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2015年03月23日

「微差は大差」の勝負哲学


「この方はどういう人物なんだろう?」と前々から興味津々だった人物がいます。

森脇浩司さん。
ご存知、オリックス・バファローズの監督です。

近鉄、広島、南海、福岡ダイエーと渡り歩いた現役時代は、
内野のユーティリティープレイヤーとして活躍されました。

現役当時は「目立たないけれどチームに欠かせない名選手」といった印象でしたが、
その高い評判がファンのあいだにも聞こえてきたのは、
むしろコーチになられてからではなかったでしょうか。

福岡ダイエー、ソフトバンク、巨人で、コーチや二軍監督などを歴任され、
その人格の高潔さや球界きっての勉強家の一面が広く知られるようになったのです。

こんなエピソードがあります。

ホークスのコーチだった頃、東北楽天との試合があるたびに森脇さんは、
試合前の練習中に当時東北楽天の監督だった野村克也さんのもとに
教えを乞いに行っていたそうです。

野村さんはのちに「自分の60年の野球人生の中で、相手ベンチにいる指揮官のもとに
話を聞きにきたのは、森脇ただ一人や」とおっしゃっていたとか。
なかなか真似出来ることではありません。


長く監督を支える立場にいた森脇さんが、
オリックス・バファローズの監督に就任したのは2013年のこと。

1年目こそ5位でしたが、
昨シーズンは最後の最後まで優勝した福岡ソフトバンク・ホークスを苦しめ、
のちに「10・2」と呼ばれることになる直接対決で惜しくも延長サヨナラで敗れました。

サヨナラヒットを放ったソフトバンクの松田宣浩選手が歓喜するかたわら、
伊藤光捕手がホームベース前で泣き崩れる映像をおぼえている人も多いでしょう。


それにしても、オリックス・バファローズは、なぜここまで強くなったのか。

いまのプロ野球界でもっとも頭の中をのぞいてみたい人物の初の著書が
発売されたとあっては、読まないわけにはいきますまい。

『微差は大差 オリックスバファローズはなぜ変わったのか』(ベースボール・マガジン社)は、
低迷していたチームを森脇監督がいかに変えていったのか、
その秘密や自身の勝負哲学を余すところなく語った一冊。


一読して、予想以上にすごい方だと思いました。
なにしろその勉強家ぶりが半端ない。

ビジネスの世界ではお馴染みの「PDCAサイクル」なんて言葉がさらりと出てくるし、
心理学にも通じていて、選手が話しやすい状況を作り出すために、
相手の話すスピードやトーンにあわせて話をするとか、
あるいは、積極的にうなずいたり、相手の仕草を真似るミラーリングという行動をとることで、
相手から共感や安心感を引き出すといったようなテクニックを普通にお使いになっている。

プロ野球指導者の本はこれまで数多く読んできたけれど、
ここまで他の分野に通じている人はそうそういないのではないでしょうか。


2014年シーズンの終盤、
チームが3連敗を喫して意気消沈しているときに、
森脇監督が選手を前に話をする場面が出てきます。

このときの話をきいたあと、糸井嘉男選手が
「あんなことを言う監督は初めてだ。監督についていくぞ」と号令をかけ、
選手が一丸となったそうですが、
追い詰められた中で、こんなふうに選手の心を動かすには、
指揮官が「言葉の力」を持っていなければなりません。
森脇監督はそれだけの言葉を使える知性をお持ちなのでしょう。
(選手を前にどんな話をしたかはぜひ本でお読みください)


森脇さんによれば、
一世一代の勝負といったようなビッグゲームになればなるほど、「習慣勝負」になるそうです。
勝敗を分けるのは、その選手の持つ習慣やチームの持つ習慣。

だからこそ、「準備を怠ってはならない」と森脇さんは言います。
準備はチャンスが来たあとにするものではない。
また、準備をしておけば、必ずチャンスは来るものだと。

そうした考えから導き出されたのが、
本書のタイトルにもなっている「微差は大差」です。

一つ一つのアウトを積み重ねることで27個のアウトが手に入る。
それと同じように、小さなことをコツコツと積み上げたチームとそうでないチームでは、
シーズン終了時にとてつもなく大きさな差が開いてしまうのです。

