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2017年12月15日

サル学が面白すぎるエンタメ小説に! 『Ank』


長いこと本を読んでいると、
小説は大体いくつかのパターンに分けられることがわかってきます。
かつてロシアのウラジーミル・プロップという人も
物語をいくつかの類型に分類しましたが(『昔話の形態学』など)、
世間に流通している小説のほとんどは、実は類型化が可能です。

でもごく稀に本当に独創的な作品と出合うことがあります。
本を読んでいてこれほど嬉しいことはありません。

幸運にもそんな小説に出合えた時は、脳みそは猛烈にフル回転することになります。
未知の物体を前に「これは何?」と懸命に分類を試みているのでしょうね。
見知らぬ出来事に遭遇したり初めての場所に行ったりすると
人間の脳は活性化するそうですが(池谷裕二『記憶力を強くする』など)、
独創性にあふれた作品を前にしただけでも脳は激しく喜ぶようです。

今年、佐藤究さんの『 Ank : a mirroring ape 』(講談社)と出合えたことは、
そんな滅多にない幸せな体験のひとつでした。

Ankは「アンク」と読みます。
2026年、京都で大規模な暴動が発生します。
人々が突然凶暴化し、肉親だろうが他人だろうが見境なく襲い掛かり
殺しあうという惨事が起きたのです。凶暴化するのに人種は関係なく、
日本人も外国人も等しく凶暴化し、獣のように近くにいる者を襲いました。

3万人を超える死者を出し、後に「キョート・ライオット(京都暴動)」と
呼ばれるようになる大惨事を引き起こしたのは、
ウイルスへの感染でも、テロリストが持ち込んだ化学兵器でもありませんでした。

「アンク」と名付けられた一匹のチンパンジーが原因だったのです。

どうですか?ここまでの説明だけでも、
ストーリーがオリジナリティあふれるものであることがわかるでしょう。
誤解していただきたくないのは、この作者は、
ただふざけた妄想にまかせて荒唐無稽なストーリーを語っているのではないこと。
ちゃんとした学問的な根拠に基づいて物語が構築されていることです。

ここでちょっと話題を変えて、
日本が世界をリードしている分野の話をしましょう。

いまニュースで、丹沢山系から里に降りてきたサルが各地で目撃されて話題に
なっていますが、このサルの研究で日本は世界を圧倒的にリードしているのです。
サルといっても日本猿だけではありません。チンパンジーやゴリラなども含んだ
霊長類の研究で、日本は世界をあっと言わせるような数々の成果をあげてきました。

立花隆さんの名著にちなんで「サル学」と呼ぶことにしますが、
今西錦司というユニークな学者が生み出したサル学は、
今西がつくった京都大学霊長類研究所を拠点に世界へとフィールドを拡げ、
伊谷純一郎や松沢哲郎といった世界的な研究者を輩出してきました。

ちなみに現在の京都大学の学長の山極寿一さんもゴリラの研究者で、
ゴリラの社会に同性愛があることを発見して世界に衝撃を与えました。
このように、日本のサル学が世界に与えた影響は計り知れません。
ヒトはどうやってサルから進化したのか、ヒトとサルを分かつものは何か、
日本のサル学は人類の進化の謎の解明に多大な貢献を行ってきたのです。

サル学は面白すぎて話し始めるとキリがないのでこのへんで止めますが、
実はこの『Ank 』のストーリーには、
日本のサル学の学問的成果が反映されています。
京都暴動を引き起こしたアンクは、
人類の進化の謎を解く鍵を握るチンパンジーでした。
進化の謎を解く鍵とは果たして何なのか。

本書には、サル学や進化論やゲノムの話などが出てきますが心配ご無用。
それらの予備知識がなくても不自由なく読み進めることができます。
京都暴動の謎解きも違和感なく「なるほど!」と思えるものだし、
サル学が牽強付会に、あるいはご都合主義的にストーリー展開に
利用されているようなところも一切ありません。
作者はアカデミズムの成果をもとに、
きわめて面白い物語を作り上げることに成功しています。

ちなみに「アンク」というのは、古代エジプトで「鏡」を意味した言葉だそうです。
作者が独創的なのは、人類の進化の謎を解く鍵として、
サル学の成果に加えて「鏡」のアイデアを持ってきたことでしょう。

