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2008年02月03日

三面記事のような人生


朝の番組を担当していた頃なので
たぶん3~4年前のことになるかと思いますが、
ある朝ふと目にした新聞記事のことがいまでも忘れられません。

それは社会面の片隅に小さく掲載されたいわゆる三面記事で、
長患いで悩んでいた妻の自殺に手を貸した夫が、
自殺幇助の罪でつかまったという内容でした。

ぼくが心を動かされたのは自殺にいたるまでにふたりがとった行動です。

夫は妻を自転車の荷台に載せて、
死に場所を求めしばらくあちこちさ迷っていたというのです。

この間ふたりはいったいどんな会話をかわしたのでしょうか。
自転車を漕ぎながら夫は何を思い、
また夫の背中に顔を寄せながら妻はどんな気持ちでいたのでしょうか――。

まるで一本の小説を読んだときのように、さまざまな想像が浮かびました。


角田光代さんの『三面記事小説』(文藝春秋)は、
実際に新聞に掲載された三面記事をもとに描かれた6つの物語からなる短編集。

たとえば巻頭におさめられた「愛の巣」の下敷きになっているのは、
26年前に殺害して自宅の床下に埋めた女性の遺体が
区画整理で発覚すると観念して警察に自首してきた男の記事です。

角田さんは、殺人を隠し続ける夫婦の話に
26年間夫の秘密に気がつくことのなかった女性の話をからめ、
現実の事件にも負けない強度をもった物語世界を構築してみせます。


この短編集を読み進むうちに、いつしか僕は奇妙な思いにとらわれていました。

「ここに出てくる登場人物は僕たちそのものではないか」


物語の元となる三面記事の登場人物たちにはある共通点があります。
それは誰もがみな「こんなはずではなかった」という思いを抱えていること。

たとえば「彼方の城」という短編で描かれるのは、16歳の男子高校生を相手に
みだらな行為をしたとして逮捕された38歳の無職の女です。

離婚した夫の親から振り込まれる養育費だけに頼り、
ふたりの子供と小さなアパートで暮らす愛子。
そんな彼女の胸を占めるのはこんな思いです。


「未来がすばらしいものであると信じていたのはいつごろまでだったろう。(中略)
Aという場所を目指して全速力で駆けたのに、ついたところはまったく見覚えのない、
AでもなくBともCとも異なる、場所とすら思えないようなどこか。穴ぐらのようなどこか」


切実さの度合いは人それぞれとはいえ、
誰もが愛子ような思いを抱いたことがあるはずです。

「こんなはずではなかった」
「もっとましな人生が送れたのではないか」

ささいなボタンの掛け違いから生じた小さな綻び。
その綻びは気がついたときにはもう落とし穴のような大きさにまで広がっていて、
僕らを呑み込もうとします。

三面記事が僕らの想像を掻き立てるのは、
そこに描かれているのが僕たちの姿そのものであるからに他なりません。
だって落とし穴に落ちたのは、もしかしたら僕らだったかもしれないのですから。


三面記事が僕らを惹きつけてやまないのにはもうひとつ、
三面記事が僕らの欲望を満たしてくれるという側面があることも見逃せません。

三面記事はジャーナリズムの誕生とともにありました。
18世紀にロンドンで繁栄をみせたコーヒー・ハウス。
コーヒー・ハウスにはさまざまな都市の住人たちが集い、
政治や経済について議論を戦わせたほか、
ゴシップやスキャンダルといった情報の集積地にもなりました。
そこから生まれたのがジャーナリズムです。
(詳しくは小林章夫『コーヒー・ハウス 18世紀ロンドン、都市の文化史』をお読み下さい)

マスコミの面接で、ジャーナリズムとは何かと問われたら、
たぶんウケがいいのは「権力に対する監視装置です」みたいな回答でしょうが、
僕は「ジャーナリズムの本質は三面記事である」と答えます。

なぜなら、コーヒー・ハウスから生まれた草創期のジャーナリズムは、
三面記事的な情報を扱うことでますます読者を増やしていったからです。

三面記事が僕らを惹きつけるもうひとつの理由。
それは「あちら側」に一歩踏み出してしまった人間を見たいという
俗な興味にこたえてくれることではないでしょうか。


三面記事の登場人物は、僕たちそのものでもあると同時に、
僕たちとは違う世界に行ってしまった人間でもあります。

三面記事を読むとき、
僕たちはそこに自分自身の姿をみて恐れおののき、
同時にそれが自分ではなかったことに安堵しているのかもしれません。

投稿者 yomehon : 2008年02月03日 21:55