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2014年09月29日

火山列島日本

御嶽山の噴火は戦後最悪の大惨事となってしまいました。
噴火に巻き込まれた人々の話を連日目にするたびに胸が痛みます。
山頂で楽しそうにおにぎりを頬張っていた少女、
将来を嘱望されたエンジニア、正社員に登用されて仕事に燃えていた青年・・・
それぞれの人生が突然の噴火で暗転してしまいました。
お亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


今回の災害では、火山の恐ろしさを痛感させられるとともに、
火山列島に暮らしながら我々がいかに火山のことを知らないかということも思い知らされました。


そこで今回は、火山への理解を深めるのに役立つ本をご紹介しましょう。


火山の知識を基礎からわかりやすく教えてくれるのが、
鎌田浩毅さんの『富士山噴火』(講談社ブルーバックス)です。

書名からわかるとおり、この本は富士山が大噴火したらどうなるかを解説したものですが、
火山灰や溶岩、火砕流や山体崩壊といった噴火に伴って生じる現象のすべてが
ひととおり学べる良書です。


たとえば火山灰。
今回の噴火でも、まるで雪が積もったかのように
山小屋が火山灰に埋もれてしまっている衝撃的な光景を目にしましたが、
火山灰がいかに厄介なものかということが、この本を読むとよくわかります。

火山灰は水と一緒になるとセメントのようにくっついてしまう性質があります。
だから水で流せば排水溝をすぐに詰まらせてしまうし、
雨が降ればずっしりと重くなり、建物を倒壊させたりします。

1991年にフィリピンで起きたピナトゥボ火山の噴火では、
噴火の直後に台風がやってきて大量の雨が降り、多くの家屋が倒壊しました。

火山灰が屋根の上に1センチ積もった場合、1平方メートルあたりの重さは約10キロ。
これが雨に濡れると20キロにもなるといいます。
ピナトゥボ火山の噴火では10センチメートル以上の火山灰が降り積もっていたといいますから、
その後の雨で増した重量に、建物はひとたまりもなかったであろうことが想像できます。
とくにこの時は避難所の建物が倒壊するなどして、700人以上の方が亡くなりました。


では火山灰が乾けばいいかといえばそれも問題で、
火山灰の尖ったガラス状の粒子は、目に入ると角膜を傷つけるおそれがある他、
肺に入ると珪肺といって呼吸困難や肺気腫を引き起こす可能性があります。

それだけではありません。
葉の表面についてもなかなか落ちない火山灰は農作物にも甚大な被害をもたらしますし、
コンピュータなどの電子機器を壊し、自動車や航空機などの交通機関をストップさせ、
はたまた異常気象の引き金にもなるという、非常に厄介なものなのです。

火山灰にとどまらず本書では噴火によって生じるほとんどの現象がカバーされています。

たとえば今回の噴火でも多くの方の命を奪った噴石被害を防ぐにはどうすればいいか。
あるいは溶岩流を制御するにはどのような方法があるか。
雪の時季に噴火が起きたらどのような被害が起きるか――など。

もちろん日本最大の活火山である富士山が噴火したらどうなるかということも詳細に記されています。 

本書を読む前と読んだ後とでは、火山に対する危機感の抱き方がまったく違ってしまうことでしょう。
  


危機感ということでいえば、
『破局噴火』高橋正樹(祥伝社新書)(のほうがショッキングかもしれません。
(現在、品切れ中のようで古書価も高騰しているようです)


本書で言う「破局噴火」というのは、想像を超えるような規模の噴火のこと。

熊本の阿蘇山はみなさんご存知だと思いますが、
あの阿蘇山の周辺に盆地が広がっていることはご存知でしょうか。

南北25キロ、東西18キロに及ぶ盆地には、
阿蘇市や南阿蘇村、高森町などが含まれ、約5万人の人々が生活しています。

美しい田園風景が広がり、甘露のように美味しい水が湧く素晴らしいところですけれど、
この広大な盆地全体が「阿蘇カルデラ」と呼ばれる噴火口であったと知ったら、
ほとんどの人が驚くことでしょう。

