てきたわけです。

数が数なんで、さすがに考え込んでしまいましたよ。

これは新種の病気だろうか?とか。
(なんとか症候群みたいな……)

あるいは彼女はなにか変わった宗教でも信仰しているのだろうか?とか。
(マカロニ教?まさかね)

それともなにかの科学的な実験だろうか?とか。
(長期保存による炭水化物の化学的変化について……)


まぁでも、ここはヨメが次から次に買い込んで
無駄にしてしまったと考えるのが妥当でしょう。
だとするならば、これは願ってもない、彼女の大きな失点ということになります。

普段は防戦一方のわたくし。
これみよがしに彼女のまわりに証拠物件を並べたて、
ここぞとばかりに説諭してやりましたよ!


ただ、説諭しているうちにこちらもだんだん気分が昂揚してきちゃって、

「同じものを何度も買うなんて頭がどうかしてんじゃないの!?」

なんて調子づいて攻め込んでいたその時、
神妙な面持ちで聞いていたヨメが突然、

「じゃあ、あなたは絶対、同じ本とか買ったりしないわけ??」

と切り返してきた時には、
不意打ちを喰らって、思わず不自然な間が生じてしまいました。

「お、おう、ねーよ、そんなことあるわけねーじゃん!」

と答えたものの、ヨメは疑い深い目でじっとこちらを見つめています。


で、ヨメが風呂に入っている時間を利用して本棚をチェックしてみることにしました。

あれだけここぞとばかりに責めたてたんですから、
もしもこれで本の二重購入が見つかったりした日にはタダではすまないでしょう。
どんな仕返しをされるかわかったものではありません。

とはいえ時間は限られています。
とりあえずは本棚の一角を占める文庫本の棚だけチェックすることにしました。


その結果……
奥から表から出るわ出るわ、同じ表紙の本が次から次へと
手品か?というくらい出てくるではありませんか!!

本のペアを積み上げていくうちに、
その山はどんどん高くなっていきます。

どんな本があったか、発見順に少しだけあげてみると、


『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹(文春文庫)

『「おじさん」的思考』内田樹(角川文庫)

『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志(中公文庫)

『大正幻影』川本三郎(岩波現代文庫)

『文章読本さん江』斎藤美奈子(ちくま文庫)

『〈戦前〉の思考』柄谷行人(講談社学術文庫)

『シミュレーショニズム』椹木野衣(ちくま学芸文庫)河出文庫版もあり

『昭和維新試論』橋川文三(講談社学術文庫)ちくま文庫版もあり


最後の2冊なんて版元違いで持っているのだ、どうだスゴイだろ、
なんて胸を張ってる場合ではありません!

ジャンルが偏っているのは、
チェックしたのがたまたま文芸評論とか現代思想みたいな棚だったからで、
これが小説やエッセイの類いになると、
発見される本のペアはいったいどれくらいの数になるのか見当もつきません。

それに上記の本にしたって、
文庫本だけではなく、単行本も持っているわけですから、
そんなのも含めれば、
双子どころか三つ子がどれだけ増えるんだという話にもなりかねない。


それにしても……。
なぜこんなにも本を被って買ってしまうのでしょうか。


上記のラインナップを眺めていて、気がついたことがあります。
それは、どの本もこれまで折に触れてたびたび読み返してきた本だということ。

良い本の条件のひとつが「再読に耐えうること」だとすれば、
ここに挙げた本はどれも、二読三読どころか、四回も五回も読んできた本ばかり。

それだけの回数を読めるのは、
「その本にとても大切なことが書かれているから」に他なりません。


その時々で、どんなことがきっかけで
再読しようとしたのかは覚えていないけれど、
ひとつだけ言えるのは、
かつてその本に教えられた大切なことに、
もういちど触れたいと思ったのだろうということ。

本というのは、気合いを入れて読むものではなく、
「読みたいな」と思い立ったが吉日で、
大事なのはその瞬間に読みたい本が手元にあるかどうかです。

「あの本にとても大切なことが書いてあった気がする。読みたいなぁ」
そう思った時、手元に本があれば、読書は長続きします。
その瞬間の生理に忠実なほうが、より本の内容が心に残るというか。


「読みたい!」と思った時に、本が見当たらなかったから新たに購入したとか、
街を歩いている時に、あの本に書かれていたことが気になって書店で買い求めたとか、
たぶんいろんなケースがあったのだと思いますが、
きっとぼくは、その時々で「読みたい!」という心の声に
素直に耳を傾けてきただけなのだと思うのです。