森脇監督は選手に対して、
「一戦一戦」という言葉を意図的に使い続けたそう。

現在アメリカで挑戦を続ける川﨑宗則選手も、
ホークスでまだレギュラーに定着していなかった頃、
「能力に差はあっても、時間だけは誰にでも平等だ」と言われ、
1年365日24時間、野球が上手くなるために使うよう森脇さんに教わったそうですが、
いずれも目の前の「小さな差」をいかに生み出していくかという哲学がベースにあることがわかります。

本書には、
「何事も、一生の計は今日にあり」
という言葉が出てきますが、実に深い。

まさに、日々の小さな一歩が大切なのだと教えられます。


知的で冷静沈着なイメージのある森脇さんですが、
本書には感情あらわなエピソードも記されています。

若くして脳腫瘍で亡くなった炎のストッパー、
広島カープの津田恒美投手と森脇さんは親友でした。

選手としての実績よりも、
津田さんが病と闘った姿のほうを多くの人に知ってほしいと、
森脇さんはとりわけ多くのスペースを津田さんとの交流に割いています。

いまも亡き友を支えに戦っているという森脇さん。
球界屈指の知性の持ち主は、とことん情に篤い男でもあるのです。


いつも思うことですが、
森脇さんのような優れた指導者や選手の言葉が記された本を読むたびに、
プロ野球というのはなんとすごい人間の集まりなのだろうと思います。

今年もプロ野球が開幕します。
一流のプロフェッショナルが死力の限りを尽くす闘いを目の当たりにできるのは、もうすぐです。

投稿者 yomehon : 14:00

2015年03月16日

タレントの時代

韓流ドラマにはあるかもしれないけれど、
さすがに現実ではないだろうと思われるのが、
「勘違いからはじまる恋」というパターンです。

「勘違いがきっかけで知り合ったのに、
おつきあいしてみたら最高の相手でした」みたいな。

でもそうとしか言えないような出合いがあったのですね。
ただし相手は本ですけど。


投稿者 yomehon : 13:42

2015年03月11日

又吉直樹さんの『火花』を読む

投稿者 yomehon : 16:59

ハードボイルドな鬼平


本ほどではないにせよ、
CDも毎月それなりの枚数を購入します。

ここ数年、よく買うようになったのがカバーアルバム。

いまやいちジャンルを形成しているといってもいいカバーアルバムですが、
出来不出来の差がはっきりしているところがとても面白いですね。

たとえば、
アレンジはそのままで歌い手だけ違うというケースを考えてみるとよくわかります。

これではただのカラオケですよね。
わざわざお金を出して買うほどではありません。


カバーの醍醐味というのは、
アーティストがその曲をいかに再解釈したかにあります。


広く知られた名曲が、
アーティストによって咀嚼され、消化されて、
まったく別の曲に生まれ変わる。

「この曲にはこんな聴き方もあったのか!」とか、
「この曲はこんな顔も持っていたのか!」といったような
耳からウロコの音楽体験ができるところが、
カバーというジャンルの魅力ではないでしょうか。

優れたカバー曲を聴いたときのような読書体験を味わえるのが、
逢坂剛さんの『平蔵狩り』(文藝春秋)です。

オリジナルは言わずと知れた池波正太郎の傑作シリーズ
小説は読んだことがなくても、中村吉右衛門さん演ずる鬼平に親しんだという人も多いでしょう。

原作とテレビドラマ、どちらの鬼平も、
悪には苛烈なまでの厳しさをみせる一方で、
情に篤く、世事や粋な遊びにも通じた器の大きな人物として描かれています。


ちなみにシリーズ中、個人的にもっとも好きな作品をあげるならば、
なんといっても、「むかしの男」( 『鬼平犯科帳』3巻所収)ですね。
妻・久栄の過去の男をめぐるエピソードで、
鬼平の男としての度量の大きさが存分に描かれています。
(読むたびに「男子たるものかくあれかし」と思うのですが、
哀しいかなヨメからは「器の小さな男」という言葉を何度投げつけられたことか・・・・・・)


