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2010年08月23日

乙女チックなのにとても怖い 芥川賞受賞作『乙女の密告』


先日我が家でたいへんなものを発見してしまいました。
パソコンの調子が悪く、ヨメが仕事で使っているMacをこっそり拝借したときのこと。
ネットに繋げようとしたらヨメが直前まで作業していたページがたまたまモニターに
大写しになって、それを見たぼくは唖然としてしまいました。

なんと、ヨメがツイッターを始めているではありませんか!

い、いったい、いつのまにこんなものを・・・・・・。
どうせ夫の悪口でもつぶやいているに違いない。
そう思ってヨメの「つぶやき」を追ってみると、たしかにあるある、
案の定、ヨメはかなりの頻度でぼくの悪口をつぶやいていました。

でもそれ自体は別にいいのです。
ぼくだって方々でヨメの悪口言っているし
(といっても、こちらはつぶやいたりせずに大声で言ってるけどね)
悪口を言われること自体は別にかまいません。

にもかかわらず、ひとつだけ、癇にさわる悪口があったのです。
それはある日のこんな「つぶやき」でした。


「きょうも旦那が汗臭いYO!」

・・・・・・。
これを見つけた時にはムカーッときました。
たしかに汗臭い。一日中営業で外に出てるんだ。ああ汗臭いとも!
でもそれはいい。だって本当に汗臭いし・・・・・・。
アタマに来たのは汗臭いと指摘されたことではありません。

「汗臭いYO!」の「YO!」。
この「YO!」にぼくはものすごくムカついたわけです。

なんなんだ「YO!」って?

この不愉快な感じをどう言えばいいんでしょう、
例えるなら渋谷のセンター街でB・BOYに、
汗だくのスーツ姿を小馬鹿にされたような、そんな感じでしょうか。

こちとら額に汗して(実際、汗してるのは額どころではない)毎日働いてんだ!
それを「YO!」とはなんだ!「YO!」とは。
人のことをとやかくいう前にその乱れた日本語をなんとかしろ!!
まったくもって信じられないDEATH!!!!!

そう声を大にして言いたくなったのです。


ところで、こういう言葉遣いでも文学の世界では評価されたりするから面白い。
たとえば第131回の芥川賞受賞作、モブ・ノリオさんの『介護入門』(文春文庫)
こんな文体で書かれています。


陳腐な悲劇ってのはいつも月並みで特権的な語り手を作るんだってな。
俺もそのお仲間か、だと?ha、ha、どっちでもいいさ、好きに決めてくれよ。
但し、この俺なくしては、ばあちゃんは介護さえ受けられなかった身体だったってこと、
YO、こいつに関しては尊大に語らせてもらうぜ、俺は既にこの件の権威なんだ。


日常会話が実際こんなだとちょっと困った人になってしまいますが、
これが文学、特に芥川賞ともなると評価されるわけです。
ヒップホップのような呪文のようなこの不思議な文体は、
当時「新しい饒舌文体」などと言われ話題になったりもしました。

あえて乱暴に分けると、エンターテイメント小説を対象とした直木賞は、
文章の上手さや構成の巧みさ、つまりは作品の完成度の高さが評価され、
純文学を対象とする芥川賞のほうは、文体の新しさや視点の斬新さ、
ラジカルな問題作であるかどうかが評価基準となるといえます。

もっと簡単にいえば、直木賞は「上手さ」に、
芥川賞は「新しさ」に比重を置く、ということになるでしょうか。


ではこのほど芥川賞を受賞した赤染晶子さんの『乙女の密告』(新潮社)
どんな新しさを秘めているのでしょうか。

物語の舞台は京都にある外国語大学。
ここには女子学生ばかりが集まるドイツ語のゼミがあります。
彼女たちは自らを「乙女」と称し、バッハマンというドイツ人教授の指導のもと、
スピーチコンテストに向けて、日夜「アンネの日記」の暗唱に励んでいます。

バッハマン教授はいつもアンゲリカという名前の西洋人形を後生大事に抱えていて、
思いついたことがあれば他の先生の授業中だろうが教室に乱入するという変わり者。
そんなバッハマン教授がある日乙女たちにこんなことを問いかけます。

