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2016年01月20日

『つまをめとらば』 第154回直木賞決定!


直木賞は青山文平さんの『つまをめとらば』(文藝春秋)が受賞いたしました。
おめでとうございます!!

今回も思いっきり予想を外してしまい、また満天下に恥をさらしてしまいました。
いくら恥多き人生とはいえ、わざわざ自分で恥を増やすこともないだろうにと
我ながら呆れてしまいますが、でもこればっかりは仕方ありません。

だって、今回は本当に意外な結果だったからです。

『つまをめとらば』は候補作のなかでもわりとあっさりとした出来で、
料理で言えば、出汁の味わいで食べさせる日本料理の一皿のような作品。

メリハリのきいた味つけが舌に記憶として残る『ヨイ豊』であるとか、
収穫したての野菜のピュアな味わいにも似た『羊と鋼の森』とか、
才気あふれる若手シェフの創作料理のような『戦場のコックたち』などのように
印象に残る皿はほかにもあったのになぜ?と疑問でした。

でも、選考委員の宮城谷昌光さんが、
「年齢を重ねることによって、人の盛衰や生死をあっさりと書ける。
そこに生まれる文章の軽みや諧謔がよかった」
といった感じで受賞理由をお話になっているのを目にして納得。
あっさりしているところがむしろ熟練の腕前として評価されたのですね。

とはいえ、この『つまをめとらば』で初めて青山さんの小説を読んだ人は、
いささか拍子抜けするのではないかと心配です。
「なんか、さくっと読めちゃうなー」みたいな。

だからぼくはぜひ『鬼はもとより』から読むことをおススメします。
こちらは料理で言えば、料理人の魂の一皿。

ガツンと胸に響く一冊ですから、
まずこちらを読んでから、今回の受賞作を読むことをおススメします。

武士の矜持を描いた『鬼はもとより』が益荒男ぶりなら、
武家社会に生きる女たちを描いた『つまをめとらば』は手弱女ぶり…ってちと強引か。

でも両方を読んで初めて、青山文平さんの懐の深さがわかるはずです。


それともうひとつ大事なポイントが。

それは、青山さんが作品の舞台としているのが、
18世紀後半から19世紀前半であるということ。

華やかな元禄(1688~1703)や文化・文政(1804~1829)などに比べると
あまり注目されない時代ですが、なぜ描くのかといえば、
それは幕藩体制の矛盾があらわになり始めるのがこの時代だからに他なりません。

幕藩体制の矛盾とはなにか。

ひとことで言えば、
武家社会であるにもかかわらず、
なんのために武士は存在しているのか、
その存在意義が判然としない、ということに尽きます。

武士は本来戦闘員ですから、戦でもなければ存在意義はないわけです。
にもかかわらず国が割れるような大きな戦はなくなって久しく、
その一方で、経済が発展して町民や農民が力を持ってくる。

時代がどんどん変化しているのに、
武士は武家のしきたりのようなタテマエに縛られたまま、
その変化についていけずにいます。

閉塞感の中、
進むべき道を模索しながらあがいているのが
この時代の武士たちなのです。


青山さんが描くこのような世界は、
ぼくたちが生きる現代にも通じることはみなさんもお気づきでしょう。

ひたすら経済成長を目指すことが正しいのだろうかとか、
このまま大量にモノを消費し続けてもいいのだろうかとか、
資本主義社会にどっぷりと浸って生きているにもかかわらず、
ぼくらは心のどこかでその矛盾にも気がついています。

時代小説に馴染みのない人からよく
「どこがそんなに面白いの?」と訊かれるんですが、
そういう人には、ぼくたちのことが書かれているからこそ面白いのだと伝えたい。

なかでも特に青山作品は現代に通ずるところ大。
そう、まさにいまを生きるぼくたちの姿が描かれた物語でもあるのです。

投稿者 yomehon : 15:00

2016年01月18日

第154回直木賞 直前予想!!

