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2012年03月26日

ある書店員がどうしてもススメたかった「凄い」一冊


ジュンク堂新宿店が3月末をもって閉店します。
大型書店の閉店もいまや珍しいことではなくなり、
かつて渋谷の大盛堂や池袋の芳林堂が閉店したときのような衝撃はありませんが、
それでもよく利用した書店が店じまいをするというのは淋しいものですね。

ジュンク堂新宿店のなにが良かったって、
池袋本店と同様、全フロアを自由に行き来してあれこれ本を選び、
最後にまとめて会計ができるところがとても便利でした。
ぼくのように一度に大量に本を購入する人間からすると、
同じ新宿でいうならば、たとえば紀伊国屋書店のように、
各フロアでいちいち会計をしなければいけないというのはすごく面倒なんです。
(ただし同じジュンク堂でも吉祥寺店のようにフロアごとの会計のところもあります)

ともかく、心ゆくまで本を選んで、会計後は店内のカフェに直行し、
コーヒーを飲みながら買ったばかりの本を貪り読むという、
あの楽しみが二度と味わえなくなるかと思うと、とても淋しくなるのでありました。

ところでこのジュンク堂新宿店では、各フロアの担当者が
「これだけは売りたかった本」をおススメするとても面白いフェアをやっています。

たとえば6階には「さようなら新宿〜社会科学担当者が本当に売りたかった本〜」
と題した棚が設けられています。
この際だからということで、担当者が完全に個人的な趣味に走っているのが面白い。
新刊とか旧刊とか関係なく思い入れのある本がずらりと並ぶ様は壮観です。

こういう試みはとても面白いですよね。
それぞれの書店員の顔がみえる感じがします。
本屋さんはもっと書店員のキャラクターを前面に出すべきです。


さて、そんな担当者が思い入れたっぷりに推薦本を並べた棚を流していたところ、
ぼくのアンテナが「ピン!」と反応しました。

鬼太郎の妖怪アンテナってありますよね。
妖怪が近くにいると髪の毛がピンと立つやつ。
あれと似たような本のアンテナが備わっていて、
面白そうな本があると「ピン!」と反応するのです。

アンテナが反応した瞬間、「きっと面白いに違いない!」と直感したのは、
『美談の男』尾形誠規(鉄人社)という本。

案の定、喫茶店で読み始めた途端に夢中になり、
気がつけば「お客さん閉店ですよ」と肩を叩かれ、
仕方なく本を読みながら電車に乗って家に向かえば、
いつの間にか「お客さん終点ですよ」と駅員に肩を叩かれ、
それからどうやって帰ったんだか、気がつくと今度は自宅で朝を迎えて
「旦那さん朝飯ですよ」とヨメに肩を叩かれる始末。

ともかく、それくらい夢中になって読み終えました。
一昨年に刊行されたにもかかわらず、どうしてこんな素晴らしい本を見落としていたのか。


『美談の男』の主人公は、熊本典道さん。
彼は袴田事件で無罪を確信しながら、一審で死刑判決を言い渡した裁判官のひとりで、
その過ちを事件から40年近くたって告白し、一躍マスコミでもて囃された人物です。
熊本さんの告白は、海外のメディアからも良心的な判事として絶賛されました。

著者の尾形誠規さんは、北尾トロさんが書いた裁判ルポの傑作、
『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』を手がけた敏腕編集者。
カメラの前で涙ながらに罪を告白する熊本さんの映像を観て感動した著者は、
「裁判」をテーマにしたムック本を作ることになり、熊本さんを取材することにします。

ある地方都市で熊本さんと初めて会い、酒を酌み交わしながら袴田事件のことを聞くと、
彼は嗚咽しながら幾度も悔恨のことばを口にしました。

袴田事件で良心に背いて死刑判決を書いたこと、
まもなく裁判官を辞職して弁護士になったこと、
その後自暴自棄になり酒に溺れたこと、
死に場所を探して日本各地を彷徨ったこと、
ノルウェーのフィヨルドにも行ったが死ねなかったこと……。

著者が家族のことを尋ねると、
娘が2人いるけれどもう何年も会っていないと言い、
長女には高校1年の頃、一緒にヨーロッパを旅行した時に、
お父さんは無実の人に死刑を言い渡したことを告白したと言います。

そして別れ際に熊本さんはポツリとこう言うのです。
「僕の話を美談にしないでください」


結論から言えば、熊本さんの人生は、決して美談に彩られたものではありませんでした。
海外旅行中、長女に隠していた過去を洗いざらい告白したというのもウソだった。
著者が辿り直した熊本さんの半生は、
美しさとはほど遠い、とても悲しいものだったのです……。


ここでご存じない方のために袴田事件についてごくごく簡単に振り返っておきましょう。

1966年6月29日未明。
日本中の注目が前日に来日したビートルズに集まっていた中、惨劇は起きました。
静岡県清水市(現静岡市清水区)の味噌醸造販売会社の専務宅で、
専務と妻、次女と長男が刃物でメッタ刺しにされたうえ、火をつけられたのです。

