« 2008年09月 | メイン | 2008年11月 »

2008年10月30日

 「アラフォー」の次は「オバミマ」!?

ある晩のこと。
ヨメに隠れてぼくは都内某所のレストランで女性と密会していました。

その日は会話も弾み、ひじょうにいい雰囲気で食事を愉しんで、
そろそろ食後のデザートも終わろうかという頃、ふと目をやると、
ワインの酔いで瞳を潤ませた彼女がこちらを見つめているではありませんか!
(※注:個人の網膜に映った映像をさらに脳内で特殊加工しています)

(も、もしやこれは・・・・・・)

気がつけばいつの間にか幸福の天使たちが現れ
テーブルのまわりをグルグル飛んでいるではありませんか!

「YOUいっちゃいなよ!」「YOU決めちゃいなよ!」

彼らはくすくす笑いながらぼくに悪戯っぽくウィンクします。
(※注:個人の網膜に映った映像をさらに脳内で特殊加工しています)

千載一遇のチャンスとはまさにこのこと。

(も、もしやこれは、10年にいちどのビッグ・ウェーブじゃないか――っ!!)


けれども勝利を確信した刹那、あることをきっかけに
幸福の青い鳥は我が掌中からするりと逃げ去ってしまったのでした・・・・・・。

きっかけは彼女が甘えた声で発した
「最近の本で面白いのがあったら教えて~」というひとこと。

おやすい御用!とばかりに、オススメの本について熱弁をふるったのですが、
ふと不穏な空気を感じて彼女をみると、潤んだ瞳からうって変わって
険しい目でこちらを睨みつけているではありませんか――。

そして、彼女はこう言い放ったのです。

「わたし、その人キライ!!」


ぼくはこの年になって初めて知りました。
世の中には2種類の女性がいることを。

2種類の女性――すなわち
「酒井順子を認める女性」と「認めない女性」です。


傑作エッセイ『負け犬の遠吠え』でお馴染みの酒井順子さん。
最新刊『おばさん未満』(集英社)は、四十路を迎えた彼女が
初めて遭遇した「老いの徴候」についてあれこれ考察した爆笑エッセイです。

でもこれ、すすめる相手によっては地雷にもなるオソロシイ一冊でもあります。
例えばこの本をぼくがすすめた女性。
彼女はなぜ気分を害したのか。

それはこういうことでした。

彼女に言わせれば「酒井順子は女の敵」なんだそうです。
女性のもっとも触れられたくないところをあげつらい、
それを文章に仕立て上げ、男性読者に提供している女の敵なのだと。
彼女は、ちょっとこちらがドン引きしてしまうくらいに
悪し様に酒井さんのことを罵ります。


う―む、そうだろうか。
あまりにそれは一方的な見方というものではないか。

ぼくからすれば酒井さんはきわめて優秀な観察者です。
日常を仔細に観察し、思いもよらぬかたちで切り取ってみせる腕のいい職人のような。

それにしてもここまで酒井さんに抵抗感を示すのはなぜだろう?
なにか彼女自身に原因があるんじゃないだろうか。
そう思って彼女がどんな人物かあらためて振り返ってみると――

「酒井順子嫌い」を標榜する彼女は現在31歳。
自己診断による性格は「ロマンチスト」ですが、
夢見がちで現実を直視せず占いなどに左右されやすい傾向あり。
ファッションは生足に短めのスカートとかちょっと見20代な感じ・・・・・・。

なるほどそうか。

ここまで考えてぼくは、はたと気がついたのです。

「酒井順子を認める女性」と「認めない女性」は、
そのまま
「現実に目を向ける女性」と「現実から目をそむける女性」
というふうに置き換えることができるのではないかと。


『おばさん未満』で扱われるのは、
まさにこれからおばさん世代にさしかからんとする女性が
老いという現実とどう向き合うべきかという問題です。

「髪形」や「体型」、「化粧」「性欲」などなど、
酒井さんはあらゆることにスルドイ観察眼を注いで
冷静な分析力と抜群のユーモアで事象を切り取ってみせる。
彼女が提示する問題に読者はしばしば爆笑を誘われます。

例えば、「口元」についての考察。

酒井さんは40歳になって
「どんな口紅を塗ったらいいかわからない」
という問題に直面しているといいます。

バブル期はディオールの青みピンクのようにクッキリとした色が流行っていたけれど、
バブル後、時代の針は一気にナチュラル志向へと振れました。
けれども酒井さんは、
「ナチュラル色の口紅というのは、肌にハリとかツヤがあるからこそ、映えるもの」で、
「自身が中年期にさしかかった時、身の置き所、というか唇の着地点がおぼつかなく」なったと言います。


