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2015年11月30日

追悼 水木しげるさん

訃報というのはいつもきまって突然で、
心の準備ができているなんてことはそもそもあり得ないとはいえ、
このたびの水木しげるさんの死去の報には大きなショックを受けました。

子どもの頃から、
水木しげるさんは妖怪の仲間に違いないと信じ込んでいて、
人間の死など超越した存在だと勝手に思い込んでいたものですから、
いまもってお亡くなりになったことが信じられません。


水木さんは日本文化の歴史の上に偉大な足跡を残された方ですが、
自分自身を振り返ってみても確実にその一部は水木さんの漫画によって形づくられてると思います。


水木さんに教えられたこと。

それは、自然界には目に見えないものの存在があるのだということ。
そして、そういう見えざるものたちと、ぼくたちは共存しているのだという世界観です。


鬼太郎やラバウルでの戦争体験を描いた作品などについては、
新聞の追悼記事などでさかんに取り上げられるでしょうから、
ここではそれ以外の読んでおくべき水木作品を紹介することにいたしましょう。

かつてこの国には、
人間と見えざるものたちとが
当たり前のように共存していた時代がありました。

中世です。
水木さんはそういう時代を舞台にした作品をいくつも描いています。

『今昔物語)(中公文庫)は、
日本最大の仏教説話集に材をとった作品。

仏教説話集というのは実に面白いもので、
当時はこういう「お話」のかたちを借りて仏教を布教したのですよね。

なかでも水木さんが選んだお話には、
ちょっとエッチな話やいまで言うストーカーの話もあったりして、
遠い中世が現代と地続きのものとして身近に感じられます。


このように、見えざるものと共存していた中世の人々の生活がいきいきと描かれた作品は、
今年の夏に出版された『水木しげるの日本霊異記』(KADOKAWA)でも堪能することができます。
こちらは日本最古の仏教説話集。

自然界に宿る目に見えないパワーを解き明かそうとした人といえば、
熊野で粘菌の研究に明け暮れた偉人・南方熊楠です。

この知の巨人を飼い猫の視点で描いたのが『猫楠』(角川文庫ソフィア)

博物学や民俗学、生物学などで業績を残し、
18か国語を操ったといわれる天才・熊楠ですが、
一方で年中裸で過ごすなど数々の奇行でも知られています。

南方熊楠をアカデミックな視点で取り上げた本は数多くありますが、
愛すべき奇人っぷりをここまで生き生きと描いたのは『猫楠』以外ないのではないでしょうか。

まさに奇才、奇人を知るといった趣の作品。

『劇画・ヒットラー』(ちくま文庫)は、
あのアウシュヴィッツに象徴されるナチスの蛮行が詳しく描かれていないことで
よく批判される作品です。

でも、ここで水木さんがやろうとしているのは、
ヒトラーという無名の貧乏画家がいかに独裁者に成り上がったかを描くこと。
その背後で働いていた運命というみえない力をつかまえようとしたのがこの作品なのです。

美術学校への入学が叶わず、
浮浪者の施設に入所して細々と絵を売っていたヒトラーに、
水木さんは極貧時代の自分自身を重ね合わせているかのよう。

ここにあるのは、「ヒットラーは自分だったかもしれない」という視点。

ごくごく平凡な人が殺人という行為に手を染めてしまう戦争の恐ろしさを
身を持って体験した人ならではの視点なのです。

水木しげるさんの見えないものに対する感性はいかにして生まれたのか。
その秘密が描かれたのが名作『のんのんばあとオレ』(ちくま文庫)

故郷・境港で水木少年に妖怪話を語って聞かせた「のんのんばあ」。
この「のんのんばあ」自身も病気の人の快癒を願う「拝み手」でした。

生きとし生けるものはもちろん、
この世では目に見えないものたちもすべて、
大いなる自然のサイクルの一部なのだということ。

いま世界が向かおうとしている先には暗い雲が待ち構えていますが、
だからこそ、水木しげるさんが教えてくれた世界観は、
今後ますます重要性を増してくるのだと思います。


