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2007年02月20日

世界最先端のアート


よく知らない国のことを知るにはどうすればいいでしょうか。
その国の政治体制を調べる?それとも経済指標をみる?

いやいや、それよりもよっぽど役に立つ物差しがあります。

その国で暮らす人によって書かれた詩や小説、
その土地で育った人の手になる映画や芸術作品に目を向けるのです。

その国の人々の本音は
その国の文学や映画や芸術にこそ現れる。
ぼくはそう思います。


ところで、よくわからない国のひとつがお隣の中国です。
けれども、その独特の政治体制や経済の躍進ぶりについての本は
腐るほど出ていますが、かの国の芸術について記された本を探そうと思えば、
かなり大きな書店でも苦労するほど。

反日であるとか反中であるとか、
これだけお互いの関係がぎくしゃくしているにもかかわらず、
相手を理解する手がかりすら手に入れづらいというのが現状です。


『中国現代アート』牧陽一(講談社選書メチエ)
中国のアートシーンをさまざまな傾向別にわかりやすく紹介してくれる
きわめてタイムリーな一冊。初めて知る貴重な情報満載で、
まさに「こんな本が欲しかった!」と快哉を叫びたくなるような一冊です。


いま、中国のアートシーンは世界中から注目されているそうです。

特に有名なのは北京の「大山子(ダァシャンズ)芸術区」で、
中心の「798工場跡」には世界中から集まった画廊やアートスペースが郡立し、
ぼくは知らなかったのですが、日本からのツアーまで組まれるほど大盛況なのだそうです。

アートを警戒していた政府もその経済効果に注目。
積極的に関与するようになり、
「大山子芸術区」は北京市から保護区にも指定されたのだとか。

なるほど、たしかにこの国のアートはめちゃくちゃ面白い。

たとえばぼくはこの本で、
中国で独特の発展を遂げてきたアートがあることを初めて知りました。

なんだと思いますか?

それは「パフォーマンス・アート」です。


共産党の一党独裁下にある中国では、展覧会を自由に開くことが許されず、
たとえ事前に文化部や公安の許可をとっていても、
開催当日に中止命令が下されるような理不尽はしょっちゅうだといいます。

そこから美術展はゲリラ的に行われなければならない、という考えが生まれました。
準備は秘密裏にすすめられ、決行されたあとはすみやかに痕跡を消し去る。
当然のように時間的な制約から表現の幅には制約が生じます。
たとえばのんびりといつまでも絵を展示しているわけにはいきません。
そんな時間的余裕はないのです。
この不利な条件を逆手にとって生まれたのがパフォーマンス・アートでした。

一回性のパフォーマンスであれば証拠も残りません。
このような考えから中国ではパフォーマンス・アートが独特の発展をとげたのです。


この本で紹介されるパフォーマンス・アートは実に多岐にわたっています。

体制を批判するようなパフォーマンスはもちろんのこと、
なかには醤油を満たした大きな甕に生きた豚を抱いて入り
チャーシューをつくろうとするような馬鹿馬鹿しいものや、
人間の死体の一部を使った猟奇的なものまで、
さまざまなパフォーマンスが紹介されています。


パフォーマンス・アートはほんの一例にすぎません。
この本はさまざまな角度から「中国アートの現在」をみせてくれるのですが、
個人的に興味深かったのは前衛美術アーティストたちの置かれた状況です。


中国では昔から体制におもねる美術が主流で、
時の為政者を讃える御用美術がはびこってきたといいます。
そんななかでアートを志そうと思えば、必然的に「前衛」にならざるを得ません。

1976年4月5日の清明節(死者を弔う日)。
天安門広場に群衆が集まり、亡くなった周恩来を弔い
文革の指導者らを批判しました。第一次天安門事件です。
この事件をきっかけに1966年から76年まで続いた文化大革命は終わりました。

中国現代アートの先駆けとなった
前衛美術グループ「星星画会(シンシンホアホェイ)」が
北京に生まれたのは1979年のことです。
専制的な太陽(指導者)を否定し、星々(人々)の個性が輝くことを目指した
このグループは、「芸術の自由と政治の民主化」を要求してデモを行うなど
反体制的な前衛として活発に活動しました。


しかし現在、前衛の意味はおおきく変容しようとしています。


これまでアーティストたちの問題意識は、
体制や毛沢東様式と呼ばれる共産党支配下のイコンを打破することに
向けられていましたが、そのような問題意識じたいが成立しづらくなっているようです。