事件から49日後、強盗殺人、放火、窃盗の容疑で、
元ボクサーの従業員、袴田巌氏(当時30才)が逮捕されます。

68年9月18日、静岡地裁で行われた一審で死刑判決。
その後、弁護側が控訴するも、76年東京高裁、80年最高裁でも上告が棄却され、
死刑が確定します。
死刑確定後も弁護団は粘り強く再審請求を行い、現在は2回めの再審請求審が静岡地裁で
行われているところです。

この袴田事件では、当初から袴田氏犯行説には矛盾があるといわれてきました。

まず疑わしきは自白の信用性です。警察は炎天下の中、
最長17時間にもわたる拷問のような取り調べを行い、
糞尿も垂れ流し、棍棒で殴る蹴るまでして自供させています。
また、犯行着衣はパジャマだとされていたのに返り血がついていなかったことや、
事件から1年以上たった公判の途中に、味噌タンクの中から血の付いた作業着が発見され、
しかもこの作業着は袴田氏の体格とはサイズがあわなかったこと、
発見された凶器は小学生が工作で使うようなクリ小刀で、
とても一家4人を刺殺できるような代物ではないこと……など、不自然な点があまりにも多いのです。

この本で初めて知ったのですが、
戦後、静岡県では、「幸浦事件」(1948年)、「二俣事件」(50年)、
「小島事件」(50年)、島田事件(54年)など、立て続けに4つも冤罪事件が起きているんですね。

そして驚くべきことに、
この4つの事件すべてで主任取り調べ官を務めたK(本では実名)という男がいて、
彼は後に「拷問王」と評されるほどの悪徳刑事だったというのです。
著者は当時の静岡県警を「冤罪天国」と断じながら、こうした悪しき傾向が
袴田事件の取り調べでも残っていたのではないかと述べています。

マスコミの暴力的な報道も断罪されてしかるべきでしょう。
本書の中で当時の新聞記事がいくつか引用されていますが、
完全に警察のストーリーに乗っかった記事を嬉々として書いています。
(熊本典道さんは、当時3人の裁判官で判決を合議した際、
石見勝四裁判長がどうしても無罪判決を下せなかったのは、
マスコミ報道によって袴田真犯人説に傾いた世論を恐れたからだと述べています)


袴田事件全体を振り返った時に、
静岡地裁の一審判決の影響が後々にまで及んでいるような気がしてなりません。
熊本さんはその罪の意識に耐えかねて裁判官を辞職し、弁護士に転身します。
その後の詳しい経緯はこの本の最大の読み所なのでここには記しません。

ただ、一時は弁護士として年収1億円を超す地位にまでのぼりつめた男が、
弁護士資格を捨て、公的な身分証明書もすべて捨てて生活保護を受けるまでになった。
その事実についてのみ、感じたことを書いておくことにします。

熊本さんはたしかに良心的な裁判官だったかもしれない。
でも、その後アルコールに溺れ、家庭が崩壊し、自殺未遂をし、
公的な身分をすべて捨てて放浪をし……という半生を読みながら、
ぼくはずっとかすかな違和感を感じていました。

その違和感の正体が何かということがわかったのは、
死にたい、死にたいと死に場所を探して彷徨い、
ノルウェーのフィヨルドまで足を運んだという熊本さんの話を、
生き別れた長女がこんなふうに評しているのを目にした時です。


「いろいろ追い詰められて、死のうと思ったのは間違いないんだろうけど、
父は自分の死さえも、人生の美しい1ページにしよう、
ドラマチックにしようって考えてる。それが私にはどうしても見えちゃうんですよね」


そうなのです。
ぼくが感じていた違和感——、それは熊本さんの話がきわめて悲痛なようでいて、
どこかヒロイックな自己陶酔を秘めているように感じられるということでした。

そしてそのような匂いを感じれば感じるほど、
いまも獄中で自由を奪われている袴田氏とのコントラストが際立ってくるのです。

罪の意識に耐えられず、死にたい、死にたいとうわ言のように唱えながら死ねない男と、
生きたいと訴えながら、いつ殺されてもおかしくない環境にいまも囚われたままの男と……。

その対比から容赦なくあぶり出されるのは、熊本さんの「弱さ」でしょう。

でもぼくらが誰一人として熊本さんのことを責められないのは、
彼のようにここまで自分の弱さと向き合い、もがき、転落するという経験もまた、
誰にでも出来るものではないからです。
良心的な裁判官かどうかなどという評価はどうでもよくて、
のたうちまわりながら自分の弱さと対峙したという一点において、
熊本典道という人は立派な人物なのではないか——。そう思いました。