あの阿蘇カルデラの巨大さからすれば、阿蘇山なんてニキビみたいなものです。
いまも噴煙をあげているのは、正確に言えば阿蘇カルデラの「中央火口丘」のひとつである中岳。
カルデラ全体の規模からみれば「丘」と表現されてしまうわけですね。

本書によれば、桜島のある錦江湾も古代の噴火口の跡だとのこと。
このような想像を絶するようなスケールの巨大な噴火が、
日本列島各地で、これまでに何回も起きているのです。


生まれてから46億年の地球を相手にする地球科学では、
最低でも1000年単位のスケールで物事を考えるそうですが、
本書によれば、日本列島では、過去10万年の間に
超巨大噴火(噴火の際の噴出量が100立方キロ以上のもの)を起こしたカルデラ火山は全部で7つ。


12万年間にまで延ばすと、超巨大噴火は9回となり、
単純平均すると、1万3000年に1回の割合となります。

さらにここに噴出量が30立方キロ以上の噴火(これだってじゅうぶんに巨大噴火です)を加えれば、
噴火回数はされに増えて17回となり、およそ7000年に1回の割合となります。

日本列島における最後の巨大噴火は、南九州の鬼界カルデラで起きたアカホヤ噴火で、
この噴火からすでに7300年が経過しています。

つまり人類全体を危機的状況に陥れるような規模の噴火は、いつ起きてもおかしくないのです。

本書には大規模カルデラ火山のうち、
破局噴火を起こす可能性の高い火山がいくつか挙げられています。
興味のある方はぜひ本書を入手してみてください。


「破局噴火」の噴火がどれほど凄まじい被害を引き起こすかを知りたい方は、
石黒耀さんの小説『死都日本』(講談社文庫)がおすすめです。

この小説は出版当初、大きな話題となりました。
一般読者のあいだでというよりも、むしろ火山の専門家たちのあいだで。
それはこの小説が正確な火山の知識に基づいて書かれたものだったからです。


本書で超巨大噴火を起こすのは宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島火山です。

この噴火の描写が凄まじい。

超巨大噴火で生じた火砕流は、厚さ500メートルの巨大な雲状の壁となり、
時速100キロを超える速度で、宮崎県側の麓にある人口17万人の都城市を襲います。
この間、わずか10分。
火砕流の先頭からは、さらに高速のジェット紛体流「火災サージ」が噴出し、街を焼き尽くします。

さらに30分後には鹿児島県側の山麓を下った火砕流が桜島を覆いつくし、
人口61万人の鹿児島市を襲い、続いて人口37万人の宮崎市も同様の運命をたどります。

噴火から1時間あまりの間に、鹿児島県と宮崎県を中心に、100万人以上の人命が失われ、
両県にまたがる広大な範囲の社会的インフラがすべて焼失するという凄まじい惨状が生じるのです。

背筋も凍るような描写ですが、この小説の恐ろしさはこれにとどまりません。

噴火後に日本列島にもたらされる被害の甚大さにも息を飲みます。
この小説では、噴火から48時間後に1000万人の死者が出ると予想しています。

いったいどのようなプロセスを辿ってそこまでの規模の死者が出てしまうのか、
そのあたりはぜひ本書を手に取って確かめてみてください。

火山関連の本を読んでいて感じたのは、
日本列島と火山というのは切っても切れない関係にあるということです。

ちょっと古い本ですが、
緻密な文献考証と大胆な想像力で書かれた国文学の名著に、
益田勝実さんの『火山列島の思想』という本があります。


この本で益田氏は、日本の神話を火山の視点から読み解いていきます。
日本固有の神とされる大国主(おおくにぬし)は、「オオナモチ」とも呼ばれますが、
『続日本紀』に記された大隅・薩摩の国での海底噴火が、「大穴持の神」と呼ばれたことに着目し、
日本列島各地に出現するオオナモチの秘密に迫っていくのです。

大きな穴を持つ神というのは、言うまでもなく噴火口を擁する火山を神格化したものでしょう。

柳田國男は、日本文化の基層を掘り起こそうと奮闘し、民俗学という学問を樹立しました。
あくまで素人のぼくが知る範囲でですが、彼の著作の中では、
あまり火山は中心的なテーマとして扱われていないように思います。

