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2018年07月10日

第159回直木賞直前予想(3) 『じっと手を見る』

次は窪美澄さんの『じっと手を見る』
富士山が見える小さな町を舞台にした7つの物語からなる連作短編集です。

この町で介護士として働く日奈と海斗は元恋人の関係でした。
ある日、介護施設のパンフレットをつくるために、東京から編集プロダクションの人間が取材に
やってきます。この時に出会った宮澤は、日奈にとって、まだ見ぬ世界、ここではないどこかを
見せてくれるような憧れを抱かせる存在でした。ほどなくふたりは関係をもつようになります。
ふたりの関係に嫉妬する海斗。やがて日奈は宮澤を追って町を出ます。
一方、地元に残った海斗は、後輩介護士でバツイチ子持ちの畑中と関係を持ち……。

物語は日奈、海斗、宮澤、畑中それぞれの視点から語られます。
帯に「恋愛小説」とあったので、そのつもりで読み始めましたが、いやいや、この作品は、
そんな枠におさまるような小説ではありません。
すべての登場人物が何らかの問題を抱えていて、迷い、求め、あがいています。
そして、それぞれに苦しみを抱えながら、それでも他者と関わりあっている。
この作品で描かれているのは、恋愛よりももっと広い意味での、他者との関わりではないでしょうか。

そうした点から見ると、物語の中心に介護を持ってきたのは効果的でした。
介護というのは、否が応でも他者と関わらなければなりませんし、しかも常に死と隣り合わせの世界。
介護を通じて、登場人物の人生にさまざまな角度から光を当てることができます。ある時は、
登場人物の生を照らし出し、またある時は、彼らが置かれている経済的な現実を映し出すというふうに。

もうひとつ、この作品を成熟した大人の小説にしているのは、作者の繊細な感性によるところも
大きいということも指摘しておかなくてはなりません。相手の視線のわずかな揺らぎであるとか、
ふっと息をついた仕草であるとか、この作者は、どんな些細な変化も見逃さない眼を持っている。
そうした敏感なセンサーでとらえられたモノやコトは、文章の細やかなディテールとなってあらわれます。


例えば、日奈がもはや自分の知っている彼女ではなくなってしまったことを、海斗が述懐するくだり。

「宮澤と会う前と後では、日奈の体はぜんぜん違う。
思い出すのは子供の頃、寒さで硬くなった練り消しだ。手の中で温め、もてあそんでいるうちに、
手の熱がうつったように、やわらかく、ぐにゃぐにゃになるあれ。今の日奈の体はそれと同じだ。
やわらかくしたのは宮澤で、俺はそのやわらかいものに執着している。」(「森のゼラチン」)


あるいは、父親が潰してしまった居酒屋の前で、酔った海斗が畑中に語る場面。

「『二人で店やらない?ここで』
『やらない。やるわけない』
笑ってそう言いながら、タンクトップの上に着ていたシャツを脱いだ。酔いのせいか暑くて
たまらなかった。黙ったままの先輩の視線が私の胸の谷間を辿る。
『……親父たちにはまだ夢見られたよな、ぎりぎり。俺たちには、それすら許されない。失敗したら
絶対に浮き上がれない。そういうめぐりあわせで生まれてきたんだ』
そう言いながら、火のついた煙草をシャッターに押しつけた。煙草の先端のオレンジ色の火の玉が
つぶれる。男の人の、こういう話、嫌い。」(「水曜の夜のサバラン」)


最後の「男の人の、こういう話、嫌い」という一文なんて、特に上手いですね。
バカなようでいて、冷めた目で男をみている畑中のキャラクターを、この一文だけで
的確に示してみせる。窪さんの小説を読んでいつも「凄いなぁ」と感心するところです。

ただ、こういう繊細なセンサーの持ち主だと、日常生活を送るのは大変かも、と勝手に心配します。
窪さんを直接存じ上げているわけではありませんが、「見えすぎる眼」を持っていると、
気がつかなくてもいいようなことにまで気がついてしまうのではないかと。
でも、そういう能力を持った人間だからこそ、作家になれたのかも。

「じっと手を見る」といえば、誰もが石川啄木の句を思い浮かべることでしょう。
啄木が貧しい暮らしから抜け出せないことになすすべもなくじっと手を見たのに対し、
現代に生きるわれわれは、生きることの息苦しさからじっと手を見るのかもしれません。

では、「見えすぎる眼」を持った作家は、その先にどんな救いの光を見ているのか。
それは本書を読んでのお楽しみです。

投稿者 yomehon : 2018年07月10日 00:00