考えてみれば、
手を伸ばしさえすればすぐに
大切なことに触れることができるなんて、
至極贅沢なことではありませんか。


とはいうものの、
この本いったいどうしたものか……。

投稿者 yomehon : 21:50

2013年11月17日

リンゴに映る自画像


ヨメが新しいiPhoneを手に入れてからというもの、
のべつまくなしにいじりまわしているために、
ただでさえ少ない夫婦の会話がますます少なくなってしまいました。

おかげで読書がはかどってはかどって仕方ありません。
先週は読みかけの人文書やら読んだことのなかったシリーズものの小説など、
ずいぶんと読み終えることができました。
このまま永遠にいじりまわしていてほしいものです。

ま、しかしヨメの気持ちもわからんでもありません。
iPhoneはやっぱり美しい。
アルミニウムの筐体は信じられないくらい薄くて軽く、
特別な商品であるというオーラがビンビンに出ています。


いまから10年以上前のこと、
アップルが2001年に売り出したノートパソコン「PowerBookG4」は、
チタニウムという金属が世界で初めて使われたパソコンでした。

美しい光沢を持つうえに軽くて丈夫なチタニウムに、
アップルの幹部らは惚れ込んでいたといいます。
けれど当初は、このチタニウムを
美しく磨き上げることのできる業者がいませんでした。

世界中を探したあげく、彼らは日本にその職人がいることを突き止めます。
新潟県燕市の磨き職人たちです。
江戸時代から刃物や金属を研磨する産業が栄え、
現在でもナイフやフォークなどの洋食器の加工でその名を知られています。


彼らはアップルの要請に見事に応え、
以来、iPodの裏蓋の研磨を一手に引き受けることになります。

「女性の手鏡のように」ピカピカにしてほしいとアップルが指定してきたのは、
「ミラーの800番」と呼ばれる光沢度の基準値でした。

ところが燕の職人たちが試行錯誤の末に磨き上げた製品の品質は、
ミラーの800番どころか830番から900番へと次第にグレードアップし、
最後はこれ以上光らせるのは「物理的にも絶対にムリ」という
極限値の1000番まで高まったというのです。
驚くべき職人技です。

実はこのように、アップルと日本は密接な関係にあります。
アップル製品のそこかしこに日本の優れた技術が使われているのです。

『アップル帝国の正体』後藤直義・森川潤(文藝春秋)は、
秘密主義で知られるアップル社の「正体」に綿密な取材で迫ったノンフィクション。
タイトルから内幕暴露ものを想像する方もいらっしゃるかもしれませんが、
日本企業がアップル社といかなる関係にあるかを辛抱強く取材して明らかにした、
非常に読み応えのある一冊です。

本書によれば、日本の名だたるメーカーで
アップルと関係をもっているところを挙げれば枚挙にいとまがないほど。

たとえばソニーはiPhoneのカメラ部分をつくっている他、
スマートフォンの生命線であるリチウムイオン電池も供給していますし、
またかつて「亀山モデル」の名で一世を風靡したシャープの亀山工場も、
いまではiPhone用の液晶パネルを製造しています。

飛ぶ鳥を落とす勢いのアップルと組むことで生きながらえようとしたメーカーは、
けれどその一方で、強烈な「副作用」に見舞われることになりました。

「私たちは、かじってはいけない”毒リンゴ”に手を出してしまったのかもしれない」

あるメーカー社員は取材に対してそんな本音を漏らしています。

アップルと組むことによる「副作用」とは何か。
ひと言で言えばそれは、「生殺与奪の権利をアップルに握られる」ことにあります。

アップルと取引を行う日本企業は、
神経質なまでのNDA(秘密保持契約 Non-disclosure agreementの略称)を
結ばされる一方、逆にアップル側からは「丸裸」にされてしまうといいます。

その分野に精通した専門家がチームで乗り込んできて、
徹底的に製造現場を調べ上げるというのですから恐ろしい。
なまじっかな嘘やごまかしはすぐに見破られてしまいます。

コストカットの交渉でも、
「その誤差はわずか数パーセント」という正確さで原価を見抜いてくるので、
取引先企業は最後はアップルの言い値に頷くしかなくなってしまうのだとか。

技術情報を吸い上げられ、コスト構造を白日の下にさらされ、
日本側の都合などはおかまいなしに一方的にノルマを課される……。

本書の帯には「日本企業は植民地化していた!」の文字が踊っていますが、
なるほどここまでくると、日本企業はアップルと協力関係にあるというより、
「軍門に下った」という言い方の方が的を射ているように思えてきます。