「鏡」が人類の進化とどう関わるのかは本書を読んでのお楽しみ。
ヒントはフランスの精神分析家ジャック・ラカンとだけ申し上げておきましょう。
ラカンの名前を出すと、鏡が何を指すか
わかる人にはわかってしまうかもしれませんが。

ともかく本書は今年最大の知的興奮を与えてくれた小説でした。
映像化は不可能でしょうが(なにしろ金閣寺などで人が殺しあうのですから)、
この作品も世界水準のエンターテイメントであることは間違いありません。

投稿者 yomehon : 05:00

2017年12月11日

リンカーン・ライム・シリーズ最新作!『スティール・キス』


先日、宮部みゆきさんの作家生活30周年について触れましたが、
ジェフリー・ディーヴァーの新作『スティール・キス』(文藝春秋)で、
池田真紀子さんの「訳者あとがき」を読んでいたら、
リンカーン・ライム・シリーズは、
1997年に第一作の『ボーン・コレクター』が刊行されて
今年で20年とあって(ただし邦訳刊行は99年)、
こちらもずいぶん長い付き合いになるのだなぁと感慨深いものがありました。

JDの作品はこのところライム・シリーズとキャサリン・ダンス・シリーズ
交互に出版されています。英語圏でないにもかかわらず、毎年のように
JDの新作が読めるのは、本好きにとってとても恵まれた環境。
翻訳者の池田さんにはいくら感謝しても足りません。

さて、ディーヴァーの代名詞といえば、あっと驚く「どんでん返し」ですが、
最新のテクノロジーやカルチャーを作品の中心テーマに持ってくるのも
特色のひとつ。

四肢麻痺の科学捜査官リンカーン・ライムと
恋人の刑事アメリア・サックスが活躍するライム・シリーズでは、
これまでビッグ・データやスマート・グリッド、ドローンなどといった
その時々での最新のトレンドが扱われてきました。
シリーズ12作目の本作では「IoT」、
いわゆる「モノのインターネット」がテーマとなります。

すべてのモノがインターネットを介してつながるIoT (Internet of Things)は、
これから新たなインフラになるのではと期待されていますが、
本作に登場するのは、この便利なシステムの盲点を突く凶悪犯です。

殺人事件の容疑者を追ってショッピングモールに足を踏み入れた
サックスの目の前で発生したエスカレーター事故。
乗降板が突如外れ、内部に落ちた男性がモーターに挟まれてしまったのです。
体を切断される壮絶な苦しみの中、
意識を失っていく男性の救出を試みたサックスは、
容疑者の追跡中断を余技なくされます。

本作でまず驚かされるのは、ライムとサックスがコンビを解消していること。
ある事件をきっかけにライムがニューヨーク市警の顧問から引退することを
決意したためで、これまで動けないライムに代わって
現場で目となり足となってきたサックスは、
ひとりで容疑者<未詳40号>を追うことになります。

一方、ライムは、エスカレーター事故で死亡した男性の妻から
民事訴訟のための協力を依頼され、事故の調査に乗り出します。

相変わらず見事なのは、サックスとライムが別々に追っていた事件が
思わぬかたちで合流し、さらにとんでもない事件の構図が姿を現すこと。
しかもそれだけでは終わらせないのが
ディーヴァーがどんでん返しの魔術師たるゆえんで、
決着したかに思われた事件は、ある仕掛けによって、
最後にオセロの石が一挙に裏返るような鮮やかな転換を見せるのです。

本作ではこの他にも、ライムとサックスの仲間のひとりが不審な動きをしていたり、
サックスのかつての恋人が現れたりと、いつにも増して脇筋が賑やか。
しかもこれらのサイドストーリーがすべて違和感なく回収され、
読者が「なるほど!」と納得できるところへ収まるのですからたいしたものです。
まるで熟練の手品師の技を目の当たりにしているかのよう。

また本作では新たに車椅子の元疫学者
ジュリエット・アーチャーがライムの助手として登場します。
シリーズ12作目にしてさらに魅力的なキャラクターが加わったことも
ファンにとっては思いがけず嬉しいプレゼントでした。

ディーヴァーは本作で、身近にある商品が凶器へと変わる恐ろしさを描きつつ、
さらにその奥にある巨悪の姿をも描こうとしています。
それは、商品に欠陥があると知りつつ、その事実を放置するメーカーの姿勢。
人を傷つけたり命を奪ったりする瑕疵があると知りながら、
ビジネスを優先してそれを放置する。そのような不誠実なメーカーの姿勢のために
どれほどの不利益を社会が被るかということもディーヴァーは描こうとしています。

