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2007年07月11日

圓朝の夏、喬太郎の夏が行く

 東京の落語界には、6月から7月・8月と、三遊亭圓朝作品が高座に上るという風物詩がある。

 今年も既に何回か耳にしたが、8月公開予定の映画『怪談』の影響か、『真景累ケ淵』の口演が例年になく多いようだ。ただ、圓朝全集が厳然と存在する分、どなたの高座も原典の言葉や構成に縛られ、類型化しがちな傾向があるのも否めない。

 その点、現代の圓朝物としては飛び抜けてユニークに感じた高座が、7月10日 横浜にぎわい座で柳家喬太郎師が口演された『牡丹燈籠』。7月・8月と2回に分けた『牡丹燈籠』の通し企画で今回は前編。発端の「刀屋」から「孝助の奉公」「お露新三郎」「お国源次郎の密通」「お札剥がし」「孝助追放の謀事」まで、2つのストーリーをテレコに演じたが、言葉や展開に思い切って手を加え、従来の『牡丹燈籠』とはかなり違うイメージに仕立てていた。

 喬太郎師の圓朝物は、落語とラジオドラマの中間風演技で、マイク扱いに長け、小声の台詞を駆使。遠近感を巧みに操り、緊迫感を高めてラジオドラマ的なリアリティ空間を感じさせつつ、時々、ノンシャランと自分に戻り、登場人物やその置かれた状況をドライに批評出来る点に特色がある。真っ暗なスタジオから、会話や効果音だけが聞こえてくるような語りなのである。特に、喬太郎師は黙っているのにマイクだけが生きてノイズを拾っているような、「無音の空間」を感じさせる点は、圓生師・彦六師・馬生師から現代の他の噺家さんには絶対にない。一番優れていた表現は、毎晩訪れるお露・お米が幽霊と知ってガタガタ怯える新三郎の下へ、幽霊が現れる場面の下駄の音。最初に現れる際の下駄は、単に「カラン・・・コロン」と鳴るのに、ここでは「昨日まではウキウキと待ち焦がれていた下駄の音が、本日からは、丸で地の底からでも響いてくるかのように感ぜられて ・・・・・カラン・・コロン、、、カラン・・コロゥン、、、カランン・・コロン、、、カラン・・・コロン、、、」 と、新三郎の恐怖に連れ、音量を細かく変えるから、怖さがテレビのテロップのように視覚的になる。

 幽霊2人の科白も、ガラリとドラマ風の幽霊(むしろお化け)言葉に変わる。舞台でなく、2時間ホラードラマ的科白回しゆえ、圓朝物の古めかしさを感じず、しかも状況が分かりやすい(ホラーには時代を超えた分かりやすさがある)。新三郎が新幡随院の墓地で、お露・お米の塔婆を見つける際、良石和尚から「足の赴くままに歩いて行き、ふと足が止まる所の目の前の墓を見なさい」と言われた通りに足が動く怪奇も心理ホラーのテクニックである。墓地で「牡丹の燈籠が塔婆に掛かり、風にヒュ~~っと裾が晒されている」件の、手の動きを加えた「ヒュ~~」の擬音は上方落語的で視覚性十分。

 2つのストーリーの変わり目でカットバックの手法を使い、説明文なしに科白で繋ぐ演出も、ひと晩の口演用によく練られた手法である。

 尤も、違和感の残る点もある。新三郎が御札を貼ったと知ったお露が「ウソ、ウソ、ウソウソウソ・・・」と嘆くのは、現今のアホギャル的ボキャブラリーで興醒めした。新三郎に庭で行水を使わせたのは、室内で畳を裏返す不吉さを欠く。そして何より、人物を批評出来るドライさの裏返しで、新三郎・お露・お国・源次郎が全~然、美男美女に見えない。結果、扇橋師の「御札はがし」のような凄艶さにも乏しい。新三郎・源次郎は「見栄えのせぬ、頼りない若者」でしかなく、女性は揃って性質が悪くて怖い。その辺りは、喬太郎師の人間観・男女感の発露かな・・・とはいえ、ここまで圓朝物に手を入れられる才質は高く評価されてしかるべきものだろう。8月の後編をお楽しみに。

                               石井徹也(放送作家)

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横浜にぎわい座http://www.yaf.or.jp/nigiwaiza/index.html

牡丹灯籠チラシhttp://www.yaf.or.jp/nigiwaiza/chirasi/images/1908/10.jpg

投稿者 落語 : 2007年07月11日 01:00