ただ、本書を読んでいると、
これが単なるアップルの横暴だとも言えないのではないかとも思えるのですね。

海外で開かれたディスプレイ関連の学会に参加したあるメーカーの社員は、
「最前列にズラッとアップルの関係者たちが座っていた」と証言しています。

あるいは、日本人でさえ知る人の少ないような
技術力に優れた中小企業を見つけ出しては、
積極的にアプローチをしてくるという話もあります。

信じられないくらいのハングリーさでモノづくりに取り組んでいるのが、
日本のメーカーではなくアップルであるという現実。
これはいささかショックです。
かつて日本の代名詞のように言われた「モノづくり」は、
いまや我が国の専売特許でもなんでもないということなのですから。


けれども、アップルという鏡に映った日本企業の姿からは、
未来について考える上での大切なヒントもまた見えてきます。

ある部品供給メーカーの幹部は、
「アップルと付き合う上で重要なのは、
他社に真似できない高い技術力をもっているかどうかだ」
と述べています。
そういう圧倒的な技術力を持つ会社は、
「ティア1」と呼ばれる特別なカテゴリーに分類され、
アップルも対等な付き合いをしてくれるそうです。

結局、最後に自分の身を守るのは、
自分自身の実力しかない、ということなのでしょう。

でも不安をおぼえる必要はありません。

たとえば『統計データが語る日本人の大きな誤解』本川裕(日経プレミア)によれば、
国際特許の出願数を世界各国の地域別でみると、
東京はシリコンバレーを抜いて世界ランキングトップの出願数だそう。
これはほんの一例。この他にも明るい材料があります。

技術立国・日本はまだまだ健在!
その事実に、ぼくらはもっと胸を張ろうではありませんか。

投稿者 yomehon : 15:55

2013年11月10日

山崎豊子さんの名作 これをお忘れでは?


数々のベストセラーを世に送り出した山崎豊子さんが
お亡くなりになってからというもの、書店に足を運べば、
どこも文庫売り場にずらりと彼女の作品が並べられています。

大学病院の腐敗を描いた『白い巨塔』や、中国残留孤児をテーマにした『大地の子』
巨大総合商社を描いた『不毛地帯』や日航機墜落事故を題材にした『沈まぬ太陽』など、
社会派と呼ばれた作家らしく、
どれも綿密な取材をベースにしたリアリズム小説ばかりです。


それも悪くはないけれど、
ぼくはほとんどの書店の山崎豊子フェアで見落とされている名作を挙げたい。

『花のれん』(新潮文庫)です。

主人公は多加という気だてのいい働き者の女性で、
船場の商家に嫁いだものの、
道楽にうつつを抜かす夫のせいで店を潰してしまいます。

そんなに道楽が好きならいっそ仕事にしたらという多加のすすめで、
夫は寄席を始めますが、今度は多額の借金を残したまま妾宅で死んでしまいます。

途方にくれる多加でしたが、遺された子どもと生きていくために、
なりふりかまわぬ金儲けの道へと足を踏み入れます。
ライバルの寄席からスタッフを引き抜き、師匠たちのご機嫌をとり、
金貸しの老婆にも取り入って、多加は寄席を次第に大きく育てていくのでした——。


吉本興業の創業者・吉本せいをモデルにしたと言われるこの作品は、
転んでもタダでは起きない大阪商人のたくましさと、
浪速女のど根性を描いて、1958年(昭和33年)に直木賞を受賞します。

この小説のいちばん魅力は、
生き生きとした大阪弁が作品の中で躍動していることでしょう。

たとえば、
寄席を買い取ろうとする多加と、
少しでも高く売りつけたい席主との丁々発止を会話の部分だけ抜き出してみると——


「ところで、お多加はん、今度はちょっと高うおまっせぇ」

「いきなり、女なぶりは、きつうおます、なんし、後家の細腕一本でっさかい、
気張って、まけておくれやす」

「後家はん云うたかて、あんたはたいした後家や、女や思うて甘うみているうちに、
ちゃんとした一本立ちの席主になって、こうしてわいにも買いに出てはる・・・
わいも寄席を手離すからには、もう齢だすし、あとは貸家業でもして
楽隠居する気やさかい、まとまった銭を握らして貰いまっさ」