その象徴的な例が「広場」という言葉の意味です。
中国語で「広場」といえばかつては政治的な事件の舞台となった「天安門広場」を
意味していたのが、現在は「広場」は「ショッピングプラザ」を示すようになりました。
経済の繁栄とともに庶民の政治意識が薄れてきたのです。

中国共産党は2003年に企業家も党員になれるよう認めました。
かつて階級闘争の敵とした資本家に党員資格を認めるのはおかしな話ですが、
要は資本家を党に取り込むというよりも
共産党幹部じたいが資本家になって儲けようということなのでしょう。


前衛がこれまで標的にしていた体制が
気がつけば自分たちと同じ側に立っている。

体制側だけではありません。
人々の意識も資本主義を謳歌するものへと変わっている。


このような変化を映し出すかのように
中国ではポップ・アートから政治性が一挙に去勢され、
大衆消費社会の快楽を前面に押し出す「中国キッチュ」と呼ばれる
作品が数多くみられるようになったといいます。

けれどもここで安易に消費社会を肯定する表現に堕してしまっては、
かつて体制を讃えていた美術と同じようなものとなってしまいます。

中国アートの前衛たちは、とても難しい課題に直面しているのではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年02月18日

この人が小説の読み方を教えてくれた


働けど働けど わが書棚 軽くならざり  じっと本を読む


そうなのです。
引っ越しのためヨメに本の整理を厳命され
かれこれ半日近く書棚と向かい合っているというのに、
いっこうに本は減ることがなく、
それどころか棚の奥からどんどん読みたい本が湧いてくるのは
いったいどういうわけなんだろう?


「なつかしーなーこのマンガ!」
「ずっと探してた小説、こんなところにあったのか!」
「・・・・・・ん?同じ本が三冊もあるじゃないか!!」
「あ、千円みっけ♪」
「い、いかん、このDVDはヨメに見つかっては非常にマズイ!」


ふだんは「本棚が小さすぎる」と不満タラタラにもかかわらず、
いざ片付けようとすると、どこにこれだけの量がおさまっていたのかというくらい
次々いろんなものが出てくるのです。ほんと不思議ですね。

本を引っ張り出してはパラパラとページをめくり、
思い出に残るシーンなどがあればさっと目を走らせ、
ひさしぶりの再会なのにもうお別れかとちょっぴり悲しい気分で段ボールに詰める。

そんな作業をえんえんと繰り返していたのですが、
ある一冊の本を発見した途端、ぼくの手は完全に止まってしまい、
気がつくとそのまま読みふけっていました。


故・辻邦生さんが作家志望の人たちを前に
「小説とはなにか」について語った講義録
『言葉の箱 小説を書くということ』(中公文庫)は、
ぼくに「小説の読み方」というものを教えてくれた思い出深い一冊です。


いまは中公文庫にはいっているこの本は、
もともとはメタローグという版元から出版されました。

メタローグはかつて『リテレール』という文芸誌を出していました。
我が家の本棚から『リテレール』のバックナンバーを探すと
第1号は1992年の6月1日発行となっています。


余談ですが、この『リテレール』の編集長を務めていたのが
伝説的な編集者、故・安原顯(やすはら・けん)さんでした。

ともかく毀誉褒貶の激しい人物で、
どんな問題を抱えた人だったかということは
坪内祐三さんの『文学を探せ』(文藝春秋)
村上春樹さんの「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」(文藝春秋2006年4月号)
などをお読みいただきたいのですが、ただぼくは、
安原さんの『編集者の仕事』(絶版)などはいまでも名著だと思います。


話が脱線しましたが、『リテレール』創刊号の巻末には
「creative writing school(クリエイティブ・ライティング・スクール)10月1日開校」のお知らせが
出ており(作家を育てるための学校のこと。アメリカの大学にはこのような学科がふつうにあるらしい)、
創作科の講師として辻邦生さんの名前があがっています。
ちなみに講義内容をみると「小説の魅力」とあります。
『言葉の箱』のもととなっているのは、このCWSで行われた講義なのです。


辻邦生さんといえば、ヨーロッパの石造り建築のようなガッチリとした構成の
緻密で端正な小説を書いた人として知られていますが、『言葉の箱』での辻さんは、
作家志望の人間ばかりを前にした講義だからでしょうか、あまり言葉を選ばず、
小説への熱い思いを実に情熱的に語っています。