それにしても、紙芝居からはじまって貸本漫画、少年漫画雑誌と、
まさに漫画界の発展とともに歩んでこられた水木さんがお亡くなりになったことに、
ほんとうにひとつの時代が終わったのだと実感させられました。


水木しげるさんの作品は、
調布の深大寺門前にある「鬼太郎茶屋」の品揃えが充実していておすすめです。
こんどの週末にでも足を運んでみてはいかがでしょうか。

投稿者 yomehon : 20:23

2015年11月26日

新しい「誘拐小説」の挑戦


ミステリー小説の中には誘拐事件を扱ったものも数多くあります。
ただ、数は多くとも、その成功例となるとぐっと少なくなるような気がします。
なぜか。

誘拐ものというのは実は書くのが難しいジャンルではないかと思うんですよね。

だって誘拐事件を書こうと思えば、「誰かが誘拐され」て、次に「身代金の要求」があり、
「受け渡し方法についてのやりとり」などがなされ、「結果どうなったか」という一連の流れを
踏まえなければならないわけですから。

それらの要素を必ず盛り込むというしばりがあったうえで
ストーリーを考えなければならないというのが、まずハードルとなります。

それから誘拐は、もっともワリにあわない犯罪だと言われています。
手間がかかるわりには、身代金の受け渡しの際などに捕まるリスクが高く、
ゆえに、逮捕される危険を冒してもなお犯行に及ぶとなれば、
読者が納得できるようなそれなりの説得力ある動機が必要になります。
ここがもうひとつのハードルでしょうか。


犯行としてのバリエーションのつけ辛さと、
わざわざワリにあわないことをするだけの動機を見出せるかという問題。

なかなか誘拐小説というのも一筋縄ではいかないものですね。


そんなさまざまな制約がある誘拐もののなかでも最高傑作をあげるとすれば、
やはり『大誘拐』天藤真(創元推理文庫)をあげないわけにはいきません。

3人組の男が日本一の山林王と呼ばれる82歳のおばあちゃんを誘拐して
身代金5千万を要求しようとしたら、安すぎると叱られて100億に変更させられるなど、
アクの強いおばあちゃんに犯人も警察も翻弄されまくるという破天荒なストーリー。
名匠・岡本喜八監督によって映画化もされたのでご存知の方もいらっしゃるでしょう。

犯行動機がユニークということでいえば、
東野圭吾さんの短編「誘拐天国」( 『毒笑小説』所収)も面白い。
その犯行動機というのが、「勉強しすぎの孫たちを助けてあげたい」というもの。
犯人のおじいちゃんたちはみな大富豪という設定も笑えます。


東野圭吾さんってユーモア小説の書き手としても名人だと思うんですよね。
小説家って大御所になればなるほど、
腹を抱えて笑えるような小説を書かなくなりますけど、
(浅田次郎さんなんてそう。もっと『きんぴか』みたいな作品を書いて欲しいのに……)、
東野さんや奥田英朗さんはあいかわらずそういう作品を発表なさっています。

まあでもこれも好みかも。
芸術家になった鶴太郎さんと
「世界のキタノ」になってもかぶりものをするたけしさんのどちらが好きかみたいな。

いかん、誘拐小説から話がそれてしまった。

誘拐事件につきものの犯行の流れであるとか、
説得力のある犯行動機であるとか、
そういった踏まえなければならない制約の数々をものともしない作家といえば、
ミステリー小説界の鬼才といわれた連城三紀彦さんをあげないわけにはいきません。

8人の子どもがいる家に「子どもの命はあずかった」と脅迫電話がかかってきて、
誰が誘拐されたのかとなんど数えてみても、家には子どもたちが全員揃っている!
こんな摩訶不思議な謎を冒頭で投げかけておきながら、
「あっ!」と驚く謎解きでもって物語を着地させてみせるのが、連城さんの職人芸。

お亡くなりになってしまって、
あの目の前の霧がさーっと晴れるかのような
鮮やかな謎解きがもう読めなくなったのがとても悲しい。
ちなみに上にあげたのは遺作『小さな異邦人』(文藝春秋)所収の表題作。