ともかく鬼平は、キャラクターの魅力ということでいえば、
わが国のエンターテイメント小説のなかでも屈指の存在といっていいのではないでしょうか。

これほどまでにキャラの立った鬼の平蔵をカバーしようというのですから、
逢坂さんのプレッシャーたるや、相当なものがあったのではないかと推察します。


ではその試みは結果的にどうだったか。

逢坂版の鬼平第一作『平蔵の首』を読んだとき、
ぼくは逢坂さんは見事にこの勝負に勝ったと思いました。

池波正太郎の生み出した長谷川平蔵というキャラクターをカバーするにあたって、
逢坂さんが選んだ手法は「ハードボイルドな鬼平を描くこと」でした。


切り詰めたシャープな文体であるとか、粋な台詞であるとか、
ハードボイルド小説の特長はいろいろ挙げられますが、
もしその手法をひとことでまとめよと言われたら、
それは「人物の内面を描かない」ということに尽きます。

行動や言動だけをもって、主人公を客観的に描写していく。

怒りに震えるとか感傷に浸るといったような、
主観的な描写を徹底的に排するとなると、
血の通わない、なんとも冷たい作品が
出来上がるかのように思われるかもしれませんが、
意外や意外、内面描写をしないことでかえって、
その作品はなんともいえない情趣を帯びるのです。

哀しい出来事を前に主人公が黙しているにもかかわらず、
読者の側で勝手に「心の中で泣いている!(に違いない)」と想像するというか。


池波版の鬼平をカバーするのに逢坂さんが選んだこの手法は、まさに逆転の発想でした。

逢坂版の平蔵は、悪人には顔をみせません。
悪人がその顔を拝んだ時はすなわち死ぬときなのです。

素晴らしい!
実にシビれる設定ではありませんか。


ハードボイルドの手法を選んだ結果、
同じ器のデカさでも、池波作品とは違って、
底の見えないスケール感というのでしょうか、
肚の内が見えないだけに、時として不気味さすら感じさせる新たな平蔵が出来上がりました。

逢坂剛さんはこのシリーズ二作目となる『平蔵狩り』で、
エンターテイメント小説界最高峰の文学賞である
第49回吉川英治文学賞を受賞しました。

逢坂さんのキャリアからすれば、
これまでに受賞していなかったことが意外ですらあります。

しかもただの受賞ではありません。

表紙や挿絵をお描きになっている御年104歳の中一弥さんは、逢坂さんのお父様。

昨年、吉川英治文学賞の文化賞を受賞されていて、初の親子受賞となりました。

しかも、お父様は池波正太郎の『鬼平犯科帳』の挿絵も描いていらっしゃるうえに、
池波さんも鬼平で吉川英治文学賞を受賞しているのでした。

長谷川平蔵というキャラクターがとりもつ不思議な縁。

逢坂版の平蔵シリーズも末永く続いて欲しいと思います。

投稿者 yomehon : 16:00

2015年03月09日

女ともだちの完全犯罪


幼い頃、よく怖い夢をみて、夜中に目を覚ましました。

不思議なことに、目が覚めた時にはいつも内容は覚えておらず、
なにかに巨大なものに追い詰められて、
ものすごく怖い思いをしたという感覚だけが体に残っていました。


なぜ、繰り返しあんな夢をみたのだろう?
けっこうな頻度でみていたから、
もしかしたら隠された深層心理と何か関係があったのかもしれません。

大人になってからはしばらくあの悪夢の感覚は忘れていました。
ところが、奥田英朗さんの『ナオミとカナコ』(幻冬舎)を読んで、
ひさしぶりにあの「いや~な感じ」を思い出したのです。

