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2015年03月05日

小さな悪意から怪物が生まれる


川崎市で中学生の男の子が殺された事件は、
男の子が感じたであろう恐怖や無念さ、
ご遺族の辛さを思うだけで、本当に胸がつぶれそうになります。
心よりご冥福をお祈りします。


報道で漏れ伝わってくる
逮捕された少年たちの供述を目にするたびに、
「小さな悪意」ということについて考えています。

「(被害者の少年を殴ったことを)チクられて頭にきていた」

「(先輩として立ててくれないので)イラッとしていた」

動機として語られたとされる言葉はあまりに稚拙で、
この幼稚さと犯行の残虐さが、自分の中でうまく結びつけられません。

殺害方法があれほど残忍であれば、
昔だったら犯人は相当な恨みを持っていたと解釈するのが普通ではないでしょうか。
「イラッとしていた」などという言葉は、
あまりに動機としても薄っぺらすぎて、
どうしてここから一足飛びに人の命を奪うという
取り返しのつかない行為に及ぶことができるのか、理解に苦しみます。

こんな軽々しい言葉しか持っていない彼らが
今後どんなに後悔や反省を語ったとしても、
その言葉がご遺族の心に届くことは未来永劫ないのではないでしょうか。

ちょっとイラッとするなんてことは、
日常生活の中でふつうにあることです。

「あいつムカつく」なんて些細な悪意が芽生えることは、しょっちゅうある。
(ウツワの小さなぼくなんてその頻度は他人より多いかもしれない)

でも当然のことながら、
普通はその程度の感情から他人に危害を加えてやろうとはなりません。


ただ、ひとつ思うのは、
特にネットなどをみていると、
最近はそういうちょっとした悪意をきっかけに、
他者への攻撃に転じる人間が多いのではないかということです。

宮部みゆきさんの『悲嘆の門』(毎日新聞社)は、
おそらくそういう問題意識のもとに書かれた作品ではないでしょうか。

主人公は、
先輩に誘われたサイバーパトロールの会社でアルバイトを始めた三島孝太郎。

ネットの掲示板などを24時間監視して、
犯罪につながりそうな書き込みをチェックするその仕事に、
大学生活に馴染めない孝太郎はやりがいを感じていました。

ある時、被害者の遺体の一部を切り取る猟奇殺人が連続して発生します。

時を同じくして、
都内近郊でホームレスが姿を消しているという噂がネット上でささやかれるようになり、
噂の真相を個人的に調査し始めた孝太郎の先輩・森永が行方不明になります。


一方、新宿区のある町会関係者のあいだでは、
近所にある廃墟ビルのことが話題になっていました。

バブルの頃に建てられた奇抜なデザインのビルの屋上には、ガーゴイルの像があるのですが
(ガーゴイルは西洋建築などで屋根に設置される怪物。パリのノートルダムにもあります)、
このガーゴイル像が「動いているのではないか」、というのです。

町会長から相談をもちかけれた警視庁捜査一課の元刑事・都築は、
ガーゴイル像の真相を探るべく廃墟ビルの調査に乗り出します。


深夜に動くガーゴイル像。
消えたホームレス。
行方不明になった森永。
連続猟奇殺人事件。


それぞれのルートから真相を探り始めた孝太郎と都築が出会う時、
「それ」はついに目の前に姿を現すのでした――。

巻を措く能わずとはまさにこのこと、
当代随一の物語作家の手になる作品だけあって、
分厚い上下巻のボリュームがまったく気にならない一気読みでした。


魅力的なキャラクターの構築力であるとか、
この世のものではない世界を描き出す筆力などは、
超一流作家の宮部さんの作品であるからには当たり前。
いまさらここで取り上げることもないでしょう。


そういう商品クオリティの安定した側面を取り上げるのではなくて、
ここでは、「いまの時代にこの作品が書かれたことの意味」みたいなことに光を当ててみたいのです。


宮部さんは作品の中で、
登場人物にこんなことを語らせています。

主人公の孝太郎が、
バイト先の社長の山科鮎子と食事をしている場面で、
話題が「ネットへの書き込み」に及んだときのこと。

ちょっとしたストレスの発散のためにネットでキツい発言をする人たちがいて、
彼らはネット人格は現実の人格とは切り離しているから大丈夫と考えているけれど、
それは間違っていると山科鮎子は言い、その理由をこんなふうに説明するのです。


「書き込んだ言葉は、どんな些細な片言隻句さえ、発信されると同時に、その人の内部にも残る。
わたしが言っているのは、そういう意味。つまり<蓄積する>」
言葉は消えない。
「女性タレントの誰々なんか氏ね。そう書き込んだ本人は、その日のストレスを、
虫の好かない女性タレントの悪口を書いて発散しただけだと思ってる。でも、<氏ね>という言葉は、
書き手のなかに残る。そう書いてかまわない。書いてやろうという感情と一緒に」
そして、それは溜まってゆく。
「溜まり、積もった言葉の重みは、いつかその発信者自身を変えてゆく。言葉はそういうものなの。
どんな形で発信しようと、本人と切り離すことなんか絶対にできない。
本人に影響を与えずにはおかない。どれほどハンドルネームを使い分けようと、
巧妙に正体を隠そうと、ほかの誰でもない発信者自身は、それが自分だって知ってる。
誰も自分自身から逃れることはできないのよ」


ここで語られていることが、
おそらくこの作品の核にある宮部さんの問題意識ではないでしょうか。


言葉は必ずその人のなかに残る。

そして、その言葉はいつの間にか成長し、その人を変えてしまう。

言葉で語られたことは、実体化する。

なぜならば、人も、わたしたちが暮らすこの世界も、言葉でできているから――。


小さな悪意によって、
ネットの片隅に生み落された言葉が、
いつしか怪物へと育ち、誰からの命をほんとうに奪ってしまう。

この作品のなかで描き出されるのは、そういう光景です。

しかもそういう悪は、誰の心のなかにもある。

作者は孝太郎もってして自らの怪物性に気付かせることで、
そういった側面もしっかりと描いています。


今回の川崎の事件では、
子どもたちがLINEで頻繁にやりとりをしていたことがわかっています。

LINEで飛び交った無数の言葉たち。

そのなかには、やがて怪物へと育ってしまう言葉も紛れていたのでしょうか。

だとするならば、その言葉は、最初はどんな姿をしていたのでしょうか・・・・・・。

本書は傑作『英雄の書』と対をなす作品です。

登場人物もほんのわずかかぶっていますが、
ファンタジー色が強かった『英雄の書』に比べ、
本書はサスペンスやサイコホラーの要素が強く、作風がまったく違います。

どちらを先に読んでもOK。お好きなほうからどうぞ!

投稿者 yomehon : 2015年03月05日 15:00