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2015年10月29日

『小泉今日子書評集』が素晴らしい!!

日曜日の朝はコンビニに行って、
新聞各紙をまとめて購入するのが長年の習慣になっています。

おめあては書評欄。

大変申し訳ないけれど、
日曜の朝だけは他の記事はささっと見出しだけで片づけて、
各紙の書評をじっくり読み込むのです。


いまでもおぼえています。
そんなふうにいつも通りの日曜の朝を過ごしながら
読売新聞の書評欄に「小泉今日子」という名前を見つけたときのことを。

書評欄の執筆陣には大学の先生や新聞社の編集委員などもいるので、
一瞬、同姓同名の別人かと思ったのですが、
よくよくみると紛うことなき小泉今日子さんご本人ではありませんか!

ぼくが目にしたのは記念すべき彼女の書評デビュー作だったのです。


ひとくちに書評といってもいろいろな書き方があります。

いちばん多いパターンは、
本の概要を手際よくまとめてみました、というもの。

本の情報を伝えるのが書評の機能だと考えればそれはそれでありなのですが、
書評のなかには、数は少ないけれど、まったく違った書かれ方をされたものもあります。


小泉今日子さんの書評は、
読んだ本がいったん彼女の体のなかをくぐり抜けて、
もういちどぼくらの目の前に姿を現したように書かれたものです。

そこで紹介されている本は、
現実の本とはすでに別のものになっている。

書評という姿でぼくらの目の前に提示されているのは、
彼女の体内のフィルターで濾された末に残ったいわばエッセンスのようなもの。

現実の本とは違う、
彼女が自分の一部に変えてしまった「なにものか」といってもいいかもしれません。

だから本について語っているにもかかわらず、
そこでは小泉今日子さん自身が
心の奥底にしまってあったホンネのようなものすらも露わになってしまう。

書評でありながらも、そこにあるのは彼女の人生そのもの。

まさにそれは
「小泉今日子にしか書けなかった書評」と言わざるを得ないものなのです。


人の心を動かす書評というのは、本来こういうものではないでしょうか。

書評において人の心を動かすというのは、
とりもなおさず「読んでみたい」と思わせること。

小泉今日子さんの書評は、
のっけからそういう力を持ったものとしてぼくらの目の前に現れたのでした。

2005年1月からスタートした読売新聞書評欄での書評は、
2014年12月まで10年間も続きました。

この10年間に書かれた97冊ぶんの書評をまとめたのが
『小泉今日子書評集』(中央公論新社)


あらためてその書評デビュー作をみると、
あのとき取り上げられていたのは『しゃぼん』吉川とりこ(新潮社 現在は集英社文庫)でした 。

これがいま読み返しても素晴らしい。

「女の子」と「女」の違いを切り口に書かれた短い書評には、
「女の子という骨組み」に、「贅肉のようなもの」を纏って女になった
小泉今日子さん自身の実感が色濃く投影されていて心に残ります。


デビュー作から順を追って読み返してみて、いろいろなことを思い出しました。

2回目の書評は『沢村貞子という人』山崎洋子(新潮社)

3回目が『野ブタ。をプロデュース』白石玄(河出書房新社)


取り上げられている本はぼくもリアルタイムですべて読んでいました。

そうそう、「おお!」と思ったのは、
4回目で取り上げられた本が
『もてなしの心 赤坂「津やま」東京の味と人情』野地秩嘉(PHP研究所)だったとき。

まさかこんな本まで読んでいるとは…と驚くとともに、
どうやら本に関してはぼくと同じ雑食系らしいとますます彼女の書評が好きになったのでした。


彼女はなぜ本を読むようになったのか。


「本を読むのが好きになったのは、本を読んでいる人には声を掛けにくいのではないかと
思ったからだった」


という文章ではじまる「まえがき」がとても素晴らしい。

忙しかった10代の頃に、人と話をするのも億劫で彼女はいつも本を開くようになります。
当初は「どうか私に話しかけないでください」という貼り紙代わりの本でしたが、
それでも本を読み終えると、

「心の中の森がむくむくと豊かになるような感覚があった」

本が好きな人間であれば誰もが身に覚えのある、
本を読んだあとに自分の中に起きるあの化学変化を、
このような生き生きとした言葉で語ってみせた文章があるでしょうか。

もっと言うならば、この「まえがき」は久世光彦さんの追悼文にもなっていて、
これだけでも読む価値のある一冊です。


彼女のように、
世の中には呼吸するように本を読み、
そのまま食べ物のように栄養にしてしまえる人がいるのですね。

読む人の人生と本が、こんなにも重なり合った書評は珍しい。

お仕事をご一緒したことはなく、
たまに酒場でお見かけするくらいですが、
不思議なことに彼女のことをよく知っているような錯覚をおぼえてしまうのは、
この10年間、彼女の書評を読み続けてきたからだということがよくわかりました。


『小泉今日子書評集』には、まぎれもない「小泉今日子」その人の人生が詰まっています。

小泉今日子さん、10年間、素晴らしい書評をありがとう!

