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2021年01月15日

直木賞候補作⑤『インビジブル』

次は坂上泉さんの『インビジブル』にまいりましょう。
候補作の中でもっとも重厚な一冊。
戦後間もない混乱の時代が丁寧に描かれていて、
ずっしりと読み応えがある一冊になっています。

昭和29年(1954年)の大阪を舞台に、
ある政治家がらみの連続殺人事件の犯人を追う
刑事たちの奮闘を描いているのですが、物語のミソはこの時、
警察機構が大きな転換点を迎えていたということです。

戦時中、軍国主義の尖兵を務めた内務省警察は、敗戦後GHQによって
解体されました。かわって昭和24年に新しく施行された警察法のもと、
人口5千人以上の市町村には自治体警察(通称「自治警」)が置かれ、
それ以外の地域は国家地方警察(「国警」)がカバーする体制に再編されました。

このとき、大阪市で発足した自治警が「大阪市警視庁」です。
戦時中の特高のように権力を振りかざし市民を弾圧する警察を脱却して、
市民社会に寄り添う「民主警察」に生まれ変わったというわけです。

ところが昭和29年に警察法がふたたび改正され、現在と同じように、
警察庁の下に各都道府県警が置かれるというかたちに改まりました。

本作は、戦後の5年間のみ実在した「大阪市警視庁」に光を当て、
新しい時代と旧時代との狭間で葛藤しながら、警察としての使命を
果たそうとする刑事たちを描いています。

物語の中心となるのは、大阪市警視庁の若手刑事・新城と、
国警から派遣された警察官僚の守屋。非エリートとエリート。
戦争中は小学生だった男と、戦前から戦後まで国家体制の側にいる男。
あまりに対照的なふたりは、コンビを組んだ当初は反目しあいますが、
捜査が進むにつれ、互いに足りない部分を補い合うようになり、
次第に強い信頼関係で結ばれていきます。

こういう展開は、「バディ(相棒)」ものの定番といえば定番ですが、
この新城と守屋はかなりいいコンビで、ふたりのキャラクターづくりは
成功していると思います。

一方、連続殺人事件の謎のほうは、特に凝ったトリックがあるわけでなく、
満州に事件を解く鍵があることや、事件の根っこに復讐心があることなど、
早々に見当がついてしまいます。

戦時中の出来事が戦後も尾を引いて大きな犯罪へつながるという、
「犯人にとってまだ戦争は終わっていない」というパターンも定番といえば定番です。

ただ、著者はあまり謎解きのほうには
重きを置いていないのではないでしょうか。ミステリー的な趣向よりも、
戦争に翻弄された人々の姿を描くことのほうに力を注いでいるようにみえます。
だとするならば、その狙いは十分に達成できていると思います。

1990年生まれの若い書き手が、これだけのリアリティをもって
戦後間もない大阪の街を描けるのはある意味凄いと思うのですが、
その一方で、松本清張以来の社会派サスペンスの系譜の中に
この作品を置いてみると、どこか既視感をおぼえてしまうのも事実です。

骨太の物語だけれど、新しさはあまり感じられない。
この点を選考委員はどう評価するのかとても興味があります。

投稿者 yomehon : 2021年01月15日 05:00