堕ちるところまで堕ちても手を差し伸べる人がいたり、
いろんな裁判官や弁護士の人間像が描かれていたり、
無実を信じていまも獄中の人を支える人々がいたり、
『美談の男』はまるで文学作品のようにいろんな人間ドラマが詰まった一冊です。

最後に、ぼくがこの本でいちばん胸を揺さぶられたのは、
熊本さんがその後ずっと会っていなかった娘さんたちと再会したというくだりを読んだときです。
いや、感動の再会に涙したとかそういうことではありません。
そこには続けて袴田死刑囚のご子息のその後が書かれていたからです。

生まれて間もない我が子と別れ、
その後45年以上も息子の顔を見ることができないというのはどういう気持ちでしょう。

そして我が子のその後を聞かされたときの気持ちはどうだったでしょう。

袴田死刑囚は、いまもぼくたちが想像もつかないような地獄を味わっています。


投稿者 yomehon : 02:09

2012年03月18日

「吉本隆明」を読んでみよう


吉本隆明さんがお亡くなりになりましたね。
晩年は糸井重里さんや渋谷陽一さんなどのインタビューでお見かけするくらいでしたが、
それだってついこの間のことですから、亡くなった年齢が87歳と聞いて驚きました。
この年齢まで知的な活動を続けてこられたというのはほんとうに凄いことだと思います。

ところでみなさんは「吉本隆明」という名前をどう読みますか?
ぼくは「よしもと・たかあき」と読みますが、ある年齢より上の世代にとっては、
「よしもと・りゅうめい」と読むほうがしっくりくるようです。

「”たかあき”なんて読むと軽くってダメだよ。やっぱり”りゅうめい”じゃなきゃ」

そんなことを言っている年配の方がいましたけど、
たしかに「りゅうめい」と読むほうが重々しさがあるかもしれません。

この”重々しさ”というのは、名前の読み方だけではなく、
吉本隆明さんのスタイルを特徴づけるものでもあります。
ともかく吉本さんの使う用語というのが独特なんです。

たとえば有名なものでいうと「重層的非決定」なんて言葉があります。
「重層的非決定」……なんのことやらわかりませんよね。
ひとことで言えばこれは、
哲学もサブカルチャーも同じ水準で扱わなきゃダメだぜ、ってこと。
哲学だから高尚だ、サブカルだから低俗だ、なんてことはないんだぜ、ということです。
現代のようにすべてがフラットになった時代からすると、
「なにをいまさら」という感じもしますが、昔はこういうのがカッコ良かったんですね。


それから「共同幻想」という言葉も有名です。これも難しい。
「幻想」というのはいわば「観念」のこと。
「国家」というのはみんなの「共同観念」で成り立ってんだよ、ということです。
たしかにそうですよね。
「国家」なんてものはみんなが漠然とイメージしているだけで、
具体的な「国家の手触り」なんてものがあるわけではありません。
(ベネディクト・アンダーソンという人は、「想像の共同体」と表現しました。
個人的にはこっちの言葉ほうがしっくりきます)

ことほどさように、吉本隆明さんの用語というのは重厚でわかりづらいのです。

今回、吉本さんが亡くなったニュースを聞いて、
「じゃあ読んでみようかな」と思った人もいるかもしれません。
そういう人が「新聞に代表作と書いてあったから」という理由で、
『共同幻想論』とか『言語にとって美とはなにか』なんかを手に取ってしまうと、
この独特の用語と晦渋な文章に悲鳴をあげてしまう可能性大です。
(ぼくも途中で挫折してすべて読み通したことはありません)


そんな方のために、無謀にも一冊だけ、おすすめ本を選ぶとすれば、
ぼくは『吉本隆明「食」を語る』(朝日文庫)を挙げたい。

吉本さんがこれまで食べてきたものを入り口にして、
生い立ちや人生観、文学や思想にたいする思いなどがわかりやすく語られた一冊。

聞き手はフランス料理通として知られる宇田川悟さん。
月島で育った吉本さんが、好物のレバかつについて
楽しそうに語る様子から伝わってくるのは、なによりもその飾らない人柄です。

ぼくはかねがね吉本さんの思想の核心は、次のような言葉にあると考えてきました。


「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、
老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、
千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」


『カール・マルクス』という本に出てくる言葉ですが、
『吉本隆明「食」を語る』を読んでいると、吉本さんご自身がまさに
「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死」んだ人であったと
いうことが、つまりぼくらと同じ大衆のひとりだったということがよくわかります。

訃報に際しては「戦後思想の巨人」という形容がつきものでしたが、当のご本人は、
自分のことを巨人だなんてまったく思っていらっしゃらなかったのではないでしょうか。

これから吉本隆明を読んでみようと思った方は、
「戦後思想の巨人」だなんて構えずに、
「下町のなんでも知っているおじいちゃん」
ぐらいな感じで、この本を手に取ってみてください。

