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2021年01月11日

直木賞候補作① 『汚れた手をそこで拭かない』

それではひとつずつ見ていきましょう。
トップバッターは芦沢央さんの『汚れた手をそこで拭かない』です。

芦沢さんは近年、ミステリーの書き手として注目されている作家です。
本作にも5編の短編がおさめられています。

芦沢さんには、身近なところから題材を引っ張ってくるのがとても上手い作家という
印象があります。私たちが見慣れた光景も、彼女の手にかかれば、見たこともない光景へと
一変してしまうのです。

本作にも、小学校のプールの水を流出させてしまった教師や、
エアコンをつけずに寝ていて熱中症で亡くなった老人などが登場します。
どれもニュースでいちどは耳にしたことがあるような事件ですが、巧みな伏線によって、
一見ありふれた題材が、嘘を重ねた人間が追い詰められていく様子や、
人間の思わぬ悪意が炙り出される過程が描かれたドラマへと変貌します。

ことのほか印象に残ったのは、冒頭におさめられた『ただ、運が悪かっただけ』。
末期癌で余命いくばくもない妻の前で、大工の夫が長年、心の奥にしまってきた
ある罪を「告白」します。それを病床の妻が推理するという、いわゆる「安楽椅子探偵もの」
なのですが、鮮やかな推理と叙情性とが見事に結合した作品です
(この短編は、第71回日本推理作家協会賞短編部門の候補にもなりました)。

この作品を読みながら思い浮かべたのは、故・連城三紀彦さんです。
連城三紀彦といえば、大胆なトリックと詩情あふれる文体でエンターテイメント文学に
確固たる地位を築いた作家です。そんな連城作品を彷彿とさせる作品にまさか出会えるとは
思っていなかったので、冒頭からテンションが高まりました。ただ、その後におさめられた
作品は、叙情性というよりも知的に構築された印象のほうが強くて、冒頭ほどのインパクトは
感じませんでしたけれど。

ミステリーというのは、作者の知性が前面に出るジャンルだけに、そこに叙情性も加わると
(より文芸的な要素も加わると)、受賞の可能性が一挙に高まるような気もするのですが、
選考委員はどう読むでしょうか。

最後に本書を読みながら気になったことをひとつ。
この手の短編集には表題作がおさめられていることが多いのですが、それがありません。
つまり本のタイトルは『汚れた手をそこで拭かない』になっていますが、
同じタイトルの短編がこの本の中には「ない」ということです。

「汚れた手をそこで拭かない」というのは5編を貫く作者のメッセージなのでしょうか。
だとするならば、「汚れた手」を拭こうとしているのは誰なのでしょうか。
そんなことを考えながら、読んでみるのも面白いと思います。

投稿者 yomehon : 2021年01月11日 05:00