本日のグッモニのなかでもお話いたしましたが、
第154回直木賞の受賞作は、

梶よう子さんの『ヨイ豊(とよ)』

と予想いたします。


候補2回目の青山文平さんを除いて、
4名が初エントリーという異例の賞レースとなった今回、
正直ひさびさの「受賞作なし」も頭をよぎりました。

初エントリーの作家の場合、
「次回作で様子をみてから」という結論に落ち着くことが多いからです。


しかしいまは未曾有の出版不況。
「受賞作なし」では書店が困ります。

おそらくなにがなんでも受賞作は出すのではないか。

そう考えて、直木賞の慣例は無視してフラットに選びました。

対抗は『羊と鋼の森』、あるいは『戦場のコックたち』ですが、
「いまの時代に読まれるべき作品」という観点から、
時代の転換点を描いた『ヨイ豊』を選びました。


選考会は、1月19日(火)17時から、築地の料亭「新喜楽」で開かれます。

投稿者 yomehon : 15:00

2016年01月15日

直木賞候補作を読む(5) 『孤狼の血』

最後は柚月裕子さんの『孤狼の血』です。

この作品については、去年の11/18付のエントリーで紹介しましたので、
一部を改稿して以下に再掲載いたします

「正義のもうひとつの顔」


舞台は昭和も終わろうかという頃の広島県呉原市(呉市をモデルにした架空の街)。

呉原東署で暴力団担当の班長を務める大上章吾巡査部長は、
これまでに警察庁長官賞をはじめ数々の受賞歴を誇る反面、
訓戒などの処分を受けた数もこれまた数知れずという刑事です。

この凄腕かつトラブルメーカーというアクの強い人物のもとに配属されたのが、
広島大学出身の若手刑事・日岡秀一。

読者はまず冒頭から
暴力団担当の刑事の世界がどういうものか思い知らされて驚くはず。

なにしろ配属初日に日岡に大上が命じるのが、
パチンコ屋でみかけたヤクザに因縁をつけろということなのですから。

ケンカを職業にしているヤクザ相手ですから
当然、日岡は健闘も空しくやられてしまう。
ここでおもむろに大上が登場して、ヤクザを締め上げ、情報を得るのです。

なんて最低な人物でしょう。
またなんと理不尽な世界なのか。

しかし大上に言わせれば、
上の者が白を黒だと言えば
絶対に従わなければならない縦社会に住むヤクザを相手にしているのだから、
刑事の側も理不尽な世界に身を置いて当然だという理屈になるのです。

マル暴刑事といえば、
暴力団に深く食い込むために、
暴力団以上に強面というイメージがありますが
大上はその典型的な人物として読者の前に登場します。

要するに、読者の大上に対する第一印象は「最悪」ということですね。

ただ、この小説の最大の魅力は、
そんな最悪で最低な大上の人物像が、
読み進むうちに変わってくるということなんです。


物語の舞台となる呉原市では、
戦前から一帯を仕切る昔気質な尾谷組と、
最大勢力の五十子会傘下の加古村組が小競り合いを繰り返していました。

ある時、加古村組系列の金融会社の経理担当者が失踪したことがわかり、
大上と日岡がその行方を追い始めたことから事態が動き始めます。
過剰なまでに尾谷組に肩入れする大上。
やがて尾谷と加古村の小競り合いは本格的な抗争へと発展するのでした――。


広島といえば、すぐにみなさんが思い浮かべるのが、
『仁義なき戦い』ではないでしょうか。
本書の作品世界はそれに『県警対組織暴力』をプラスしたような感じ。
(作者もその2作品がお好きだとどこかで語っていらっしゃいました)


抗争の火蓋が切られたなか、
尾谷組の側に立とうとする大上の真意はどこにあるのか。

抜き差しならない状況のもと、捜査を続ける大上の姿を追ううちに、
読者は次第に、自分たちが抱いていた正義についての観念が
揺らいでいることに気づかされるはずです。

そこにあるのは、青臭い、学級委員的な正義とは対極にある
「裏の正義」とでも呼ぶべきもの。
毒をもって毒を制するかのような正義なのです。

同時に、当初は最低のクズにみえた大上が、
人間味あふれる人物にみえてくるから不思議です。
これぞ作家の技で、
柚月裕子さんの見事な筆力には惜しみない拍手を送りたい。

優等生的な正義からいえば、
「大上のような汚れた刑事なんてトンデモナイ」ということになるのでしょうが、
校則手帳に書いてあるようなきまりごとだけで世の中が回れば苦労はありません。

実際には世の中にはとんでもない悪い輩がたくさんいるわけで、
そういう連中と渡り合っていこうと思えば、
こちらの手だってキレイなままでいられるわけがないということなのでしょう。

