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2016年10月31日

『君の名は。』 新海誠が描く「災後の物語」


今年最大のヒット作といえば、
なんといっても新海誠監督の劇場版アニメ『君の名は。』ですよね。

これまでの新海作品は
どちらかといえばコアなファンに支持される作風でしたから、
満員の観客で埋め尽くされた光景を前にしたときは感慨無量でした。

しかしそれにしてもなぜ『君の名は。』が
これほどまでのポピュラリティーを獲得するに至ったのでしょうか。

それは一考に値するテーマではないかと思うのです。


まだ観ていない(あるいは読んでいない)方のために
簡単にストーリーを説明しておくと、
東京と地方で離れて暮らす少年・立花瀧と少女・宮水三葉の心が
ある日突然入れ替わってしまうという、
「男女の入れ替わり」のアイデアが物語の核になっています。

戸惑いながら互いの生活を送るうちに、
入れ替わりにある種のきっかけや、
周期などのパターンがあることを知ったふたりは、
スマホにお互いの行動などを記録することでコミュニケーションをとりはじめます。

ところがある時、瀧がサプライズで三葉のもとを訪れようとしたことから、
物語は思わぬ方向へと動き始めるのです。

まだ観ていない人のためにあまり詳しくは書きませんが、
東京と地方という遠距離によって隔てられていたふたりが、
実は現在と過去という時空によっても隔てられていたことが明らかになり、
ここから物語は一気呵成に結末へと走り始めます。


実は『君の名は。』は、
これまでの新海作品を踏襲している部分も多いんです。

新海作品の特長を思いつくままに挙げてみると、
作品ごとに繰り返し変奏される「男女のすれ違い」というテーマ、
各作品に通低する「切なさ」の感覚、
「喪失」への痛み、
さまざまな表情をみせる「空」の描写、
そして美しい細密画のように描かれる「都市の風景」、といったところが挙げられます。


『君の名は。』もこれら新海作品の特長を踏まえています。

冒頭、地上へと落下していく彗星の映像は、
あの新海誠の作品が、まさにこれから始まるのだということを高らかに宣言するものに他ならないし、
時空を隔てた瀧と三葉のすれちがいは、狂おしいほどの切なさを掻き立てます。

それらはみな、この作品が他ならぬ新海誠監督の作品であることを
証し立てているわけですが、この『君の名は。』にはひとつだけ、
これまでの新海作品にはない特色があります。


それは、「巨大災害後の世界を生きているということへの深い自覚」とでも言うべきもの。
明らかににこの作品は、「災後の物語」として描かれています。


この作品にはもともと
「夢と知りせば 男女とりかえばや物語」という仮タイトルがつけられていたそうです。

古今和歌集にある、小野小町が詠んだという
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
(あの人のことを思いながら眠りについたから夢に出てきたのかしら。
夢と知っていたら目を覚まさなかったのに)という和歌と、
古典の『とりかえばや物語』からストーリーの着想を得たそうですが、
男女の入れ替わり生活がコミカルに描かれる前半から
物語のトーンがガラリと転調して、
「死者の存在」が物語の前景へと急にせり出してくるところなどには、
やはりぼくは3・11の体験が大きく影響していると思うのです。


特にぼくがリアルだと感じたのは、
瀧も三葉も互いの名前を忘れてしまうところ。

「いつまでも大切な人のことを忘れない」というメッセージを打ち出す作品は
よくありますが、この『君の名は。』では忘れてしまう。
ここが他の作品にはなかった点です。


さらにここからが重要で、
瀧も三葉も、忘れても忘れても、「思い出そう」という意志は持ち続ける。
忘却に必死に抗う。

「君を忘れない」みたいなメッセージでは終わらずに、
そこからさらに踏み込んで、人間だから忘れてしまう。
でもだからこそ、全身全霊で思い出せ、というメッセージを全力で発しているのです。

これはこれまでにないアプローチです。


唐突に感じるかもしれませんが、
ここで思い出すのが古代ギリシャの哲学者プラトンです。

哲学というと、なにか難しいことを考え続ける行為のように思われるかもしれませんが、
プラトンの哲学のもっとも重要なコンセプトは、「想い出すこと」でした。

人間の魂は、本当に大切なことはもともと知っているものだ。
だから大切なのは、考えることではなくて想い出す(想起する)ことなのだと
プラトンは考えたのです。


そういえば、村上春樹さんは、
物語を語るというのは、
「意識の下部に自ら下っていくこと」だと述べています。(『職業としての小説家』

大切なものは地下の暗闇のようなところにあって、
そこに下りていって発見したものを、
物語のかたちで私たちに見せてくれるのが小説家なんだと村上さんは言います。
(先日のアンデルセン文学賞の授賞式でのスピーチでは、
「自分の影と向き合う」と表現していましたね)

村上さんがここで述べていることは、
ぼくにはほとんどプラトンが言っていることと同じように思えます。


長く続いた「戦後」が終わったのか、
それともまだ続いているのかということにはいろいろな意見があるようですが、
しかし少なくとも、個人的な実感に基づいて言えば、
いまはもう戦後よりも「災後の時代」であると言っていいのではないでしょうか。

ある日突然、理不尽に大切な人の命が奪われてしまう。

自然の猛威、
テロなどのコラテラル・ダメージ
あるいは最近の痛ましい事件でいえば、
87歳の老人が暴走させた軽トラックによって
未来ある子どもの命が奪われるという信じがたい暴挙のように。

愛する人や、か弱く小さき者たちの命が、突然に奪われてしまう。
そんな悲しい場面をぼくたちはどれほど目にしてきたことでしょう。


忘れても、想起し続けること。
たとえ忘れたとしても、大切なことは私たちの中に眠っているのだと気づくこと。

『君の名は。』は、
そういった理不尽な現実への
ひとつの態度表明になっているのではないでしょうか。

理不尽で悲しい出来事と人はどう向き合えばいいのかというテーマは、
昔から宗教が取り扱ってきたテーマでもあります。
(たとえば聖書でいえば「ヨブ記」がそうです)

そういったものと比べて、
「『君の名は。』なんてしょせんエンタメじゃないか」という意見もあるでしょう。

でもエンタメでこういうアプローチの作品が出てきたことこそが重要なのだと思います。


3・11の後という括りでいえば、
いくつかの文学作品なども書かれてはいますが、
個人的にはいまひとつピンとくるものがなかった。

だから「災後」ということではむしろ、
水俣病をテーマにした石牟礼道子さんの『苦界浄土』のような作品を
なんども読み返したりしていました。

それが今年は、非常時のこの国の意思決定システムのあり方を
真正面から描いた『シン・ゴジラ』という素晴らしい作品が出てきて、
そしてこの『君の名は。』が出てきた。

もちろんこのタイミングで両作品が公開されたのは偶然ですが、
どちらも大ヒットしているのは偶然ではないと思います。

やはりそれは、「災後」の社会を生きる僕たちが無意識に求めているものが
ここに描かれているからではないかと思うのです。


最後に。
もしこの『君の名は。』を観て新海作品に興味を持たれた方は、
次はぜひ『星を追う子ども』を観て下さい。
『君の名は。』へとつながる
大切な人の死というテーマを扱った秀作で、こちらもおススメです。

投稿者 yomehon : 2016年10月31日 01:00