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2008年01月26日

この男、馬鹿かそれとも大物か


神保町の東京堂書店1Fの新刊棚といえば、
「ここをのぞくだけでいま読むべき本がわかる場所」として
本好きのあいだではつとに知られたスポット。

ある日のこと。いつものように棚のまわりを回遊していると、
「こっちだよ!」「こっちこっち!」とこれまたいつものように
新刊たちがキラキラオーラを発しながら愛想を振りまいてくる中、
妙に渋い独特の存在感を持った本が目にとまりました。

個性的な作風で知られる漫画家オノ・ナツメさんの手になる
眠そうな目をしたお侍の横顔のイラスト。
そして「のぼうの城」という不思議なタイトル。

手にとってみてこれが時代小説だと気がつくのにしばらくかかったほど、
その本は個性的なオーラを放っていました。


『のぼうの城』和田竜(小学館)は、デビュー作ながら
これまでにないまったく新しいヒーロー像を創出することに成功した、
きわめて面白い戦国時代小説です。


時は戦国の世。
天下統一を目指す秀吉の軍勢が、関東の覇者・北条家の討伐に乗り出します。

舞台となるのは、北条家に仕える成田氏の居城である武州・忍城(おしじょう)。

忍城はいまの埼玉県行田市に位置した戦国史上に残る名城です。
なにをもってして名城かといえば、この忍城、別名を「浮城」といい、
洪水が多い地の利を活かし、一帯の島々を城郭とした天然の要塞だったのです。
(ああもうこの舞台設定だけでワクワクしてしまう!)

秀吉に「武州忍城をすり潰せ」と命じられるは、石田三成。
天下にその名を轟かせる知恵者なれど武功に恵まれぬ三成は、
秀吉に与えられた二万の軍勢をもって忍城の制圧を図ります。


ところがそこにひとりの男がのっそりと立ちはだかります。
その男の名は成田長親。
成田家の当主・氏長の従兄弟で、北条家を助太刀して小田原城に籠もる
氏家になりかわり、忍城の城主を務めるこの男こそが、
これまでどの時代小説にも描かれることのなかった画期的なヒーローなのです。

けれどその人物像は英雄豪傑からはほど遠い。
なにしろこの男、図体ばかりでかく、泰然としているが愚鈍で、
領民からも面と向かって「のぼう(でくのぼう)様」と呼ばれる体たらく。
好んで農作業を手伝おうとして、あまりの不器用さに農民から邪魔者扱いされ
しょげ返ってしまうような男のどこがヒーローなのか。


実はそこがこの物語のキモの部分でもあるのですが、
こののぼう様、なにをやらせても役に立たないでくのぼうでありながら、
ただひとつ人の及ばぬ美点を持っています。
それは、誰からも愛される「人気者」であるという点。

その人気は半端なものではありません。
たとえ死ぬかもしれなくても、農民たちは「のぼう様のためならしようがない」と
苦笑しながら戦への参加を申し出ます。人望があるというのともちょっと違う、
みんなから馬鹿にされながらも愛されるキャラクター。
こんなヒーロー像はこれまでの時代小説にはありませんでした。


のぼうという類い希なるキャラクターを引き立てるのは、よく練られたストーリーです。

三成の軍勢からいかに忍城を守るか。
この攻防が物語のいちばんの読みどころになっているのですが、
夢中で読みながら僕が思い浮かべたのは、酒見賢一さんの『墨攻』(新潮文庫)でした。

中国戦国時代に独特の博愛主義を唱えて城を守る側に加担した武装集団・墨家。
『墨攻』は、その墨家に属する革離が、趙の大軍を前にたったひとりで城を守り抜く
傑作小説ですが、これに勝るとも劣らない攻防を『のぼうの城』でも堪能できます。

特に関白秀吉を真似て三成が行った水攻めをめぐる攻防は読ませます。
圧倒的な財力と人海戦術でつくりあげた巨大な堤で川をせきとめ、
忍城を水没させた三成に対して、のぼうは思いもよらない手に打って出ます。


のぼうを支える武将たちのキャラが素晴らしく立っていることも特筆すべきでしょう。

朱塗りの槍の遣い手で漆黒の魔神と恐れられる正木丹波守利英。
髭面の巨漢で戦場では剛強無双を誇る柴崎和泉守。
戦場経験のない若造なれど数々の兵書を自家薬籠中のものとする酒巻靱負。

それぞれがそれぞれの持ち場で持ち味を発揮し三成の軍を撃破します。

その活躍ぶりを目の当たりにしながらふと気がついたのは、
このキャラの配置は三国志にすごく似ているということ。
丹波は関羽、和泉は張飛、靱負は孔明を連想させます。

ならば、のぼうは劉備か?ということになるけれども、
この物語の面白いのは、最後までのぼうがどんな男かわからない、というところです。

もしかしたら単なる馬鹿かもしれない。
いや、それとも将たる器なのか――。

付き合いの長い者ですら判別しかねるくらいに、
のぼうという男はとらえどころがありません。
いったいのぼうとは何者か。


吉継は、しきりに首をかしげていた。
「わからぬ。なぜあの総大将が、ああも角の多い侍大将どもを指揮できるのか」
(略)
「できないのさ」
三成は、当然のようにいった。
「それどころか何もできないんだ。それがあの成田長親という男の将器の秘密だ。
それゆえ家臣はおろか領民までもが、何かと世話を焼きたくなる。
そういう男なんだよ。あの男は」 (321ページ)


皮肉なことに、のぼうとの対比で逆に鮮明に浮かび上がってくるのは、
器の小さな人間たちの卑小さやセコさ、愚かしさやみっともなさです。

上には追従、下には居丈高といった類の器の小さな人間が迷惑なのは、
サラリーマン社会のみならず戦国の世においても同じこと。

『のぼうの城』は、「人の器量とは何か」というきわめて普遍的なテーマを、
忍城をめぐる息もつかせぬ攻防の中で描き出すことに成功しています。

読後感も清々しく、普段時代小説を読まないという人にもおすすめできる一冊です。

投稿者 yomehon : 2008年01月26日 21:16