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2023年01月13日

直木賞候補作③『クロコダイル・ティアーズ』

次は雫井脩介さんの『クロコダイル・ティアーズ』です。
候補者の中では、これまで作品の映像化がもっとも多い作家ですが、
意外なことに本作が初の直木賞候補となります。

東鎌倉で老舗の陶磁器店を営む貞夫と暁美は、
近所に住む息子一家と幸せに暮らしていました。
ところがある日、息子が殺されてしまいます。
犯人は息子の嫁・想代子の元交際相手でした。
別れた恋人に執着した男の単純な犯行と思われましたが、
男は裁判で「想代子から『夫殺し』を依頼されてやった」と主張します。
暁美の胸に黒い染みのような疑念が生まれます。
やがて想代子に対する疑いは闇のように暁美を侵食していき…•というストーリー。

特にトリックなどはないので、ミステリーというよりは心理サスペンスですね。
映像化作品が多いだけあって、本作もすぐにでも映画やドラマにできそうです。

想代子の言動やふるまいは、すべてが疑わしい。
この「疑わしい」という一点で物語を引っ張って行く手腕は、さすがベテラン作家です。

英語では、嘘泣きのことを「ワニの涙」というそうです。
ワニは獲物を捕食した時に涙を流すことからきたそう。
シェイクスピアなどにも出てきますから、
欧米では古くから偽善者の涙の意味で使われてきた言葉のようです。

すべてが疑わしく見えていた人物像が、ある時、反転します。
私たちの他人を見る目がいかに頼りないか、見えているようでいかに見えていないかを、
この小説は教えてくれます。

誰もが楽しめる佳品ですが、それにしても、なぜこの作品で候補に選ばれたのか。
劇場型犯罪を描いた傑作『犯人に告ぐ』とかならまだしも……。
実績あるベテラン作家に対して直木賞ではたまにこういうことがあります。
「なぜ今?」「なぜこの作品で?」ということですね。
雫井さんをご存知の選考委員もいらっしゃるでしょうし、困惑するのではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 2023年01月13日 07:00