ストーリーが抜群に面白いことはもちろん、
日本企業の不正が相次ぐタイミングだからこそ、ぜひ読んでいただきたい作品です。

投稿者 yomehon : 05:00

2017年12月07日

世界水準のエンタメ 『機龍警察 狼眼殺手』


最近、エンタメ系の小説を評価しようとする際の個人的な基準が新たにできました。
それは、「Netflixでドラマ化できるかどうか」というもの。

Netflixのオリジナルドラマをご覧になったことはありますか?
観たことのある人には同意していただけると思いますが、
はっきり言って、予算のかけ方から脚本の完成度に至るまで、
日本のドラマが太刀打ちできないような高いレベルですよね。

政治をめぐる重厚な人間ドラマに釘付けにされる『ハウス・オブ・カード』、
コロンビアの麻薬カルテルを描くギャングスター・ドラマの傑作『ナルコス』
スティーヴン・キングばりのホラー『ストレンジャー・シングス』などなど、
どれもいちどハマると日本のドラマに戻れなくなってしまうような面白さ。

このNetflixオリジナルドラマを世界水準として、
それと同じ水準で勝負できるかどうかを作品評価のものさしにするというわけです。

月村了衛さんの『機龍警察』シリーズは、
世界レベルでも楽々通用するであろう数少ない日本のエンタメ作品のひとつ。

舞台は近未来よりももっと近い至近未来。
この時代は機甲装兵という人が搭乗して操縦する
一種のパワードスーツが戦場などで使われるようになっています。
この機甲装兵の最新鋭機が「龍機兵(ドラグーン)で、警視庁の特捜部に導入されています。

龍機兵は機甲兵装と違って誰でも操縦できるわけではなく、
機体に装着された「龍骨」と搭乗者の脊髄に埋め込まれた「龍髭(ウィスカー)」とを
量子的に結合させます。つまり龍機兵は選ばれた人間しか乗れないわけです。

警視庁には3人の搭乗要員がいます。
元傭兵の姿俊之、モスクワ民警を追われた過去を持つ元刑事のユーリー・オズノフ、
IRA(アイルランド共和軍暫定派)の流れを汲むテロ集団IRFに所属していた
元テロリストのライザ・ガードナー。

3人が外部から雇われた部外者であること、
また龍機兵が機密だらけであることなどから、
特捜部の存在じたいが警視庁の中で疎まれ反発されています。

龍機兵をめぐる謎や一筋縄ではいかない特捜部メンバーの過去、
警察組織内の軋轢、スケールの大きな国際犯罪を描いてきた本シリーズは、
SF小説やハードボイルド、冒険小説や警察小説などの要素をあわせ持った
まさに世界水準の傑作といえます。

さて、シリーズ最新作の『機龍警察 狼眼殺手』(早川書房)は、
横浜・中華街で香港の多国籍企業フォン・コーポレーションの関係者ら5人が
何者かに暗殺されるところから幕を開けます。現場に残されていたカトリックの護符、
捜査の過程で浮かび上がる経済産業省とフォン・コーポレーションが進める
プロジェクト、そして「狼眼殺手」と呼ばれる正体不明の暗殺者の存在――。
今回もむちゃくちゃ面白い物語が展開されます。

経産省とフォン・コーポレーションのプロジェクトは疑獄事件の様相も呈し、
今回から新たに経済犯罪捜査のスペシャリストが登場します。
この新キャラクターは今後もシリーズで重要な役割を果たしそうな予感。
またこのプロジェクトは龍機兵の謎と深く関係することでもあるため、
特捜部長・沖津旬一郎と警察内部にいると思われる「敵」との抗争も一段とヒートアップします。

現代社会はますます複雑さを増し、
ひとりの人間が全体を見渡すことはなかなか困難になっています。
大きな物語を書くことが一段と難しい世の中になっていますが、
そんな中で、この「機龍警察」シリーズのスケールの大きさは極めて貴重です。

今年出たミステリー小説の中では、本作がナンバーワンではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 05:00

2017年12月04日

作家生活30周年記念作品 『この世の春』


同時代の作家の作品を、デビュー作からずっとリアルタイムで
追いかけることができるというのは、とても贅沢な読書体験です。
宮部みゆきさんもそんな作家のひとりですが、「作家生活30周年」などと聞くと、
そんなに長いお付き合いになるのかと実に感慨深いものがあります。