本書はそのミッシング・リンクを埋める一冊ともいえます。

火山と日本文化の関わりの根っこの部分に関心のある方は、ぜひ一読をおすすめします。

投稿者 yomehon : 13:40

2014年09月17日

デング熱禍で読み直したい傑作小説


デング熱がどんどん拡がっていますね。

9月17日時点で確認されている感染者は、全国17都道府県であわせて131人にのぼります。

デング熱ウイルスの感染が拡大していく様をみて思い出したのが、
篠田節子さんの傑作パニック小説『夏の災厄』(文春文庫)

これはいまこそ広く読まれるべき小説です。

なぜなら、ここには、我が国で深刻な感染がとめどもなく拡大した際に、
どんな事態が引き起こされるのかという事があますところなく描かれているからです。


舞台となるのは埼玉県の架空の自治体・昭川市。
人口8万6千人、池袋まで私鉄の特急で43分とあって、
近年は東京のベットタウンとしても開発が盛んな街です。

春だというのにアスファルトから熱気が立ち上がるほどの暑さに見舞われた4月半ば。
市の保健センターの夜間救急に、発熱の症状を訴える男性がやってきます。

奇妙なことにこの男性は、医者が照らしたペンライトの光を嫌がり、
花のような甘い香りがするとしきりに訴えます。

そして翌日にも同じような症状の女性患者がやってきます。

夫の定年退職を機に看護師の仕事に復帰していた房代は、
二日続けて奇妙な症状を訴える患者が来たことに違和感をおぼえます。

でもこれはほんの前兆に過ぎませんでした。

突然の発熱と頭痛、嘔吐にはじまり、首のこわばり、体の硬直、
そして意識障害、痙攣、異常行動を伴う患者がどんどん運び込まれるようになっていきます。
そして何の手も打てないまま、バタバタと死んでいくか、幸い命をとりとめたとしても、
半身不随になるなど深刻な後遺症が残ってしまうのでした。

やがてこの奇病は、日本脳炎であると診断されます。

蚊を媒介して感染する日本脳炎は、戦前までは恐ろしい伝染病とされていましたが、
現在では年にわずかな感染例が報告されるに過ぎません。

撲滅されたはずの日本脳炎がいまなぜ復活したのか。
またそもそも、この奇妙な病気は日本脳炎なのか――。

感染防止と原因究明に向けて、
房代は保健センター職員の小西とともに奔走しますが、
その前に、硬直した行政システムの壁が立ちはだかります。

対応が後手後手になるうちに、昭川市は暑い夏を迎えようとしていました……。


原因不明の奇病によって現代社会が抱える脆さを露呈させた本書は、パニック小説の傑作です。

なすすべもなく死んでいく人々、感染地域の住民への差別、
一家の大黒柱に重い後遺症が残り絶望する家族などなど、
この手の感染拡大で想定し得る悲劇はすべて網羅されているといっても過言ではありません。


また「ヒーロー不在」の小説であるという点も特筆すべきでしょう。
看護師や市の職員といったごく普通の人々が力をあわせて真相に迫っていくプロセスには、
とてもリアリティがあります。どの登場人物もぼくらと同じ、ひとりでは無力な一市民だからです。


作者の篠田節子さんは、想定外の事態が起きた時に、
行政がどのように機能不全に陥るかということを実にきめ細かく描いています。

それは管轄であったり、法律であったり、予算であったり、
どこまでも具体的なシステムの問題なのですが、
そのあたりの細部の描写は、元八王子市役所職員のキャリアを持つ篠田さんならではでしょう。

メディアにおいて、お役所批判というのは、ある種の定番ですけれど、
それらの批判がいかに本質を欠いた上っ面なものかということが、
本書を読むとよくわかります。(いたく反省)