そんな辻さんの言葉からぼくは小説の読み方を教えられたのでした。


といって、何か特別な極意のようなものを教えられたというわけではありません。
辻さんのメッセージはとても簡単です。

辻さんは言います。
退屈な日常やモノトーンの人生のなかで人に力を与えられるのは
「自分の好きな世界」である、と。

好きなことをしているとき人は時のたつのを忘れます。
このことからもわかるように、好きなものは人に生命力を与えてくれるのです。

人に生きる意味を与えてくれる「好きなこと」を、
辻さんは「生命のシンボル」」と名付けます。

そして偉大な小説家の作品には必ず「生命のシンボル」がみられる、と言います。


このくだりを読んだとき、ぼくは「そうか!そうだったのか!」と
生まれて初めて小説の読み方のコツがわかったと思いました。


辻さんは続けて、偉大な作家達の「生命のシンボル」の具体例を挙げていきます。


ヘミングウェイは、闘牛やアフリカでの狩猟など、
つねに「危機的状況のなかでの勇気」に目を向けました。
D・H・ロレンスは「セックス」、サン・テグジュペリは「空」、
ジェイムズ・ジョイスは「アウトサイダー」、グレアム・グリーンは「カトリシズム」、
ヘルマン・ヘッセは「雲」、ラヴクラフトは「恐怖」・・・・・・。


たしかにそうだ。
辻さんの指摘はすべて当たっている。
名作にはどれも「生命のシンボル」が必ず存在します。


辻さん言います。「生命のシンボル」を探り当てることができた人間は、
そこに身を置けば宇宙が崩れても平気、というふうに思えるはずだと。
そして次のように言葉をつなげます。


「自分を陶酔させるもの、勇気づけるもの、あらゆるものを乗り越えて
自分がいつもそこに身を置けば、楽しく、いきいきとしていられるという
生命のシンボルを発見したときに、そういうものをぜひ友達に伝えたい、
ぼくのあとの人たちに伝えたい、そういう激しい欲求に当然とりつかれる。
たとえばヘミングウェイが闘牛に夢中になっているとき、
『午後の死』や『誰がために鐘は鳴る』を書きましたが、
彼をつき動かしたのは、危機における人間らしい勇気ですね。
あるいはD・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』のなかで、
チャタレイ夫人が庭番の男と交わるようなところで、
あんなに夢中になって書くのは、
人間の幸福はセックスの充足のなかにあるんだという
固い信念が彼にはあるからですね。生命のシンボルとか生命の意味は、
明らかにその人の生きる根源の力、ひとつの信念、確信となっている。
そういうものがないと、ものを書く場合に強い力になりません」(P52―53)


「一流の小説」と「それ以外」を見分ける基準を
これほどまでにわかりやすく説明してくれた人をぼくは他に知りません。

またこのくだりを読むと、
辻さんがここで「生命のシンボル」と名付けたものが
いわゆるテーマとか主題といった無味乾燥な言葉に
還元できるようなものではないこともわかります。


もっともその人にとって切実なもの、
これさえあれば生きていけるというもの、
これだったら昼も夜も続けられるというもの、
いてもたってもいられないくらい好きなもの、
この素晴らしさを誰かに伝えたいと思えるもの。


そういうものを見つけることのできた人だけが人の心を動かす小説が書けるのです。
でも、残念なことにそういう人はあまり多くありません。
世の中には圧倒的に「生命のシンボル」のない小説のほうが多いのです。


ところでみなさんにとっての「生命のシンボル」はなんでしょうか。
ぼくも考えてみました。


「お金」 → 特に関心なし。本が自由に買えれば充分。
「旅行」 → 特に関心なし。小説の舞台を訪ねるみたいな旅なら可。
「健康」 → 特に関心なし。本が読めるくらいの体力があればそれで良し。
「女性」 → 関心大であることは認める。ただしデートは読書の合間にしてね。
「友情」 → 友情をうんぬんする前に、貸した本返せ!
「仕事」 → コメントは差し控えさせていただきます。
「ヨメ」 →  そもそも検討に値せず。


う~ん、やっぱりぼくの「生命のシンボル」は本なのだなぁ。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年02月13日