デパートで外商の仕事をしている直美。
そして銀行マンに嫁いで専業主婦となった加奈子。
ふたりは学生時代からの無二の親友です。

直美はある日、加奈子が夫から酷い暴力を受けていることに気がつきます。
エスカレートするDVから逃れるために、直美が加奈子に持ちかけたのは夫を殺害すること。

来るべき決行の日に向けて、念入りに殺害計画が練られ、
やがてふたりは力をあわせて目的を達します。

計画は一部、いかにも小説ならではの偶然に支えられているところもあったりはしますが、
それでも一見、誰にも疑われるおそれのない、完全犯罪として成立したかにみえました。

・・・・・・ここまでが物語の前半。

後半はうってかわって、
夫の妹の執拗な追及をきっかけに、
直美と加奈子の完全犯罪のシナリオが、
徐々に綻びはじめる展開となります。

一転して追われる立場となった直美と加奈子。
彼女たちは果たして逃げ切れるのでしょうか――。


追い詰められた人間が一発逆転を目論むところや、
終盤に向けて物語が加速していくところなどは、
あの傑作『最悪』の系譜に連なる作品といえるでしょう。

奥田英朗さんは、
先日紹介した宮部みゆきさんと並んで、
現代のエンターテイメント小説の代表的な書き手。

その筆の運びは見事で、
読者は前半部分を読むだけで、
理不尽な暴力にさらされる加奈子にすっかり同情し、
加奈子を救出するために奔走する直美には共感をおぼえて、
気がつけばいつの間にか、ふたりの共犯者のような心境にさせられるはず。


ふたりが追われる立場となる後半に至っては、
じりじりと捜査の網が狭まってくる展開に、
まるで自分が警察に追い詰められているかのような切迫感にとらわれてしまうことでしょう。


奥田英朗おそるべし。

寝しなにこの作品を読んだとき、
ぼくは何十年ぶりかで、あのおそろしい夢をみたのでした。

「ああ、あれは警察に追われるおそろしさだったのか・・・・・・」

首筋にじっとりにじんだ汗をぬぐいながら、納得。

でも、あんな幼い頃にどうしてそんな夢をみていたのだろう?

もしかして・・・・・・犯罪者の素質でもあるんだろうか??


投稿者 yomehon : 01:00

2015年03月05日

小さな悪意から怪物が生まれる


川崎市で中学生の男の子が殺された事件は、
男の子が感じたであろう恐怖や無念さ、
ご遺族の辛さを思うだけで、本当に胸がつぶれそうになります。
心よりご冥福をお祈りします。


報道で漏れ伝わってくる
逮捕された少年たちの供述を目にするたびに、
「小さな悪意」ということについて考えています。

「(被害者の少年を殴ったことを)チクられて頭にきていた」

「(先輩として立ててくれないので)イラッとしていた」

動機として語られたとされる言葉はあまりに稚拙で、
この幼稚さと犯行の残虐さが、自分の中でうまく結びつけられません。

殺害方法があれほど残忍であれば、
昔だったら犯人は相当な恨みを持っていたと解釈するのが普通ではないでしょうか。
「イラッとしていた」などという言葉は、
あまりに動機としても薄っぺらすぎて、
どうしてここから一足飛びに人の命を奪うという
取り返しのつかない行為に及ぶことができるのか、理解に苦しみます。

こんな軽々しい言葉しか持っていない彼らが
今後どんなに後悔や反省を語ったとしても、
その言葉がご遺族の心に届くことは未来永劫ないのではないでしょうか。

ちょっとイラッとするなんてことは、
日常生活の中でふつうにあることです。

「あいつムカつく」なんて些細な悪意が芽生えることは、しょっちゅうある。
(ウツワの小さなぼくなんてその頻度は他人より多いかもしれない)

