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2012年03月11日

『自由が丘スイーツ物語』


18歳で東京に出てきてから気がついたこと。
それは出身地の九州の料理がとても”甘い”ことです。

もっとも違いが顕著なのは醤油。
東京から九州に転勤した人などがまず戸惑うのも醤油の甘さだといいます。

いささか私見を述べさせていただくと、醤油が甘いのは、
彼の地が焼酎文化圏であることとおおいに関係があるのではないかと思います。
蒸留酒の一種である焼酎には糖分が含まれていないため、
酒を呑みながらつまむ料理のほうは甘さが求められたのではないか。
(かたや醸造酒の日本酒文化圏では塩辛い料理が好まれるように思うのですが)

だけどそうはいっても、お酒を呑まない人間もいるじゃないか。
そんな反論が聞こえてきそうです。たしかにそうですよね。

お酒以外の要因を考えてみると、
すべての県が海に面している九州には、
新鮮な魚、それもサバやアジなどの青魚を刺身で食べる文化があることに思い至ります。
実際に試してみるとわかっていただけると思いますが、
あのビンビンに新鮮な青魚には、やや粘り気のある甘い醤油があうのですね。
普通の醤油だと身が醤油をはじいてしまうのです。
これも甘い醤油が好まれるようになった理由のひとつではないでしょうか。


さて、醤油の話題はこれぐらいにして、
そもそもの「甘み」のルーツはどこにあるのかといえば、
九州は長崎に行き着きます。

長崎は言わずと知れた南蛮貿易の窓口。
海外貿易によって西国大名が力を蓄えることを恐れた江戸幕府が、
平戸と長崎に限って海外との交易窓口を設けたのです。

当時、砂糖は輸入でしか手に入れることができない大変貴重なもので、
おそらく裕福な商人などしか口にすることができなかったのでしょう。
以前、長崎で「卓袱(しっぽく)料理」をいただいた際に、
特に甘い味付けの料理が多い理由を尋ねたところ、
「砂糖が贅沢品だった時代の名残です」と説明されたことがあります。


さて、南蛮諸国からもたらされた砂糖は、江戸へと運ばれることになります。
在野の民俗学者として偉大な業績を残した宮本常一には『塩の道』という名著がありますが、
九州では近年、長崎から小倉に至る長崎街道が「シュガーロード」と呼ばれています。

砂糖をはじめとする幕府への献上品がこの長崎街道を通って江戸へと運ばれました。
面白いのはこのルート上には砂糖に関係する品物や土地がたくさんあること。

「カステラ」や「ぼうろ」といった南蛮菓子をルーツとするお菓子が生まれたのも、
製菓業が盛んな福岡県飯塚市(「ひよこ」や「千鳥饅頭」などで有名)や
佐賀県小城市(「ブラックモンブラン」というアイスが九州では定番)が位置するのも、
この「シュガーロード」上なのです。

すっかり前置きが長くなってしまいましたが、
江戸時代に砂糖がもたらされてから幾星霜、
この砂糖を使った菓子文化がもっとも華やかに花開いたのが
現代の「自由が丘」だと聞いたら、きっとあなたは驚くのではないでしょうか。

そうです、みなさんもよくご存知の東横線沿線の「自由が丘」です。
あの街ではいま、世界に誇れるお菓子文化が花開いているのです。


『自由が丘スイーツ物語』阿古真理(NTT出版)は、
自由が丘という街の歴史に重ね合わせて
我が国におけるスイーツの近代史を描き出した意欲的ノンフィクション。

この本で初めて知って驚いたのは、
我が国にはこれまでお菓子の歴史をきちんと書いた文献がなかったということ。
著者は足を使った丹念な取材で、この歴史の空白を埋めています。

自由が丘はもともと
「東京府荏原郡 碑衾町(ひぶすまちょう)大字 衾(ふすま)」
という住所で、都市部に野菜を供給する農家が60戸ほど集まったところでした。

大正から昭和にかけて、中産階級の勃興とともに郊外の開発が盛んになり、
東京横浜鉄道が1927(昭和2)年に渋谷ー神奈川間で東横線を開通させた折、
この衾にも駅がつくられました。その時の駅名は「九品仏駅」だったのですが、
大井町線の開通にともない、大井町線の九品寺前の新駅にこの名を譲り、
1929年に「自由ヶ丘」という駅名がつけられたのです。

「自由ヶ丘」という名称は、大正デモクラシーの流れのなかで1928年に開校した
「自由ヶ丘学園」に由来します。ちなみにこの学校が1937年に設立したのが
「トモエ学園」。あのトットちゃんこと黒柳徹子さんが通った学校です。

この自由ヶ丘学園を創立した手塚岸衛さんという人は、
洋行帰りで先進的な考えを持っていた人物だったようで、
手塚氏と同じように進歩的な考えを持つ文化人たちが近隣に移り住み、
勝手に自分たちの住所を「自由ヶ丘」と称して手紙のやりとりなどをはじめます。
その結果、なんとなく「自由ヶ丘」という名称がひろまって、
1932(昭和7)年に正式に町名となったというのですから面白い。