本とともに年齢を重ねたあなたの文章と
いずれまたどこかで出会えることを願って――。

投稿者 yomehon : 14:00

2015年10月26日

コールセンター 電話の向こう側にいる人々

あれはいつ頃のことだったでしょう……
フリーダイヤルの問い合わせ電話をかけた際に、
電話の向こうのオペレーターの口調にかすかな訛りがあることに気がついたのは。

家電製品の修理に関する問い合わせだったか、
住所変更などの手続きに関する問い合わせだったか、
用件なんてもうとっくに忘れてしまったけれど、
オペレーターの言葉の端々のちょっとしたアクセントに訛りがあったことはおぼえています。

ただ、そのときは「地方出身のオペレーターさんなんだな」くらいにしか思いませんでした。

それがある時、就職活動で内定を得ることができなかった日本人学生の中に、
中国の大連にあるコールセンターで働いている人たちがいるという話を耳にするに及んで、
ようやくぼくは「コールセンターは首都圏にあるわけではない」という事実に気がついたのです。


「そんなの考えてみれば当たり前じゃん」と言われるかもしれませんね。

でも、そうだろうか?とも思うのです。
ぼくたちは電話の向こう側にいる人たちのことを、本当に知っていると言えるでしょうか。


『ルポ コールセンター 過剰サービス労働の現場から』仲村和代(朝日新聞出版局)は、
1年間の離職率が実に9割ともいわれるコールセンターの実情を取材した一冊。

コールセンターだなんて一見ニッチな取材テーマのように感じられますが、
読めば実はコールセンターを通して現代社会の本質がみえてくることがわかる。
実に有益な一冊です。

コールセンターは、1985年にフリーダイヤルサービスの開始とともに拡がりをみせます。
90年代にインターネットが一般的になってからは、
たくさんのコール数を自動的に振り分けるなどさまざまな機能も登場して利便性が増しますが、
まだこの時期は「コールセンター」という名称ですら一般的ではありませんでした。

コールセンター設置の動きが加速するのは2000年代になってから。
自治体や公的機関などが行政サービスの向上のために設置するようになり、
コールセンターは一般にも認知されるようになるのです。

工場などに比べると広い敷地がいらないうえに、
てっとり早く雇用が生み出せることから、
いまでは全国の自治体が積極的にコールセンターを誘致しています。

なかでも突出しているのは、沖縄県。

本書によれば、2014年1月現在、沖縄県に進出しているコールセンターの数は80社。
それによって1万7千人の雇用が生み出されたといいます。

沖縄へ進出する企業側のメリットはやはりコスト削減です。

本書の冒頭で、ある量販店のコールセンターの様子が描かれていますが、
800人分の靴箱と500人分のロッカーを備えるほどの巨大なオフィスに、
セキュリティー対策などのためにパーテーションで細かく仕切られた席が並び、
電話対応を待つ客の数や最長の待ち時間がスクリーンに表示されるなか、
オペレーターたちは、閑散期は一日4千~5千件、繁忙期には一日10万件もの電話をさばきます。

職場環境は決して良いとはいえません。

パーテーションで仕切られているため換気が悪く、
しかもしゃべりっぱなしのため、のどを痛めやすい。
そのうえ「1時間あたりに8・5件の電話を処理する」などの目標が課せられ、
客とのやりとりがつねに上司によってモニターされるなど、精神的なストレスも多い環境です。

1時間で8・5件を処理するとなると、
1件あたりは7分ほどで切り上げなければなりませんが、
問い合わせ内容が多岐にわたるため、それ以上の時間がかかるのが現実。


また電話をかけてくる人間のなかには悪質なクレームをつけてくるものもいます。

「おれはオペレーター3人を泣かせたことがあるんだ」とすごむ人間や、
名前を訊ねただけで「なんだその失礼な態度は」と激高する人間など、
本書でいくつか紹介されている実例を読むと、
これほどまでの悪意と言葉の暴力にさらされる仕事のストレスは、
いったいどれほどのものなんだろうと考えさせられます。

社会学に「感情労働」という概念があります。

労働者の感情に大きく負荷をかける労働のこと。
ごく簡単にいえば、みずからの感情を商品として売らなければならない仕事のことです。
笑顔になれる気分ではなくても笑うことを強いられるような仕事のことですね。