要するに世間知らずな優等生には読んでも理解できない作品ということですね。

「汚れっちまった悲しみ」を知る大人の読者にこそ、ぜひ手にとっていただきたい。


さらにこの作品は、頭からお尻まで、構成にも気配りが利いています。
冒頭と最後のシーンで出てくるZIPPOのライターの使い方の巧さ!
思わず「そうだったのか!」と唸ること請け合い。
こうした粋な小道具の使い方も、大人の小説には欠かせない要素なのです。


以上です。
このエントリーをアップしたときには、
年末のミステリーランキングの1位候補としてこの作品をご紹介しました。

結果は、
『このミステリーがすごい!2016年版』で3位、
『本の雑誌が選ぶ2015年度ベスト10』で2位。

1位じゃなくとも高い評価は得たわけですが、
意外だったのは、『週刊文春』の年末ミステリーランキングだけが14位だったこと。

この文春媒体での評価の低さが気になるんですよね。

週刊文春恒例のミステリーランキングで14位の作品が
はたして直木賞に選ばれるだろうか・・・・・・。

さて、これで5作品すべてを見終わりました。

直木賞の最終予想は、
1月18日(月)のグッモニにて発表いたします。

お楽しみに!!

投稿者 yomehon : 15:00

2016年01月14日

直木賞候補作を読む(4) 『羊と鋼の森』

この小説はこんなふうに始まります。


森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。
夜になりかける時間の、森の匂い。
問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで
感じたのに、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、
そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。
その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。
夜が進んだ。僕は十七歳だった。

作者は物語の冒頭にいきなり運命的なシーンを持ってきます。
17歳の主人公が偶然ピアノの調律に立ち会い、その世界に魅せられるシーンです。

主人公がかいだ森の匂いは、
羊の毛のフェルトでできたハンマーと鋼の弦からなる森の匂い。
そう、『羊と鋼の森』とは、ピアノのことなのです。

ピアノを羊と鋼でできた森にたとえるなんて、なんて詩的な表現でしょう。
見慣れたピアノが、頭の中で別のイメージをもって立ち上がってきます。

このタイトルに象徴されるように、この小説では、
目に見えない「音の世界」をいかに文字としてつかまえるかという
作者の格闘の跡をあちこちで目にすることができます。
たとえばこんなふうに。

柳さんが音叉を鳴らす。ぴーんと音が鳴って、目の前のピアノのラ音がそれに共鳴する。
つながっている、と思う。
ピアノは一台ずつ顔のある個々の独立した楽器だけれど、大本のところでつながっている。
たとえばラジオのように。どこかの局が電波に乗せて送った言葉や音楽を、
個々のアンテナがつかまえる。同じように、この世界にはありとあらゆるところに音楽が溶けていて、
個々のピアノがそれを形にする。ピアノができるだけ美しく音楽を形にできるよう、僕たちはいる。
弦の張りを調節し、ハンマーを整え、波の形が一定になるよう、
ピアノがすべての音楽とつながれるよう、調律する。
今、柳さんが黙々と作業をするのは、
このピアノがいつでも世界とつながることができるようにするためだ。

あるいはこんなふうに。

板鳥さんが鍵盤を鳴らし、耳を澄まし、また鍵盤を鳴らす。一音、一音、
音の性質を調べるように耳を澄まし、チューニングハンマーをまわす。
だんだん近づいてくる。何がかはわからない。心臓が高鳴る。何かとても大きなものが
近づいてくる予感があった。
なだらかな山が見えてくる。生まれ育った家から見えていた景色だ。
普段は意識することもなくそこにあって、特に目を留めることもない山。
だけど、嵐の通り過ぎた朝などに、妙に鮮やかに映ることがあった。
山だと思っていたものに、いろいろなものが含まれているのだと突然知らされた。
土があり、木があり、水が流れ、草が生え、動物がいて、風が吹いて。
ぼやけていた眺めの一点に、ぴっと焦点が合う。山に生えている一本の木、
その木を覆う緑の葉、それがさわさわと揺れるようすまで見えた気がした。

比喩は多用すればくどくなります。
そのギリギリのところで作者は、音の世界をつくりあげようと格闘しています。
読者の頭の中に果たして音楽を響かせることができるでしょうか。
このチャレンジが、まずはこの小説の読みどころでしょう。