あ、忘れてはいけない!
これも同じく連城作品ですけれど、
誘拐事件を扱っておきながら、お定まりのパターンに陥ることなく、
最初から最後まで謎が謎を呼び、
事件の真相が万華鏡のようにめまぐるしく入れ替わるという、
おそらく誘拐小説史上もっとも込み入った展開をみせる
『造花の蜜』(ハルキ文庫)もお忘れなく。


さて、誘拐ものでなかなか傑作と呼べる作品がない中、
「この手があったか!」と唸らされたのが、
雫井修介さんの『犯人に告ぐ』(双葉文庫)でした。

グリコ森永事件で初めて「劇場型犯罪」という言葉が使われましたが、
この作品の核となるアイデアは「劇場型捜査」。

「バッドマン」を名乗る連続児童誘拐殺人事件の犯人に対して、
神奈川県警で捜査責任者を務める主人公・巻島史彦が、
ニュース番組にたびたび出演しては
犯人に接触を呼びかけ続けるというアイデアはとても新しかった。

ただ、この作品が素晴らしかったのは、
決してアイデアだけが優れていたからではありません。
人質の子どもを死なせてしまった過去をもつ巻島と遺族とが
本音をむきだしにして向かい合う場面もあって、これが胸に訴えかけてくる。
こうした部分もしっかりと描かれていたからこそ読み応えがあったのです。


この斬新な誘拐小説『犯人が告ぐ』が発表されたのが2004年のこと。
それから10年以上もたって、まさか続編が読めるとは思いませんでした。

『犯人に告ぐ2 闇の蜃気楼』(双葉社)でテーマとなるのは、「誘拐ビジネス」。

前作から10年以上たっているのに、
作中ではバッドマン事件が解決した
翌年に起きた事件という設定なのがなんだか不思議な感じではありますが、
本作で誘拐されるのは、ミナト堂という横浜の老舗菓子会社の社長と小学生の息子。

犯行グループ「大日本誘拐団」を率いる男は、
かつて「振り込め詐欺」グループを統括していました。

「振り込め詐欺」というのは、電話をかける「掛け子」や
お金を受け取りに行く「受け子」など役割が細かく分かれていて、
末端を捕まえても、なかなか首謀者にまで手が届かないことで知られています。
「大日本誘拐団」を率いる「淡野」という人物は、
この振り込め詐欺で培ったノウハウを応用し、
日本で初めて誘拐ビジネスを立ち上げようとするのです。

前作では最後まで犯人の姿がみえない不気味さがありましたが、
今作ではうってかわって犯人グループの側が仔細に描かれるのが特徴。

でも犯人たちの動きが読者の前に明示されているにもかかわらず、
前作とはまた違った不気味さを感じてしまうのは、
犯人の「淡野」のキャラクターにあるではないでしょうか。

おそろしく頭が切れ、どんな人物も演じられる演技力を持ち、
「淡野」という名前(もちろん偽名)以外に素性が一切わからない人物。

前作では、闇に身を隠す犯人を引きずり出すためにカメラの前に立った巻島が、
今作ではこの「淡野」が率いる犯人グループとの騙し合いに挑みます。

誘拐後のアジトまでの搬送方法、アジトのつくり方、人質の心理の操り方、
身代金の受け渡し方法などなど、考え抜かれた犯行のディテールが読みどころ。

犯罪の恐ろしさよりも、騙し合いということで、
知恵比べ的な要素が前面に出た作品ではありますが、じゅうぶんに楽しめます。

むしろ頭脳を駆使したゲームのようなテイストに新しさを感じました。

ラストもさらなる続編を期待させるものとなっており、今後が楽しみ。

でも、こんどは10年も待ちたくないなー。

投稿者 yomehon : 21:00

2015年11月19日

頭をマッサージしてくれる作品集なのだ!!

世の中というのは不公平なもので、
大変なことを苦もなくこなす才能ある人間がいる一方で、
能力に乏しい者は、どんなに時間と労力を注いでも、
めぼしい結果が出ないということがままあるわけです。

なんの話しかって?

いや、面白い番組企画を思いつかないって話ですよ!