「問題は、死人顔になかなか自分では気がつかない、ということでしょう。
『私はまだイケてる』といった気分のまま、若い頃と同じ口紅を使っていると、
集合写真の中で自分だけが心霊写真のようになっていたり、トイレの鏡に映った顔に
ギョッとしたりすることがあるのだけれど、『蛍光灯のせいだわ』みたいな言い訳をして
自分を納得させてしまいがち。
クッキリ色の口紅をつければ簡単に解決する問題ではないか、というご意見もありましょう。
しかしナチュラル時代の現在において、クッキリ色の口紅を塗るというのはすなわち、
『私はおばさんの世界に入りました。もう戻りません』
と宣言をするようなもの」


なるほど死人顔か。うまいこと言うなぁ・・・・・・なんて感心してる場合じゃないけれど、
このような細かなところまで目配りの利いた観察力が本書の大きな魅力です。


もうひとつ、「旅」についての考察もあげてみましょう。

ここで酒井さんが直面するのは、「いつまでリュックを背負っていいものか」という問題。

国内の小旅行なら、これまでは「エルベ・シャプリエの小さなリュック」で済ませていた
酒井さん。けれども最近は「旅立つ前にリュックを背負った姿を鏡に映すと、
『これって、いいんでしょうかねぇ』と、思う」と言います。

若者がリュックひとつで颯爽と旅をするのは自然だし、
逆に60代をすぎてもリュックは楽だから「アリ」。
けれども中年のリュックがどこかみすぼらしくみえるのはなぜだろう――。

彼女はそんなふうに問題提起し、
お馴染みの観察力を存分にふるいながら考察を加えていきます。
(余談ですが、年をとるにつれて革製のカバンが重くてダメになり、
ナイロンしか持てない身体になってきた、などというくだりには思わず笑ってしまいました)

そしてなにげなく提示される次のような言葉に、
ぼくは酒井さんが並々ならぬ観察者であることを思い知らされるのです。


「年齢にそぐわないのはわかっているのに、便利さに抗うことができずに
『実用』の方面に流れていってしまうと、人は老けて見えるのです」


すぐれたエッセイストはイコールすぐれた観察者である。
これは清少納言の時代から変わらないマスト事項ではないでしょうか。


考えてみれば、いま「老い」という問題に直面している40代の女性たちは、
消費行動によって自己表現をすることをおぼえた最初の世代でもあります。

ぼくは、そんなパイオニア世代が、
同世代に「酒井順子」という類い希な観察者を抱えていることは、
絶妙な天の配剤だと思うのです。

彼女たちがこれからどう年をとっていくかということは、
後続世代にとって貴重なロール・モデルとなることでしょう。

もしかしたら彼女たちはこれから新しいお年寄り像を生み出していくかもしれない。

『おばさん未満』は、そんな彼女たちの「老い」とのファースト・コンタクトを描いた
貴重な記録でもあります。

投稿者 yomehon : 01:24

2008年10月24日

豪華絢爛!琉球大河ロマン


あれはたしかゴールデンウィークの頃ではなかったかと思います。
朝刊をめくっていてちょっと変わった書籍広告が目にとまりました。

どこがどう変わっていたか。
そこに掲載されていたのは、数ヶ月も先に発売される小説の発売予告だったのです。

お正月の新聞紙面で各出版社がその年の出版企画などをお知らせしている広告を
目にしたことはありますが、単独の小説がこんなふうに発売に数ヶ月も先駆けて
宣伝されているのを見るのは初めてです。

こりゃ余程の傑作かもしれないゾ、と作者の名前をみると、

「池上永一」

とあるではありませんか。
その名を目にした途端、この小説は余程の傑作どころか
「とてつもない傑作」に違いない――そう確信したのです。


池上永一とは何者か。
ぼくは彼のデビュー作を初めて読んだ時の衝撃をいまでもよく覚えています。

その記念すべきデビュー作にして日本ファンタジーノベル大賞受賞作
『バガジーマヌパナス わが島の話』は、それまで読んだことのない類の小説でした。

神様のお告げでユタ(巫女)になることを強制されたいまどきの女の子を主人公に、
琉球文化独特の霊的な世界が自由奔放に描かれたこの小説は、戦争と結びつけて
描かれがちだった、従来の沖縄文学のくびきから解き放たれた画期的な作品だったのです。

その後もデビュー作の豊穣な物語世界をさらに発展させた『風車祭(カジマヤー)』、
混血の少女が琉球の守護神・聞得大君となり地球の危機を救う『レキオス』など
沖縄の伝承世界と現代とが独創的に結びついた物語を相次いで発表し、
池上さんはあっという間に実力派作家の仲間入りをしました。


