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2014年04月07日

「改革者」の素顔


ノンフィクションが凋落し始めたのはいつ頃からでしょうか。

個人的な実感をもとに振り返れば、
それはいわゆる「ゼロ年代」であったような気がします。

読みごたえのある秀作を次々に発表し、
将来を嘱望されていた井田真木子さんが、
突然44歳の若さでお亡くなりになった2001年あたりから
ノンフィクションは徐々に勢いを失いはじめ、
ノンフィクション作家たちの活躍の場だった講談社の『月刊現代』が
2009年に休刊(現在は『G2』にかたちをかえて奮闘中)するに至って、
ノンフィクションの落日はついに決定的となったように思います。

けれども、昔もいまもノンフィクションが
その時代の自画像を鋭く描くジャンルであることに変わりはありません。


たとえば前述の井田真木子さんには、
『フォーカスな人たち』(新潮文庫)という作品があります。
この本におさめられた太地喜和子さんを描いた文章などは、
奔放に一生を生き抜いたと世上では思われている女優が、
心の奥底に抱え込んでいた宿痾を剔出しながら
ある時代の断面をも描き出してみせた、人物ルポの傑作といえます。

ひとりの人物の肖像を描きながら、
その向こうにある時代の相貌をも描き出してしまう。

優れたノンフィクションとはそういうものなのです。


このほど第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した
佐々木実さんの『市場と権力――改革に憑かれた経済学者の肖像』(講談社)も、
ひとりの経済学者の半生を描きながら、
日本社会のこの十数年の変化を見事に捉えた一冊です。


この本で取り上げられている経済学者とは、
かつて小泉政権で経済財政政策担当大臣や金融大臣を務め、
「構造改革」路線の旗手として知られる竹中平蔵さん。

ただの人物評伝だと侮るなかれ。

取材におよそ8年も費やしたというだけあって、
竹中平蔵氏の半生はこれ以上ないというくらいに詳細に調べ上げられ、
そんな彼の半生を通じて著者が見出した「時代の正体」とでも呼ぶべきものは、
構造改革ははたしてぼくらを幸せにしたのかとか、
改革を唱える勢力に、なぜある種のうさんくささを感じてしまうのかといった、
ぼくたちが抱いているモヤモヤとしたいくつかの疑問に、ある明確な答えを与えてくれます。


竹中氏がどのように経済学者として頭角を現し、どのように権力に接近したか、
あるいはなぜあのように弁論に長けているのかといったことについては、ぜひ本をお読みください。

竹中氏が時代の変化とともにあの手この手でのしあがっていくプロセスには、
きっとある種の社会派小説や、時にはスキャンダル小説を読むかのような面白さを
感じていただけるはずです。

ここではひとつだけ、本書の核心とも言える部分に触れてておきましょう。


本書でこれでもかというくらいに描かれるのは、
竹中氏のアメリカとの極端なまでの密着ぶりであり、
信仰と呼びたくなるほど熱心な「構造改革」への情熱です。

日本社会が変わらなければならないというのは、
多くの国民に共有されている認識ではないでしょうか。

にもかかわらず、竹中氏流の「構造改革」に違和感を感じてしまうのは何故なのか。

日米の膨大な関係者への取材を通じて、
著者は竹中氏の言動や行動の背景にあるものを描き出しつつ、
次のような言葉に、近年の日本社会の変化を凝縮させてみせます。


「抵抗勢力」から奪い取った富は、「改革勢力」に与えられる。
改革推進グループのなかで利益を分かちあうことが原動力となって、
さらなる「改革」は推し進められていく。文字通り「改革は止まらない」状態まで
高揚する。(314ページ)


竹中氏の主導した(そして現在も安倍政権によって推し進められている)
「構造改革」の本質を、これほどまでに的確に表現した文章があるでしょうか。

本書で微に入り細を穿って検証される「構造改革」なるものの正体とは、
旧来の勢力から新しい勢力への富の移転だったのです。

ただこのような「構造改革」の本質に目が向けられることはありませんでした。
それは、社会が変わるのではないかという期待をマスコミが煽ったからです。


たとえば、2005年7月の参議院の審議では、
民主党の桜井充議員がある資料を暴露しました。

それはアメリカの通商代表部代表(当時)のロバート・ゼーリック氏の竹中氏宛ての私信で、
そこには郵政民営化についてのアメリカ政府の要望が箇条書きで書き連ねてあるものでした。

この私信を入手した桜井氏は、
郵政民営化の欺瞞をつく決定打になると考えたようですが、
案に相違してこの質問は、大手メディアに黙殺に近いかたちで無視され、
それ以上追及されることなく、いつの間にかうやむやになってしまうのです。


このメディアの温度の低さは、
桜井氏が暴いた事実よりも、
「改革」への期待感のほうが勝っていたことを物語っています。

竹中平蔵氏を通じてみえてくる日本社会の変化とはどのようなものだと言えるでしょうか。

著者は本書の「おわりに」で、
経済学者の宇沢弘文氏のエピソードに触れています。

宇沢氏はかつて新古典派経済学の世界的リーダーでした。

シカゴ大学教授として優れた論文を次々と発表し、
ジョセフ・スティグリッツジョージ・アカロフといった
のちのノーベル経済学賞受賞者たちが教えを乞うほどの碩学だった彼は、
その後、経済学や経済学者そのものを批判するようになります。

宇沢氏は、ベトナム戦争当時に国防長官だった
ロバート・マクナマラ氏の公聴会での発言を引き合いに出して、
次のようなことを述べています。

ベトナム問題で批判的な質問を受けたマクナマラ氏は、
ベトナム戦争で投下された爆弾の量や
枯れ葉作戦によって汚染された土地の面積、
死傷した人間の人数などの統計データを列挙しながら、
これだけ大規模な戦争を遂行しながらも、
増税を行うこともなく、インフレすらも起こさないできたのは、
もっとも効率的、かつ経済的な手段で戦争を行って来たからだと胸を張ってみせました。

字沢氏は、マクナマラのこの発言に
「ことばに言いつくせない衝撃を受けた」と言います。

なぜならマクナマラ氏の主張は、
まさに近代経済学の基本的な考え方と相通じるところがあったからです。


近代経済学は、「平等を重んじる」とか「公正さを目指す」といったような
ある種の価値判断から中立な立場をとり、
「効率性」のような尺度を導入して科学的な装いをこらすことにより、
社会科学の一分野となりました。

経済学は、ある目的を達するために、
「どのような手段やモデルを用いるべきか」は扱うけれども、
「どのような社会を目指すか」ということにはタッチしないというわけです。


けれども、「価値判断からの自由」を標榜するのはみせかけにすぎないのではないかと
字沢氏は指摘します。

それは「効率性のみを追求し、公正、平等性を無視する」という態度表明に他ならないからです。

そして、効率性のみを追求する知識人が、
現実の政治権力と結びついて影響力を行使するとき、
取り返しのつかない災いが起きる、と看破したのです。


字沢さんが批判する思考のかたちを、
「新自由主義」と言い換えてもいいでしょう。

東西冷戦が崩壊して、グローバリズムが世界を覆ったいま、
この新自由主義的な考えは、もはや社会の価値観のスタンダードにもなりつつあります。

竹中平蔵氏はそんな転換期に現れた、まさに「時代の顔」であったと言えるでしょう。

本書はひとりの経済学者の肖像を通して、
いまぼくたちが生きている時代を鮮やかに描き出した必読のノンフィクション作品です。


投稿者 yomehon : 2014年04月07日 11:46