『アンネの日記』の中で一番重要な日はいつか。

子どもの頃から「アンネ・フランク」ファンという主人公のみか子は、
アンネが一緒に隠れ住んでいた少年ペーターと初めてキスをした
1944年の4月15日がその日だと答えますが、バッハマン教授は
これを否定し、

「乙女の皆さん、アンネ・フランクをちゃんと思い出してください!」

と謎の言葉を残すのです。
「アンネ・フランクを思い出せ」とは何か、
自分たちが生まれるはるか昔のことを思い出せとは
いったいどういうことか、乙女たちは首をひねります。

『のだめカンタービレ』で竹中直人さんが演じた
シュトレーゼマンを彷彿とさせるバッハマン教授の濃いキャラと、
乙女たちの京都弁ののんびりとした会話が相まって、
物語は独特のユーモラスな空気を醸し出しつつ進みますが、
ある日、乙女のひとりがバッハマン教授と不適切な関係にあるという
黒い噂が流れるあたりから雰囲気は一変します。


噂は少しずつ広まった。乙女達はスピーチの練習よりも熱心に噂を
囁きあったのだ。乙女はときにかく喋る生き物だ。
「えー、信じられへんわー。不潔やわぁ」
これが乙女の決まり文句だった。乙女とは、信じられないと驚いて誰よりも
それを深く信じる生き物だ。


噂の犠牲となったのはみか子の尊敬する先輩、麗子様でした。


乙女の噂とは恐ろしいものなのだ。何の根拠もなく、一人の乙女を異質な
存在に変えてしまう。自分達の集団にとって徹底した他者にしてしまう。
その時、真実なんか関係ない。


乙女たちは根拠のない噂を囁き合うことで誰かにスティグマ(負の烙印)を押す。
読者はやがて気づかされます。
これは乙女たちだけの話ではない、これはゲシュタポの手を逃れて隠れ家に
身を潜めねばならなかった、あの「アンネ・フランク」の物語と同じだ、と。


噂は乙女達のあいだにある緊張状態を生み出した。乙女達は疑心暗鬼になった。
常にお互いに確認する。本当に噂を信じているのか。本当に潔癖なのか。
ちゃんと汚らわしいものを嫌悪しているのか。それを確認する方法はただ一つ
である。ともに噂を囁き合うことである。噂とは乙女にとって祈りのようなものなのだ。
噂が真実に裏付けられているかどうかは問題ではない。ただ、信じられているか
いるかどうかが問題なのだ。信じることによってのみ、乙女は乙女でいられる。
噂とは乙女にとってもろ刃の剣である。噂は麗子様を他者にした。囁けば囁くほど、
噂は膨らんでいく。噂は常にスケープゴートを必要とする。次誰がスケープゴートに
なるかわからない。スケープゴートになってしまえば、乙女はもう乙女ではなくなる。
他者になる。


物語が『アンネの日記』とシンクロし始める。
アンネ・フランクは誰かの「密告」によって捕えられ、
ナチスの収容所で15年の短い生を終えた。
(私は密告される。必ず密告される)
主人公のみか子も誰かに密告されることを恐れ始める――。


ところで、スピーチコンテストでもっとも恐ろしいのは、突然言葉を忘れることです。
乙女たちはこの記憶喪失の恐怖と闘うために日夜暗唱に励んでいるのですが、
ある時、ともに自主トレを行っていた先輩の麗子様がみか子にこんなアドバイスを
します。


「みか子はいっつも同じとこで忘れるんやね」
「はい・・・・・・」
「それがみか子の一番大事な言葉なんやよ。それがスピーチの醍醐味なんよ。
スピーチでは自分の一番大事な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう
作業でしか出会えへん言葉やねん。その言葉はみか子の一生の宝物やよ」


この物語で圧巻なのは最後のスピーチコンテストの場面でしょう。
みか子は忘れることで大切な言葉と出会います。彼女が見出した言葉は、
『アンネの日記』の中で一番重要な日はいつかという問いや、「アンネ・フランク」を
ちゃんと思い出すとはどういうことかという問いの答えとなるものでした。