デング熱禍をきっかけに、
本書をひさしぶりに読み直してみてあらためて怖くなったのは、
感染地区の消毒に行く作業員が集まらない、というくだりを読んだ時でした。

消毒作業を民間業者に委託したものの、
ウィルスを持った蚊がうようよいるようなところになんか行けるかということでバックレたのです。

国民やメディアによって行政改革が叫ばれ、組織がスリム化されたはいいのですが、
その結果、役所の仕事の多くが民間委託されることになってしまいました。

民間業者はもとより公僕ではありません。
なので、このような住民が危険にさらされる事態が起きると、
我先にと仕事を放り投げて逃げ出してしまうのも無理もありません。

行政の民間委託は、おそらくこの作品が世に出た1995年当時よりも、
現在のほうが当たり前になっているのではないでしょうか。


橋下徹さんが大阪府知事に就任した時、
府庁職員に厳しくあたる姿をメディアはずいぶんと持ち上げました。
その裏に、お役所=悪、改革者=善という単純な図式があったことは否めません。(これも反省)

でも彼が信奉する競争主義や市場原理は、
役所の仕事のある部分とは相容れないものだということが、
この小説を読むとよくわかります。

東日本大震災の時にも、役場から住民に避難を呼びかけ続けて逃げ遅れ、
命を落とした方がいらっしゃいましたね。

この小説でも、心ある公僕が住民のために危険をかえりみず行動する様が描かれます。

篠田さんは単行本あとがきでこう書いています。


「勇気あるジャーナリストも、良心的で有能な研究者も、
崇高な精神をもってかけつけるボランティアもここにはいない。
活躍させたかったのは、否応なく災厄に向き合うことになった人々、
文句を言われることはあっても感謝されることはなく、
落ち度を指摘されても成果を評価されることはなく、
仕事だから投げ出すわけにもいかず、
最後まで前線に留まって事態を収拾しなければならない人々だ」

ここで挙げられているのは、
本書の登場人物でいえば、
主に行政の人間ということになるでしょう。

けれども人口減少に伴い、
自治体の中には今後消滅してしまうところも出てくると言われる中で、
(そんな衝撃的な未来が書かれているのが増田寛也さんの『地方消滅』です)
ぼくたちひとりひとりが災厄と向き合い、
前線にとどまって戦う当事者にならなければならない時代は、
もうすぐそこまで来ているのかもしれません。

投稿者 yomehon : 17:47

2014年09月10日

アギーレ・ジャパンと日本の課題

ハビエル・アギーレ監督率いる新生日本代表がついに始動しましたね。
4年後のロシア大会を見据えた長い長い戦いが始まりました。

アギーレ監督がいったいどんなサッカーを見せてくれるのか、
今回の親善試合はそんな期待感で本当にわくわくしましたが、
アギーレ・ジャパンがスタートしたいまだからこそ
「あらためて読み直しておかなければ」と手に取った一冊が、
金子達仁さんの傑作スポーツ・ノンフィクション『28年目のハーフタイム』(文春文庫)でした。


これは名著です。
なぜなら、この本が指摘した問題点や課題は、
いまでも日本代表チームや日本社会にそのまま当てはまるからです。

この本で描かれるのは、1996年アトランタオリンピックのサッカー日本代表。
この大会で28年ぶりに五輪出場を果たした日本代表は、
初戦のブラジル戦で奇跡的に1−0の勝利をおさめ、世界中を驚かせました。
現在でも「マイアミの奇跡」として語り継がれるこの一戦をご記憶の方も多いでしょう。

けれども次のナイジェリア戦で、
日本代表はまるで別のチームになったかのような惨敗を喫してしまうのです。

実はこの時のハーフタイムで、
オリンピック代表チームが空中分解してしまうような出来事が起きていたのでした。

いったいこの時、ロッカールームで何が起きたのか。


著者はまず初戦のブラジル戦に遡って丁寧に再現していきます。


活字メディアの武器は、「時間を自在に操れること」にあります。

たとえば山際淳司さんの名作『江夏の21球』などが典型といえますが、
あの作品では、江夏投手の投じる1球ごとに、
両チームのベンチや選手たちが何を考えていたかが
細かく描かれていき、あの球史に残る9回裏の攻防が濃密に再現されました。

現実のゲームの時間というのはあっという間に過ぎ去ってしまうものですが、
活字は現実の時間をいちどバラバラにして、それをドラマとして再構築することができます。
(だから優れたスポーツ・ノンフィクションは読ませるし面白いのです)