小説のストーリー自体はそんなに複雑なものではありません。

山奥で育った少年が、優れた調律師との出会いによって、自らも調律の道を志すという物語。
いろいろな出会いがあり、さまざまな経験を通じて、主人公は一人前になっていきます。

なんというか、全体的に寓話ような独特の雰囲気がある作品です。
もっとわかりやすく言うなら、大人の童話のような。

作品の中には、「一人前の調律師になるためには何が必要か」みたいな話も結構出てきて、
先輩の調律師がけっこう良いことを言ったりするんですよね。

そういう方向をさらに伸ばして、職人小説というか、
お仕事小説のようなかたちにすることもできたと思うんですが、
作者はもっと大きな世界を描きたかったようで、
「世界との調和」といったようなテーマが追究されていきます。


「調和」であるとか、「許し」であるとか、「祝福」であるとか、
作者が描こうとしているのは、
そんな言葉で表される何か、宗教的なものにも通じる何か。

その結果、古い教会のステンドグラスから降り注ぐ柔らかな光のような、
厳かで、静謐で、穏やかな空気に満たされた作品が生まれたのでしょう。

人間にたとえれば、まるで非の打ち所のない人格者のような作品。
ただ、それゆえにひとつの弱点も抱えているように思えます。

それは、悪人がひとりも出てこないこと。

世の中には悪意を剥き出しにして他人の行く手を阻むような人間が必ずいるものですが、
そういう人物がひとりも出てこない。

唯一出てくる嫌な人物といえば、
たいしてピアノを弾いていないくせに調律にケチをつける自称・ピアニストの男性客くらい。

でもその程度の人間には、仕事をしていればごく当たり前に出会うもの。
もっとネガティブな出来事が人生にはあると思うんですよね。


やはり光を描くには闇の濃さも必要なわけで、
悪意に満ちた登場人物なり、
絶望的な出来事に主人公が遭遇するということがもっとあったほうが、
作品に奥行きが出たのではないかと思います。

この作品のことを寓話や童話と表現したのは、
そういうホンモノの悪が出てこないことも意味しています。

じんわりと温かいぬるま湯というか、
思わずうとうとしてしまう陽だまりというか・・・・・・。
ともかく「ほっこり」とか「ほんわか」といったような言葉が、
この作品の読後感を表すのにはぴったりです。


これを「物足りない」ととるか、
「世界の真実に触れた祝福の物語」ととるか。

選考委員の見解が分かれるポイントのような気がします。

投稿者 yomehon : 15:00

2016年01月13日

直木賞候補作を読む(3) 『戦場のコックたち』


深緑野分(ふかみどり・のわき)さんの『戦場のコックたち』(東京創元社)にまいりましょう。

昨年、ミステリーファンのあいだでもっとも話題になった作品です。

なぜ話題になったのか。
それを説明するには、少しだけミステリーのお勉強が必要です。


ミステリーの中には「日常の謎」と呼ばれるジャンルがあります。
ごく簡単に言うと、凶悪犯罪ではなく、日常の中にあるささいな謎をテーマにした作品のこと。

具体的な例があったほうがわかりすいと思うので、
宮部みゆきさんの短編集『我らが隣人の犯罪』におさめられた
ぼくの大好きな「サボテンの花」という作品を例にご説明しましょう。

この作品は、卒業を前にした小学6年生と教頭先生のお話です。

学校では卒業研究の発表が毎年恒例となっているのですが、
6年1組のテーマは「サボテンの超能力の研究」。

怪しげな研究テーマに、
卒業研究に相応しくないと先生たちからは反対の声が挙がります。
そんな中、教頭先生は子どもたちの真意をさぐるべく調査を始めます。

ここで明らかになる真相は実にハートウォーミングなもので、
読む者の心をほっこりさせる名作です。

バイオレンスはいっさい出てこないところがポイント。
にもかかわらずこれも正真正銘のミステリーなのです。

現代のミステリー作家では、 北村薫さんなんかがこの「日常の謎」の名手ですから
関心のある方はぜひお読みください。


さて、話を戻しましょう。

『戦場のコックたち』は、この「日常の謎」を、
戦場という極端な非日常の舞台に持ち込んだところが画期的だったのです。


物語は、第二次世界大戦における連合軍のノルマンディー上陸作戦から始まります。
ご存知の通り、連合軍がナチスの手からフランスを奪回しようという作戦です。

主人公のティモシー・コール(通称キッド)は、
合衆国陸軍のパラシュート部隊に属する兵士ですが、
彼は一兵士であると同時に、仲間たちの胃袋を満たすコックでもあります。