ところがこの名称は、戦時中に危機に瀕します。
治安維持法の名の下に思想統制や弾圧が横行していた折、
「自由」という名前が問題とされ、自由ヶ丘から来たというだけで、
中学生が軍人に殴られるという出来事もあったそうです。

そんな逆風のなか、町の人たちがの名前を守り通せた背景には、
奥沢あたりに多く住んでいた海軍将校たちの力があったからだといいます。
陸軍にくらべて比較的リベラルだといわれていた海軍のバックアップのおかげで、
なんとか自由ヶ丘という名称は戦火を生き延びたのでした。


戦後、この町は急速に発展します。
名称が「自由ヶ丘」から「自由が丘」にあらためられたのは1965年のこと。

高度経済成長にともなって、戦前の中産階級とは違う「中間階級」と呼ばれる
新興サラリーマン層が消費の担い手となり、自由ヶ丘は「町」から「街」へと
変貌を遂げます。

この本で初めて知ったのですが、
この街では昔から栗山家と岡田家というふたつの大地主が力を持っていて、
積極的に街づくりに携わってきました。
たとえば駅周辺に土地が出たりすると、外資系ファンドなどの手に渡る前に、
地主たちがこの土地を買ってしまうのだそうです。
ファンドの連中は短期で利益をあげることしか考えていないため、
高い家賃を払ってくれさえすればテナントを選ばない。
その結果、駅周辺に街の雰囲気にそぐわない店が集まってしまう可能性があるからです。

自由が丘に行ったことがある人にはおわかりいただけると思いますが、
あの街にはある種独特の雰囲気があります。
雑多なお店が並んでいるようでいて、どこか統一感のある街並とでもいうのでしょうか。
その背景には街は自分たちで守るのだという住民の高い自治意識があったのです。


自由が丘が「スイーツの聖地」になったのも、
この住民たちと関係があるように思えます。

昨年惜しまれつつ閉店しましたが、
お菓子の歴史を語るうえで欠かせない「自由が丘風月堂」(正しい表記は几に百)は、
1956(昭和31)年の創業の際、自由が丘にお店を構えることに決めたのは、
駅を降りた時に歩いている人がみんな靴をはいていたからだといいます。
当時はサンダル履きや下駄履きの人が多かったといいますから、
自由が丘に住む人々はそれだけ豊かだったということですね。

経済的に豊かで、文化的なものへの関心が高く、リベラルな気風もある。
そういう「自由が丘モダニズム」とでも名付けたくなるようなライフスタイルの人々が暮らす
良質な住宅街を抱えていたからこそ、この街にはたくさんのケーキ店やスイーツカフェが
生まれたのではないでしょうか。

また、お菓子の世界にイノベーションをもたらした職人の存在も見落としてはいけません。

「モンブラン」の迫田千万億(ちまお)さんは、柔らかいスポンジケーキに
和栗を使ったクリームを巻いて、日本が誇る名作ケーキ、モンブランを生み出しました。
(フランス菓子のモンブランはメレンゲ台で似て非なるものです)

「モンサンクレール」の辻口博啓さんは、最初に口に入れた時に、
ケーキのどの部分が口に当たるかということまで考えたケーキ作りで、
多くのパティシエに多大な影響を与えました。
日本のケーキのクオリティを世界トップクラスにまで高めたひとりでもあります。

彼らの物語はぜひ本書でお読みいただくとして(他にもたくさんの名店のエピソードが出てきます。
個人的にはマックスが懐かしい。20年前にデートしたあの女の子はいまどうしているんだろう?)、
ひとつだけ、感想を記しておくと、迫田さんと辻口さんというイノベーターが、
ふたりとも和菓子からアイデアを得ているところが非常に面白いと思いました。

モンブランに使われた和栗は、和菓子の栗餡をもとに発想されたものだし、
辻口さんはそもそも和菓子屋の息子です。

本書の中で辻口さんは、和菓子と洋菓子との違いを、
「和菓子は空気を抜き去るスイーツで、洋菓子は空気を取り込むスイーツなんです」
と端的に表現していますが、まさに言い得て妙です。

老舗から新しいお店まで、このような素晴らしいパティシエたちが営むケーキ店が
ずらりと揃っているところが自由が丘の凄いところです。
なにしろ歴史的な名作ケーキからクリエイティブな新作ケーキまで、
すべてをこの街で食べることができるわけですから。こんな街は探してもそうそうありません。


さて、自由が丘には本の世界でも注目すべき動きがあります。
自由な発想で新しい本を次々と世に送り出している個性的な出版社があるんです。
その出版社の名は「ミシマ社」。
現代のような時代の転換期に読むべき本を数多く出版していて、我が家の本棚でも
最近ミシマ社の本が増えています。
関心のある人は社長の三島邦弘さんの書いた『計画と無計画のあいだ』(河出書房新社)をどうぞ。

そんなミシマ社のご近所にあって、スタッフのみなさんが
ふだんお弁当を買っているお店があまりにも美味しいというので出版されたのが、
『自由が丘3丁目 白山米店のやさしいごはん』
この本のレシピは本当においしいですよ。
自由が丘にはスイーツだけじゃなくて、こういう美味しいお店もあるのでした。

投稿者 yomehon : 2012年03月11日 13:52