そんな作家生活30周年のメモリアル作品として刊行された
『この世の春』 (新潮社)は、素晴らしい傑作です。
一見すると時代小説ですが、サイコスリラーの要素もミステリーの要素も入っている。
あらゆるエンターテイメント小説の技術の粋を尽くして書かれた贅沢な一冊なのです。

物語の舞台は下野国(いまの栃木県)にある北見藩。
この北見藩で、美貌の青年藩主・重興が、「病重篤」を理由に
重臣たちによって強制的に隠居させられるという政変が起こります。
これは「主君押込(しゅくんおしこめ)」と呼ばれる一種のクーデターで、
通常は極端な放蕩や大酒、あるいは行過ぎた専制(今の言葉でいえば、
身代を棒に振るほどの浪費やアルコール依存、パワハラ)などに対して、
御家の存続がなによりも大切と考える家臣たちがとる最後の手段でした。
(詳しくは笠原和比古さんの『主君「押込」の構造』などを読んでみてください)

要するに主君押込自体がかなりの異常事態、緊急事態なわけです。
重興の場合は、政務の間に突然、心ここにあらずといったかのようにぼうっとしたり、
不可解なことを口走ったりするようになったため、
心が壊れたとして藩主の座を追われたのです。
それからは奇妙なことが起きるようになりました。
重興が幽閉された座敷牢からは、夜な夜な奇妙な声が聞こえてきます。
それは時に子どもの声だったり、あるいは女の声だったりもして、
人々は、藩主は死霊に取り憑かれたのではないかと噂しました。

藩の作事方(土木工事などを担当する役目)の家に生まれた多紀は、
思いがけずこの政変に巻き込まれます。

物語は、多紀が元家老の織部や医師の白田、五香苑の人びととともに、
重興を救うために奔走する姿を描きます。
ここに、死者の魂を呼び出す「御霊繰(みたまくり)」の技の使い手とされる
いまは亡き多紀の母の一族との因縁や、
かつて藩で頻発していた男児失踪事件の謎などがからみ、
読み始めたらノンストップのストーリーが展開されます。

実に見事なのは、精神医学もないこの時代に(フロイトが『夢判断』
発表したのは1900年。この物語が幕を開けるのは1710年の宝永7年)、
多紀たちが重興の奇妙な症状の謎を自力で解き明かしていくところ。

それもわが国古来の伝統である「怨霊」のような概念に拠ることなく、
「科学的」に解明していくところが素晴らしいのです。

安っぽい小説やドラマでは、安易に「トラウマ」などを持ち出して
謎解きの辻褄をあわせるのに使ったりしがちですが、
宮部さんはそういった便利な(でも手垢に塗れた)言葉を一切使うことなく、
登場人物たちが目の前の事象について懸命に考え抜き、
重興の内側で何が起きているかを少しずつ解き明かしていく様子を通じて、
わたしたちに大切なことを気づかせてくれます。

なんというか、ガリレオでもニュートンでもいいですけど、
歴史上の偉大な発見をした人びとというのは、
きっとこんな風に、なんの手がかりもないところから、
手持ちの知識をもとに自分の頭で考え続けて真理に辿りついたんでしょうね。
この作品にはそんなスリリングな思考のプロセスを
目の当たりにしているかのような面白さもあります。

本書で扱われる人間の心の暗部は、重いテーマではありますが、
現代社会で大きな問題となっていることでもあります。
江戸時代を舞台としながら本書はまさに現代を描いているのです。

また重苦しいテーマを扱っていながら、とても面白く読めるのは、
それこそが作者の30年にわたる作家生活の中で培われた技術のたまものなのでしょう。
ぜひこの超一流の技術を堪能してください。

「この世の春」という一見、テーマと似つかわしくないようなタイトルの謎も
最後には解き明かされます。

その謎が解き明かされた時、
この作品はあなたに、
暗雲たれこめる冬空から射す
暖かな一条の光のような感動を与えてくれることでしょう。

投稿者 yomehon : 05:00

2017年12月01日

知られざるスパイハンターの戦いを描く 『スリーパー』


先日オンエアされた『アメトーーク』の読書芸人特集では
「今年読んだ好きな本」という切り口で本が紹介されていましたが、
そろそろ当欄でも個人的に今年面白かった本を紹介していきましょう。