コールセンターのオペレーターたちは、まさにこの感情労働に携わっています。


しかも雇用形態は不安定、非正規雇用の人が多い。

客とのやりとりを常に上司にモニタリングされるなど、
個人の裁量の度合いが低い仕事をさせられ、
「自分はこの職場に欠かせない人材だ」という誇りが持てないままに、
いつ仕事を失うかわからない恐怖心を抱えている・・・・・・。

ぼくたちが電話をかけるその向こう側では、そういう人たちが働いているのです。

本書を読み進むにつれて読者は、
「コールセンター」という労働現場に、
現代の非正規雇用の問題が集約されていることに気がつくはず。

ただ、本書がいわば現代版の女工哀史のような内容にとどまっていたのならば、
ここでこのようにみなさんにおススメしようとは思わなかったでしょう。

本書の素晴らしいところは、さらにその先にまで取材を進めているところです。

コールセンターの中には、成功例とでも呼びたくなるような成果をあげているところもあります。

たとえば食品大手のカルビーの「お客様相談室」は、
単なる苦情処理ではなく、消費者の声を聴く最先端の場所という位置づけになっている。

驚かされるのは対応の迅速さとプロセスの透明性。

消費者から問題を指摘する電話があると、
15分以内に全国7か所のお客様相談室で情報が共有され、
消費者の都合があえば、2時間以内に直接商品の回収に出向きます。
そしてその後の進捗具合は小まめに連絡し、
最終的には文書できっちり回答する、という仕組みをつくりあげているのです。

「ヘビーユーザーはある意味、究極の検査員である」という考えが、
このような消費者の声に耳を傾ける姿勢のベースにあるようですが、
だからこそ逆に、電話の相手が「お客様ではない」と判断した場合は
毅然とした対応をとることにもつながっています。

コールセンターに集まる情報を有効に活用している好例といえるでしょう。

ところが大阪にはさらに先を行く企業があります。

大阪の淀川区に本社を置く「情報工房」という会社では、
オペレーターが得た情報を「資産」ととらえ、新しい商品を産み出しています。

創業者の宮脇一(まこと)社長はNTT出身。

この会社ではオペレーターのことを「コミュニケーター」と呼び、
ひとつの会社を受け持つと、その会社のことを知るために最低でも3年は担当を続けるそうです。

宮脇社長によれば、
コミュニケーターが1時間に5人と会話したとして、1年間で約1万人と会話したことになる。
これは「ものすごい資産」だと。

そしてこの会社では、
コミュニケーターがたくさんのユーザーから得た情報をもとに、
「これからの顧客になり得る人物像」をストーリーとして描き出してみせるのです。

「ペルソナデザイン」と名付けられたこの手法によって導き出された
ある水の宅配会社の顧客イメージの事例が本書では紹介されていますが、これが目からウロコ。

「娘が生まれて3ヵ月」という「29歳の専業主婦」という設定で、
「もっとこんなサービスがあると嬉しい」という視点、
「ウォーターサーバーにこんな工夫があると助かる」というアイデアが
わかりやすくストーリーとして可視化されている。

企業からすれば、まさに「そんなニーズがあったのか!」と驚かされるような情報でしょう。
(どんなことが書かれているかはぜひ本を手に取って確かめてください)


怒りや感謝の気持ちといった消費者のナマの感情がこめられた
膨大な声に耳を傾けている人たちだからこそ掘り起こせた隠れたニーズ。

それは決してマーケティング調査などからは導き出せない情報ではないでしょうか。

まさに情報工房は、コールセンターに寄せられる情報を、「宝」に変えているのです。


これからの日本はどうやっても人口が減っていきます。

そんな中で新しい顧客を次々に獲得することで売り上げを増やしていく成長モデルは、
もう機能しないのではないか。
既存の顧客を大切にして、一人ひとりにどれだけ商品を長く愛用してもらえるか――。

そんな時代に入っているのではないかと宮脇社長は問題提起します。

つまりそのためのヒントが、
コールセンターに寄せられる消費者の声には詰まっているということです。

ここへきて、ぼくたちはとても重要なことに気づかされます。


いまストレスフルな環境のなか働いているオペレーターさんたちは、
もしかすると時代の最先端にいるのではないか。

過酷な労働現場だと思われているコールセンターには、
実は未来の扉を開く鍵となるとんでもないヒントが転がっているのではないかと――。

ノンフィクションが読まれないと言われるようになって久しいですが、
最近よく、「希望のノンフィクション」とでも呼ぶべき新しいジャンルがあるのではないかと考えます。

そのようなことを考えるようになったのは、
藤吉雅春さんの『福井モデル』(文藝春秋)を読んだことがきっかけなのですが、
それについては稿をあらためることにいたしましょう。