でも当然のことながら、
普通はその程度の感情から他人に危害を加えてやろうとはなりません。


ただ、ひとつ思うのは、
特にネットなどをみていると、
最近はそういうちょっとした悪意をきっかけに、
他者への攻撃に転じる人間が多いのではないかということです。

宮部みゆきさんの『悲嘆の門』(毎日新聞社)は、
おそらくそういう問題意識のもとに書かれた作品ではないでしょうか。

主人公は、
先輩に誘われたサイバーパトロールの会社でアルバイトを始めた三島孝太郎。

ネットの掲示板などを24時間監視して、
犯罪につながりそうな書き込みをチェックするその仕事に、
大学生活に馴染めない孝太郎はやりがいを感じていました。

ある時、被害者の遺体の一部を切り取る猟奇殺人が連続して発生します。

時を同じくして、
都内近郊でホームレスが姿を消しているという噂がネット上でささやかれるようになり、
噂の真相を個人的に調査し始めた孝太郎の先輩・森永が行方不明になります。


一方、新宿区のある町会関係者のあいだでは、
近所にある廃墟ビルのことが話題になっていました。

バブルの頃に建てられた奇抜なデザインのビルの屋上には、ガーゴイルの像があるのですが
(ガーゴイルは西洋建築などで屋根に設置される怪物。パリのノートルダムにもあります)、
このガーゴイル像が「動いているのではないか」、というのです。

町会長から相談をもちかけれた警視庁捜査一課の元刑事・都築は、
ガーゴイル像の真相を探るべく廃墟ビルの調査に乗り出します。


深夜に動くガーゴイル像。
消えたホームレス。
行方不明になった森永。
連続猟奇殺人事件。


それぞれのルートから真相を探り始めた孝太郎と都築が出会う時、
「それ」はついに目の前に姿を現すのでした――。

巻を措く能わずとはまさにこのこと、
当代随一の物語作家の手になる作品だけあって、
分厚い上下巻のボリュームがまったく気にならない一気読みでした。


魅力的なキャラクターの構築力であるとか、
この世のものではない世界を描き出す筆力などは、
超一流作家の宮部さんの作品であるからには当たり前。
いまさらここで取り上げることもないでしょう。


そういう商品クオリティの安定した側面を取り上げるのではなくて、
ここでは、「いまの時代にこの作品が書かれたことの意味」みたいなことに光を当ててみたいのです。


宮部さんは作品の中で、
登場人物にこんなことを語らせています。

主人公の孝太郎が、
バイト先の社長の山科鮎子と食事をしている場面で、
話題が「ネットへの書き込み」に及んだときのこと。

ちょっとしたストレスの発散のためにネットでキツい発言をする人たちがいて、
彼らはネット人格は現実の人格とは切り離しているから大丈夫と考えているけれど、
それは間違っていると山科鮎子は言い、その理由をこんなふうに説明するのです。


「書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句さえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。
わたしが言っているのは、そういう意味。つまり<蓄積する>」
言葉は消えない。
「女性タレントの誰々なんか氏ね。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、
虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも、<氏ね>という言葉は、
書き手のなかに残る。そう書いてかまわない。書いてやろうという感情と一緒に」
そして、それは溜まってゆく。
「溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えてゆく。言葉はそういうものなの。
どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。
本人に影響を与えずにはおかない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、
巧妙に正体を隠そうと、ほかの誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。
誰も自分自身から逃れることはできないのよ」


ここで語られていることが、
おそらくこの作品の核にある宮部さんの問題意識ではないでしょうか。


言葉は必ずその人のなかに残る。

そして、その言葉はいつの間にか成長し、その人を変えてしまう。

言葉で語られたことは、実体化する。

なぜならば、人も、わたしたちが暮らすこの世界も、言葉でできているから――。


小さな悪意によって、
ネットの片隅に生み落された言葉が、
いつしか怪物へと育ち、誰からの命をほんとうに奪ってしまう。

この作品のなかで描き出されるのは、そういう光景です。

しかもそういう悪は、誰の心のなかにもある。

作者は孝太郎もってして自らの怪物性に気付かせることで、
そういった側面もしっかりと描いています。


今回の川崎の事件では、
子どもたちがLINEで頻繁にやりとりをしていたことがわかっています。

LINEで飛び交った無数の言葉たち。

そのなかには、やがて怪物へと育ってしまう言葉も紛れていたのでしょうか。

だとするならば、その言葉は、最初はどんな姿をしていたのでしょうか・・・・・・。

本書は傑作『英雄の書』と対をなす作品です。

登場人物もほんのわずかかぶっていますが、
ファンタジー色が強かった『英雄の書』に比べ、
本書はサスペンスやサイコホラーの要素が強く、作風がまったく違います。

どちらを先に読んでもOK。お好きなほうからどうぞ!