もう一冊、糸井重里さんとの対談『悪人正機』(新潮文庫)もぜひ。
こちらも吉本隆明入門編としておすすめですよ。


投稿者 yomehon : 00:57

2012年03月11日

『自由が丘スイーツ物語』


18歳で東京に出てきてから気がついたこと。
それは出身地の九州の料理がとても”甘い”ことです。

もっとも違いが顕著なのは醤油。
東京から九州に転勤した人などがまず戸惑うのも醤油の甘さだといいます。

いささか私見を述べさせていただくと、醤油が甘いのは、
彼の地が焼酎文化圏であることとおおいに関係があるのではないかと思います。
蒸留酒の一種である焼酎には糖分が含まれていないため、
酒を呑みながらつまむ料理のほうは甘さが求められたのではないか。
(かたや醸造酒の日本酒文化圏では塩辛い料理が好まれるように思うのですが)

だけどそうはいっても、お酒を呑まない人間もいるじゃないか。
そんな反論が聞こえてきそうです。たしかにそうですよね。

お酒以外の要因を考えてみると、
すべての県が海に面している九州には、
新鮮な魚、それもサバやアジなどの青魚を刺身で食べる文化があることに思い至ります。
実際に試してみるとわかっていただけると思いますが、
あのビンビンに新鮮な青魚には、やや粘り気のある甘い醤油があうのですね。
普通の醤油だと身が醤油をはじいてしまうのです。
これも甘い醤油が好まれるようになった理由のひとつではないでしょうか。


さて、醤油の話題はこれぐらいにして、
そもそもの「甘み」のルーツはどこにあるのかといえば、
九州は長崎に行き着きます。

長崎は言わずと知れた南蛮貿易の窓口。
海外貿易によって西国大名が力を蓄えることを恐れた江戸幕府が、
平戸と長崎に限って海外との交易窓口を設けたのです。

当時、砂糖は輸入でしか手に入れることができない大変貴重なもので、
おそらく裕福な商人などしか口にすることができなかったのでしょう。
以前、長崎で「卓袱(しっぽく)料理」をいただいた際に、
特に甘い味付けの料理が多い理由を尋ねたところ、
「砂糖が贅沢品だった時代の名残です」と説明されたことがあります。


さて、南蛮諸国からもたらされた砂糖は、江戸へと運ばれることになります。
在野の民俗学者として偉大な業績を残した宮本常一には『塩の道』という名著がありますが、
九州では近年、長崎から小倉に至る長崎街道が「シュガーロード」と呼ばれています。

砂糖をはじめとする幕府への献上品がこの長崎街道を通って江戸へと運ばれました。
面白いのはこのルート上には砂糖に関係する品物や土地がたくさんあること。

「カステラ」や「ぼうろ」といった南蛮菓子をルーツとするお菓子が生まれたのも、
製菓業が盛んな福岡県飯塚市(「ひよこ」や「千鳥饅頭」などで有名)や
佐賀県小城市(「ブラックモンブラン」というアイスが九州では定番)が位置するのも、
この「シュガーロード」上なのです。

すっかり前置きが長くなってしまいましたが、
江戸時代に砂糖がもたらされてから幾星霜、
この砂糖を使った菓子文化がもっとも華やかに花開いたのが
現代の「自由が丘」だと聞いたら、きっとあなたは驚くのではないでしょうか。

そうです、みなさんもよくご存知の東横線沿線の「自由が丘」です。
あの街ではいま、世界に誇れるお菓子文化が花開いているのです。


『自由が丘スイーツ物語』阿古真理(NTT出版)は、
自由が丘という街の歴史に重ね合わせて
我が国におけるスイーツの近代史を描き出した意欲的ノンフィクション。

この本で初めて知って驚いたのは、
我が国にはこれまでお菓子の歴史をきちんと書いた文献がなかったということ。
著者は足を使った丹念な取材で、この歴史の空白を埋めています。

自由が丘はもともと
「東京府荏原郡 碑衾町(ひぶすまちょう)大字 衾(ふすま)」
という住所で、都市部に野菜を供給する農家が60戸ほど集まったところでした。

大正から昭和にかけて、中産階級の勃興とともに郊外の開発が盛んになり、
東京横浜鉄道が1927(昭和2)年に渋谷ー神奈川間で東横線を開通させた折、
この衾にも駅がつくられました。その時の駅名は「九品仏駅」だったのですが、
大井町線の開通にともない、大井町線の九品寺前の新駅にこの名を譲り、
1929年に「自由ヶ丘」という駅名がつけられたのです。

「自由ヶ丘」という名称は、大正デモクラシーの流れのなかで1928年に開校した
「自由ヶ丘学園」に由来します。ちなみにこの学校が1937年に設立したのが
「トモエ学園」。あのトットちゃんこと黒柳徹子さんが通った学校です。

