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2013年11月10日

山崎豊子さんの名作 これをお忘れでは?


数々のベストセラーを世に送り出した山崎豊子さんが
お亡くなりになってからというもの、書店に足を運べば、
どこも文庫売り場にずらりと彼女の作品が並べられています。

大学病院の腐敗を描いた『白い巨塔』や、中国残留孤児をテーマにした『大地の子』
巨大総合商社を描いた『不毛地帯』や日航機墜落事故を題材にした『沈まぬ太陽』など、
社会派と呼ばれた作家らしく、
どれも綿密な取材をベースにしたリアリズム小説ばかりです。


それも悪くはないけれど、
ぼくはほとんどの書店の山崎豊子フェアで見落とされている名作を挙げたい。

『花のれん』(新潮文庫)です。

主人公は多加という気だてのいい働き者の女性で、
船場の商家に嫁いだものの、
道楽にうつつを抜かす夫のせいで店を潰してしまいます。

そんなに道楽が好きならいっそ仕事にしたらという多加のすすめで、
夫は寄席を始めますが、今度は多額の借金を残したまま妾宅で死んでしまいます。

途方にくれる多加でしたが、遺された子どもと生きていくために、
なりふりかまわぬ金儲けの道へと足を踏み入れます。
ライバルの寄席からスタッフを引き抜き、師匠たちのご機嫌をとり、
金貸しの老婆にも取り入って、多加は寄席を次第に大きく育てていくのでした——。


吉本興業の創業者・吉本せいをモデルにしたと言われるこの作品は、
転んでもタダでは起きない大阪商人のたくましさと、
浪速女のど根性を描いて、1958年(昭和33年)に直木賞を受賞します。

この小説のいちばん魅力は、
生き生きとした大阪弁が作品の中で躍動していることでしょう。

たとえば、
寄席を買い取ろうとする多加と、
少しでも高く売りつけたい席主との丁々発止を会話の部分だけ抜き出してみると——


「ところで、お多加はん、今度はちょっと高うおまっせぇ」

「いきなり、女なぶりは、きつうおます、なんし、後家の細腕一本でっさかい、
気張って、まけておくれやす」

「後家はん云うたかて、あんたはたいした後家や、女や思うて甘うみているうちに、
ちゃんとした一本立ちの席主になって、こうしてわいにも買いに出てはる・・・
わいも寄席を手離すからには、もう齢だすし、あとは貸家業でもして
楽隠居する気やさかい、まとまった銭を握らして貰いまっさ」

「まあ、そない、気忙しゅう切り出しはって、フ、フ……」

「南の一流亭の、のれん料も入れて、これで、どうだす?」

「二万と三千、そら、えげつないでっせぇ、一つにこれでどうだす?」

「あかん、お多加はん、そんな手荒い珠のいらい方あるかいな、
ほんなら、これでどうや、五分引きや」

「阿呆らしい、こんな取引は二割方の値幅を見込んではりまっしゃろ、
そいで、せめて一割は泣いて(値引き)おくれやす」

「最初からきれいに五分引きにしてるのや、たった一千百五十円の差やおまへんか、
そんな汚い女勘定云わんときなはれ」

「たった一千百五十円やおまへん、木戸銭十銭、定員四百人の寄席で
一千百五十円水揚げしよう思ったら、一ヶ月満員にせんなりまへん、
商人いうもんは、どない大きな肚持ってても、算盤珠弾く時だけは、
細こうに弾くもんだす、二万七百円は、わての筒一杯に出銭だす」

「ふうん、さよか」

という具合。
こうしてみると、
大阪弁というのは、つくづく商い向きの言葉だなぁと思いますね。
テンポがいいうえに、言いにくいことをずばりと言っても角が立たないような
独特のやわらかさもあって。

山崎さん自身が船場出身ということもあるのでしょうが、
この花のれん』のような初期作品には、
大阪の商人街の日常が実にみずみずしく描かれています。

山崎豊子さんといえば、
社会派と呼ばれるような作品を書くようになってからというもの、
常に盗作の疑いがつきまとっていました。

栗原裕一郎さんの労作『〈盗作〉の文学史』(新曜社)には、
山崎作品をめぐる一連の盗作疑惑がまとめられているので
興味がある方はそちらをご一読いただきたいのですが、
山崎さんにかけられた盗作疑惑で多かったパターンは、
執筆資料として使ったノンフィクション作品などの文章を
そのまま引き写しているのではないかというものでした。

その批判の正否にはここでは踏み込みません。

ただ、ぼくは思うのです。
山崎豊子という類希なる物語作家にとって、
もっとも幸福だったのが、この『花のれん』の時代だったのではないかと。

社会派というレッテルもまだ貼られておらず、
大量の報道資料や歴史資料と格闘することもなく、
自らが育った船場を舞台にした面白い「おはなし」をつくることだけに、
ただただ没頭していた時代。

この小説からは、
作家の書く悦びのようなものが伝わってくると感じるのは、
ぼくだけでしょうか。

『花のれん』にご満足いただけた方は、
ぜひ『ぼんち』をお読みください。

船場の足袋問屋の一人息子の放蕩生活と
その後の成長を描いたこれまた初期の傑作小説です。

投稿者 yomehon : 2013年11月10日 19:40