ともあれこの『ルポ コールセンター』も、
過酷な労働現場の向こう側に、
期せずしてぼくたちの未来を指し示す一筋の希望の光を見出しているように思えるのです。


投稿者 yomehon : 12:46

2015年10月04日

誰にも邪魔されずに飯を食うということ


社会人になって心からよかったと思うことがひとつだけあります。

それは自分のお金で好きなものを食べられるようになったこと。

かつかつの生活だった学生時代は行けるお店も限られていましたが、
社会人になって可処分所得が増えるとお鮨屋さんにだって行けるようになります。

誰にも邪魔されずに好きな店へ行けることが嬉しくてうれしくて、
毎日まいにちいろんな店に足を運びました。

居酒屋、レストラン、定食屋、バー。

考えてみれば、
かなりの時間をひとりそうしたお店で過ごしてきました。

もっともぼくの場合、調子に乗って行き過ぎたものだから、
いい年になったいまも相変わらずあっぷあっぷで生活している有様なのですが。


まぁでもお金は貯まりませんでしたが、
長いこといろんなお店に足を運んでそれなりに学んだことはあります。


原作・久住昌之、作画・谷口ジローのコンビによる『孤独のグルメ』を初めて読んだとき、
ぼくが漠然と大切に感じていたことが明瞭に描かれていて嬉しくなったことをおぼえています。

『孤独のグルメ』は、輸入雑貨商の井之頭五郎が、
いろいろな街の飲食店で飯を食う様を描いたマンガ。

松重豊さん主演のドラマをご存知の方も多いでしょう。
(そういえばいよいよシーズン5が始まりましたね!)

この本の第12話で、五郎はある街の洋食屋に入ってハンバーグランチを注文します。

ところがこの店の親父はつねにイライラしていて
アルバイトの留学生の要領の悪さを口汚く罵ったりします。
(こういう店、時々みかけますよね。なぜか夫婦でやってて奥さんに辛くあたるパターンが多い)

で、アルバイトに手をあげるに及んで、
「人の食べている前で、あんなに怒鳴らなくたっていいでしょう」
ついに五郎の堪忍袋の緒が切れるのです。

凄んできた店の親父にここで五郎が言うセリフがいいんですね。


「あなたは客の気持ちを、全然まるでわかっていない!」

「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず自由で、
なんというか救われてなきゃダメなんだ」

「ひとりで静かで豊かで……」


その通り!
ここで井之頭五郎の言っていることは、
ひとりで食事をすることの豊かさを的確に表現していて実に正しい。

もっとも店の親父は
「なにをわけのわからないことを言ってやがる。出ていけ。ここは俺の店だ」
と五郎にまで手をあげたところを逆に締め上げられてしまうのですが。


ひとりで好きなものを食べること。

やや大げさに言うならばそれは、
日常のなかで「自分は自由なのだ」ということを確認できるささやかな機会だといえるでしょう。

その貴いひとときをもたらしてくれるのが、
ちゃんとした料理人が心をこめてつくってくれた料理なわけで、
だからこそ客は「ありがとう」のひとこととともに代金を支払うのです。

大切なのは、お客もお店も対等だということ。

よく「俺はお客様だぞ」と横柄にふるまうヤツとか
「ここは俺の店だ」と客に偉そうな口をきく店主がいますけど、
若い人たちはそういうバカな大人にだけはならないようにしましょうね、ダサいから。

『孤独のグルメ』の「孤独」という言葉に、
なんとなく寂しいイメージを感じる人もいるかもしれませんが、
そんなことはありません。

孤独というのは、実はとても豊かなものでもあります。

テレビ版の『孤独なグルメ』で、
五郎が食べているときの脳内セリフがどれだけ饒舌なことか。

寂しいなんて思いが一瞬たりともよぎる暇なんてあろうはずもなく、
頭のなかは目の前の美味いモノのことでフル回転。

言わばそれは、たんなる食事が、
豊かな体験へと変化していくプロセスだといえるでしょう。


好きなときに、
お気に入りの店で、
誰にも邪魔されずに好きなものを食べる。

それがどれほど豊かな行為か。

『孤独のグルメ』がこれほどまでに支持されるのは、
読者がそこに自由の貴さを見出しているからではないでしょうか。


このほど18年ぶりに『孤独のグルメ2』(扶桑社)が刊行されました。

井之頭五郎は相変わらずで、
こんどは飲めない部下に酒を強いるパワハラ上司に黙っていられず、
大立ち回りを演じてしまいます。

変わらないなぁ。

でもこれは五郎が正しい。

何人たりとも他人に飲み食いを強制されるいわれはないのだ。


『孤独のグルメ』シリーズは、
食事という日常のごく平凡な営みを通じて、
ぼくらの社会の根幹をなすもっとも基本的なコンセプトである
「自由であることの価値」に気がつかせてくれる傑作。

社会がどんどん自由を制限する方向へと向かっているいまだからこそ、
読んでいただきたい作品です。

投稿者 yomehon : 13:55