同級生が語りあう東京

ついに本の多さに耐えきれずヨメが引っ越しを決断しました。

現在の住処は、広さこそ狭い1DKではありますが、
駅から徒歩1分、途中遮るものなく新宿の夜景が望めるマンションの5階に位置し、
しかも近所にはテレビでもたびたび取り上げられる元気な商店街がひかえるという、
まさに掘り出し物の物件。

ヨメのいない一人暮らしなら死ぬまで住み続けたいくらい。
それはそれは便利で住みやすい部屋だったのです。

けれど物理的に本が置けなくなってしまったことと、
ヨメが悪夢(胴体部分が本になったぼくに押し潰される夢だとか)に
うなされるようになったために、とうとう住み慣れた町を離れることになりました。

そんなわけで週末はいろんな町の不動産屋さんをまわっているのですが、
ちょうどいまは、今春地方から上京してくる新入生たちの部屋探しが
ピークに達しているようで、親子連れで間取り図を検討している姿をよくみかけます。


そういえばぼくもこの春、上京して19年目を迎えるのでした。
気がつけばいつの間にか田舎ですごした年数よりも
東京で暮らした年月のほうが長くなろうとしています。

かといって、東京で暮らした年数のほうが長くなるということが
イコール東京が自分にとって故郷のような存在になったことを
意味するのかといえば、そうではありません。

東京にはいまも昔も「仮住まいの場所」という感覚しか持てずにいます。

それはたぶんこの都市が常に変化し続けていることと関係があるのではないでしょうか。
東京のような移ろいやすい都市で暮らすことに対して、
「腰を落ち着ける」とか「地に足のついた暮らしをする」という
安定したイメージをいまだに持つことができないでいるのは、
東京という都市がぼくにとってどこまでもとらえどころのない街だからに違いありません。


『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)は、
東浩紀と北田暁大というともに1971年生まれの哲学者と社会学者が
東京の現在を語り合った一冊です。

ぼくの知る限り、東京について語ることがもっとも熱を帯びていたのは
80年代ではなかったかと思います。

このとき東京はふたつの文脈で語られていました。
ひとつは江戸の視点を導入して東京を解読しようとする試み

そしてもうひとつがセゾン文化に代表されるような企業戦略と街づくりが
一体化した消費社会論的文脈ですが、この時代にはまだ
語られる対象である「東京」にはそれなりの輪郭があったように思います。

銀座は老舗と海外ブランドの店が建ち並ぶ一等地であり、
渋谷は公園通りのパルコを中心とした若者たちの街である、というような。


けれど、その輪郭はいつしかあいまいなものとなりました。

高級ブランド店と安売りチェーン店が同じ通りで軒を並べるようになり、
ロープライスな洋服をブランドものとあわせるのがいまでは普通のこととなっています。

それと同時に、セキュリティやバリアフリーに留意して設計された
郊外の大型ショッピングセンター的空間が都心にも進出してきました。
暗がりのある路地やごみごみした街路は駆逐され、
「人間工学的に正しい」空間が都市を覆おうとしています。

ライフスタイルと空間の均質化が進行するとともに
かつてのように無邪気に東京について語ることが困難になってきました。


この本が『東京について考える』ではなく『東京から考える』となっているのは、
現代のような語ることが困難になった地点から出発して
もういちど都市とぼくらの関係を考え直そうという意図が込められているからです。

東浩紀さんと北田暁大さんはともに1971年生まれの同級生。
同じように東京の郊外に育ち、同じテレビ番組をみて、同じ時期に大学に通うという
共通点の多いふたりですが、面白いことに現代の東京についてのとらえかたは
まったく違います。

東京の「西側」でばかり過ごしてきた東さんと
現在は東京の「東側」で暮らす北田氏との視点の違いが、
結果的にこの本の議論をバランスの良いものにしています。

それぞれの個人史から出発した対話は
やがて現代の東京に暮らす誰もが直面する問題へと発展していきます。

ひと言で言えばそれは「都市を覆わんとしている人間工学的な思想をどうとらえるか」
ということなのですが、時代の最先端の問題だけあって議論も熱をおびます。
このあたりの白熱した議論はさすがに要約不可能。
ぜひ本を手にとってお読みいただきたいと思います。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年02月05日

本のタイトル大賞決定!?

はやいもので、このあいだ年が明けたかと思えばもう2月。
同じくはやいもので、このあいだ年が明けたかと思ったらもう
2007年を通してもっとも秀逸なタイトルの一冊におくられる
「本のタイトル大賞」が決定したのであります!?

おめでとうございます、内田春菊さん!

