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2007年04月27日

たとえば、三遊亭圓朝作品再発見?

 『鰍澤』とくれば、三遊亭圓朝師匠が作った一席物人情噺の名作で、近年では、三遊亭圓生師匠の十八番だった。そりゃ結構なものでね、『鰍澤』を演じる圓生師匠はカッコ良かった。ただ、どちらかってえと、眼目は、「元花魁である“月の輪のお熊”の色気」とか、「雪の中を鉄砲持ったお熊に追いかけられる様子の凄まじさ」を描く描写にある、とされてきた噺であり、「今の観客にアピールする要素には乏しい」という印象がどうも強かつた。実際、圓生師匠くらいの歌い上げの芸がないと、終盤の「所も名代の釜ヶ淵!」なんて全然盛り上がらないし、面白さも感じないのである。
 でも先日、ふと、こう思った。「大雪のため道に迷い、遭難しかけた山中で一軒家にたどりつき、“やれ助かった”と安心したら、その家の女にしびれ薬を飲まされてしまう。それに気づいて逃げたら、女が鉄砲を持って追っかけてくる。逃げた先は運悪く断崖絶壁の行き止まり、後ろに鉄砲!これってスティーヴン・キング並のホラーじゃない?」。
 またたとえば、現在までの『鰍澤』では、“月の輪のお熊”には“熊の膏薬売りの伝三郎”という亭主がいる。しかし、伝三郎が全く登場せず、雪に閉ざされたあばら家で、お熊が誰もいない虚空に向かい、「お前が死んだのも、あの旅人のせい。仇は討ってやるからね」等と言っているのを旅人が見たら・・・つまり、お熊を、心中の仕損ないという悲惨な運命のため、ちょっとイッちゃった女にすると、益々怖いし、ある意味、現代的なリアリティーも出る。蝋燭の灯、揺れる中で、そんな噺を語られたら、ちょっと怖いよね・・・。
 こういう、スーリーの変質(所詮、作り物なんだから)を、文学的でなく出来たら面白いのではないだろうか。
 はたまた、『塩原太助一代記』を、今の時代の中で聞きたいとは思わないけれど、圓朝師匠がこの作品を作ろうと思い立つ原因になった、「本所の大店・塩原家の伝わる怪談」なら、どういう怪談なのか、ちょっと聞いてみたい。だって、元ネタとして有名な割に、この怪談の内容、全然知らないんだから。
 圓朝物を始めとする人情噺って、普通の落語より設定の細かい分、その設定を変えると、全然違う噺に変質しやすいのかも・・・圓朝物の落語でいえば、『死神』等も、ディケンズの『クリスマス・キャロル』みたいなストーリーに変えられないかな?と思ったりする。
 談志師匠や小三治師匠は、「詳細な心理描写」という、文学的テクニックを落語に持ち込んだが、今や私などが聞いても、心理描写をするという事自体が、昔の新劇の芝居を見ているようで、既に古めかしく、詰まらない物に見える。今で言えば、三遊亭白鳥師匠の語り口、柳家喬太郎師匠の語り口など、オリジナリの語り口に合わせ、圓朝作品や昔ながらの落語の物語を変え、新作を生み出して行くのが、現代の落語にとっては、最も大切ではあるまいか? 「古典芸能」に「堕落」したくなければさ・・・。


                                           石井徹也 (放送作家)

投稿者 落語 : 2007年04月27日 09:34