ティムが戦場で遭遇する謎というのが、
料理に使う粉末の卵(戦場では卵の代表品としてこういうものが使われるのですね)が
約3トンも姿を消しただの、酒と引き換えに他の隊員たちから密かに装備のパラシュートを
回収しているイケメン兵士の目的は何かだのといった類いの、まさに「日常の謎」に属するもの。

そういう「日常の謎」が
酸鼻を極める戦場の描写とともに描かれていく。
ここがこの小説の新しいところでした。


もっとも、所属部隊の戦況が悪化するにつれてミステリー色は後退して、
物語も半ばを過ぎたあたりから、こんどは戦争小説の色がぐっと濃くなってきます。

戦場というのは、
人の理性を吹き飛ばすような恐ろしい場面が続いたかと思えば、
間の抜けた日常のような時間もあったりもする不思議な空間ですが、
読み進むうちに読者は、
そんな悲惨と日常が同居した戦場という空間が
リアルに脳裏に立ちあがってくるのを感じることでしょう。


悲惨なほうでいえば、
映画『プライベート・ライアン』を観たことがある人は、
あの冒頭の20分以上も続く凄まじい戦闘シーンを思い出してください。
ノルマンディー上陸作戦がいかに過酷なものであったかがわかるでしょう。

この小説はそのような戦争の残酷さ、悲惨さも十分に体感させてくれます。

それを可能にしているのは、作者の文章力。

この小説の優れているところは、
読者に痛みを感じさせるような文書力を
作者が標準装備している点ではないでしょうか。

たとえば、敵の対空砲火の中、
輸送機からパラシュート降下する場面をみてみましょう。

「エドが飛び、ついに僕の番になった。冷や汗がどっと噴き出す。
降下口のレールから一歩先は、真っ暗な大地が口を開けている。
曳光弾が次々飛んで目の前をかすめた。
「さっさとしろよ、キッド!」
真後ろの衛生兵、スパークに背中を押された。はずみで足が滑って宙へと飛び出し、
あっという間に重力に引っ張られる。僕は思わず叫んだ――「お前の左腕の赤十字は飾りかよ!」
自動曳索の紐が伸びきり、プツンと切れた感触が肩に伝わる。なんとか背筋をまっすぐにして
体勢をたてなおすと、パラシュートが開いた。体が吊り上り、股間に通したレッグストラップが
ぐっと食い込んでイチモツを締め上げ、激痛が脳天まで突き抜けた。ふと、ふくらぎが軽くなって
下を見ると、足に巻いたレッグバッグが落下し、暗闇に吸い込まれて消えた。
せっかく地雷とナイフを入れておいたのに!」

読みながら思わず股間を押さえたくなる文章です。
このような肉体の痛みをリアルに想起させる文章を書く力があるからこそ、
読者に戦場をリアルにイメージさせることができるのではないでしょうか。
(ちなみに、イチモツを締め上げ……なんて書いてますが作者は女性)


「日常の謎」から戦場の狂気へ。

この小説は、顔つきが最初と最後ではまったく異なるのです。
このあたりもこの作品の魅力でしょう。


それと物語のエピローグが素晴らしい。

ぼくたちの生きる世界では今もいたるところで戦争が続いていますが、
そうした世界に対する作者からの祈りのメッセージにもなっていて心を動かされます。


主な舞台は第二次大戦中のヨーロッパだし、
最初から最後まで日本人はまったく出てこないしで、
直木賞候補作としてはちょっと異色のものではあるのですが、
でもいますぐ世界で通用する作品を選ぶのであれば、
間違いなくこの作品がいの一番に選ばれることでしょう。