金子さんも優れたスポーツライターの例に漏れず、
あの奇跡的なブラジル戦でのゴールがいかに生まれたかを丁寧に再現していきます。

後半27分、なぜ伊東輝悦選手は持ち場を離れて突然走り出したのか。
なぜ遠藤彰弘選手もそれにつられるようにタッチライン際を駆け上がっていったのか。
逆サイドにいた路木龍次選手は、なぜふたりの動きに気がつかないまま、絶妙なクロスをあげたのか。
そしてなによりも、なぜディフェンダーのアウダイールとゴールキーパーのジダは交錯したのか……。


ブラジル守備陣の信じられないミスから決勝点は生まれ、
この虎の子の1点を守って日本はブラジルから歴史的な勝利をあげたのです。


普段、サッカーが下手な選手のことを「まるで日本人のようだ」とたとえる表現があるくらい、
日本のことを見下している国ですから、予想だにしない敗戦にブラジル国内は大騒ぎになりました。

一方の日本では、新聞の号外が配られ、選手の親や恩師などのもとに取材陣が殺到するなど、
奇跡をおこした選手たちを英雄に祭り上げる動きが一気に過熱しました。


ここでひとつ浮かび上がるのが、「マスコミの問題」です。

著者いわく「世界で最も代表チームに対して甘い論評をする国」である日本では、
代表チームがランキング上位のチームに勝つたびに、「チーム一丸」であるとか
「耐えてつかんだ感動の勝利」といったクリシェ(紋切型)が見出しに乱舞するものの、
本当のところその試合での実力差はどうだったのか、といった掘り下げた検証はみられません。

著者はブラジル戦での奇跡の勝利も、
「巷間言われているように”チーム一丸”となって勝利をつかんだのでもなければ、
恐るべき団結力を発揮したわけでもなかった」と言います。

著者が選手たちの証言をもとにつぶさに再現してみせた試合経過をあらためてみると、
選手たちの多くはブラジルとのあいだに圧倒的な力の差を感じていて、
「未知なる世界に引きずり込まれていく得体の知れない感覚」や
「腹の底から湧き上がってくる畏怖の念」をおぼえながらプレーしていたことがわかります。
要はいっぱいいっぱいだったわけです。


いっぱいいっぱいのブラジル戦で幸運にも勝利した日本は、
次のナイジェリア戦のハーフタイムでチームが崩壊してしまいます。

いったい何かあったのか。

西野朗監督が、ご本人の表現を借りれば「生まれて初めてってぐらいキレちゃった」のです。

誰にキレたのか。

相手は当時19歳だった中田英寿選手でした。

ハーフタイムでロッカールームに引き上げてきた中田選手が、
同じ左サイドでプレーすることが多かった路木選手に対して、
「もっと押し上げてくれないとサッカーにならない」と不満をぶつけ、
それを耳にした西野監督が
「みんな頑張っているのに、なんでお前はそういうことを言うんだ!」とキレたというのです。

(中田英寿選手の半生を描いた小松成美さんの『鼓動』をみても
同じような状況が描かれていますから、ここに書かれているのはおそらく事実なのでしょう)


実は路木選手は「あんまり飛び出すな」という監督からの指示を守っていただけだったのです。
西野監督は中田選手の発言を、自分への重大な反逆ととらえ激怒したのでした。


この一件で動揺したチームは、後半いくつものミスを重ねて、ナイジェリアに惨敗してしまいます。


中田選手はなぜ路木選手に不満をぶつけたのでしょうか。

西野監督の怒りからは、「チームの和を乱すな」というニュアンスが読み取れますけれども、
中田選手の視点からみると、まったく違った背景がみえてきます。

実は前半の45分間で中田選手は「ナイジェリアの弱さに愕然としていた」というのです。
勝てる相手に引いてちゃダメだ、もっと上げないといけない、という思いから、
路木選手に対してあのような要求を出していたのでした。


ここでふたつめの問題が浮かび上がります。
それは「世界を知る選手と知らない選手との差」です。


かつてジュニア・ユースと呼ばれていたアンダー17世界選手権が、1993年、日本で開催されました。
日本は堂々ベスト8の成績をおさめるのですが、中田選手はこの時のメンバーでした。
ナイジェリアにはカヌーがいて、スペインにはラウールがいて、というように、
後に世界でもその名を知られるようになった凄い選手たちと、中田選手は互角に戦ってきたのです。