あなたのお書きになった『作家は編集者と寝るべきか』(草思社)が、
(今年これから出版されるはずの)並みいる強豪をおさえて、
栄えある大賞に選ばれました。
もちろん年が明けて受章までの最短記録のオマケつき!


とかなんとか、思わずそんな賞でもさしあげたくなるくらい
この本のタイトルは書店で目につきました。

いいタイトルですよねー。
「作家は編集者と寝るべきか」
インパクトがあるのはもちろんですが、
なにより本の中にはいったいどんなことが書かれているのだろうと思わせます。

しかも作者は内田春菊、内容は彼女が語る創作現場の裏側だというのですから
書棚を素通りするわけがありません。

珍しくヨメに花束でも買って帰ろうかと(ウソ)握り締めていた1200円を
迷うことなく本代に投入したのでした。


さて、内田春菊さんといえば、みなさんはどんなイメージを持っているのでしょう?

内田さんはこれまで「体験を書いているだけ」と言われ続けてきたそうです。


「この件に関してはいい加減に言われ続けて世をすねてしまっている私だ。
いくらなんでもそんなねじまげ方までして体験と思いたいもんですか?
と思った経験が山のようにある。結局私にお話が書けるってのを認めたくないんだな」(15ページ)     


たしかにそうだ。
育ての義父に性的虐待を受けた地獄のような日々を描いた
自伝的小説『ファザーファッカー』のイメージが強いせいでしょうか。
内田さんは世間からは体験をネタにして作品を書くと思われているふしがある。

しかもその体験というのはセックスがらみのことだと思われているふしがある。
何人もの男と寝てその体験をネタに漫画や小説を書く女、というふうに。
なかには内田さんに対してご丁寧に
「セックスシーンを書かないでやってみたらもっと認められますよ」
などと失礼極まりない忠告する人もいるらしい。

内田作品のなかでセックスがおおきな位置を占めていることは事実です。
けれど、作品をちゃんと読めば、彼女がセックスをものすごく冷静にみていることに
気がつくはず。セックスという営みのなかに見え隠れする男のずるさやセコさを
醒めた視線で描き出すのが内田春菊という作家なのです。
(ちなみにぼくが最高傑作だと思うのは『私たちは繁殖している』シリーズです)


さてさて、そんな優れた作家である内田春菊さんが書く「創作論」とは
いったいいかなるものなのでしょうか。


ところがこの本、創作論を期待して読み始めると肩すかしを喰らいます。
読めども読めども、出てくるのは内田さんがこれまでの作家生活のなかで
体験してきたことや日々感じている不満といったエピソードばかり。


それでもぐいぐいと読まされてしまうのは、
出てくるエピソードがどこまでも具体的で、個別的なものだからでしょう。
この本の面白さは、誰かのブログを読んで感じる面白さに近いかもしれません。
内田春菊その人に興味があるならば、とても楽しめる本となっています。


もしほんとうに創作に役立つ情報を得たいという人には、
同じ草思社から出ている『書きあぐねている人のための小説入門』がおすすめ。
保坂和志さんが書いたこの本は、
テクニックだけでは小説は書けないということを説いた小説論の大名著です。

一方、ひたすらテクニックの伝授に徹した小説指南本としては
『島田荘司のミステリー教室』(南雲堂 SSkノベルス)がおすすめ。
原稿用紙の正しい使い方から本格トリックの作り方まで、懇切丁寧に教えてくれる一冊です。


投稿者 yomehon : 10:00

2007年02月01日

観察と妄想のあいだ

いま日本でいちばんすごいエッセイを書く人が誰か、あなたは知っていますか?

きょうはぜひこの機会に「岸本佐知子」(きしもと・さちこ)という名前をおぼえてください。    


岸本さんの新刊『ねにもつタイプ』(筑摩書房)は、
ぼくの知る限りたぶんまだどこにも書評がでていないと思うのですが、
そのうちきっと雪崩を打ったように絶賛の書評が出まくるに決まっている名著。


1960年生まれの岸本佐知子さんは、
上智大学を卒業した後、洋酒メーカー宣伝部勤務を経て、翻訳家となります。

翻訳家としてはニコルソン・ベイカーの紹介者として知られていますが、
それ以上に本好きのあいだではユニークな文章を書く人として知られ、
前著『気になる部分』は、かの小川洋子氏をして
「もうこれは21世紀に残したい名著!ここに天才現る!」
とまで言わしめるほどの仕上がりでした。
 『小川洋子対話集』幻冬舎より。→余談ですがこの本の江夏豊氏と小川さんとの対談は面白いです)

