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2016年01月14日

直木賞候補作を読む(4) 『羊と鋼の森』

この小説はこんなふうに始まります。


森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。
夜になりかける時間の、森の匂い。
問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで
感じたのに、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、
そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。
その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。
夜が進んだ。僕は十七歳だった。

作者は物語の冒頭にいきなり運命的なシーンを持ってきます。
17歳の主人公が偶然ピアノの調律に立ち会い、その世界に魅せられるシーンです。

主人公がかいだ森の匂いは、
羊の毛のフェルトでできたハンマーと鋼の弦からなる森の匂い。
そう、『羊と鋼の森』とは、ピアノのことなのです。

ピアノを羊と鋼でできた森にたとえるなんて、なんて詩的な表現でしょう。
見慣れたピアノが、頭の中で別のイメージをもって立ち上がってきます。

このタイトルに象徴されるように、この小説では、
目に見えない「音の世界」をいかに文字としてつかまえるかという
作者の格闘の跡をあちこちで目にすることができます。
たとえばこんなふうに。

柳さんが音叉を鳴らす。ぴーんと音が鳴って、目の前のピアノのラ音がそれに共鳴する。
つながっている、と思う。
ピアノは一台ずつ顔のある個々の独立した楽器だけれど、大本のところでつながっている。
たとえばラジオのように。どこかの局が電波に乗せて送った言葉や音楽を、
個々のアンテナがつかまえる。同じように、この世界にはありとあらゆるところに音楽が溶けていて、
個々のピアノがそれを形にする。ピアノができるだけ美しく音楽を形にできるよう、僕たちはいる。
弦の張りを調節し、ハンマーを整え、波の形が一定になるよう、
ピアノがすべての音楽とつながれるよう、調律する。
今、柳さんが黙々と作業をするのは、
このピアノがいつでも世界とつながることができるようにするためだ。

あるいはこんなふうに。

板鳥さんが鍵盤を鳴らし、耳を澄まし、また鍵盤を鳴らす。一音、一音、
音の性質を調べるように耳を澄まし、チューニングハンマーをまわす。
だんだん近づいてくる。何がかはわからない。心臓が高鳴る。何かとても大きなものが
近づいてくる予感があった。
なだらかな山が見えてくる。生まれ育った家から見えていた景色だ。
普段は意識することもなくそこにあって、特に目を留めることもない山。
だけど、嵐の通り過ぎた朝などに、妙に鮮やかに映ることがあった。
山だと思っていたものに、いろいろなものが含まれているのだと突然知らされた。
土があり、木があり、水が流れ、草が生え、動物がいて、風が吹いて。
ぼやけていた眺めの一点に、ぴっと焦点が合う。山に生えている一本の木、
その木を覆う緑の葉、それがさわさわと揺れるようすまで見えた気がした。

比喩は多用すればくどくなります。
そのギリギリのところで作者は、音の世界をつくりあげようと格闘しています。
読者の頭の中に果たして音楽を響かせることができるでしょうか。
このチャレンジが、まずはこの小説の読みどころでしょう。

小説のストーリー自体はそんなに複雑なものではありません。

山奥で育った少年が、優れた調律師との出会いによって、自らも調律の道を志すという物語。
いろいろな出会いがあり、さまざまな経験を通じて、主人公は一人前になっていきます。

なんというか、全体的に寓話ような独特の雰囲気がある作品です。
もっとわかりやすく言うなら、大人の童話のような。

作品の中には、「一人前の調律師になるためには何が必要か」みたいな話も結構出てきて、
先輩の調律師がけっこう良いことを言ったりするんですよね。

そういう方向をさらに伸ばして、職人小説というか、
お仕事小説のようなかたちにすることもできたと思うんですが、
作者はもっと大きな世界を描きたかったようで、
「世界との調和」といったようなテーマが追究されていきます。


「調和」であるとか、「許し」であるとか、「祝福」であるとか、
作者が描こうとしているのは、
そんな言葉で表される何か、宗教的なものにも通じる何か。

その結果、古い教会のステンドグラスから降り注ぐ柔らかな光のような、
厳かで、静謐で、穏やかな空気に満たされた作品が生まれたのでしょう。

人間にたとえれば、まるで非の打ち所のない人格者のような作品。
ただ、それゆえにひとつの弱点も抱えているように思えます。

それは、悪人がひとりも出てこないこと。

世の中には悪意を剥き出しにして他人の行く手を阻むような人間が必ずいるものですが、
そういう人物がひとりも出てこない。

唯一出てくる嫌な人物といえば、
たいしてピアノを弾いていないくせに調律にケチをつける自称・ピアニストの男性客くらい。

でもその程度の人間には、仕事をしていればごく当たり前に出会うもの。
もっとネガティブな出来事が人生にはあると思うんですよね。


やはり光を描くには闇の濃さも必要なわけで、
悪意に満ちた登場人物なり、
絶望的な出来事に主人公が遭遇するということがもっとあったほうが、
作品に奥行きが出たのではないかと思います。

この作品のことを寓話や童話と表現したのは、
そういうホンモノの悪が出てこないことも意味しています。

じんわりと温かいぬるま湯というか、
思わずうとうとしてしまう陽だまりというか・・・・・・。
ともかく「ほっこり」とか「ほんわか」といったような言葉が、
この作品の読後感を表すのにはぴったりです。


これを「物足りない」ととるか、
「世界の真実に触れた祝福の物語」ととるか。

選考委員の見解が分かれるポイントのような気がします。

投稿者 yomehon : 2016年01月14日 15:00