まだそれほど実績がないにもかかわらず、
世界水準の作品を書き上げた作者の才能は素晴らしいと思います。

いえ、才能というよりも努力かもしれませんね。

巻末に挙げられた参考文献をみると、
作者が国内外のさまざまな文献を読み込んでこの作品を書いたことがわかります。


さて、この若き俊英を選考委員たちはどう評価するでしょうか。

以前、オリジナリティあふれるSF作品で候補となった宮内悠介さんのときと
ちょっと似た感じがするのはぼくだけでしょうか・・・・・・。

投稿者 yomehon : 15:00

2016年01月12日

直木賞候補作を読む(2) 『ヨイ豊』


続いては梶よう子さんの『ヨイ豊(とよ)』

渾身の作とはまさにこのような作品のことを言うのでしょう。
時代小説の読み手のあいだでは「傑作」と評判になった一作です。


冒頭、以下の人物の没年が記されます。


安政五年(一八五八)九月六日、初代歌川広重没。享年六十二。

文久元年(一八六一)三月五日、歌川国芳没。享年六十五。

元治元年(一八六四)十二月十五日、三代歌川豊国(初代国貞)没。享年七十九。


これがなにを意味しているのか。

ここに挙げられているのはいずれも浮世絵のビッグネーム。
そう、この小説は、あれほどの隆盛を誇った浮世絵がなぜ滅び去ったのかを描いているのです。

時は幕末。

江戸から近代へと時代が風雲急を告げるなか、
広重、国芳、三代豊国の「歌川三羽烏」亡き後、
歌川一門を守ろうと時勢に抗い続けた二代国貞こと清太郎。

清太郎は江戸絵の大看板と言われた三代豊国のもとで修行を積み、師匠の娘婿となった人物。
真面目で慎重な性格で、絵はうまいけれど、いつもその絵には何かが足りないと言われています。

一方、清太郎には八十八というひとまわり歳が下の兄弟弟子がいます。
清太郎とは正反対に粗野で図々しい性格ですが、
絵の腕前に関しては清太郎を戦慄せしめるような才能の持ち主です。


このふたりの対比を通して、
作者は巧みに「浮世絵とはなにか」を描いていく。
たとえば、

「新しい物ってのは一日一日、古くなる。いま飛びついたところで、
次に目新しい物がでりゃ、おしまいだ」

と新しもの好きな八十八をたしなめる清太郎に対して、
八十八が次のように言い返す場面があります。


「だから、いまのうちに面白がる。そいつが浮世を写すことじゃねえか。
時ってのは流れるもんだ。そこに留まっている訳じゃねえ。
昨日はもう過ぎ去ったもんになる。けど、おれたちはそういう流れる時の移り変わりを写して、
面白がるんじゃねえのかい?」

時が移ろうことを面白がる精神こそが浮世絵の本質だということですね。
ならばそんな浮世絵のどこに当時の人たちは魅了されたのでしょうか。


浮世絵のなかには錦絵と呼ばれる多色刷りの華やかな絵もあって、
お上の発する倹約令で、歌舞伎などとともにたびたび贅沢品として槍玉にあげられました。

清太郎が知遇を得た七代目團十郎の言葉は、庶民が好む娯楽の本質を衝いています。


「因果な商売さ。だってさ、芝居も錦絵も、突き詰めれば、この世に、あってもなくてもいいものさ。
けど、偉いお方は、そうした要らないもののほうが、人を惹きつけるのが、わかっちゃいない。
たった一瞬でもね、芝居小屋という限られた中で、憂いの世を、面白おかしい浮き世に変える。
それが私たち役者の矜持、いや執念、なのかもしれないね。死ぬまで舞台に立っていてえってさ」


憂き世を浮き世に変える――。

ここで語られるのは、人はなぜエンターテイメントを求めるかという問いへのひとつの答えです。

しかし時が移ろうように人の心も移ろっていく。

いくら浮世絵が変化を面白がる精神を持っていたとしても、
やはり時の流れというのは残酷です。

時代が血なまぐさくなっていくに従って、
人々の関心は伝統的な浮世絵から離れていきます。

ジャンル全体が地盤沈下をはじめると、
ブランドネームに頼ってなんとかしようとするのはいつの世も同じで、
浮世絵の版元たちは清太郎に「四代豊国」を襲名するよう繰り返し迫ります。