そんな現代を代表する物語作家・池上永一さん渾身の力作が、
『テンペスト』上 若夏の巻 下 花嵐の巻(角川書店)

これが凄いんです!
これまでの池上作品の中でも群を抜く面白さといってよい。
さすが数ヶ月前から発売が予告されるだけのことはあります。


舞台となるのは幕末期の琉球です。

琉球の地には、尚巴志(しょうはし)王が
最初に琉球を統一した1429年から
明治政府による「琉球処分」が行われた1879年まで、
約450年間にわたって栄えた琉球王朝がありました。

清国と薩摩藩という2つの脅威にはさまれて
つねに綱渡りの外交を行わざるを得なかった琉球王朝の武器は、
類い希な美意識と教養を持った優秀な人材でした。

そのスカウト機能を担っていたのが「科試(こうし)」という
中国の科挙に似た官吏登用試験です。

物語の主人公は、学問に秀で高い志を胸に秘めながら
女であるがゆえに科試を受けることができない美少女・真鶴。

彼女はやがて運命のいたずらから、おのれの性と出自を偽って
超難関の科試を突破した後、宦官・孫寧温として王宮へと登ることになります。


物語は、この〈孫寧温=真鶴〉の波瀾万丈の人生と
時代の波にほんろうされる琉球王朝の運命が
重ね合わせたかたちで描かれるのですが・・・・・・
ああ!でもこの物語の圧倒的な面白さをどう伝えればいいんだろう!!


なにしろこの『テンペスト』には、
誰もが面白いと感じてしまう
「物語のツボ」を刺激するあらゆるアイテムが
いっさいの出し惜しみなしで詰め込まれているのです。

王宮にうずまく陰謀、御内原(ウーチバラ)と呼ばれる大奥における女の闘い、
大国との知恵比べ、男女の叶わぬ恋、BL(ボーイズラブ)的世界――。

作者がこれでもか!と繰り出す必殺テクに
「物語のツボ」を刺激されまくってさんざん身悶えしたあげく、
気がつくと物語を読む快楽に全身が打ち震えてしまっている・・・・・・。
あえて描写するならそんな感じでしょうか。


けれども面白いだけの物語なら世の中にゴマンとあります。
『テンペスト』がそんじょそこらの「ただ面白いだけ」の物語と一線を画しているのは、
ジェットコースターのようなアップダウンの激しい物語の向こう側から
やがて「時代の変革期に人や国はいかにあるべきか」という
巨大なテーマがゆっくりと姿を現すところにあります。

この小説を読んだ人は例外なく、首里城の美しさにため息をつくはずです。
琉球を屈服させてやろうと「上から目線」で乗り込んできた外国人たちは、
丘の上で朱色に輝く王宮を目にして息を飲みます。
そしてもうひとつ。王宮の役人の洗練された物腰にも彼らは驚かされます。
なにしろ諸外国の事情に通じた上、該博な知識を持ち、外国語を自由に操る役人が
自分たちの交渉相手としていきなり出てくるのですから。

そう、このように南洋の小国である琉球王朝の唯一の武器は「美と教養」なのです。

読者は、「美と教養」を武器に大国の脅威と懸命に向き合う
孫寧温(真鶴)の姿を見守りながら、ふと考えさせられるはずです。
「いまの日本の外交に欠けているのはなんだろう?」、
「島国の日本が生き残るにはこれからどうすればいいんだろう?」

『テンペスト』で描かれる琉球王朝は、
常に諸外国の脅威にさらされています。
考えてみれば、江戸幕府がのんきに鎖国をしている最中に
琉球はすでにグローバリズムの問題に直面していたことになります。

そしてグローバリズムの大嵐(テンペスト)が吹き荒れる中で
大国に呑み込まれまいと懸命に奮闘する琉球の姿は、
そのまま現代の日本にも重なる部分があります。

この小説が、物語を読むヨロコビに心地よく浸らせてくれる一方で、
ぼくらの心に訴えかけてくるものを持っているように感じられるのは、
「時代の変革期」という、ぼくたちがいま直面している切実な問題に
アプローチしているからに他なりません。

その意味で、19世紀の琉球を描いた『テンペスト』は、現代を生きるぼくたちの物語でもあるのです。


珊瑚礁の海に花開いた美しい王朝は、
1879年(明治12年)、その長い歴史に幕を閉じました。
『テンペスト』では、それぞれの登場人物が
その時にどんな運命を選び取ったかということも描かれています。

新しい時代に背を向ける者。
新しい時代に向けて一歩踏み出す者――。

そのどちらにあなたは未来の自分を見るのでしょうか。

投稿者 yomehon : 01:15