さっきからスタバでコーヒーグランデ2杯もおかわりして
額に汗しながらウンウン唸っているにもかかわらず
一向にアイデアが浮かばないわけですよ。
しまいにはストレスでお腹もちょっと痛くなってきちゃったりなんかして。
隣の席の女の子は「この人、具合悪いんじゃないかしら」と
心配してくれているみたいだけど、「安心してください、下痢じゃありませんよ」。


才能がないというのは悲しい。
だって、努力したって結果なんて出ないんですから。

だから悩んでもしょうがない。
ちょっと頭を休ませて気分転換でもしよっと。

というわけで、おもむろに取り出したのが、 『赤塚不二夫 実験マンガ集』(Pヴァイン) 


一読、ブッ飛びましたね。
赤塚作品はこれまでずいぶん読んできましたが、
「実験的な作品」しばりでは読んだことがなかった。

実験マンガとはいかなるものか。


たとえば、
「ともだち」という作品。

登場人物は作者がペン入れを忘れているということでラフな輪郭だけ。

「やあ!!こんにちは!!」
「きみだれ?」
「ぼくだよ きみの 友だちじゃないか!!」
「その顔じゃわからないよ もうすこしペンをいれろよ」
「めんどくさいなあ」(やや輪郭がハッキリする)
「わかった?」
「もうすこし」(さらに輪郭がハッキリする)
「わかった?」
「あっ もしやバカボンじゃないか?」

という具合。

その後、登場人物はきっちり描かれるものの、
背景がないために、バカボンたちは踏み出した途端に転んでしまい、
「バックをかかないから足をふみはずしたぞ」
「もっとしっかりかけ!!」と作者にクレームを入れる。

その後も、ホットケーキを食べようとしたら口を描き忘れていて食べられなかったり、
メガネを描きわすれて相手がみえなくなったり。
最後は「なにごともあきっぽい人間ってだめだね」「ぼくもそう思うよ」と言いながら、
両目の点ふたつだけになって消えてしまうのでした。

メタフィクションの手法を導入し、
作者を作品に登場させることで……とかなんとか、
サブカルチャーを文学理論とか現代思想の用語を使って分析するのが
大昔には流行ったものですが、いまやると恥ずかしいのでやめますね。

そんな分析などどうでもよくて、
ただただ、赤塚不二夫の発想の自在さを楽しむべし!


「バカボンのパパ」という作品は、
内緒話をしようとすると声が大きくなり、
デカイ声を出そうとするとささやき声しかでない病気にかかった
バカボンのパパの後輩が起こす騒動を描いています。

小声で言おうとしたエッチな言葉が巨大なふきだし文字で表現される。
そのセリフは少年誌にまったくもってふさわしくない四文字言葉だったりするところが
まことに素晴らしい。(子どもはそういうものをみて大人の世界を学んでいくのだ)


「実物大のバカボンなのだ」は、
バカボンとパパが実物大で描かれ、
これでページを浪費し過ぎたために途中で軌道修正がなされるものの、
結局しわ寄せで後ろへ行けば行くほどコマが細くなっていくという展開。


「ていねいなバカボンなのだ」は、

「最近、読者のみなさんから『“バカボン”は手をぬいてザツにかいているんでは
ないか?」といった内容のお手紙をいただきました。そこで、今話の“バカボン”は
できるだけていねいに念をいれてかくことにします」

という作者の宣言が冒頭に掲げられた後、
トイレにいくまでの時間が超絶ひきのばしで描かれ、
結果的にウンコとおしっこを漏らしてしまうのです。
しかも作者は、

「この作品についてのご感想はなるべくていねいにこまかく念をいれておかきください」

と読者に注文もつけている。

これ、まじめに感想出した人いるんだろうか。
ぜひいてほしいなぁ。
まじめというのはすなわち滑稽ってことで、
作者もまじめに感想を求めていると思うから。


「夏はやせるのだ」は、
うだるような暑さのなか、登場人物がどんどんやせていくお話。
動物園を訪れると、すっかりやせてしまったカバやウマやサイが簡略化した線だけで表現される。
ほとんどもうサハラ砂漠のタッシリ・ナジェールの古代壁画のよう。
アートな感じがなんともカッコいい!


