« 2009年09月 | メイン | 2009年11月 »

2009年10月10日

新作『グラーグ57』登場!傑作の続編の出来ぐあいやいかに?


昨年のミステリー界最大の事件をあげるとすれば、
間違いなく「新人作家トム・ロブ・スミスの登場」ということになるでしょう。
デビュー作『チャイルド44』は掛け値なしの傑作で、
『このミステリーがすごい!2009年版』でも海外部門ベスト1に選ばれました。

スターリン圧政下の旧ソ連を舞台に、国家保安省の捜査官レオを主人公にした
この物語のいったいどこが凄かったかといえば、まず主人公への負荷のかけ方が
尋常ではなかったことがあげられます。

ミステリー小説の主人公というのは
ただでさえ窮地に追い込まれるものですが、
『チャイルド44』のレオはその中でも群を抜いていました。
彼ほど悲惨な目にあわされた主人公はちょっと他に思いつきません。

物語の中でレオは連続殺人犯を追います。
捜査官が犯人を追うのは至極当然なので、これだけなら話はいたってシンプル。
けれどもここに当時のソ連の特殊な社会背景がからんできた途端、
主人公はとてつもない困難に襲われることになるのです。


特殊な社会状況とはなにか。
まず確認しておかなければならないのは、
当時のソ連では殺人事件は存在しないことになっていたということです。

素晴らしいイデオロギーに基づいて理想国家を建設しているというのが
当局のタテマエですから、貧困や犯罪といったネガティブな要素は、
資本主義によって腐敗した西側諸国にこそあっても、
偉大なるソビエト連邦には「あってはならない」ことになるわけです。

ですから、国家が「うちらのような理想国家に凶悪犯罪などあるわけがない」と
言っているところに、当の国家に忠誠を誓わなければならない官僚が、
「いや、現実に凶悪犯罪は起きているんですよ」と声をあげるというのは、
国家に対する反逆行為になります。

ということはすなわち、レオは連続殺人犯を追えば追うほど、
おのれの身を危うくするということになるのです。


もうひとつ、このようなタテマエ社会で横行するものがあります。
「密告」です。

たとえばちょっとでも気に食わないヤツがいれば、
「あいつは陰で国家指導部の悪口を言っています」と告げ口するだけでいい。
その人は当局に連行され、拷問を伴う厳しい取り調べを受けます。
やがて人々は、次に売られるのは自分かもしれないと疑心暗鬼に陥り、
隣人や同僚、時には親兄弟すらも先手を打って告発するようになります。

まったくもって息苦しく陰惨な社会ですが、
レオも彼を恨んでいる同僚によって告発され、
妻ライーサとともに危険にさらされます。

『チャイルド44』は、このような陰々滅々とした社会状況のもとで
正義を貫こうとする主人公の活躍に加え、家族とはなにかということもしっかり描いて、
ミステリー小説の昨年の収穫として真っ先に名前をあげてもおかしくない傑作となりました。


さて、そんな傑作の刊行から1年後、思いも寄らないことに続編が出ました!
前作の興奮も醒めやらないところに届けられたのは、
『グラーグ57』上巻 下巻 田口俊樹訳(新潮文庫)です。


前作から3年後。
レオは念願の殺人課を創設することができたものの、
養女ゾーヤとの関係に頭を悩ませていました。

レオ夫婦はゾーヤとエレナというふたりの女の子を養女にしています。
ふたりの両親は、前作でレオの部下によって射殺されていて、
レオは罪の意識と、もしかしたら本当の家族になれるかもしれないという淡い期待も
あってふたりをひきとりますが、年頃の長女ゾーヤとの関係はぎくしゃくしています。

そんな折、モスクワで連続殺人事件が起きます。

被害者の共通項を探るうちに、ラーザリという男が浮かび上がってきました。
レオは国家保安省時代に多くの一般市民を逮捕していましたが、
ラーザリも「上司から渡された名前をタイプで羅列したにすぎない一枚の紙切れだけで、
逮捕を繰り返していた」その頃に逮捕した男で、強制収容所送りになっていました。

連続殺人は収容所にいるはずのラーザリの復讐劇なのか?

レオはやがてヴォリと呼ばれる強制収容所あがりの犯罪集団のひとつが
ラーザリと関わりを持っていることを突き止めます。
しかし養女ゾーヤは彼らに誘拐され人質にとられます。

レオはゾーヤを救うために極寒の地を目指します。
そこにはラーザリのいる強制収容所「グラーグ57」がありました――。


プロットは二転三転し、前作と同様、一度読み始めると止まりません。
けれどもこの『グラーグ57』の美点は、そういうストーリーの面白さとは
別のところにあるように思えます。


物語の中盤で、レオは犯罪者集団ヴォリの女性リーダー、フラエラと対峙します。

レオに組織の目的を問われたフラエラはこう答えます。

「警察が犯罪者集団になったら、犯罪者が警察にならなければならない。
悪党どもが豪華なアパートでぬくぬくと暮らしているときには、
罪のない者が地下で暮らさなければならない。市の掃きだめで暮らさなければならない。
この世は逆転してしまっている。わたしはそれをあるべき姿に戻そうとしているだけだ」

警察は誰かの密告にもとづいて罪のない者を逮捕し、拷問し、
強制収容所で死ぬまで働かせる。これが犯罪者集団でなくなんであろう。
フラエラはそう言っているのです。

事実、レオはそのことに罪の意識を持っていて、新しく創設した殺人課では、
「政治的に真実とされたものではなく、証拠に基づいた真実だけを」追うような
捜査をし、いつの日か「罪を犯した者を逮捕した数が罪のない者を逮捕した数を
上回る」ことがせめてもの罪滅ぼしになると考えています。

ここにだけ目を向けると、単に善と悪が逆転した世界を
描いているだけのように思えますがそうではありません。

時代背景としてここに有名な「フルシチョフのスターリン批判」が加わることで、
物語は一挙に深さと奥行きを増すのです。


「フルシチョフのスターリン批判」とはなにか。
スターリンの死後、フルシチョフが共産党の党大会で初めて
スターリンの独裁政治や粛正の事実を公表しました。
それまでの国家指導者の行状を部下が批判したのです。

そうするとどうなるかといえば、
それまで国家権力の威光を笠に弱者を弾圧していた者が、
逆に復讐に燃える人々から狙われる立場になるのです。

一夜にして価値観の逆転が起き、昨日追われていた者が今日は追う者になる。
ここまでくると、もはや何が正しくて何が悪いのかもわからなくなります。

『グラーグ57』では、このような「あらゆる基準が崩壊した社会」の姿が描かれます。
そして物語を読み進むうちに次第にわかってくるのは、
「あらゆる基準が崩壊した社会」というのはどうやら
ぼくたちが生きているこの時代そのものでもあるらしい、ということです。

レオの物語がぼくたちの物語につながっていること。
この小説のいちばんの美点はそういうところにあるのではないかと思うのです。


北上次郎さんの解説によれば、
レオを主人公とするシリーズは、
このあと第3部が書かれて完結するようです。

時代のうねりに翻弄される人間の小ささと、
運命に抗う人間の強さを同時に描いてみせる
トム・ロブ・スミス(なんとまだ30歳です)が、
果たしてどんな結末をみせてくれるのか。

次の1年後を楽しみに待ちたいと思います。

投稿者 yomehon : 01:55