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2009年11月23日

小太郎の左腕


玄関の新聞受けがゴトリと音をたてたのに驚いて顔をあげると、
いつの間にか窓の外が白み始めていました。

傍らには、読み終えたばかりの本。
手に取ったのがつい今しがたのように思えるのに、
物語の世界に没入していうるうちにいつの間にか夜が明けていました。

年に何回か、こんなふうに朝を迎えてしまうことがあります。
寝食を忘れて本を読み続けたあげく、気がつけば貴重な休日が
まるまる潰れていたりする。もちろんそんな事態に陥るのは、
極めつけに面白い本と出会った時に限られるわけですが。


『小太郎の左腕』(小学館)は文句なしの完全徹夜本です。

作者があの『のぼうの城』の和田竜さんだと聞けば、
きっと多くの人が「完徹もやむなし」と納得してくれることでしょう。

武力を振るうわけでもなく、智力を働かすわけでもなく、ただボーッとして人々に
愛される人柄だけが取り柄という男が、部下や領民の心をひとつにまとめあげ、
秀吉の軍勢を退ける様を魅力的に描いた『のぼうの城』は、これまでの時代小説には
なかった新しいヒーロー像を生み出した作品としてベストセラーとなりました。

あの『のぼうの城』の作者の新作となればいやがおうにも期待は高まります。
『のぼうの城』と同様、 『小太郎の左腕』の装丁にもオノ・ナツメさんの画が
印象的に使われていますが、アートな雰囲気を醸し出していた『のぼう』に比べると、
『小太郎』は切り絵を思わせるようなどこか懐かしいテイストの表紙となっています。
(ぼくは子どもの頃読んだ『モチモチの木』という絵本を思い出しました)


さて、ではこの『小太郎の左腕』 のストーリーをみていきましょう。
時は戦国時代初期。いまだ世は定まらず、腕に覚えのある戦上手たちが
あちこちで衝突し合っているようなそんな時代に、あるところで戸沢家と児玉家という
豪族が争っていました。
まだ戦国大名などは歴史の上に現れておらず、力のある領主が近隣の領主を
屈服させることで、徐々に勢力を広げていっているような時代です。
戸沢、児玉両家ももはや衝突は避けられず雌雄を決すべき時を迎えていました。

戸沢家には猛将として近隣に勇名を馳せる林半右衛門という武者がいます。
ある日、児玉家との戦に敗れて山中を敗走していた半右衛門は、
謎めいた地鉄砲(猟師)の老人に伴われた小太郎という少年と出会います。
部下が携えていた左構え(左利き用)の種子島(鉄砲)に興味を示す小太郎に対して、
半右衛門は領主が主催する鉄砲試合に参加するよう声を掛けます。

そして一月後に開催された鉄砲試合で、半右衛門をはじめとする人々は、
小太郎の信じがたい才能を目撃することになります。眼前で奇跡が起こったことに
人々は沸き立ちました。
けれどもそれは、小太郎と半右衛門の運命を狂わす出来事でもあったのです――。


この『小太郎の左腕』 、まず主人公が「11歳のスナイパー」という設定が見事です。
『のぼうの城』もそうでしたが、このような主人公もいまだかつて存在しなかった。
どうやら作者の和田竜さんはキャラクター設定の名手のようです。
しかもこの幼いスナイパーは胸の裡に孤独を抱えている。このディテールもいい。

(スナイパー小説の傑作にスティーヴン・ハンターの『極大射程』がありますが、
あの小説の主人公、天才スナイパーのボブ・リー・スワガーも、山奥で隠遁生活を送って
いました。孤独や寂しさを抱えているというのはスナイパーの条件かもしれません)

ともに暮らす老人以外に身寄りもなく、人目を避けるように暮らしていた少年が、
大人たちの思惑に巻き込まれ、戦場で引き金を引くうちに、自分の力で生きていくことを
学ぶ。物語全体を通した主人公の成長は、この小説の読みどころのひとつです。


それからもうひとつ、この小説で作者が力を入れて描いているのは、
戦国の世の男たち独特の価値観です。

先日、松岡正剛さんの『日本流』(ちくま学芸文庫)という本を読んでいたら
こんな面白い話がありました。
平安時代には貴族のあいだで「あはれ」という感覚が尊ばれたけれども、
時代が下って新たな階層として武家が台頭してくると、
貴族たちの「あはれ」に対して新しく「あっぱれ」が登場してきたというのです。

戦国の世ではまさにこの「あっぱれ」という感覚が尊ばれました。
豪快さや度胸、ぎりぎりのところで命のやりとりをしていても
どれだけ涼しい顔をしていられるかというような見栄や矜持。

「男」という字よりも、「漢」と書いて「おとこ」と読ませたくなるような
そんな好漢ぶりが戦国の世においてはもっともカッコいい男性像だったのです。

(ちなみにそんな戦国のダンディズムを見事に描いた小説に、
前田慶次郎を主人公にした隆慶一郎の『一夢庵風流記』があります。
興味のある方はぜひ読んでみてください)

物語の中で作者がもっとも愛情をもってその好漢ぶりを描いているのは
林半右衛門です。半右衛門はまさに戦国ダンディそのものといっていい男でした。
合戦の場では死ぬことを恐れずに誰よりもはやく先陣を切り、
ひとたび敵将と相まみえるや、高らかに名乗りをあげて一騎打ちをする。
卑怯な真似はしない。好敵手と槍を交えた結果、死んでしまうのならそれでいい。
でもどうせ死ぬなら美しく派手に散りたい――というような。

単純といえば単純、けれども戦国時代のように極端に死が身近にあった時代には、
このようなシンプルな思考様式が受けたのでしょうね。
ちなみにこの戦国のダンディズム、後の世には「武士道」として結実します。
武士道は天下太平の世のもとタテマエ化していき、やがて衰退していくことは
ご存知のとおりですが、半右衛門の時代にはまだ生身の男どうしが器のデカさを
競いあうような、素朴でわかりやすい実力主義が幅をきかせていたのです。

このようないまの時代には存在し得ない男性像を描くこと。
これがこの作者のもうひとつの狙いのような気がします。


さて、物語のラストにおいて、林半右衛門と小太郎の人生が
これ以上ないというくらいドラマチックに交錯します。
この部分はぜひお読みいただきたいのですが、
非常に映像的で余韻の残るラストシーンとなっています。

ラストまで物語は最後まで間然とする所がありません。
この小説を読んで損をしたという人はおそらくいないでしょう。
娯楽小説の王道を行く作品。強くオススメします!

投稿者 yomehon : 03:10