「まあ、そない、気忙しゅう切り出しはって、フ、フ……」

「南の一流亭の、のれん料も入れて、これで、どうだす?」

「二万と三千、そら、えげつないでっせぇ、一つにこれでどうだす?」

「あかん、お多加はん、そんな手荒い珠のいらい方あるかいな、
ほんなら、これでどうや、五分引きや」

「阿呆らしい、こんな取引は二割方の値幅を見込んではりまっしゃろ、
そいで、せめて一割は泣いて(値引き)おくれやす」

「最初からきれいに五分引きにしてるのや、たった一千百五十円の差やおまへんか、
そんな汚い女勘定云わんときなはれ」

「たった一千百五十円やおまへん、木戸銭十銭、定員四百人の寄席で
一千百五十円水揚げしよう思ったら、一ヶ月満員にせんなりまへん、
商人いうもんは、どない大きな肚持ってても、算盤珠弾く時だけは、
細こうに弾くもんだす、二万七百円は、わての筒一杯に出銭だす」

「ふうん、さよか」

という具合。
こうしてみると、
大阪弁というのは、つくづく商い向きの言葉だなぁと思いますね。
テンポがいいうえに、言いにくいことをずばりと言っても角が立たないような
独特のやわらかさもあって。

山崎さん自身が船場出身ということもあるのでしょうが、
この花のれん』のような初期作品には、
大阪の商人街の日常が実にみずみずしく描かれています。

山崎豊子さんといえば、
社会派と呼ばれるような作品を書くようになってからというもの、
常に盗作の疑いがつきまとっていました。

栗原裕一郎さんの労作『〈盗作〉の文学史』(新曜社)には、
山崎作品をめぐる一連の盗作疑惑がまとめられているので
興味がある方はそちらをご一読いただきたいのですが、
山崎さんにかけられた盗作疑惑で多かったパターンは、
執筆資料として使ったノンフィクション作品などの文章を
そのまま引き写しているのではないかというものでした。

その批判の正否にはここでは踏み込みません。

ただ、ぼくは思うのです。
山崎豊子という類希なる物語作家にとって、
もっとも幸福だったのが、この『花のれん』の時代だったのではないかと。

社会派というレッテルもまだ貼られておらず、
大量の報道資料や歴史資料と格闘することもなく、
自らが育った船場を舞台にした面白い「おはなし」をつくることだけに、
ただただ没頭していた時代。

この小説からは、
作家の書く悦びのようなものが伝わってくると感じるのは、
ぼくだけでしょうか。

『花のれん』にご満足いただけた方は、
ぜひ『ぼんち』をお読みください。

船場の足袋問屋の一人息子の放蕩生活と
その後の成長を描いたこれまた初期の傑作小説です。

投稿者 yomehon : 19:40

2013年11月07日

人間観察のプロはストーカーといかに戦ったか


あらゆるものを削ぎ落して生活をシンプルにしていった時、
最後に残るものはいったい何でしょうか。

先日、藤原敬之さんの『カネ遣いという教養』(新潮新書)を読んでいたら、
そんな魅力的な問いかけを目にしました。

藤原さんはかつて億単位の収入を得るファンド・マネージャーでした。
この本は、ありとあらゆることにカネを注ぎ込んだ結果
みえてきたものについて書かれた、
いわば「浪費の哲学」とでもいうべき面白い本なのですが、
藤原さんは「あとがき」で、浪費や蕩尽とは逆に、
極限までモノを削ぎ落した生活からは何が見えるだろうかと問いかけます。

都の外に方丈(四畳半)の庵を結んだ鴨長明は、
あんなに狭い空間にもかかわらず、かさばるものをふたつも所持していました。

琵琶と琴です。

これを指して藤原さんは、
鴨長明は「ノー・ミュージック、ノー・ライフ」だったのではないか、
と面白い指摘をしています。
シンプル・ライフの果てに残るのは音楽かもしれない、ということですね。


「ノー・ミューシック、ノー・ライフ」は、
キャサリン・ダンスにとってもきっと人生の合言葉に違いありません。

世界屈指のエンターテインメント作家ジェフリー・ディーヴァーの
キャサリン・ダンス捜査官シリーズでお馴染みの彼女は、
相手のボディランゲージをもとに瞬時にウソを見破る「キネシクス」の達人で、
全米きっての尋問のプロフェッショナルとして知られています。

それと同時にダンスは、「ソング・キャッチャー」の顔も持っています。
休みをやりくりしては録音機片手に各地へ出かけ、
消えゆく民族音楽などを収集してウェブサイトにアップしているのです。


待望のシリーズ3作目となる
『シャドウ・ストーカー』池田真紀子訳(文藝春秋)は、
ダンスの愛する音楽が真正面から扱われていて、
ミステリーファンのみならず音楽ファンも必読の一冊。