ミステリー&サスペンス小説のジャンルでむちゃくちゃ面白かったのが
『スリーパー 浸透工作員 警視庁公安部外事二課』竹内明(講談社)です。

竹内明さんはTBSの記者。今年3月まで夕方のニュース番組「Nスタ」の
キャスターを務めていたと聞けば、「えっ!?あの人が小説を書いたの?」と
びっくりされる方もいらっしゃるかもしれませんね。

竹内さんは報道記者として国際諜報戦、平たくいえばスパイの暗闘について
長く取材されている方で、彼が手掛ける公安小説は、実は本読みのあいだでは
高く評価されているのです。

警視庁で「カウンターエスピオナージ(防諜)」の役割を担うのは
公安部の外事課というところになります。
防諜というのは、外国のスパイを摘発したりスパイ行為を未然に防いだりすること。
かつてロシアの情報機関の人間に、防衛大出のエリート海上自衛官が
資料を流していたとして摘発された事件がありましたが、
スパイとの攻防は水面下で日々行われている現実の話なのです。

竹内さんにはこの事件の内幕を描いた
『秘匿捜査 警視庁公安部スパイハンターの真実』(講談社文庫)という
とても面白いノンフィクション作品もありますが、
なんといってもおススメは、スパイハンターの筒見慶太郎を主人公とした小説です。

ほとんどの人にとって公安警察というのは馴染みがありません。
公安自体が極端な秘密主義で、その内側がうかがい知れないことや、
戦前の特高警察の苛烈な思想弾圧などのイメージもあって、
むしろ不気味なイメージを抱いている人も少なくないかもしれません。

公安の取材を重ねる中で、おそらく竹内さんはどこかで
現場で頑張っている捜査員たちの息遣いを伝えたいと思ったのではないでしょうか。
それにはまさにフィクションという形式がうってつけだったのです。

筒見慶太郎シリーズの入門編としては、
『ソトニ 警視庁公安部外事二課』(講談社プラスα文庫)がおススメ。
中国の諜報機関である国家安全部の工作員と、
警察に潜り込んだ「潜入者(モグラと呼ばれます)」の罠にかかって公安部を追われ、
ニューヨークの日本総領事館に左遷されていた筒見が、
現地で外務大臣毒殺未遂事件に遭遇したのをきっかけにふたたび戦線に復帰し、
中国のスパイたちと戦うというストーリーです。

この作品の中で「背乗り(はいのり)」という言葉が出てきます。
これは行方不明者の戸籍などを利用してその人物になりすますこと。
スパイが使う常套手段です。

『スリーパー』で描かれるのは、北朝鮮の潜入工作員との攻防。
相変わらず海外をたらい回しされている筒見は、
今回はバングラデシュの日本国大使館警備対策官として登場します。
現地で日本人の有名俳優の惨たらしい殺人事件に巻き込まれた筒見は、
事件を追いかける中で、日本人に背乗りした北朝鮮潜入工作員の存在を突き止めます。

このシリーズの面白さは、
筒見とともに戦う部下たちのキャラが立っていること、
そしてなんといっても作中で紹介される
数々のスパイの手口や公安の捜査手法でしょう。

機密書類などをすれ違いざまに手渡すフラッシュ・コンタクトや、
あらかじめ決められた公園のベンチの下などにぶら下げておく
デッド・ドロップと呼ばれる手法、また彼らをマークし追尾する
公安捜査員たちの目を見張るような尾行技術などが詳しく描かれます。

また本シリーズの魅力は、
筒見慶太郎という凄腕のスパイハンターの陰影に富んだ人物造型にもあります。
彼には幼い息子を事故で喪った過去があり(事故ではないのでは?という疑惑も
あるのですが)、その不幸な出来事によって妻や娘とも別れることになるのです。
とてつもない喪失感を抱えたままスパイとの壮絶な闘いを繰り広げる筒見は、
これまでのミステリー小説にはなかったタイプのダーク・ヒーローです。

殺人などの凶悪事件を手掛ける刑事部に比べて、
公安を舞台にした小説というのは数えるほどしかありません。
そんな中で、詳細な取材に基づいて書かれたこの外事二課(ソトニ)シリーズは、
ぼくたちに国際諜報戦の内側を教えてくれるきわめて貴重な作品なのです。

投稿者 yomehon : 06:30