「遠視と近視の愛護デーなのだ」は、
目の愛護デーということで、その逆を行く見づらい漫画を目指した作品。
遠近法が狂い、ネガフイルムのように白黒が逆転したコマの連続にめまいがします。


「(文字表記不可能なタイトル)」は、
漫画のルールを無視して、フキダシの中に絵を描き、絵の場所に字を書いた作品。
ケータイの絵文字が生まれる何年前に描かれた作品なんだろう・・・・・・と初出をみると、
なんと1973年!!この先見性たるや凄すぎ。


「説明つき左手漫画なのだ」は、
アシスタントが全員骨折したということで(もちろんウソ)、
なんとすべて左手で描かれています。


とまあ、こんな具合に、
実にクリエイティヴィティに富んだ作品が並びます。
(上に紹介した分だけでもまだ全体の3分の1ですからね)

昔、立川談志師匠が、
「歴史上で天才だと考える人物」として、
レオナルド・ダ・ヴィンチと葛飾北斎、そして手塚治虫の名前を挙げていらしたけれど、
赤塚不二夫も間違いなく天才です。


突き抜けた発想。
世間の常識を逆手に取った手法。
くだらないことをまじめに追究する探究心。
幼児のような自由奔放っぷり。

ここにまとめられた作品群を読んでいると、
いかに自分が狭い枠の中でものを考えていたかを思い知らされます。

アイデアにつまったときなどに頭を揉みほぐすのにおすすめの一冊。
勉強し過ぎで頭がパンクしそうな受験生諸君にもおすすめだよ!


……というわけで、長い気分転換の時間を終えて、
ふたたび現実の世界へと戻って来たのではありますが。
凡人の悲しさ、待てど暮らせどアイデアは出てこないのでありました。

ぜんぶ絵文字で企画書を書いて提出したら、やっぱバカって言われちゃいますかねー?

投稿者 yomehon : 15:00

2015年11月18日

正義のもうひとつの顔


いつも年末になると、
その年のやり残したことばかりに目がいって焦ります。
本の紹介もそのひとつ。
今年も素晴らしい本との出合いがたくさんあったにもかかわらず、
この場でいくらも紹介できないままに今年が終わってしまいそうです。

でも、どうしてもこれだけは紹介しておきたい一冊があるんです。
それが、柚月裕子さんの『孤狼の血』(KADOKAWA)

これ、まもなく発表されるであろう年末恒例のミステリーランキングで、
1位をとるかとらないかというくらいの出来栄えです。
つまり今年を代表する作品というわけ。


舞台は昭和も終わろうかという頃の広島県呉原市(呉市をモデルにした架空の街)。

呉原東署で暴力団担当の班長を務める大上章吾巡査部長は、
これまでに警察庁長官賞をはじめ数々の受賞歴を誇る反面、
訓戒などの処分を受けた数もこれまた数知れずという刑事です。

この凄腕かつトラブルメーカーというアクの強い人物のもとに配属されたのが、
広島大学出身の若手刑事・日岡秀一。

読者はまず冒頭から
暴力団担当の刑事の世界がどういうものか思い知らされて驚くはず。

なにしろ配属初日に日岡に大上が命じるのが、
パチンコ屋でみかけたヤクザに因縁をつけろということなのですから。

ケンカを職業にしているヤクザ相手ですから
当然、日岡は健闘も空しくやられてしまう。
ここでおもむろに大上が登場して、ヤクザを締め上げ、情報を得るのです。

なんて最低な人物でしょう。
またなんと理不尽な世界なのか。

しかし大上に言わせれば、
上の者が白を黒だと言えば
絶対に従わなければならない縦社会に住むヤクザを相手にしているのだから、
刑事の側も理不尽な世界に身を置いて当然だという理屈になるのです。

マル暴刑事といえば、
暴力団に深く食い込むために、
暴力団以上に強面というイメージがありますが
大上はその典型的な人物として読者の前に登場します。
(実際にはマル暴担当にもいろいろな人物がいます。
詳しくは森功さんのノンフィクション『大阪府警暴力団担当刑事』をどうぞ)