投稿者 yomehon : 15:00

2015年03月02日

ピケティよりも読むべき本


ある日、地元の居酒屋のカウンターで飲んでいたら、
隣に座った商店街のおやじさんが赤ら顔で驚くべきことを口にしました。

「いま評判のピケなんとかって本、あれどんなことが書いてあるんだい?」


このおやじさん、落語や歌舞伎、粋筋の遊びなんかには造詣は深いけれど、
いかんせん本の類はまったく読まないと日頃から公言している御仁。

しかも大手チェーンに店舗を貸して、
テナント料で悠々自適の生活を送っている人なだけに、
「むむ、よりによってピケティについて説明しろってか」と
ちょっとうろたえてしまったのでした。


そういえば、雑誌とコミックと自己啓発本しか置いていない近所の書店にも
『21世紀の資本』が並んでいたし、
なるほど、ピケティブームというのは本物なんだなぁと実感したのでした。


もうさんざんあちこちで解説されているので、
まだ読んでいないという方も、なんとなく内容は頭に入っているのではないでしょうか。


ひとことで言うならば、
「富裕層にはますます冨が集中し、そうでないものとの格差が開いていく」こと。

こうしたメカニズムが資本主義には組み込まれているのだということを、
この本は膨大なデータをもとに実証してみせたのです。

もとになったデータは、
世界20か国以上の200年にわたる納税記録。

これを詳細に分析することで、

「資本収益率(r)>経済成長率(g)」

という不等式を導き出し、
格差拡大のメカニズムを説明したというわけです。

「要するにさぁ、おやじさんみたいな土地持ちはこの先も安泰だけど、
ぼくみたいな貯えのない人間は、いくら働いてもおやじさんには追いつけないってことだよ」

不動産や株などの資産から生み出される収益(r)のほうが、
コツコツ働くことで得られる賃金の伸びなど(g)よりも大きい、ということ。

このままでは格差が拡大してしまう!ということで、
ピケティはグローバルなレベルでの資産課税の強化を提言しているのです。


そんなことを教えてあげると、
楽隠居のおやじさんは
「おいおい、また税金増やそうってのかよ。おだやかじゃねーなー」と
急にそわそわとしはじめました。

個人的には学生時代から親しんでいるみすず書房から
このような大ベストセラーが出る日が来たことに感慨をおぼえたりもするのですが、
その一方で、「ここまで騒ぐ本じゃないんじゃないかなー」という思いもあります。

たしかに膨大なデータでもって、
資本主義にビルトインされた格差拡大のメカニズムを抽出してみせたのは凄いですし、
それをこれだけの世界的な規模で比較検討しているのはある種壮観ですらあります。


けれども、たとえば富める者はますます富むという現実は、
出身階層の違いが教育の格差にもつながっているということを実証的に明らかにした
苅谷剛彦さんの 『階層化日本と教育危機』などの研究で以前から指摘されていたし、
資本主義がその内側に限界を抱えていることも、
最近、 『資本主義の終焉と歴史の危機』でブレイクした水野和夫さんなどが昔から指摘していたことです。

たしかにピケティは「旬の人」です。

でもその理論は、
ぼくらがなんとなくモヤモヤと感じていたことに
明確に言葉を与えてくれたという性格のものではないでしょうか。


そういう「言われてみればたしかにそうだよなぁ」という本もいいけれど、
ぼくはもっと目からウロコがボタボタ落ちるような読書体験をみなさんにしていただきたい!