三代豊国は後継を指名しないまま逝ってしまいましたが、
娘婿である清太郎が後を継ぐのが筋だろうと周囲はみていました。

しかし自分には歌川の看板を背負って立つだけの才能がない、と
清太郎は迷いつつもその要請を固辞し続けるのです。


この小説の大半を占めるのは、
このように清太郎が豊国の名を継ぐかどうか、
逡巡し続ける様だといってもいいでしょう。

もしかしたらこの部分をかったるいと感じる人もいるかもしれません。

でもぼくはこの長い迷いの描写は必要だったと思います。

清太郎が自問自答の迷いのなかにいるかたわら、
徳川の治世は少しずつ終焉へと向かっていきます。

江戸の世が終わりを告げ、
時代が明治になってからようやく清太郎は答えをみつけます。

清太郎がどんなふうに絵描きとしての生涯を終えたのか、
それはぜひ本書で確かめていただきたいと思いますが、
読む者に実に深い余韻を残すエンディングであると申し上げておきましょう。

ここに至るまでの清太郎の長きにわたる逡巡がしっかりと描かれているからこそ、
読者は深い余韻にひたることができるのだと思います。
(この時、「ヨイ豊」という一風変わったタイトルの意味も明らかになります)


果たしてこの清太郎の最期の姿は、
直木賞の選考委員たちにどう受け止められるでしょうか。

小説の市場もかつての浮世絵と同じように終焉へと向かっているように見えます。

浮世絵がかつてのような繁栄をみせることは二度とない。
それがわかっていながら清太郎がとるある行動に、
いまやマイナーな市場となりつつある小説の書き手たちが何を感じるのか。

このあたりが今回の選考会でひとつのポイントとなるような気がします。


最後に。
この作品でぼくがもっとも心を動かされた箇所を挙げておきましょう。


清太郎亡き後、
明治も半ばへと差しかかろうという頃に、
清太郎や八十八のことをよく知るある人物が、
フランス帰りで美術学校で洋画を教えているという薄っぺらい人間を相手に、
当時を振り返る場面が出てきます。

「江戸期の庶民は、美という観念を持たずとも、美しいものを愛した。
美の概念などなくとも、それらを当たり前のように愛でた。
極彩色に彩られた、ただの風景、ただの役者、ただの女たち、を――。
特別なものだと感じていなかった。だからこそ、素晴らしいのだ。
「それこそが、我が国の美であったはずなのです」
だが、それらを愛した大衆たちこそが離れようとしている。
政府の興した近代化の波によって忘れ去ろうとしている。
真に美をわかっていないのは、他の誰でもない、いまのこの国の者たちだ。
(略)
路傍にひっそり咲く花へ眼を向け、きれいだと呟くそうした思いだ。
雨の音を聞き、風に戦き、月を愛で、虫の音、鳥のさえずりに季節を感じる、
日常のすべてを五感で慈しんだ我々の感性は誇るべきものであったはずなのだ。
(略)
なぜ、流れる時に線引きをするのか。新しいものを取り入れる柔軟さを持ちながら、
なぜこの国は、旧いものを恥じ入るように忘れようとするのか」

時代の転換点に立つぼくらに多くのことを教えてくれる作品です。

投稿者 yomehon : 17:00

2016年01月11日

直木賞候補作を読む(1) 『つまをめとらば』

トップバッターは青山文平さんの『つまをめとらば』です。

青山さんは『鬼はもとより』で第152回直木賞の候補作になり、
惜しくも次点で受賞を逃しましたが(受賞作は西加奈子さんの『サラバ!』)、
その後、第17回大藪春彦賞を受賞しています。

「藩札」(その藩のみで通用する貨幣の代用品)という思いもよらない切り口で、
ある貧しい藩の財政の立て直しを描いたこの小説は、
ちょうどアベノミクスが話題になっているタイミングで発表され、
時代小説でありながら現代の経済政策への批判的視点も感じさせる作品でした。

「鬼はもとより」というのは、「鬼と言われるのはもとより承知のうえ」という意味。

現代風にいえば、「痛みを伴う改革」を描いているわけですが、
命がけで藩を立て直そうとする武士たちの覚悟と壮絶な最期には、
読んでいるこちらの居住まいを正すような力がありました。
当時の書評はこちらをどうぞ


経済という斬新な切り口といい、
命を賭して政道と向き合うその迫力といい、
並々ならぬ筆力を持つ時代小説の書き手が現れたものだと驚いたものですが、
その印象のままにこの『つまをめとらば』を読むと、
「あれっ?」と肩透かしを食うかもしれません。