この自由ヶ丘学園を創立した手塚岸衛さんという人は、
洋行帰りで先進的な考えを持っていた人物だったようで、
手塚氏と同じように進歩的な考えを持つ文化人たちが近隣に移り住み、
勝手に自分たちの住所を「自由ヶ丘」と称して手紙のやりとりなどをはじめます。
その結果、なんとなく「自由ヶ丘」という名称がひろまって、
1932(昭和7)年に正式に町名となったというのですから面白い。

ところがこの名称は、戦時中に危機に瀕します。
治安維持法の名の下に思想統制や弾圧が横行していた折、
「自由」という名前が問題とされ、自由ヶ丘から来たというだけで、
中学生が軍人に殴られるという出来事もあったそうです。

そんな逆風のなか、町の人たちがの名前を守り通せた背景には、
奥沢あたりに多く住んでいた海軍将校たちの力があったからだといいます。
陸軍にくらべて比較的リベラルだといわれていた海軍のバックアップのおかげで、
なんとか自由ヶ丘という名称は戦火を生き延びたのでした。


戦後、この町は急速に発展します。
名称が「自由ヶ丘」から「自由が丘」にあらためられたのは1965年のこと。

高度経済成長にともなって、戦前の中産階級とは違う「中間階級」と呼ばれる
新興サラリーマン層が消費の担い手となり、自由ヶ丘は「町」から「街」へと
変貌を遂げます。

この本で初めて知ったのですが、
この街では昔から栗山家と岡田家というふたつの大地主が力を持っていて、
積極的に街づくりに携わってきました。
たとえば駅周辺に土地が出たりすると、外資系ファンドなどの手に渡る前に、
地主たちがこの土地を買ってしまうのだそうです。
ファンドの連中は短期で利益をあげることしか考えていないため、
高い家賃を払ってくれさえすればテナントを選ばない。
その結果、駅周辺に街の雰囲気にそぐわない店が集まってしまう可能性があるからです。

自由が丘に行ったことがある人にはおわかりいただけると思いますが、
あの街にはある種独特の雰囲気があります。
雑多なお店が並んでいるようでいて、どこか統一感のある街並とでもいうのでしょうか。
その背景には街は自分たちで守るのだという住民の高い自治意識があったのです。


自由が丘が「スイーツの聖地」になったのも、
この住民たちと関係があるように思えます。

昨年惜しまれつつ閉店しましたが、
お菓子の歴史を語るうえで欠かせない「自由が丘風月堂」(正しい表記は几に百)は、
1956(昭和31)年の創業の際、自由が丘にお店を構えることに決めたのは、
駅を降りた時に歩いている人がみんな靴をはいていたからだといいます。
当時はサンダル履きや下駄履きの人が多かったといいますから、
自由が丘に住む人々はそれだけ豊かだったということですね。

経済的に豊かで、文化的なものへの関心が高く、リベラルな気風もある。
そういう「自由が丘モダニズム」とでも名付けたくなるようなライフスタイルの人々が暮らす
良質な住宅街を抱えていたからこそ、この街にはたくさんのケーキ店やスイーツカフェが
生まれたのではないでしょうか。

また、お菓子の世界にイノベーションをもたらした職人の存在も見落としてはいけません。

「モンブラン」の迫田千万億(ちまお)さんは、柔らかいスポンジケーキに
和栗を使ったクリームを巻いて、日本が誇る名作ケーキ、モンブランを生み出しました。
(フランス菓子のモンブランはメレンゲ台で似て非なるものです)

「モンサンクレール」の辻口博啓さんは、最初に口に入れた時に、
ケーキのどの部分が口に当たるかということまで考えたケーキ作りで、
多くのパティシエに多大な影響を与えました。
日本のケーキのクオリティを世界トップクラスにまで高めたひとりでもあります。

彼らの物語はぜひ本書でお読みいただくとして(他にもたくさんの名店のエピソードが出てきます。
個人的にはマックスが懐かしい。20年前にデートしたあの女の子はいまどうしているんだろう?)、
ひとつだけ、感想を記しておくと、迫田さんと辻口さんというイノベーターが、
ふたりとも和菓子からアイデアを得ているところが非常に面白いと思いました。

モンブランに使われた和栗は、和菓子の栗餡をもとに発想されたものだし、
辻口さんはそもそも和菓子屋の息子です。

本書の中で辻口さんは、和菓子と洋菓子との違いを、
「和菓子は空気を抜き去るスイーツで、洋菓子は空気を取り込むスイーツなんです」
と端的に表現していますが、まさに言い得て妙です。

老舗から新しいお店まで、このような素晴らしいパティシエたちが営むケーキ店が
ずらりと揃っているところが自由が丘の凄いところです。
なにしろ歴史的な名作ケーキからクリエイティブな新作ケーキまで、
すべてをこの街で食べることができるわけですから。こんな街は探してもそうそうありません。


さて、自由が丘には本の世界でも注目すべき動きがあります。
自由な発想で新しい本を次々と世に送り出している個性的な出版社があるんです。
その出版社の名は「ミシマ社」。
現代のような時代の転換期に読むべき本を数多く出版していて、我が家の本棚でも
最近ミシマ社の本が増えています。
関心のある人は社長の三島邦弘さんの書いた『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)をどうぞ。

そんなミシマ社のご近所にあって、スタッフのみなさんが
ふだんお弁当を買っているお店があまりにも美味しいというので出版されたのが、
『自由が丘3丁目 白山米店のやさしいごはん』
この本のレシピは本当においしいですよ。
自由が丘にはスイーツだけじゃなくて、こういう美味しいお店もあるのでした。

投稿者 yomehon : 13:52

2012年03月10日

社会派ミステリーの力作 『震える牛』に戦慄せよ!