主人公が見つけた言葉が何かということは、
ぜひ本を手にとって確かめていただきたいと思います。


『乙女の密告』の新しさは、いまどきの大学を舞台にしながら
ファシズムの問題に鋭く切り込んでみせたところにあります。

エーリッヒ・フロムが名著『自由からの逃走』で明らかにしたように、
人々が自由を謳歌している現代だからこそ、ファシズムの問題は
アクチュアリティを増しています。

『乙女の密告』の110ページでバッハマン教授がとても大切なことを
みか子に語るのですが、ここで語られることは、ぼくたちがファシズムのような
誰かが誰かを強制的に排除しようとする力と戦うための唯一の方法かもしれません。
(ここで何が語られているかもぜひ本で確かめてください)

タイトルや装丁は乙女チックであるにもかかわらず、
恐ろしい問題を扱っている『乙女の密告』
まさに芥川賞にふさわしい作品でありました。

投稿者 yomehon : 00:39

2010年08月02日

 「中島京子」を読もう!

先日の直木賞予想は大ハズレ。また赤っ恥をかいてしまいました。
まぁでも、本命は中島さんか姫野さんという読みだったし、結果には納得です。

それよりも、今回の受賞を機にぜひみなさんに「中島京子」という作家を知って
いただきたいと思うのです。なぜなら、中島さんはデビュー当時から実力派として
知られながら、これまであまりにも賞に恵まれずにいたからです。
直木賞をきっかけに旧作もぜひ読まれるようになってほしい。
そんなわけで今回はあらためておススメの中島作品をご紹介いたします。


とはいえ、まずは直木賞受賞作『小さいおうち』に触れないわけにはいきますまい。

『小さいおうち』(文藝春秋)は、昭和初期に東京山の手のとある中流家庭で、
住み込みの家政婦として働くことになったタキの回想録のかたちを借りながら、
戦時下の暮らしぶりを生きいきと描いた作品。
国が悲惨な戦争へと向かうのとは対照的に、まるで大きなイベントを
楽しむかのように浮き足だっていた当時の世相を巧みに織りまぜながら、
奥様の恋愛事件をはじめとする奉公先の平井家での出来事が描かれます。

白眉は最終章。
ここで語り手がタキからタキの甥の息子に代わるのですが
(タキは生涯独身だったので、この甥っ子の息子が孫のようなものなのです)
彼の調査によって、タキが語らなかった(もしくはタキ本人も気が付いて
いなかった)タキ自身の心の秘密にたどり着く構成は見事というほかありません。
最後の見開き2ページで物語全体の見え方が変わるというか、
「ああそうだったのか・・・・・・」と思わず深いため息が口をついて出てしまうような、
余韻のあるラストになっています。


この作品で作者が書きたかったのは、「人が生きていく過程でいつのまにか
胸の奥底に抱え込んでしまい、容易には言葉にすることができなくなった思い」では
ないでしょうか。(そうした事柄を描くのは昔から女性作家の得意とするところで、
ぼくはこの『小さいおうち』は、田辺聖子さんや、もっと遡るなら吉屋信子のような
作家の系譜に連なる作品ではないかと思います)


言葉に出来ないことを言葉にすること。
森博嗣さんは『小説家という職業』(集英社新書)という大変面白い本の中で、
小説の存在理由を、「言葉だけでは簡単に片づけられない」ことを、
「言葉を尽くして」表現しようとする、その矛盾に対する苦悩の痕跡にある、
と言っていますが、言葉にしづらい思いをなんとかすくい上げて物語の上に
定着させようという姿勢は、中島さんのデビュー作にもみることができます。


中島さんのデビュー作『FUTON』(講談社文庫)は、
そのタイトルからもおわかりのように、自然主義文学や
私小説の嚆矢として知られる田山花袋の『蒲団』に想を得た作品です。

『蒲団』は、中年の小説家が自分のもとを去って行った弟子(もちろん若い女性)の
蒲団に顔をうずめて泣く、というストーリーで有名ですが、中島さんは『FUTON』の
主人公に教え子を追っかけて来日した日本文学研究者のアメリカ人教授を据えて、
『蒲団』を見事に換骨奪胎(あるいは「本歌取り」とか「REMIX」といってもいいです)
してみせたのです。