そんな岸本さんが「ちくま」に3年半にわたって連載していたエッセイをまとめたのが
最新刊『ねにもつタイプ』というわけ。


岸本さんの文章の味わいを説明するのに
もっとも適したキーワードは、「観察」と「妄想」という言葉ではないでしょうか。

たとえば「郵便局にて」と題されたエッセイをみてみましょう。


このあいだ郵便局の窓口に並んでいたら、私が出そうと思ってカウンターの上に
置いていた速達の前に、「ずいっ」と自分の手紙を置く人があった。
ピンクのトレーナーを着た年配の女性である。


エッセイはこんな書き出しではじまります。
このあと、岸本さんは、なぜこの女性は平然とこんな行為にでるのかと考え、
いくつかの可能性に思い至り、自分がとるべき態度について検討します。

このあたりまでは相手をじっくりと観察する視点が活かされた文章になっています。
岸本さんの文章がユニークなのはここから。


いくつかの可能性を検討した結果、
相手の行為は「単なる割り込み」ではないかと考えた岸本さんは、
抗議しようかどうか迷います。
この時点で、相手にはいつの間にか
「山田フサヱ(53)」
という名前がつけられています。


そして「山田フサヱ(53)」にクレームをつけたらどうなるかと
岸本さんの妄想が暴走を始めます。


「上等じゃねえか」弾かれたようにパッと飛びのく両者。
フサヱはじりじりと半円形を描きながら、しだいに私をカウンターぎわに
追いつめていく。私は素早く周囲を見回す。武器になりそうなものは何もない。
対するフサヱの手の届く範囲には、ハサミ、ペン、糊などの載った書き物台、
それに傘立てに数本の傘。明らかに形勢不利。


あまりにもったいないのでこのあたりで引用はやめておきましょう。
この後、まばゆい光が局内を満たし、いきなり「郵便の神」(なんだそれ)が降臨するのですが
そのたくましい妄想ぶりはぜひ本を手にとってご堪能いただきたいと思います。


岸本さんの文章の魅力は、「観察」から「妄想」へとスライドしていくその流れに身を任せていると、
いつの間にかとんでもないところに連れていかれてしまうことです。

けれど、その魅力を支えているベースには、
翻訳業で鍛えられた確かな文章力があることも忘れてはなりません。

ゴキブリとの遭遇を戦記ものの文体で綴った「戦記」、
目玉焼きなどの食べ方をマニュアル文体でユーモラスに描いた「作法」、
時々刻々と変化する自分の意識を1分ごとに記していく「毎日がエブリデイ」など
さまざまなスタイルで読む者を楽しませてくれます。


こんなふうにいくらでもこの著者の美点をあげていくことはできるのですが、
岸本佐知子さんのエッセイのほんとうのすごさはむしろ
おそろしい文章をさらりと書けるところにあると思うのです。

「おそろしい文章」というのは、
言い換えれば、ある種の不穏な空気をはらんだ文章のこと。


「リスボンの路面電車」というエッセイがまさにそんな内容です。


何もかもがこころもちくすんで、憂鬱で、湿り気をおびたリスボンの町。
町には怪我人がおおく、その理由を著者は、狭い路地を建物すれすれに通る
路面電車のせいではないかと考えます。

そこから話題はいきなり
新宿の街に都が設置することを発表した「穴」の話に転じます。

このあたりで読者は混乱するはずです。
「これはエッセイ?それとも短編小説??」

著者は、突然設置された「穴」に多くの人や車が落ちたこと。
そこに落ちた人は二度と戻ってこなかったことなどを淡々と描いていきます。

エッセイとも小説ともにわかにはジャンル分けできない
わずか3ページの文章ですが、
自分ひとりが取り残されてしまったような
あるいは足場をはずされて宙ぶらりんになったような
奇妙な読後感を味わわせてくれます。


とかく文章の面白さが強調されがちな岸本さんですが、ぼくはむしろこのような
読む者を不安にさせるような文章をさらりと書いてしまうところに底知れない才能を感じてしまいます。

見たところもっともっと引き出しのありそうな岸本佐知子さん。

まだ読んだことがない方はぜひこの機会に手にとっていただきたいと思います。

投稿者 yomehon : 10:00