いま住んでいる街は商店街がとても元気で、
個人商店が立ち並ぶ賑わいぶりが気に入って、
かれこれもう15年以上も住み続けています。

過去、大手スーパーが参入を試みたものの
個人商店から客を奪えずに撤退したほど活気がある商店街なのですが、
ちょっと様子が変だと感じ始めたのはここ1、2年のことでしょうか。

ポツポツと店仕舞をする個人商店が出てきたのです。

地元産の野菜を置いていた良心的な八百屋さん、
近隣の料理人も買いに来るほどの品揃えだった魚屋さん、
手作りの練り物が絶品だったおでん種屋さん、
鶏のことならなんでも教えてくれた鶏肉専門店、
季節ごとに旬の野菜を使った新作が並ぶのが楽しみだった漬け物屋さん……。

我が家の食卓を支えてくれていた個性的なお店が次々と潰れ、
後にはどこにでもあるチェーンの飲食店ができるという
お決まりのパターンがこのところ繰り返されています。

ついこの間も、いつもアジの干物を買っているお店に行ったら、
「実は3月いっぱいで閉めちゃうのよ」といきなり親父さんに言われて大ショック。
聞けばここ数年は売り上げも右肩下がりで、「そろそろ潮時かと思った」とのこと。
しかもお店を閉めてこれから大変だろうに、こちらを気遣って
「いままでありがとね」と自家製のチリメン山椒までサービスしてくれて……。
こういう店主の顔がみえるお店がなくなってしまうのは本当に寂しいし残念です。

いったいこの街で何が起きているというのでしょう。
いや、この街だけではないはずです。
ぼくらの目に見えないところで、
なにかとてつもない地殻変動が起きているのではないか。
そんな気がしてなりません。


『震える牛』相場英雄(小学館)の主人公、田川信一が住んでいるのも、
西武線沿線にある昔ながらの商店街が元気な街です。
家族ぐるみの付き合いがある青果店や、
肉の産地にも気を配る精肉店などが並ぶこの商店街を、
田川は「様々な人とつながっている実感」が持てると気に入っています。

田川の職業は刑事です。
所属は警視庁捜査一課継続捜査班。
ここは迷宮入りした事件を地道に継続捜査するところで、
田川は、事件現場周辺で丹念に聞き込みをする「地取り」と、
事件関係者のつながりを徹底的に洗う「鑑取り」の腕を買われて、
中野駅前の居酒屋で男性2人が何者かに刺殺された強盗殺人事件の捜査を命じられます。

この事件は初動捜査の段階では、
「不良外国人による金目当ての犯行」というセンで捜査が行われたものの、
その後有力な手掛かりがなく、2年経ったいまも未解決のままになっていました。

被害者は互いに面識のない2人。
ひとりは仙台に住む獣医。そしてもうひとりは大久保在住の産廃業者。

メモ魔でもある田川は、文字通り地を這うような捜査で、
ひとつずつ見過ごされていた証拠を拾い上げ手帳に書きつけていきます。

その過程で浮かびあがるオックスマートという巨大スーパーの存在。
新潟と仙台を結ぶ一本の線。

事件を追ううちに、田川はやがて
いままさにこの国で進行している病と向き合うことになるのでした——。


この小説が優れているのは、
わずか350ページほどのなかで
日本の構造的な問題を剔出してみせたことです。

デフレの進行、巨大資本による寡占、地方経済の疲弊、食品の安全性への疑問——。

それらはすべてリンクしているのだということを、事件の謎を追う楽しみを邪魔することなく、
物語のかたちで読者に提示してみせている。これは並大抵の腕ではできない芸当です。

この小説を読んで思ったのは、
ぼくらはいつから単なる「消費者」になってしまったのだろうということ。
より安く、より早く、より快適に。
消費者としての利便性だけを追い求めた結果、
ぼくらは大切なものを切り捨ててしまったように思えてなりません。

一気読みの面白さがありながら、読後感はずしりと重い。
いまの日本が抱える病巣の深さを知って、あなたはきっと戦慄させられるはずです。

それにしても本書は久々に登場した社会派ミステリーの力作です。
本の帯には、「平成版『砂の器』誕生!」とありますが、
『砂の器』と似ているところといえば、
主人公の刑事が執拗なまでの捜査を行うところくらいで、
ぼくはむしろ『黒の試走車』『赤いダイヤ』などの傑作を書いた梶山季之と近いものを感じました。