この時、ディフェンダーでありながら、中田選手の言う事にも一理あると感じていたのが、
同じくアンダー17で世界大会を経験していた松田直樹選手でした。
(ご存知のように2011年に34歳でお亡くなりになられました。惜しい選手を亡くしました)

ナイジェリアの怪物フォワード、カヌーのマークにつきながら、
「初めてやった時に比べたら全然動けなくなっているな」と感じていたというのです。


敵が弱くなっていることに自分たちは驚いているのに、仲間は脅威を感じている。

ゲームの中でのこの認識のズレが、
監督が選手に対してぶちキレるという最悪の事態として現れてしまったのでした。


この本の中に、オリンピック代表のトレーナーを務めた
並木磨去光さんの興味深いエピソードが出てきます。

ブラジル戦のキックオフ直前、少しでも選手の緊張をほぐそうと、
並木さんは耳のマッサージを申し出たそうです。

人間、本当にプレッシャーを感じだ時というのは、耳がガチガチになってしまうそうなんです。

そこで並木さんがほぐそうとしたところ、案の定みんなガチガチ。

ところがその中で3人だけ、普段とまったく変わらない柔らかい耳の人がいた。

それがワールドユースに監督として出場経験のある山本昌邦コーチと中田選手、
それに松田選手の3人だったというのです。


世界を知っているかどうか。

それは言葉を換えれば、経験の有無、ということです。

著者は、ワールドカップで勝った経験が、
いかにその国を強くしていくかということをいくつもの例をあげて示しています。

たとえばウルグアイは人口300万の小国なのになぜあのように強いのかと言えば、
1930年と1950年のワールドカップで2度の優勝経験を持っているからです。
一方、ウルグアイの11倍もの人口がありながら、コロンビアは90年のイタリアW杯まで、
ほぼ毎回、地区予選敗退の憂き目にあい続けてきたうえに、今回のブラジル大会で初めて
ベスト8を経験しました。(だから今後は強豪国になっていくのかもしれません)


本書を読んでいると、
サッカーが強くなるために必要なのは、まず勝利の経験であり、
では勝つためになにが必要なのかといえば、
それは「個の確立」であることがよくわかります。

著者の次のような指摘は実に示唆に富んでいます。


「思えばサッカーは、近代国家としての形態を完成しつつあったイギリスで誕生した。
言ってみれば実に近代民主主義的なスポーツである。
まず個人の権利が尊重され、
それを尊重したうえでより大きな利潤を生むために集団を形成するのが近代国家だとしよう。
”権利”という言葉を”技術”、”集団”を”組織”とでもすれば、
近代民主国家の定義は、そのままサッカーの定義にも置き換えられる。
他の競技ではあれほど強かった共産主義国家が、なぜサッカーでは頂点に立てなかったか。
オリンピックはボイコットしてもワールドカップの予選には出場し続けた彼らが、
なぜ陸上競技や水泳のように常勝集団たりえなかったのか。
サッカーと民主主義を関連づけて考えると、こんな答えもでてくる。
それはつまり、サッカーを生んだ国ほどには、個人が尊重されていなかったからだ、と」


そして著者は問いかけるのです。

日本では個人の権利が確立されているか。
日本では真の民主主義が定着するのかと――。


本書の単行本が出版されたのは1997年のこと
でも、マスコミの未熟な報道や
世界を知る選手と知らない選手とのあいだに生じる格差などは、
ブラジル大会を終えたいまの日本にも引き続きあてはまる課題ではないでしょうか。

だから初版から17年がたったいまも、この本の価値はいささかも古びるところがないのです。

なお、今回のワールドカップの総括でもっとも面白かった本として、
湯浅健二さんと後藤健生さんという海外サッカーに通暁するベテランジャーナリストが、
ブラジル大会と同時進行で行った全7回の対談をおさめた
『日本代表はなぜ敗れたのか』(イースト新書)もおススメします。

この本の中でも、いま日本に求められる人材として、
「変化こそを常態とする創造的破壊ができる人間」があげられています。

表現こそ違えど、
ここでも同じような課題が指摘されていると思いました。

投稿者 yomehon : 15:06