要するに、読者の大上に対する第一印象は「最悪」ということですね。

ただ、この小説の最大の魅力は、
そんな最悪で最低な大上の人物像が、
読み進むうちに変わってくるということなんです。


物語の舞台となる呉原市では、
戦前から一帯を仕切る昔気質な尾谷組と、
最大勢力の五十子会傘下の加古村組が小競り合いを繰り返していました。

ある時、加古村組系列の金融会社の経理担当者が失踪したことがわかり、
大上と日岡がその行方を追い始めたことから事態が動き始めます。
過剰なまでに尾谷組に肩入れする大上。
やがて尾谷と加古村の小競り合いは本格的な抗争へと発展するのでした――。


広島といえば、すぐにみなさんが思い浮かべるのが、
『仁義なき戦い』ではないでしょうか。
本書の作品世界はそれに『県警対組織暴力』をプラスしたような感じ。
(作者もその2作品がお好きだとどこかで語っていらっしゃいました)

この両作品を手がけた名脚本家・笠原和夫さん的な世界は、
若い頃にヤクザ映画に魅せられたような年配の読者にとってはたまらないでしょうね。

もっと言えば、
暴力団に地元メディアが立ち向かった記録
『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』中国新聞社報道部(現代教養文庫)も
ぜひ古書店で探して読んでいただきたいと思います。

さて、抗争の火蓋が切られたなか、
尾谷組の側に立とうとする大上の真意はどこにあるのか。

抜き差しならない状況のもと捜査を続ける大上の姿を追ううちに、
読者は次第に、自分たちが抱いていた正義についての観念が
揺らいでいることに気づかされるはずです。

そこにあるのは、青臭い、学級委員的な正義とは対極にある
「裏の正義」とでも呼ぶべきもの。
毒をもって毒を制するかのような正義なのです。

同時に、当初は最低のクズにみえた大上が、
人間味あふれる人物にみえてくるから不思議です。
これぞ作家の技で、
柚月裕子さんの見事な筆力には惜しみない拍手を送りたい。

優等生的な正義からいえば、
「大上のような汚れた刑事なんてトンデモナイ」ということになるのでしょうが、
校則手帳に書いてあるようなきまりごとだけで世の中が回れば苦労はありません。

実際には世の中にはとんでもない悪い輩がたくさんいるわけで、
そういう連中と渡り合っていこうと思えば、
こちらの手だってキレイなままでいられるわけがないということなのでしょう。

要するに世間知らずな優等生には読んでも理解できない作品ということですね。

「汚れっちまった悲しみ」を知る大人の読者にこそ、ぜひ手にとっていただきたい。


あ、あと、この作品は頭からお尻まで、構成にも気配りが利いています。
冒頭と最後のシーンで出てくるZIPPOのライターの使い方の巧さ!
思わず「そうだったのか!」と唸ること請け合い。
こうした粋な小道具の使い方も、大人の小説には欠かせない要素なのです。

投稿者 yomehon : 20:01

2015年11月13日

原点に立ち返ったディーヴァ―に拍手!


その日、ジュンク堂池袋本店のエスカレーターに乗っていたぼくは、
なぜか「そのこと」を知っていました。

もとより似非科学的なことは断固否定する立場ですし、
予知能力なんてものも端から信じていないのですが、
なぜかその日は、エスカレーターの先にお目当ての本が並んでいることを
知っていたのです。

果たせるかな、目指す先にはジェフリー・ディーヴァーの新作が並んでいました。

後で調べてみたらその日が発売日だったよう。
毎年恒例のこととはいえ、
我ながら「体内ディーヴァー時計」の精度の高さには感心してしまいました。

さて、「どんでん返しの魔術師」として知られ、
世界のエンターテインメント小説界に君臨するディーヴァーではありますが、
実は個人的にはここ数年、軽く食傷気味ではありました。
(当欄でたびたび紹介しておきながらすみません……)