『FUTON』のストーリーは主に、
学生のエミを追いかけて日本にやってきたアメリカ人学者デイブのエピソードと、
『蒲団』を小説家の妻の視点で語りなおした「蒲団の打ち直し」という作中内小説、
それにエミのひいおじいさんのウメキチと彼を介護する画家イズミの関係などを
軸に構成されています。

なかでもペースメーカーを埋められて介護生活を送る95歳のウメキチは、
長く生きてきただけに胸にいろいろなものを抱え込んでいる。
画家のイズミは、ウメキチが胸に抱え込んでいるものをなんとか理解しようとして、
作中こんな台詞をこぼします。


「おじいちゃんの胸には傷があるの。胸部を開いて、ペースメーカーを
埋め込んで現代に適応させてるんだけど、その横で窮屈にちいちゃくなって、
血や肉のある過去が疼いているの。それがなんだかあたしにはね、
忘れたふりをして縫い合わせちゃって『はい、もうペースメーカーありますから
オッケーですよ』って言っちゃいけないもののような気がするのよ」


このイズミの述懐は、作者の声そのものであると思います。
ウメキチは震災や戦災で東京が瓦礫の山になるのを二度も目撃した
歴史の生き証人ですが、中島さんはこのウメキチの人生を丁寧に辿ったり、
『蒲団』をリノベーションしたりしながら、とてもユニークなかたちで
日本の近代100年の歴史を描きだしてみせるのです。

デビュー作でこれほどの傑作が書けるというのは大変なことで、
もしかしたらこの時点で将来の直木賞は約束されていたのかもしれませんね。


ところで、中島さんは大学が史学科ということもあってか、
歴史資料の読み込み方と作品への活かし方に長けていて、
その成果は『小さいおうち』にも『FUTON』にもみることができますが、
歴史資料のあっと驚く活かし方ということでいえば、なんといっても
デビュー2作目の『イトウの恋』(講談社文庫)を挙げないわけにはいきません。

タイトルの「イトウ」とは、明治時代に実在した伊藤鶴吉という通訳を
モデルにした人物のこと。(小説の中では亀吉になっています)
伊藤鶴吉は、文明開化期の日本を旅して『日本奥地紀行』という美しい本を残した
イギリス人女性イザベラ・バードの通訳をつとめたことで知られています。

『日本奥地紀行』は、文明開化直後の東北の農村や北海道のアイヌの人々の
暮らしぶりがまとめられた貴重なドキュメンタリーで、「日本」に関心のある人は
いちどは読んでおくべき名作です。
著者のイザベラ・バードは旅行家で、明治11年(1878年)に47歳で来日しました。
『イトウの恋』は、彼女の通訳ガイドを務めたイトウ青年が、諍いを繰り返しながら
徐々にこの年上の婦人に惹かれていく様子を、イトウの手記を発見した新米教師と
イトウの子孫の漫画原作者が追う、というストーリー。

それにしても『日本奥地紀行』では、イトウ青年は、顔が「日本人の一般的な特徴を
滑稽化」したようにみえるとか、「愚鈍に見える」が「ときどきすばやく盗み見する」とか、
あまりいい書かれ方をしていないにもかかわらず、彼を主人の英国婦人に恋する
青年へと変えてしまうのですから、小説家の想像力はたいしたものだと思います。

この『イトウの恋』も、歴史に埋もれた人物にスポットをあてて、
日本の近代史の一断面をユニークに描きだした作品。


中島さんの小説の特徴は、『蒲団』の主人公の妻やイザベラ・バードの通訳など、
目の付けどころが抜群にいいということ。(言葉を換えればセンスがいいということ)
そしてその発想を裏付ける資料の読み込み方と活かし方が素晴らしいということ。

『小さいおうち』で中島京子さんに興味を持った方には、
ぜひ『FUTON』『イトウの恋』の2作品も手にとっていただきたいと思います。

投稿者 yomehon : 01:04