この小説を読み終えた人の中には、
本書が問題提起したことをもっと深く掘り下げてみたいという人もいるでしょう。
おしまいにそんな方のためにおススメの本を何冊かご紹介。

地方の風景がどのように破壊されているかを知りたい方は、
三浦展さんの『ファスト風土化する日本  郊外化とその病理』を。

地方経済の現状と未来については、ベストセラー『デフレの正体』でデフレの根本原因は
生産年齢人口の減少にあると喝破してみせた藻谷浩介さんの『実測!ニッポンの地域力』
また21世紀には都市が縮んでいく(シュリンクする)と予測した建築家の大野秀敏さんらによる
『シュリンキング・ニッポン』をどうぞ。

食品の流通のカラクリについては、『放射能汚染食品、これが専門家8人の食べ方、選び方』のなかにおさめられた
河岸宏和さんのレポートが参考になります。

また『震える牛』というタイトルから推察できるように、
この小説では牛肉が物語の重要なテーマになっているのですが
(三省堂書店有楽町店ではこの本の店頭POPに食品サンプルの肉が使われていて度肝を抜かれました)、
牛肉ついては、福岡伸一さんの『もう牛を食べても安心か』がおススメです。

投稿者 yomehon : 23:17

2012年03月05日

『われ敗れたり』


「歴史的な名勝負」というと皆さんは何を思い浮かべますか?
戦国時代の有名な合戦であったり、プロ野球の名場面であったり、
いろいろな名勝負がありますが、
なかでも剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は、
世にもっとも知られた名勝負のひとつといえるでしょう。

その巌流島の名勝負からちょうど400年目の今年、
これまた歴史に名を残すであろう名勝負が行われたことをご存知でしょうか。

2012年1月14日(土)。
この日、東京・千駄ヶ谷にある将棋会館で、
日本将棋連盟会長でもある米長邦雄永世棋聖と、
コンピュータ将棋ソフト「ボンクラーズ」との一戦が行われたのです。

かたや名人を含むタイトル獲得通算19期を数える将棋界の重鎮。
かたや膨大な棋譜データを記憶し1秒に1800万手を読むという最強の将棋ソフト。

人間が勝つのか、はたまたコンピュータが勝つのか——。

「第1回将棋電王戦」と題されたこの一戦は、
「ニコニコ生放送」によって中継され、
100万人以上もの人々が固唾をのんで勝負の行く末を見守りました。


『われ敗れたり コンピュータ棋戦のすべてを語る』(中央公論新社)は、
「たった一手の見落としによって」惜しくもコンピュータに敗れた米長邦雄氏が、
激闘の裏側で何が起きていたかをみずから語った一冊。

勝負が行われたのがついこのあいだということもあって、
「まだ興奮冷めやらぬ」といった口調で語られた内容が
非常に生々しいドキュメントになっていて、読んでいると、
まるでこの世紀の一戦に立ち会っているかのような興奮をおぼえます。
まずはこの早いタイミングでの出版を実現した関係者の方々に心から敬意を表します。


さて、そもそもなぜプロ棋士とコンピュータが戦うことになったかというと、
これには長い歴史があります。
コンピュータに将棋を指させる試みが始まったのはいまから37年前のこと。
将棋界は技術面や金銭面からずっとこの取り組みをサポートしてきました。
最初はまるでお話にならないほど弱すぎた将棋ソフトも、近年は著しい進化を遂げ、
ついにアマチュアの全国大会に「激指(げきさし)なる将棋ソフトが出場し、
3連勝を飾ります。
たかがアマチュアと侮るなかれ。
アマチュアといっても昨今はプロにも匹敵するような実力者がひしめいています。
このアマチュア界でトップクラスの実力を誇るということが証明されたのですから、
プロもその存在を無視できなくなります。

そして2007年、渡辺明竜王と
「世界コンピュータ将棋選手権」の優勝ソフト「ボナンザ」との一戦が行われました。
この時は渡辺竜王が辛くも勝利。

しかし、2010年には、清水市代女流王将と
208台のスーパーコンピュタをつなぎあわせた「あから2010」が戦い、
清水さんが負けてしまいます。


非常に面白いのは、この時の「あから2010」のシステムの特徴が、
4つに分けられた頭脳が、合議制で試合を進めて行くというものだったこと。

1つだけだとどうしてもミスが出ますが、
4台がそれぞれ次の一手を読み、
つねに多数決で最善の一手を選んで行くというわけです。
いわば「三人寄れば文殊の知恵」方式なわけですが、米長さんによると、
このシステムはプロ棋士にはまったくあてはめることが出来ないそうです。