物語はまとまった休暇をとって音楽収集の旅にでたダンスが、
旧知のカントリー歌手ケイリー・タウンに会いにいくところから始まります。

ケイリーは、カントリー界の大御所ビショップ・タウンの娘で、
天性の美貌と美しい歌声を持っていました。
(ちなみにぼくはテイラー・スウィフトをイメージしながら読み進めました)

人気歌手であるケイリーはストーカーに悩まされていました。
エドウィン・シャープという名のその男は、
ケイリーのことはどんな些細なことでも知っていて、
たとえメールアドレスを変えたとしても、
すぐに新たなアドレスを探り当てて接触をしてくるような人物です。

ダンスが休暇で訪れた街フレズノでは
ケイリーのコンサートが予定されているのですが、
その会場でコンサートクルーのチーフが惨殺されます。

殺害状況は、ケイリーのヒット曲のある一節を連想させるものでした。
いわゆる「見立て」による殺人というわけです。

執拗にストーキングを繰り返すエドウィンが犯人なのか?
再びケイリーの曲の歌詞をなぞるような殺人事件が起きます。
ダンスは現地の捜査チームとともに連続殺人事件の解明へと挑むのでした——。


我が国でも最近、不幸な結末を迎えてしまったストーカー事件がありましたね。
警察関係者に聞いたところ、ストーカー事案は2001年以降、
毎年1万件を突破していて、昨年は過去最高の1万9920件を記録し、
いまや2万件に迫らんかという勢いだそうです。

にもかかわらず警察がなかなかストーカーを摘発できずにいるのは、
すぐにでも刑事罰に問えるような犯罪行為が見られないというのがその理由。

本書でも、ダンスがストーカーについて捜査チームに講義をする場面があって、
読者としてはアメリカのストーカー事情を把握するのに大いに役立つのですが、
ストーカーをつかまえづらいのは彼の国でも同様なようで、
ストーカーを規制する法律はあるものの、
実際には明白な脅迫行為などがない限り逮捕は難しいとのことです。


ディーヴァーの作品はどれもそうなのですが、
本作も読み始めるとページを捲る手が止められなくなります。

この作品が読ませる理由は、
まず上記のストーカー摘発にまつわるジレンマ——拒否しても拒否しても
目の前に姿を現す人物をどうすることもできない恐ろしさを、
うまく小説に活かしている点があげられるでしょう。

また本作では、ダンスが初めて
ホームタウンを離れた場所で犯人と対峙する点も見逃せないポイントです。
休暇中であるがゆえに捜査権もなく拳銃も使えない。
主人公に課せられたこの制約も、読者の危機感を程よく煽るスパイスとなっている。

それともうひとつ、特筆すべきなのは、
ダンスの武器であるキネシクスが今回は封じられてしまうこと。

なぜキネシクスは通用しなかったのか。
それは相手がストーカーだからです。

ストーカーは相手とお近づきになるためであれば、作り話をするのも平気。
ダンスによれば、ウソをつくことに苦痛を感じない人間の心理を読み解くのは、
とても難しいことなのだそうです。

今回はXO——メールなどの文末に記されるキスとハグを意味する記号を、
相手からの好意のしるしであると男が受け止めてしまったところからつきまといが始まりました。
ケイリーからエドウィンに送られたのは、ファンクラブの自動返信メールで、
文末の「XO」は誰もが日常的に使うお決まりの挨拶に過ぎないにもかかわらず、です。

もはやエドウィンは、ケイリーが運命の女性だと心の底から信じきっていて、
恋愛関係になりたいと切に願う一方、
ケイリーもそう望んでいるに違いないと思い込んでいます。

ここまで強く信憑しているものを覆すのは並大抵のことではありません。

「人間嘘発見器」キャサリン・ダンスは、いかに犯人を追い詰めるのでしょうか。

事件は意外なところから突破口が開けるのですが、それは読んでのお楽しみ。


本作ではこの他、ふたりの子どもを抱えるシングルマザーであるダンス自身の
恋愛も描かれていて、物語に彩りを添えています。
もちろんドンデン返しの魔術師ディーヴァーお得意の二転三転する結末も健在。

そしてさらに!
今回は作中に登場する歌が、
ディーヴァーのホームページで実際に聴けるようにもなっています。
お時間のある方はこちらもぜひ。


最後に版元に注文もひとつ。
387ページの下段に「仕事仲間」が「仕事中ま」となっている変換ミスがあります。
デジタル入稿になってこの手のミスが各社で頻発していますが、
首を長くしてディーヴァーの新作を待っているファンからしてみれば、
この手のうっかりミスはとても残念なもの。
ぜひ第二版からは直してくださいね。

投稿者 yomehon : 21:03