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2008年03月30日

心を揺さぶる料理小説


昼ご飯を食べようと飛び込みで入ったオフィス街のカフェテラス。
初めての店なのでおっかなびっくりあたりを見回していると
向かいのテーブルの女性が読んでいた本が目にとまりました。

「あ、あの本だ」

ところかわって乗客がひしめきあいアルコールのにおいが充満する終電車。
つり革につかまって本を読む女性をふと見上げると、カバーは外されていたけれど
モミの木が可愛らしくあしらわれた見覚えのある装丁が。

「おや、ここにも」


爆発的なベストセラーとはいかないまでも
なんだか着実にこの本のファンが増えているような気がします。
もしかしたら来年の本屋大賞あたりの有力な候補作かも。
そんな予感も抱かせるオススメの一冊が
小川糸さんのデビュー作『食堂かたつむり』(ポプラ社)です。


主人公は倫子という25歳の女性。
ある日彼女がトルコ料理店でのアルバイトを終えて帰宅すると、
同居していたインド人の恋人が姿を消していました。

ふとんや家具などの家財道具一式。
いつかお店を開くときのためにコツコツ貯めていたお金。
すべてがなくなっていました。

それだけではありません。
恋人に去られたショックで、倫子は声までも失ってしまいます。

ただひとつだけ残されていた祖母の形見であるぬか床を抱えて
ふるさとの村へ帰った彼女は、小さな食堂をはじめます。


「食堂かたつむり」と名付けられたそのお店はちょっと変わっていました。
まずお客は一日一組だけ。
そしてメニューもありません。

前日までにお客とやり取りし、食べたいものや予算、
それに家族構成や将来の夢などまで細かく調べ、
その結果に基づいて当日のメニューを考えるというやり方。

ゆっくりと時間をかけて味わってほしいため時計は置かず、
周囲の自然に耳を澄ませて欲しいため音楽もかけません。

食材もなるべく地元で調達します。
山ブドウの実は丁寧に洗って煮詰めバルサミコ酢に。(完成はなんと12年後!)
ドングリはいちど煮てから乾燥させ、パン生地に練り込みます。
ザクロはイランの友人に教えてもらったレシピで甘酸っぱいザクロカレーに。
(そうだ!ザクロで思い出したのですが、以前『柘榴のスープ』という素晴らしい
料理小説
を取り上げたことがあります。こちらもぜひ読んでみてください)


そんな「食堂かたつむり」の料理は、
次第に村の人たちのあいだで評判となっていきます。
あそこの料理を食べると恋や願い事が叶うというのです。

きっかけとなったのは、ある女性客へのおもてなしでした。
彼女を連れてきたのは、日頃からなにくれとなく倫子の世話をしてくれる熊さん。
「お妾さん」と呼ばれ、村では知らぬ者がいないくらい有名人の彼女は、
愛する人が亡くなってからこのかたずっと喪服で過ごしている寡黙な老婦人です。

事前の面接でもだんまりを決め込み、いっさい言葉を発することのなかった彼女に
倫子が用意したのは、味にメリハリを効かせ、料理で喜怒哀楽を表現したような献立でした。

そのメニューはぜひ本でご覧いただきたいのですが、
およそ10ページにわたる晩餐のシーンでは、
絶望の淵に沈んだまま閉じていた「お妾さん」の心が
倫子の料理によってゆっくりと開かれていく様子が見事に描かれていて、
この小説の前半のハイライトといえます。


けれどもこの小説が「相手を思いやりながらつくった料理が食べ手の魂を揺さぶって
小さな奇跡を起こす」というレベルにとどまっていたなら、よくできた癒し系の小説というだけで、
ここまで声を大にしてオススメする気にはならなかったでしょう。

この小説が凄いのは、実はここからの後半部分なのです。


ネタバレになるので詳しくは書けませんが、物語の後半、
あることがあって、倫子は極めてヘビーな状況にさらされます。

そしてここで作者は、たたみかけるように
読者にある衝撃的な〈現実〉を見せようとします。

〈現実〉という言葉が抽象的に過ぎるのなら
〈食べるという営みの本質〉と言い換えてもいいでしょう。

食べるという行為が本質的に抱え持っている要素を
作者は読者の眼前にいきなりポンと差し出してみせるのです。

このくだりには正直びっくりさせられました。
目の前に展開する光景に最初は慄然とし、けれども読み進むうちに
次第に粛然と襟を正したくなるような思いが込み上げてきました。


〈食べるという営みの本質〉とはなんでしょうか。
それはすなわち〈他の生き物のいのちをいただくこと〉です。

僕たちは他のいのちを身の内にとりこむことで自らのいのちをつないでいます。

底の浅いグルメブームなどでは忘れられている
そのような現実を、作者はしっかりと描いています。
(というか、世に数多あるグルメマンガや美食小説の類で
食べることについてここまで踏み込んで描いたものがあるだろうか)

そしてそのような、僕たちのいのちを支えている大切なところが描けているからこそ、
この小説は傑作たり得ているのだと思います。


最後に作者の小川糸さんを紹介しておきます。
小川さんは1973年生まれ。
清泉女子大で古事記を学び、サブカル系の文芸誌などに
いくつか短編小説を発表した後、春嵐の名前で作詞家としても活動。
現在はアーティストのマネージメントなどを手がけるアミューズに所属しています。

この『食堂かたつむり』は小川さんの初めての書き下ろし長編となります。
デビュー作にしてこんな素晴らしい小説を書くなんてタダモノではありません。

食べることが好きな人はもとより、
毎日の暮らしを大切にしたいという人にもオススメの小説です。

きっと心の奥の深いところを揺さぶられますよ。

投稿者 yomehon : 2008年03月30日 19:08