というか、ピケティがこんなに売れるのなら、
もっとこの人の本が読まれてもいいのではないか。

というわけで、いまピケティよりも読むべき本をご紹介いたしましょう。

いまピケティよりも読んでほしい人。

それはエマニュエル・トッドです。

フランス国立人口統計学研究所というところにいて、
各国の家族制度や人口の分析をもとに
歴史の大きな変化を予言してはバシバシと的中させている人物で、
1976年に弱冠25歳で世界でもっとも早くソ連の崩壊を予言したことは特に知られています。

「ソ連が崩壊するなんて誰でも予測できたんじゃないの?」と思ったあなた。


それではいまトッドが、
「イスラーム過激派は自壊する」と予言していることについてはどうでしょう?


『文明の接近 「イスラームvs西洋」の虚構』石崎晴己・訳(藤原書店)
トッドが述べているのは、
イスラーム諸国におけるイスラム教が、
やがて欧米におけるキリスト教のような世俗化へと向かうということ。
西洋社会とイスラーム社会が衝突するなどということはありえないこと。
欧米のイスラーム脅威論は虚構であること、などです。


これらを実証するためにトッドが持ち出してくる分析ツールが、
各国の「識字化」と「出生率の低下」の時期の関係です。

それぞれのタイムラグの違いこそあれ、
各国で「識字化」が達成されると、
しばらくして「出生率の低下」が起きるという普遍的な流れがあります。

簡単に言えば、
新しい知識を得ることで、伝統的な信仰への疑念が生じ、
(出産調整も含め)自分で自分の生き方を選ぶようになる、というわけです。

トッドによれば、
男性の識字率が50%を超え、出生率が下がり始めた社会には、
やがて革命などの大きな社会変革が起きるとのこと。

つまり旧体制と新しい世代とが衝突を起こすわけです。


トッドによれば、
現在、世界で問題となっているイスラーム原理主義は、
イスラーム諸国が近代化への移行途上にあるがゆえに生まれたものだとのこと。
自分たちが信じていたものが崩壊していくのを前にした最後の反動だというわけです。

この流れは止められません。

トッドの理論に当てはめれば日本も例外ではなく、
明治維新から廃仏毀釈運動のような宗教危機、そしてファシズムの台頭がこれに当たります。
(日本で男性の識字率が50%を超えたのは1850年頃、女性は1900年頃で、出生率は1920年頃に
下がります)


トッドは言います。
かつて日本はヨーロッパからは「常軌を逸した存在」と見られていたと。

けれども、現時点で、日本の近代性に異議を唱える者は誰もいません。
しかも、その近代性は単なる西洋化ではなくて、どこまでも日本的なものです。


トッドは、日本が移行期の社会的な危機を経て近代化したように、
イスラーム諸国も否応に無しに近代化していくのだと説いています。

そして、欧米社会のイスラームへの強迫観念は、イスラーム自体とは何の関係もなく、
むしろグローバル化などによって生じている西洋そのものの危機と関係があるのではないかと
指摘します。

原著は2007年に出たものなので、
いま世界で起きていることに関する直接的な処方箋が書かれているわけではありませんが、
イスラーム社会とどう向き合うべきかという点についてはとても示唆に富んだ一冊です。

少なくとも、イスラーム圏に軍隊を派遣することなどよりも、
子どもたちへの教育支援などを辛抱強く行うほうが、
一見まわり道のようでいてその実、
イスラーム社会の変化を加速させる絶大な効果があるのだということがよくわかります。

トッドは、いまヨーロッパで生じている右傾化の動きについても、
『不均衡という病』で非常に説得力のある議論を展開しています。
(意外なことに右傾化の動きは田舎ではなく、都市から生まれている!)


また、トッド理論の真骨頂は、各国の家族制度の分析にあるのですが、
(イデオロギーは家族構造に規定される=人々の「考え方」は家族のありかたに規定される!)
そのあたりのことは『世界の多様性』という大著に詳しく書かれています。

ピケティ並みに分厚い本ですが、こちらもぜひ読んでいただきたい一冊。
少なくとも政治家の威勢のいい煽り文句には騙されなくなりますよ。

投稿者 yomehon : 13:00