『つまをめとらば』は、
天下泰平の世を舞台に、
さまざまな武家の夫婦のかたちを描いた短編集です。


いつだったか、テレビの深夜番組だったと思いますが、
千原ジュニアさんが男と女についてとてもうまいことをおっしゃっていました。

過去につきあった相手をどんなふうにとらえるかが男と女では違うという話題で、
千原ジュニアさんは「男は横に並べるけれど、女は縦に並べる」と表現していたのです。

つまり男は過去つきあった女性をいつでも思い出せるように並列に並べるけれど、
女性の場合はつねにいまつきあっている男性というのがいちばん前にいる、というのです。

あまりにうまい表現だったので、女ともだちにこの話をしたら、
当たり前のことをいまさら何?みたいな表情で
「そうそう、女はどんどん上書きして過去を消去していくからね」と
そっけなく返されたことをおぼえています。

男からすれば、一時は恋人どうしだったのだから、
別れた後も自分のことを忘れずにいてくれるはずだという思い込みがあるのですが、
当の女性にしてみれば、いまつきあっている相手のことがいちばんの関心事で、
昔のことは「なかったこと」になっている……。

こういう女性が持つある種の精神のタフさを指して、
男どもはよく「女は強いよな……」としみじみ酒を酌み交わしたりするのですけど。


え?話がどんどん脱線してないかって?

いえいえ、そんなことはありません。

要するにこの『つまをめとらば』』は、
「女は強いですよね」と男の視点で語った女性礼賛の作品なのです。


表題作の「つまをめとらば」なんてまさにそう。

互いに女性で失敗した過去を持つ幼馴染の男同士の交流を描いているのですが、
過去にいろいろあった当の女性はいまでは逞しく明るく生きていたりして。

どうなんだろう?
女性読者からするとこの手のお話は。

男からするとお馴染み感のとても強い作品なんですけど、
女性には鼻で笑われそうな気が……。


むしろこの作品集のなかではやや異質な、
男ではない女性の視点で描かれた『乳付(ちつき)』のような作品が際立っていいですね。

嫁いだ先で子を産むも、乳が出ずに悩む女性を描いているのですが、
義理の母の人生の先輩としての深い思慮にもとづいたはからいであるとか、
自分にかわって子に乳を与えてくれる女性の意外な過去であるとか、
「おっぱい」を軸に女という生き物の不思議さに踏み込んだ秀作です。

「女の乳房はけっして一人の女のものではなく、一族の乳房なのでございます」
という乳付の女性のセリフがとてもいい。

人は皆、誰かの乳房で命をつないできたのだという、
女という性の偉大さ、大きさを感じさせるくだりです。


こういう秀作もあるにはあるのですが、
この作品集のテイストをひとまとまりに言うのならば、
男の視点で女を描き、
「女性って偉大だよね」、「男って弱いよね」
と言っている小説、ということになるでしょうか。

武士(つまり男)の世界をがっつり描いた『鬼はもとより』からは百八十度の転換。

さて、選考委員のみなさんはどう判断されるでしょうか。


投稿者 yomehon : 15:00 | コメント (0)

2016年01月10日

第154回 直木賞エントリー作品


第154回直木賞の選考会が近づいてまいりました。

書店に候補作が並んでいるのをご覧になった方も多いでしょう。

今回の候補作は以下の通りです。


青山文平 『つまをめとらば』 (文藝春秋)


梶よう子 『ヨイ豊(とよ)』 (講談社)


深緑野分(ふかみどり・のわき)  『戦場のコックたち』 (東京創元社)


宮下奈都  『羊と鋼(はがね)の森』 (文藝春秋)


柚月裕子  『孤狼の血』 (KADOKAWA)

時代小説が2作品(『つまをめとらば』、『ヨイ豊』)、
ミステリーが2作品(『戦場のコックたち』、『孤狼の血』)、
現代ものが1作品(『羊と鋼の森』)というラインアップ。


また青山さんが過去1回エントリーされたことがあるのみで、
あとはみなさん初の直木賞候補というフレッシュな顔ぶれです。


今回は「そろそろこの人が受賞するかも」というベテランもいないので、
予想はいつにも増して難しかったりするのですが(ただでさえ当たらないのに……)
候補作はなかなか面白い作品が揃っています。

次回からそれぞれの候補作を詳しくみてまいりましょう。

お楽しみに!!

投稿者 yomehon : 10:43