SNSやビッグデータ、スマートグリッドやドローンなどなど、
ディーヴァーはその時々での時事的なトレンドを貪欲に物語に取り入れてきました。

ストーリー展開は相変わらず予測不能。
ツイストが効いていて、読者の予想は常に裏切られます。
物語の面白さはもちろん保証つき。

にもかかわらず食傷気味とはどういうことか。

要するに最新の時事トレンドを盛り込もうとするあまりに、
ともすると情報小説的な側面が強くなりすぎて、
犯罪小説としての魅力が薄まってしまっているように感じていたのですね。

そのことは、現場検証中の事故がもとで四肢麻痺となった
天才科学捜査官リンカーン・ライムを主人公にしたシリーズの第一作目を
思い浮かべてみればわかります。


ライムシリーズの記念すべき第一作目『ボーン・コレクター』には、
文字通り被害者の骨に執着する犯罪者が登場します。

初めて読んだ時は、犯人に理屈では測れない不気味さを感じて、
なんとも薄気味悪かったことをおぼえています。

そもそも殺人という異常な行為に手を染めた動機が
明快に分析できるんだろうかという思いもあります。
人間はそんなに単純じゃないだろ、ということですね。

犯罪小説の魅力というのは、
つまるところ犯人が魅力的であるかどうかではないでしょうか。

稀代のストーリーテラーであるディーヴァーをもってしても、
インパクトのある犯罪者となると、
『ウォッチメイカー』などごくわずかしか生み出せていないのではないか。

それくらい悪役の造型というのは難しいのです。

さて、そんなディーヴァーの新作が
『スキン・コレクター』池田真紀子・訳(文藝春秋)

タイトルから誰もが「ボーン・コレクター」を想起すると思います。
ただし、あちらが「骨」であるのに対して、こちらは「皮膚」。


あるブティックで、腹部に謎めいた文字を彫られた女性の遺体が発見されます。
文字は刺青(タトゥー)で、しかも使われていたのはインクではなく毒物でした。

どうやら今回の犯人は、皮膚に異常なほど執着するうえに、
プロも驚くような刺青の腕前を持ち、毒物にも明るい人物のようです。

リンカーン・ライムは、現場に残された紙片が、
ある書籍の一部であることを突き止めます。

驚くことにそれは、かつてライムが手がけた
「ボーン・コレクター事件」について書かれたものでした。

犯人はボーン・コレクターに心酔し、事件を模倣しているのか。
ならば事件に影響を受け、リンカーン・ライム自身をも標的にしようとしているのではないか。

次の被害者を救うために、ライムと犯人の知恵比べが始まるのでした――。

四肢の自由を奪われ、ベッドに横たわったままの天才科学捜査官という
ミステリー史上稀にみるユニークなキャラクターであるリンカーン・ライムが
この世に生まれてから20年近くがたとうとしています。(1997年。邦訳は99年)

前作『ゴースト・スナイパー』ではライムが初めて車椅子で国外に出るという
新展開をみせたものですから、てっきりその延長線上で物語がさらなる発展を
するのかと思いきや、意外や意外、新作『スキン・コレクター』でディーヴァーが選択したのは
「原点に立ち戻る」ということでした。

おかげで『ボーン・コレクター』を読んだときのような
不気味な感じをふたたび味わうことができました。

犯人像が二転三転するので、これ以上詳しくは書けませんが、
少なくとも前半部分のサイコ・スリラー的な展開はお見事だと思います。


愛読者というのはやっかいなもので、
たとえ主人公が危機的状況に陥ったとしても、
残りページのボリュームをみて、
「あ、これは助かるな」と簡単に見破ったりしてしまうのですね。

しかもわがまま。
「もっと面白く」「もっと驚かせて」と要求はエスカレートしていきます。

そんな連中を相手に、
20年近くも「どんでん返し」を仕掛け続けているのですから、
その苦労たるや大変なものだと思います。


原点に立ち返ったライムシリーズ。

さて、これはシリーズのリスタートを意味しているのでしょうか。

なんだか長くつきあっている相手の魅力にいまさらながら気がついてドキリとするような、
そんな新鮮な気分をひさびさに味わったような気がします。

投稿者 yomehon : 16:00