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2021年01月12日

直木賞候補作②『八月の銀の雪』

次は、伊与原新さんの『八月の銀の雪』にまいりましょう。

候補作の中でただひとつの「理系小説」です。
そして、群を抜いて美しい小説です。

伊与原さんは東京大学大学院で地球惑星科学を専攻し、理学博士号もお持ちのです。
本書には5つの短編がおさめられているのですが、
どれも自然科学の知識が存分にいかされた読み応えのある作品となっています。

就職活動で連敗を重ねる学生がベトナム人女性と知り合い思わぬ事実を知る表題作や、
俳優になる夢に挫折した男性が迷い鳩騒動に巻き込まれることで人生の新たな扉を開く
「アルノーと檸檬」、原発とかかわる男性が海で凧をあげる男性と出会う「十万年の西風」
などなど、すべての作品が印象に残ります。

なにより、惑星、生物、海、気象といった私たちを取り巻く自然環境の話(大きな話)と、
個人の人生の話(小さな話)とが物語の中でうまく溶け合っていることに感心しました。
自然環境をテーマに持ってきた場合にありがちなのは、対立項に人間社会をもってきて
説教臭いメッセージを乗っけるというパターンですが、この作品にはそうした浅さが
まったくありません。

作者の視点は、どこか私たちの時間感覚を超越したところから
人間社会を見ているような雰囲気を感じさせます。
私たちが日々あくせくと暮らしているような時間のスケールを超えた、
もっと惑星規模のとてつもなく大きな時間の流れの中で人間を見ているような。

たとえば表題作では惑星科学が物語の鍵になるのですが、
地球の真ん中には、鉄球の芯があるという話が出てきます。
ドロドロのマントルの中に、鉄の球があるなんてとても不思議な話だし、
そもそも地球が生まれたのは、人類の歴史のスケールを遥かに超えた過去の話です。
しかもそんな途方もない話から、作者は逆にちっぽけな個人の人生に光を当ててみせるのです。
地球の芯の話と個人の人生がどう結びつくのかは、本書を読んでのお楽しみです。
ちなみにタイトルの「八月の銀の雪」の意味もぜひ本を読んで確かめてほしい。
詩的でとても美しいイメージです。

ひとりの人間の人生なんて宇宙のスケールからみれば
一瞬のまばたきにも満たない時間でしょう。でも一瞬だからこそ、
それは唯一無二の光を放つのではないでしょうか。
本書を読みながらそんなことを考えました。

「理系小説」と聞いて、もしクールな印象を持つ人がいたら、それは違います。
数学者の岡潔は、数学の本質は計算や論理ではなく「情緒の働き」にあると述べています。
その言葉通り、すぐれた科学者の書いた文章には、読者の心を動かすものがとても多い。
嘘だと思うなら、中谷宇吉郎や寺田寅彦の随筆などを読んでみてください。

この本にも、読者の情緒に働きかける作品が並んでいます。
ちまちまにした人間関係に悩んでいる人にこそ、本書のような小説を読んでほしい。
私たちが思う以上に、この世界は広く、未知の事柄で溢れているのです。

投稿者 yomehon : 2021年01月12日 05:00