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2011年09月04日

「いねむり先生」


通勤電車に乗っていると、
他の人が読んでいる本が気になって仕方ありません。

目の前に本を開いている人がいれば、
「何を読んでいるんだろう」と、背後からそれとなく覗き込む。
横に座った人が文庫本を取り出せば、
振り向いて窓の外を眺める体を装いつつ、ちらりと盗み見る。

そんなふうに他人の本をチェックするうちに、通勤電車の中では、
いわゆる自己啓発本を愛読している人がとても多いことに気がつきました。

「手帳に書くだけで夢がかなう」
「年収1500万円を可能にする仕事術」
「成功のカギは朝の時間の過ごし方にあり」……etc。

みんな大変だなぁ、と思います。
いま自分がおかれている境遇を少しでも変えたい。
この手の本を読んで本当に状況が好転するかどうかはさておき、
そういう気持ちはよくわかります。
誰だって今より少しでもマシな人生を送りたいに決まってるのですから。


人生に迷った時、ぼくが手に取る一冊は、
故・色川武大さんの『うらおもて人生録』(新潮文庫)です。

色川武大(いろかわ・たけひろ)さんは1929年(昭和4年)生まれ。
16歳で敗戦を迎え、職を転々とするうちに
やがて博打で喰いつなぐことをおぼえた色川さんは、
家出同然で各地を放浪、賭場への出入りを繰り返し、
若くして数々の修羅場を経験します。

雑誌編集者を経て文学賞の新人賞を受賞した後は、
阿佐田哲也名義でのギャンブル小説や、
純文学、エッセイなどジャンルを問わず活躍。
いくつもの傑作を遺しつつ、1989年に60歳でこの世を去りました。

「戦後最後の無頼派」、「雀聖」という異名や、
どこでも寝てしまう持病のナルコレプシーのエピソードとともに、
色川さんの名前をご記憶のかたもいらっしゃることでしょう。

『うらおもて人生録』は、
世の中を生き抜いていくための叡智がつまった大名著。
凡百の自己啓発本が束になってもこの本の足元にも及びません。

一言でいえばこの本に書かれているのは、「上手な負け方」。
自己啓発本の類いのほとんどが「いかにして成功するか」を説いているのに対して、
この本には「いかにして負けるか」ということが書いてあるのです。

色川さんによれば、人生の運の通算というのは決まっていて、
勝ち続けようと無理をすると、結果的にどこかで致命的な負けを被ることになる。
大切なのは、大負けしないように小さな負けをうまく拾っていくことで、
そのためにも、「ひとつ、どこか、生きるうえで不便な、生きにくい部分を
守り育てていく」こと、「洗練された欠点」というべきものを身につけることが大事だと説いています。

詳しくはぜひ本をお読みいただきたいのですが、
さすが数々の命がけの勝負を見続けてきただけあって、含蓄にとんだ話が並んでいます。


そんな色川さんとの交流を綴ったのが伊集院静さんの『いねむり先生』(集英社)。
結婚したばかりの妻を突然の病で喪ってしまった主人公が、
「先生」と呼ばれる作家との交流の中で傷ついた魂を再生させていく話です。

この小説に書かれているのは、「人はいかにして救われるか」ということ。
いまの日本ではとても切実な響きをもったテーマです。

新婚の妻(もちろん夏目雅子さんのこと)を亡くして
自暴自棄な毎日を過ごしていた主人公サブロー(伊集院さん)が、
ある日先輩(黒田征太郎さん?)の紹介で
「先生」(色川さん)に引き合わされるところから物語は始まります。

やがて「先生」と飲みに行ったり、賭場をのぞいたり、
連れ立って「旅打ち」と呼ばれるギャンブル旅行に行ったりといった
つきあいが始まります。

この小説の魅力は、そういったつきあいの過程で、
主人公が「先生」を観察する様子がとても繊細に描かれていることです。

最初は名前を知っている程度だった「先生」が、
つきあいを重ねていくうちにいろいろな顔を持っていることがわかってくる。
その中には、自分自身と同じように、やっかいなものを内側に抱えた、
つまりは「生きるうえで不便な、生きにくい部分」を抱え込んでしまった意外な先生の顔もある。
そういう他人が知らない顔をひとつずつ見つけていくたびに、先生との距離が少しずつ縮まってゆく。

この時間をかけてふたりが友人になっていく様子が実に味わい深いのですね。
人生経験をつんだ大人の読者だからこそわかる人間関係の機微みたいなものが
丁寧に描き込まれている。

特に新潟の弥彦で水田に映る田毎の月を眺めながら酒を呑む場面などは、
(ここは主人公が心の奥底の闇と対峙する重要な箇所でもあるのですが)
まるで神話の一場面のようで、ここ数年のうちに読んだ小説のなかでも
屈指の美しいシーンでした。


先ほど『いねむり先生』で描かれているのは、
「人はいかにして救われるか」ということだと述べました。

人はいかにして救われるか。

この小説からの答えは、
「人は誰かに寄り添ってもらうことによって救われる」
ということではないかと思うのです。

はたして僕たちにも「先生」のように辛抱強く
心に傷を負った人の傍に寄り添っていてあげることができるでしょうか。

震災を経たいま、読みながらそのような問いが
心の内に浮かんでくるのを押さえることができませんでした。

この小説もまた、いまこそ読むべき一冊といえるでしょう。

投稿者 yomehon : 2011年09月04日 01:40