羽生善治氏と谷川浩司氏と渡辺明氏がチームを組めばいかにも強そうですが、
実際に指すと、それぞれひとりで指したほうが絶対に強いという結果になる、と米長さんは断言します。
生身のプロ棋士には、攻めの棋風の人も守りの棋風の人もいるわけで、
三人寄っても文殊の知恵になるどころか、「船頭多くして船山に登る」という結果に
なってしまうのがオチだろうというのです。

この話は将棋の魅力を考えるうえで、大きなヒントになるエピソードです。

われわれはなぜ将棋に魅力を感じるのか。
おそらくそれは、己の頭脳ひとつを頼りに難局に立ち向かい、
脳みそに汗をかきながら、驚くべき集中力で局面を打開するプロ棋士の姿に、
ぼくらが心を鷲掴みにされてしまうからではないでしょうか。

つまりぼくらは、棋士という人間に魅了されてしまうのです。
将棋の強さだけではなく、破天荒な生き方だったり、
天才児ぶりを示すエピソードだったりをも含めた、
棋士の人間性そのものに惹かれるのだと思うのです。

それでいえば、米長邦雄という棋士は、
現代の将棋界でももっとも魅力的な人物と言えるでしょう。

駒を持てば鬼神のごとき強さをみせながら、
酒が好きで女性にもてて座談の名手でもある。
愛棋家ならずとも米長ファンは多いはずです。

本書でも随所に米長さんの人間くさい部分が出ていて面白い。

たとえば、コンピュータとの最初の対戦相手として、
「1秒間に1億と3手読む男」こと佐藤康光棋聖(当時)に声をかけたものの、
「遊びのつもりで」とつい口をすべらせてしまい、
血相を変えた佐藤氏に「米長先生、そこに正座してください」と説教されてしまう。
正座させられ説教にうなだれる将棋連盟会長という構図がなんともおかしい。

また、奥さんに勇気づけてほしくて「私は勝てるだろうか」と聞いたところ、
あっさり「勝てません」と断言され、理由を尋ねると、
「あなたにはいま、若い愛人がいないはずです。それでは勝負に勝てません」
と喝破されてしまう。
これを「コンピュータに勝利する以上に難しい問題」と悩んでみせるユーモア。
(実はこの奥さんの言葉には深い意味があることが勝負を終えてからわかるのですが)

ともかく、そんな愛すべき米長さんが、
68歳にして最強の将棋ソフトと戦うことになったわけですが、
決戦の日を迎えるまでに米長さんがどのような準備をしたかについては、ぜひ本書をお読みください。
冷静に自分の実力をはかり、入念に準備をする様子は、現役を退いたとはいえ、やはり勝負師です。
勝負師がどんなことを考え、どういう事態を想定して、
どこまで準備をするかということが率直に書かれていて読ませます。

そして、そうした決戦までの日々の中で、
米長さんはついにコンピュータの弱点を発見し、
その成果は、後手番の米長さんが一手目に指した「6二玉」の一手に現れます。

ところがこの一手は、多くのメディアで「悪手」「奇をてらった一手」と評されました。

本書が書かれた動機のひとつは、
「この一手には理由があった」ということを説明したいということにもあったようですが、
本書を通読すると、米長さんの言いたいことがとてもよくわかります。
彼は勝負師としてぬかかりなく準備をする中で、
この一手が最善のものであるという結論を出していました。
つまり「6二玉」は必然性のある一手だったのです。

その意図を汲むことなく、
不勉強なマスコミが訳知り顔で「悪手」などと評した。
これでは米長さんが怒るのも当然でしょう。

ところが意外なことに、ニコニコ生放送上ではこの一手は支持されていました。
本書にはこの新旧メディアに対する米長さんの率直な評価も書かれています。
(原発事故以来、新旧メディアに対する評価と不信の議論がありますが、
実は本書もそういう部分と底を通じているところがあるのです)

一流のプロ棋士と最強のコンピュータとの戦いの詳細については、ぜひ本を手に取ってご覧ください。
米長さんみずからによる「自戦解説」や、羽生善治氏や谷川浩司氏らプロ棋士、
それにソフト開発者らによる観戦記もついているので、この歴史的一戦を贅沢に振り返ることができます。

それにしても、本書を読んでつくづく思ったのは、
一手にかけるプロ棋士の思入れの強さです。
その一手を生み出すために、棋士がどれだけ人知れず汗をかき、もがき苦しんでいるか。
文字通り人生を賭けているといっても決して言い過ぎではないということがよくわかりました。

米長さんは本書で、
吉川英治の『宮本武蔵』の中から次のような一節をひいています。


「波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。
けれど、誰か知ろう、
百尺下の水の心を。水のふかさを」


米長さんが「将棋界への遺言書」になるかもしれないと言うこの本を読み終えたとき、
あなたはきっと水のふかさに思いを馳せていることでしょう。

投稿者 yomehon : 16:57