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2007年06月21日

芸談にも「芸惜しみ」はある

 日本の芸事に付き物の芸談は、落語にも時々登場する。たとえば、『淀五郎』の中で歌舞伎界の名優・初代中村仲蔵は『忠臣蔵』四段目、判官様の腹切りについて、若い淀五郎にこう語る。「腹を切った時、お前さん、顔色が変わるかい?変わらない・・・まだ若いから仕方ないな。それなら、耳の後ろに青黛を塗っておきな」。ところが、私も友達の鈴々舎馬桜師匠も、長年、四段目の腹切りを拝見しちァいるが、顔色の変わる判官様など見た事がない。

 で、十数年前、中村芝翫丈が塩谷判官を務められた際、馬桜師と私は一計を案じた。開演前に馬桜師が楽屋を訪ね、「今日、拝見させて戴きます」と芝翫丈に御挨拶に伺ってから、客席に回る事にしたのである。嫌らしい話だが、「判官様の参考品を拝見させて戴きたい」と謎を掛けたとでも申そうか。するとその日、芝翫丈は気分も乗られたのか、三段目の喧嘩場から我々が見知っている塩谷判官とは全く違う、「鎌倉幕府を倒した足利の名将」という、品格に戦国大名的手強さを加えた演技でまず我々を驚かせた。そしていよいよ、四段目の腹切り。腹切り刀を突き立て、顔を一度伏せた判官様が再び顔を上げた時、サササッ、サササッと数度、顔に青い縦筋が走った!

 馬桜師と私はその瞬間、顔を見合わせて「見たッ?!」とお互いに小声で叫んでしまった。歌舞伎の白塗りの上に、どうすれば青い筋が走るのか?理屈なんざァ分からない。しかし、我々は『淀五郎』の芸談を実地体験した訳である。終演後、馬桜師が再び楽屋を訪ね、「結構な舞台を拝見させて戴きまして」と芝翫丈に厚く御礼を申し上げたのは勿論だが、以来、我々二人はずっとこう思っている。「芸談に嘘はない」。

 ただし、芸談には誰が訊いたかで、レベルの変わる事もある。或る噺家さんが、自分が鹿芝居で演じるに付いて、歌舞伎界の某名女形に伺った事がある。「昔から、先代萩の政岡が栄御前を見送ってから花道の際で微笑むのは、何故なんですか?」。名女形答えて曰く「政岡は飯炊きの場の主役なのに、一幕の間、一度も笑う事がない。お客様への御愛嬌で笑うんです」。ところが、同じ件について某名女形は芸談の「聞き書き本」では、或る新聞記者にこう語っている。「敵方がいなくなり、政岡は緊張が解けて笑うんです」。さて、皆さんはどちらの芸談が本当だと思います?

  「お客様への御愛嬌で笑う」を、私は中村仲蔵が淀五郎に語るのと同じ、プロがプロに語る芸談だと思い、「なるほど歌舞伎は新劇と違い、一筋縄では見抜けない芸だ」と感嘆する半面、「緊張が解けて笑う」という心理分析は、「素人向けの分かりやすい芸談でしかない」と思った。厳しい言い方をすれば、「聞き書き」をした新聞記者氏は「歌舞伎に関して、素人と同程度の理解力しかない」と見られたのかも・・・つまり、「芸談」にも「芸惜しみ」がある訳だ。

 近年、古今亭志ん生師匠に関する著作が色々と出ているが、お弟子さんが身近で見聞したエピソードはともかく、芸談の類は志ん生師に信頼されていた元電通プロデューサー・小山観翁氏が見聞されたものしか私は信じないようにしている。失礼乍ら、故・安藤鶴夫氏が「志ん生師から聞いた」として書いているものはまずダメだ。レベルの低い相手に対して、志ん生師は絶対に「芸惜しみ」するタイプだもん。晩年の志ん生師は人情噺を多く演じたが、その理由を大抵の人が「尊敬する名人・橘家圓喬への傾倒から」と語るけれど、私は観翁氏からこう伺った。「あれは圓喬への傾倒なんかじゃなく、お客を笑わせる体力がなくなったからですよ。それくらい、人を笑わせるってのは大変な事なんです」。ウ~ム、落語も一筋縄では行かない芸だなァ・・・だからこそ、面白いんですけど。

                                    石井徹也(放送作家)

投稿者 落語 : 2007年06月21日 08:24